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「ここでは無いどこか」への眼差し

「ここでは無いどこか」を見つめる眼差しには絶望と希望が入り交じる

今自分がいる場所への絶望と

これから自分が目指す場所への希望

(ついでに、絶望できる・希望できるその特権性も)


ここじゃない、「どこか」を

今じゃない、「いつか」を

この人じゃない、「誰か」を

これじゃない、「何か」を

孤独じゃない、「満たされ」を

変化じゃない、「これまで通り」を

いつも通りじゃない、「新しさ」を

生じゃない、「死」を

そんなの叶ってどうする

欲望は結局のところ誰かの模倣でしか無くて

更には欲望する事それ自体が目的なのだから

それでもやっぱり捕らえられ続ける、7秒間の積み重ね


生きて、立って、考えて、歩いて、寝っ転がって、飽きて、疲れて。

そんな一連の行為の繰り返しに嫌気がさす


持て余す程の「自由」からは逃走したいと、

誰か・何かに依存していたいと、

ふとそう思いたくなる時があるけれど

これは自分の中での言語化すら恥ずかしい欲望

それでも、認めて初めて踏み出せる「一歩」もあるはずで


今一番悩まされている欲望は2つ

「考えるのを辞めたい・考えたくない」

そして

「考えたい・考え続けていたい」


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自由意志を持たない人間観は、

自分が人生に負う責任から逃げる言い訳になってくれる

ただ、流されているだけだから。

そこに自分の意思は介在し得ないから。


そのくせして、「人間臭く」はあろうとする、このおこがましさ

立ち止まったり、戻ろうとしたり。

「効率」のわるい仕方で、息をしようとするくだらない試み

落ちてる花をノートに挟んでみても、

時間はノートの隙間から流れ出ることをやめないはずなのに

「人間らしさ」が意味するモノなんて、

結局その時の気分次第なのに

ーーーーー


いつからだろう

「自分のこと」以外を自分の中に取り込むことが出来なくなったのは

「無関心」とは少し違う

知ったうえで
しかと認識したうえで
見つめたうえで
理解したうえで

選択的に「自分のこと」としないことを選びとっている、それが現状

心が擦り切れたとか、ナイーブな説明で満足することも出来るけれど多分それだけじゃない

でもその奥底に何があるのかは、自分でもわからない

死んだのか、深く寝ているだけなのか

知ろうとするとその時点で確定してしまう何かが怖くて

呼吸の有無を確認できない「ソレ」は

僕の想像力

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