闘病は母の役割、支えるのはわたしの役割
9月、わたしがアメリカから帰国して家に戻ると、母が出迎えてくれた。
「おかえり」
「ただいま」
「癌になったの」
「は? 誰が?」
「お母さんが」
わたしは、13時間の時差ボケと8時間の空港待機と14時間のフライトと7時間の夜行バスの疲れで、今が昼なのか夜なのかすらわからない状態だった。
わたしは母の顔を見た。
母は泣きそうな顔だった。
一瞬の間にわたしは判断した。
母はわたしに平静であることを望んでいる。
「いつわかったの」とわたしは母に尋ねた。
腹部にしこりを見つけてかかりつけ医を受診したのは8月、わたしが出張に行く前だったと母は説明した。その頃わたしは仕事で狂いそうになっていたため、母は黙っていたらしい。わたしが出張に行っていた間に2回検査に行ったそうだ。
「今日もこれから検査なの」と言って、母は透明な液体の入ったパックをわたしに見せた。「大腸カメラの検査で、これを2リットル飲まないといけなくて、1リットルまで飲んだんだけど、もうこれ以上入っていかないのよ」
「これ成分は何が入ってるの?」
「わからない」
「大腸をからっぽにすることが目的なら、別に全部飲まなくてもいいんじゃないの?」
「でも2リットル飲めって言われてるから」と、母は氷を入れて液体を冷やして飲もうとしている。
「それ薄めたら意味ないんじゃないの?」
「そうかもしれない」
そういう会話をしたのは覚えているが、いつの間にかわたしは自室のベッドで仰向けになって天井を見ていた。
「癌」という単語が宙に浮いていた。
かつて母は「死ぬなら癌が良い。余命がわかるから死に支度ができる」と言っていた。
望み通りになったじゃん。
「70歳で死にたい」
その母は今74歳だ。
「延命治療は一切しなくていい。自力で食事ができなくなったら何もしなくていい。胃ろうとか絶対に嫌。癌になっても治療はしない」
ちゃんと覚えてるよ、お母さん。
わたしは自分の頭の中を整理しようとした。
窓の外を見ると太陽の光が燦々と降り注いでいる。なぜ今、昼なのか。わたしがアメリカのホテルを出発した時、現地は朝だった。飛行機に乗るときはまだ昼だったし、スーツケースを引っ張って、ずっと昼間の世界を歩いてきた気がするんだが、なぜ外はまだ明るいのか。この惑星に夜はないのか。いや、わたしは夜行バスで空港からここまで帰ってきたはずだ。
The sun will set for you という Linkin Park の歌が頭の中で流れた。
夜の帳よ早く下りてくれ。
頭がボーッとしていて、疲れているはずなのに、眠くはなかった。
今が昼なのか夜なのか、どれくらいの時間が経ったのか、わからないままベッドに横たわっていたら、検査を終えた母が家に帰ってきた。
聞けば、次の診察で手術日を決定すると言う。
手術?
治療しないんじゃなかったのか?
母の腫瘍は大腸にあり、かなり大きく、主治医は腸閉塞や他の臓器への影響を心配していた。速やかに手術をする必要があるため、他の手術をする予定だった日に母の手術をねじ込んだ。
「お腹切ったら痛いんだろうねぇ」と母が言った。
「そりゃそうだろうね」とわたし。
「痛いのは嫌」
「麻酔かけるから大丈夫だよ」
「麻酔から覚めたら痛いんじゃない?」
「そりゃ痛いだろうね」
「あー、痛いのだけは嫌」
癌よりも痛いことのほうが、母にとっては問題らしい。
母は術前検査のために合計6回外来を受診し、わたしは同伴した。主治医に「腸閉塞の恐れがあるので下剤を処方します」と言われたが、同時にレントゲン撮影だの血液検査だの肺活量検査だのいろいろ指示され、検査が終わって帰る頃には主治医もわたしたちも下剤のことなど忘れていた。
「これですべての検査は終わりましたね。次回結果をお伝えします」と主治医。
「はい」とわたしたち母子。
「何か忘れてるような気がするな。何か他にあったっけ?」と主治医は隅に控えている事務に尋ねた。
「いえ、ないと思います」と事務は答えた。
帰り道に母が気づいた。「先生、下剤を処方するの忘れたんじゃない?」
「ああ、そう言えばそうだ」とわたしも思い出した。
「もともと便秘じゃないし、飲まなくても大丈夫よね?」
「わたしが持ってるやつ飲んで」
わたしはかつて便秘と下痢を繰り返し、下剤選びに苦しんだ経験があるため下剤には詳しい。母の場合は酸化マグネシウムで良かろうと思い、母に2シート渡し、飲み方について説明した。
次の術前検査で診察室を訪れた際、母は冗談めかしてこう言った。
「先生っ、前回、最後に『何か忘れてる気がする』っておっしゃってたじゃないですか! げ・ざ・い、ですよ!」
静かな診察室で患者だけが明るい。異様だ。
わたしは、話し続けようとした母を遮って「酸化マグネシウムを渡しておきました」と主治医に伝えた。
「完璧です」と主治医は言ってくれた。
それから主治医は前回の検査結果を踏まえ、手術の予定を説明し始めた。なかなか厳しい内容だった。
説明を聞き終えた母は言った。
「のんびり構えてちゃいけないんですね」
「だから手術の日程を早めたんです」
主治医は憂鬱そうに続けた。
「こんな大きな癌は扱ったことがない」
「すごい! 新記録ですね! 先生!」と母は異次元の明るさで言った。別の宇宙から来たみたいだった。当事者とは思えない。
「そんな新記録はいらない」と主治医は相変わらず憂鬱そうだった。
医師は患者の命を救うために働いているんだから、その責任の重さを考えたら医師が憂鬱なのもわかる。
その日、母は主治医に「腸閉塞の危険があるので、下痢になってもいいから飲んでください」と言われ酸化マグネシウムを処方された。わたし正しかったんだな。ナイスサポート、わたし。
家に帰ってから、「新記録」発言について母はこう主張した。
「だって今までに扱ったことがないほど大きな癌なんでしょ。それを治したら彼の実績になるでしょ。彼の自信になるでしょ。こんな癌を治したことがあるって他の患者に言えば、他の患者だって励まされるし安心するでしょ。実績は大事なのよ」
確かに理屈は通っている。
わたしはこの母の娘をやって40年近いが、とても不思議なものを見る気持ちだった。
母は、70歳で死にたいだの、治療はいらないだの言っていた人とは別人になっていた。生きる意志に溢れていた。
今や母の願いはたった一つ
「痛いのは嫌」
それだけだった。
この人は死なない。わたしは確信した。
手術日決定から入院までの二週間、わたしは母の仕事を肩代わりすべく経理の仕事を教わった。
家業を離れて早二年、人脈ができて、いろいろな仕事をもらえるようになり、ようやく自分の道を見つけたと思ったのに、こんな形で家業に引き戻されるなんて思ってもみなかった。早く店潰れろと呪った。
母の仕事を肩代わりするため、家業の顧問税理士に会った。話す中で手術の話題になった。
「手術は全身麻酔でやるんですか?」と税理士。
「そりゃそうよ」と母。
「大変ですね」
「でも歯医者でも麻酔打つでしょ? 同じようなものじゃない?」
わたしは傍で聞いていて首を捻った。
「歯医者の麻酔とはレベルが違うと思いますよ」と税理士がわたしの考えを代弁してくれた。
母にとっては痛くなければ何でもいいのだろう。とにかく「痛いのは嫌」なのだから。
治療に向けた準備が進むにつれ、わたしは、癌治療は母の闘い、その母を支えるのはわたしの闘いと思うようになった。わたしは日々なすべきことを粛々と処理した。
母が癌を患ったことは、仕事の関係者や親しい人など、ごく数人にだけ伝えた。伝えるとたいそうな反応が返ってきて、逆にわたしが戸惑った。
「心配でしょう」「大変だね」「何か手伝えることがあったら何でも言ってね」など気遣ってもらえるのはとてもありがたいのだが、母に関してわたしは心配でもないし、騒いで治るものでもない。わたしは何やらかんやら仕事を押し付けられて困っているので、強いて言うなら店の仕事を手伝ってほしい。わたしは自分に託された責任を果たすことだけで精いっぱいだ。母の心配なんかしてない。わたしの呪いに負けず、店は大繁盛している。わたしの不手際で営業を邪魔するわけにはいかない。わたしを案じてくれるなら手伝ってくれます? 給料は出ないですよ? わたしにも給料出てませんからね?
入院前日、母が荷造りをしながら言った。「結構な量の荷物になるね」
「まあちょっとした旅行みたいなもんだよね」とわたしは言って、自分で笑った。「癌手術のための入院を『ちょっとした旅行』と言ってのける、この娘、どうなの」
「母娘して気楽なもんよね」と母は言った。
わたしは別に気楽なわけではない、と思った。命の懸かった重大な手術ではあるが、他の言葉を思いつかなかっただけだ。
入院当日は朝8時半に病院に行って手続きをする必要があった。母の友人が二人来てくれて、車でわたしと母を病院へ送ってくれた。母と友人は永遠の別れかのように熱い抱擁を交わした。
その二人に見送られて、母とわたしは外科病棟に向かった。病棟では看護師が入院の対応をしてくれた。
「これから面会時間まではご家族であっても病室に入ることはできません。面会時間は午後からなんですが、娘さんはどうなさいますか?」と看護師はわたしに尋ねた。
たぶん看護師は、わたしが午後の面会時間に病棟に戻ってくることを想定していた。
しかしわたしは、母に押し付けられた仕事が山積していたので、躊躇なく「帰ります」と答えた。
看護師は、え? という顔をした。
わたしは母に向かって事務的に言った。
「必要なものがあれば連絡して。わたしも(店の仕事で)困ったら連絡する」
長居したところで話すこともない。わたしがいて治るわけでもない。わたしはさっさと自分の仕事を片付けたい。「じゃあね」と母に手を振り、足早に病棟を去った。看護師の驚いたような顔が見えた。たぶん、癌患者の家族がこんなに淡々と帰るのは珍しいのだろう。
病院からの帰り、店に寄った。店の主任は母をたいそう心配していた。きっと手術や入院中の面会について知りたいだろう。まだ10時半。開店前だ。時間はある。主任と少し話をした。今入院手続きを終えたこと、手術中は院外待機で、手術が終わったら病院から電話が来ること。
昼前に家に帰った。簡単な食事をして、寝た。とにかく体が怠くてベッドから起き上がれなかった。
今日から母が退院するまで早くても二週間。わたしは母の洗濯も食事も世話しなくていい。入院してくれてたほうが楽。
やっぱ無理してたのかもな、と思った。
わたしは辛いのかどうか自覚がないけど、平静であることを期待されているならそういう役を演じるよ。
翌日、自分の職場に出勤すると、上司が声をかけてくれた。
「今日お母さんの手術だったっけ?」
「はい」
「休めばいいのに。お母さん心配でしょ」
「いや、別に。わたしがそばにいて治るわけじゃないし」
「でもさ、気にならない?」
「いえ」
うーん、と上司が苦笑い。
「手術が終わったら電話が来るんで、その時だけ抜けますけど、何時に終わるかわからないので・・・」
「何時でもおれたちがカバーするから、声かけて」
「ありがとうございます」とわたしは頭を下げた。この理解ある職場はマジでありがたい。
「昨日会いに行った?」
「昨日入院したんですよ。入院期間をできるだけ短くする方針の病院なんで」
「そうか。どうだった?」
「『じゃあねーバイバーイ』みたいな感じで別れたら、看護師のほうがビックリしてました」
「そりゃそうだろうねぇ。お母さん強い人だね」
お母さん強い人だね、という発言が出たということは、たぶんこの上司のお母さんは違うタイプなんだろうな。
「今度 1 on 1 やろうと思ってるんだ。お母さんの状況が落ち着いた頃にやろう」
「いや、わたし、いつでもいいですよ」
「でもお母さんのこと心配じゃない?」
わたしは心配なのか? 自分で首をかしげて考えてしまった。
「仕事とお母さんのことは完全に切り離しちゃってる感じ?」
「わたし、『遅かれ早かれ人は死ぬ』って言われて育ったんですよ」
「でもさー、やっぱり母親にはなるべく長生きしてほしくない? おれは自分の母親に100歳まで生きてほしいと思ってるよ」
でもうちの母は70歳で死にたいって言ってた。今は生きる意欲満々みたいだけど。わたしは母に生きてほしいのか?
わたしはまた首をかしげて考えてしまった。
わたしが黙っていると、上司は笑いながら、淡々としているところがあなたらしいねと言った。
わたしは、自分が何を感じているのかわからないし、余計なことを考えたくないだけだった。母が入院した日に寝込んだのは事実だった。その理由について考えても意味はないと思った。
わたしたち母子は支え合っているんだ。わたしが平静を演じるから母は母自身でいられるんだ。
その日の夕方、主治医から電話が来た。
手術は成功したとのことだったが
わたしは主治医が発する一つ一つの単語を理解するのに時間がかかった。
手術前に説明を聞いたし
知ってる単語のはずなのに
どこか遥か遠い世界から
長い長い電話線を伝って
かろうじて聞こえてくる声を聞き取って
繰り返し考えて
単語の意味を思い出そうとしている
そんな感覚だった。
わたしは主治医に感謝を伝えて電話を切った。
母の手術は成功したという結果を上司や店の主任に報告し、わたしは自分の仕事に戻った。
母には母の闘いがあり、わたしにはわたしの闘いがある。
人生は自分だけのもの。
この闘いは誰も身代わりになってくれない。
患者や家族のそれぞれに、それぞれの孤独な闘いがある。
そして、治療者にもまた、闘いがある。
母いわく
手術後、主治医が母にこう言った。
「腫瘍はCT撮った時より大きくなってました」
母は尋ねた。
「新記録樹立?」
主治医は黙って、にやりと笑った。
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