祈りについて
3月というのはそういう月だと思う
我が家の長男が高校を卒業した。3月1日が卒業式だった。
高3生たちがステージでおのおの自分たちの言葉を話し卒業証書を受け取る授与式は見ていて飽きることがなかった。
一人一人のこれからはみなそれぞれの道を行く。輝かしい進路を得た人もいれば、もう一年受験勉強します、という輩もいれば、このくらいでいいだろうと妥協した人もいたかもしれない。
みんなとても誇らしい姿で、6年前と比べてみんなたくましくなっていて、学校生活が楽しかったんだなというのが見て取れた。おめでとう。
「どうかみなさんのこの先の人生が素晴らしいものでありますように」と祈るような気持ちになった。
先週は、私の古巣の卒業式と閉校式だった。惜しくも閉校することになり、最後の卒業式に呼んでいただいたのだった。
数年しかいることができなかったし
いる間には大した仕事はできなかったどころか迷惑をかける形で退職となり、もう顔を出すこともできないと思っていたのに、最近になって仕事をお引き受けする形でお付き合いが続いていた。
もう、感謝しかない。そんな古巣の職場の卒業式と閉校式に呼ばれて、ちょっとぎこちない気持ちを抱えながら出席した卒業式は暖かく、すばらしかった。閉校はさみしいことこの上ないのだけれど。
ここでもやっぱり、みなさんのこの先の人生が祝福されていますように。と祈らずにはいられなかった。ほとんど知らない学生さんたちばかりだったのにもかかわらず。
この祈りはなんだろう、と思った。
神社に行ってお参りをしたり、願掛けをしたりする。
あれもそうだけど、神様に祈るというより、あれは
「願い」をアファメーションしているんだと思う。
叶えたいことがあったら書き出しなさいとか
新月に月に向かってお願いしなさいとか(そんなのなかったっけ)ああいうのも一緒。
自分の願いがどこにあるのか、というのをはっきりと明確にするためのものなのだ。ああいうのは。私もよくやる。
思考というのはあいまいなものだから。
思考や感情というのは形になる前に立ち消えて行ってしまうもの。
それを「言葉にする」ということを通じて、はっきりとした輪郭を帯びるのだ。そうすると、その人にとってその願いが具体化してあらわれる。
無意識が意識となって、その願いを実現するための方法を注力して探しだす。探し出すことで見つかりやすくなって叶っていく、というのは割と明確な理論だ。私も経験済みだ。
じゃあ、自分とは違う人の未来について願う、というのはどういうことなんだろう?
目の前の人にすばらしい未来が訪れますように、と願うというのは
よほどの聖人君主でもない限りは、普段から言葉にするような願いではないだろう。でも、多くの人が卒業式などの節目の時に、自分と関係性のない人に対しても不思議とそのような気持ちになるものだと思う。
そして時には言葉に出してみたりする。
それはとても素敵なことだ。その祈りは、自分がその人に何かできる範疇からは離れている。いってみればただ「言ってるだけ」。
それなのに、めちゃくちゃすてきなエネルギーを持っている。なんていうか、世界を美しい光で包んでくれるような。
祈りを繰り出すことで、その人が「私は世界がより良いものになることを望んでいる」ということを自分に確認することになる。
卒業式のような、たくさんの人が集まっている場所でみんなが口々に、だれかの幸せについて願いを口にする世界を目にするというのは、もうそれが実現していることを目にしているようなものだ。
そんな場所にいて、そんな言葉を聞いていると、この世界は幸せな場所なんじゃないかという気がしてくる。
そう、人の幸せを祈るというのは、自分もその世界に一員になれるすばらしい祈りなのだ。すぐに祈りが実現できる世界なのだ。
そんなことを感じる3月や4月というのは、この世がすてきなエネルギーであふれる時期だなと思う。
私も長男をこの3月に東京に送り出すことになるから、いつもよりもずっとずっとそのパワーを感度高く受け取っている。
これまで受け取ってきたたくさんのひとたちの願い、優しい祈り、暖かいはげまし、寄り添い、行動すべてによって支えられてここまで歩んで来られたことに思いを馳せる。もうなんだか常に泣いてるみたいな感じがする。
人生が素晴らしいな、と思うのはこういうとき。誰かによって生かされていると気づいて感謝して、次に進む。私だってだれかにそんな贈り物をできたらいいなと思う。そして、そのやり取りで生まれる気持ちをできるだけ多く経験できる人生がいいな、と思う。
今日はそんなことを思った。
みなさまの別れと新しい出会いがより良きものであふれていますように。
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