シン・エヴァンゲリオンに思う
エヴァが終わった。もう公開も終了してすでにアマゾンプライムで配信も行われている。エヴァを見終わった直後は、個人的には清々しい気持ちではあったが、それは僕が既にエヴァから卒業していたからなんだろうなと思う。
ずっとエヴァのレビューを自分なりにまとめなければならないなと思って半年近く過ぎてしまった。その間優れたレビューが多くネットに掲載され、可能な限り目を通した。
僕の感想に近いレビューも多くあって、優れたレビューを読んでしまうと、僕が殊更レビューをネットに書き連ねる必要はないんじゃないか、みたいな思いもあったが、心のどこかで引っかかりがあったのも事実である。
僕にとってエヴァはどんな物語だったのだろうか?改めて自分に問いかけると、曖昧としていた。とても面白いロボットアニメであるし、幼少期に見たどんなアニメにもない魅力が詰まっていた。敢えて細部を語ろうにも要素が多すぎてきれいには纏まらない。
子供のころから何かに熱中するとはまり込んでしまうタイプの少年だったが、成人してからここまではまり込んだコンテンツはそうなかったように思う。勿論音楽の道を進んでいたので、音楽もはまり込んだものには違いはないが音楽へのはまり込み方とは明らかに異なっていたように思う。
僕がエヴァにはまり込んだきっかけは音楽の道に入ってすぐの頃だった。当時関西在住で、京都の大学に通っていたが、関西で音楽活動するには大阪を拠点にした方が何かと便利だったので大阪に移り住んだのが1997年。
阪神大震災直後だったこともあるが、音楽一本で食えるわけもなく、映画やアニメが好きだったので、住んでいた地区の近くにあるレンタルビデオの店でアルバイトしていたのがきっかけだ。
同じ世代のバイト仲間も多く、いろいろ話をしているうちに「お前エヴァンゲリオンとか見たらきっとハマるよ」と勧めてくれた友人がいた。今でいう「旧エヴァ」である。
当時はまだDVDは普及しておらずVHSレンタルが主流だったのでソフトを買うには高価すぎて手が出なかったのでテレビ版を店からレンタルして見た。だが当時からエヴァは人気があって、ソフト自体も品薄なうえにレンタルだと借りたまま逃げる客も多く何巻か歯抜け状態だったし、人気のあるソフトのVHSは劣化が激しかったので見る環境は今の環境から比較して劣悪だった。
歯抜けの状態で見た上にストーリーも難解で、もやもやしているところに劇場版による最終話が公開されると知り、劇場で「air/まごころを君に」を見て、何かとんでもないものを見てしまったという衝撃を受けた。
当時もエヴァの考察が流行っていたのだが、インターネットが一般家庭に普及してなかったので書籍関連しか情報を得る手段もなく、本屋でそういう書籍を読む程度にとどまっていたように記憶している。
平成、特に90年代後半は「ヲタク」という存在は社会的には地位が低く、宮﨑勤事件の影響で「アニメ好き=ロリコン、変態=犯罪者予備軍」くらいの偏見を持つ人が(特に生理的な嫌悪感を抱く女性が多かった)多数派であった為に、大ぴらに「アニメ好きです」などと言えば白い目で見られた時代だ。
アニメと言ってもドラえもんとかサザエさんみたいな大衆向けのキッズアニメならともかく深夜アニメ(エヴァは元々夕方放映されていたのだが、社会現象になったのは深夜の再放送がきっかっけ)など見ている人間は人間のカスぐらいの扱いを受けても不思議はない時代。そもそも大衆向けのキッズアニメを大の大人が見るという事は成熟できていない証拠として後ろ指さされるのが関の山だった。
そんな中エヴァ語りをする仲間など募ることも出来ないし、個人的に自分の中で消化するしかなかった。今振り返ってみると時代はずいぶん変わったなと驚愕せざるを得ない。
当時語り合える仲間が身近に多く居たら、逆に僕はここまで夢中にはなってなかったかもしれない。(もっとハマってたかもしれないが、多分ハマってなかったと思う)
大学時代は専攻は経済学だったものの、現代思想とか哲学、臨床心理学にはまり込んでいたので、エヴァに出てくるその手の用語は全く注釈を必要とせず、既知のものだった。それ故に僕はエヴァという作品から呼ばれているような錯覚を覚えた。思えばそれが作品に魅入られた理由だったのだろう。
尤もエヴァにはまる人たちのタイプは多岐に渡っていたので、典型的なファンがどういうものだったのかは定かでは無いが、一見破たんしているように見えるストーリーにどう一貫性を保たせるかという考察が主流だったように思う。僕自身もそれがとっかかりになったのは間違いない。
当時エヴァの主人公「碇シンジ」には正直共感も出来なかったし、好きなキャラクターではなかった。だが物語の中核が碇シンジの精神的葛藤の物語である以上考察の中心はどうしても碇シンジでしかありえない。
僕は碇シンジが「エヴァに乗る/乗らない」という葛藤をどういう意味で捉えていたのだろうか?それは成熟の拒否?社会に出ることへの恐怖?他者との距離感が掴めず引きこもる恐怖感?・・・色々語られていたが大きく言えば「実存」の悩みだったのだと思う。
自分は何者であって、何のために生き、どこに向かっているのか・・・そういう抽象的な問いのメタファだったと僕は捉えていた。
恐らく当時の僕は演奏家としての人生への不安をそこに投影していたんだろうと思う。別に超売れっ子の有名ミュージシャンになりたかったわけでもなく、ささやかでも生活が出来れば十分だと思いつつもどこかで未練というか甘い期待みたいなものを抱いていたのも事実で中途半端な存在だった自分がなんとなく嫌いだった。
自分には才能があると自惚れたいけど、そこまでの大胆な胆力は持ち合わせてはいない中途半端なプライド。
だったらさっさと演奏家の道は諦めて若いうち(当時は大学卒業してすぐの時期だった)に別の道に進めばよかったんだろうけど、当時は就職氷河期と言われた時期で、新卒採用を逃せばまずまともな就職は無理な時代だったこともあって、消極的な意味で「僕にはもうこれしかない」というマインドだったと思う。
そんな自分への嫌悪感を碇シンジに投影していたのだからイラつくし、嫌いでもあったのだ。
音楽家(演奏家)として何者でもないちっぽけな自分。このままで結婚も出来ずホームレスみたいな生活に身を落とすかもしれないという恐怖心もあった。
今コロナ禍で実のところ本業の音楽は駆け出しのころ以上の壊滅的な打撃を受けてはいるが、かろうじて気が楽なのは「僕だけではない」ということ。そういう意味では音楽という職業への葛藤は今は全く異なったフェーズに移行しているがそれはまた別の機会に書こうと思う。
話を戻そう。碇シンジは他者との触れ合いに恐怖を感じている。人との距離が上手く掴めない。それは父親の碇ゲンドウも同じで、だからこそ他者のいない全てが一体となった、自他の境界(=ATフィールド)が完全に取り払われた世界を目指し人類補完計画を発動するが、最終的に碇シンジは他者のいる世界を望み、人類補完計画を否定する。残った唯一の他者アスカに「気持ち悪い」と拒絶され「air/まごころを君に」は唐突にエンディングを迎える。
一部のエヴァファンはエヴァになにを求めていたのか?僕は承認欲求が根源にあると思う。すなわち「何者でもない自分(エヴァに乗らない自分)を無条件で迎え入れて承認してくれるような(母親ではない=エヴァ初号機ではない)他者」との出会いは可能かという命題。
他者がいなければ承認されることもない。だからこそ碇シンジは人類補完計画を葬った筈だ。
そういう他者と出会えれば自分を好きになれるかもしれない、そういうマザコン的な「気持ち悪い(キモイ)」感性をどう肯定/否定できるのか。その問題には最終的に「Air/まごころを君に」は答えていなかった。
何か役に立たなければならない、そうでなければ社会から承認は得られず、役に立たない自分に価値はない。そういう焦燥感の中に自分が埋め込まれている。そういう閉塞感から逃れる道をどこかしらで探している。
僕は相模原のやまゆり苑事件の植松のような人間が出現すると心がざわめく。自己に内面化されたある種の排除の理論から僕たちは逃れることが出来ない。役に立たなければ(何事かを成し遂げなければ)という焦燥感は、「役に立たない人間は存在しなくても良い」という差別心と表裏一体だからだ。簡単に植松被告を否定してごまかすことに疚しさを覚える。
だからこそ、おそらく一部のエヴァファンは新劇場版の登場にある種の期待をしたのだと思う。ぼくも多分そうだった。庵野秀明はそれに回答する義務があるのではないか・・・もちろん庵野秀明にそんな義務はない。
彼は自分が面白いと思うものを純粋に作り出すだけだ。
旧エヴァが完結して数年後の新劇場版はどうだっただろうか?「序」「破」の途中までは旧エヴァをなぞった作品であるものの(微妙に設定が異なっていたが)旧エヴァに比べればトーンも明るく前向きで、エンターテインメントに徹していたと思う。
興行成績も旧エヴァより遥かにヒットした。それは見る観客層が非常に広くなったのが大きい。旧エヴァは青年男子くらいしか見ていなかったが、新劇場版は幼い子供から大人まで、老若男女にリーチしていたと思う。
今はマニアックな過去の作品でさえ安価な値段で手軽に見ることが出来るので、旧エヴァを全話見ることも容易という事も大きいかもしれない。エヴァはコンテンツとして新規のファンにとってもアクセスしやすい作品になった。
そうエヴァンゲリオンは旧エヴァも含めて巨大なコンテンツに既になってしまったのだ。もう一部のマニアだけが愛でる作品ではなくなっていた。喜ばしくもあり一抹の寂しさを感じたファンは少なからずいただろう。
東日本大震災が起こった直後の新劇場版「Q」は鬱屈したタッチで観客を置いてけぼりにする展開。やはり新劇場版も賛否両論のエンディングに向かうのかと思われたが、コロナ禍の2021年「シン・エヴァンゲリオン:||」はエンターテインメント作品としては納得の大団円を迎える。
この世の中は残酷で辛いこともあるけど、他者と手を取り合って(劇中ではマリというキャラに当たるか)前に進むしかない。人は真の意味で孤独では生きられないのだから。
君は孤独ではない(you're not alone)
だから大人にならなければならない(you can advance)。それは必ずしも年を取ることとパラレルではない。精神の成熟を果たさなければならない。精神の成熟は多くの出会いと過ち、失敗、そういった試行錯誤によってしか得られない。だから引きこもって(自分だけの世界に閉じこもって)いてはいけない。(you can redo)
そういう決意を持った者の前にしか精神の成熟を促してくれる他者は立ち上がってこない。
自分のちっぽけなプライドや承認欲求を満たすために、誰かからの借り物の思想や信念で理論武装する(=エヴァに飲み込まれる)ことなく、勇気をもってあなたの物語の一歩を踏み出せ(thrice upon a time)
僕はそこにある種の永劫回帰(return to forever)にも似たモチーフを感じ取った・・・・「私たちの魂がたった一回でも、絃のごとくに、幸福のあまりふるえて響きをたてるなら、このただ一つの生起を条件付けるためには、全永遠が必要であったのであり、また全永遠は、私たちが然りと断言するたった一つの瞬間において、認可され、救済され、是認され、肯定されていたのである」(ニーチェ)
自分の人生を振り返ってみるといくつかの分岐点がある。その瞬間で失敗だった、挫折だったと思っても後々その挫折がかえってその後の人生で重要な出会いに繋がっていたりする事がある。
そう思うとその時の失敗や挫折も愛おしく肯定できる事がある。そう思えると過去は全く別の世界線のように書き換わる。
エヴァの無い世界線に書き換える描写はそのメタファーだと僕は思う。
「中庸への回帰」・・・・見ようによっては陳腐な結論である。そういう感想を書いているレビューも多いし、そう思う人の気持ちも理解できる。「リア充になれってことか!」と吹き上がる者もいた。そう思う人は「旧エヴァ」と「新劇場版」に深い断絶を見たのだろう。
僕も旧エヴァと新劇場版には深い断絶があると思っている。(設定上はきちんと連続性はあるけれど)それでもそれはそれで良いではないかと思っている。聖書でいう旧約聖書と新約聖書みたいなものだ。
失敗しても何度でも立ち上がる、そういう物語だと庵野秀明が自ら語っているように、エヴァは繰り返しながら前に進む物語なのだから。旧エヴァだけに拘ることは作品全体を見ていないことでもある。
僕自身いま「中庸」でいることは(一見陳腐であるが)、最も困難な生き方ではないかと思う。そのバランスを保持し続けることはとても難しいことだからだ。
中庸とは何処かにある不動点のようなものではなくその運動性の中に存在する。無難な安全圏に自分を置くことではない。
一見無敵の論理に見える思想で理論武装すること(エヴァに乗ること)の方がある意味楽なのだ。(人によっては宗教に帰依することかも知れない。だからゲンドウは死海文書に帰依しようとしたのだろう)
思想的な立ち位置でもリベラルにより過ぎず、でも保守にも寄りすぎない、社会と調和しバランスを保つことは実はとても難しい。時として激しいバッシングに晒されるかもしれない。
普遍性は時代とともに変化するし、10年前正しかったことや問題なかったことが今は問題になったりもする。今僕たちはそんな時代に生きている。
見る人によってさまざまな思いを惹起させるエヴァンゲリオンという作品は多層的、ハイコンテクストな魅力の詰まった作品だった。ただその誕生と終結をリアルタイムで体験できた、その僥倖を僕は喜び味わいたい。
「少年は神話に」なった。
そこから何を読み込み、前に進むかは、自分次第なのだ。
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