2022.12.31 ルール/権利/義務/プロコトル

ルールとは過去と現在に生きた人間の感情の集積体だ

権利とか、義務とか、法律とか、そういった人間が作っている何か人に保証をしたり、縛ったりするルールに関する抽象概念(ルールに関しない、抽象概念一般がそうだが)は、過去および現在を生きている人間たちの感情の集積体に過ぎない。

誰かが嫌だと思ったから、何かが制限され、誰かがそれが幸せだと思ったから何かが守られれている。どんなに小難しい言葉を語って説明されていても、結局は人の感情がベースにあるはずだ。

つまり、そのルール自体に実体があるのではなく、実体があるのはそのルールを作るに至ったもとになる、人々の感情そのものである。(とはいえ、これは感情を実体とみなす、という仮定が置かれている。「人間は考える生き物である」ということよりも、「人間は感じる生き物である」という定義の方が自分としてはしっくり来ているので、この定義に従っている。この定義についての間接的な説明は、「2022.10.16 人生/意味/感情/楽しみ/幸福/習慣」に書いている。)

そしてその感情自体も、その場および過去を生きてきた人々の営みと、その営みを実現してきた色々な社会制度や技術と相互に絡み合いながら、形成されてきたものだ。ちなみに、このような営みについて、原因とか結果といった因果の向きを正確に求めることはできないし、するべきでもない。あらゆるものはある意味で相互に原因であり結果であり、平たくいえばニワトリ卵問題であり、だからといってニワトリ卵問題のように、1つの循環としては捉えられなくて、数多の循環が絡み合ってできている。

ルールは常に作り替えていく必要がある

ちなみに、ルールは、ITの世界のプロトコルとほぼ同義であり、それがあることによって、その時代とその過去の時代の人間社会がスムーズに動いていく、というために存在している。
ついでに書くなら、ルールというのはどうしても過去と現在しか反映できず、多分に過去を反映するものであるから、原理的に、策定された時点で古びている。

だから、今あるルール自体にある程度従うことは、その時代の社会をスムーズに動かしていくうえで必要ではあるけれど、今あるルールを所与にして何かを考えことはすべきではない。今そして未来の社会に生きる人々が、その生存条件の中で、どのような感情を感じ、どうしたら幸せになるのかを想像したうえで、今のルールに常に疑いを持ち、作り替え続けていく必要がある。

上の言い換えに過ぎないが、大事なこととして、そのルールに行動として従うことと、と、そのルールを信じていることとは、全く無関係なことである。行動としてあるルールに従っているうちに、そのルールをついつい所与のものとして考えるようになってしまう傾向はきっとあるが、それは特に因果としては何も繋がっておらず、ルールの自己強化作用、という以外には特に意味があるものではない。

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