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若き日の井伏鱒二に焦点をあてる   滝口明祥


♦「タイパ」の時代に抗して

 近年、「タイパ」ということがよく言われるようだ。タイムパフォーマンスの略であり、時間を効率よく使うことを重視する際に使われる言葉であるらしい。短い時間で大きな成果があげられれば「タイパ」がいい、というわけだ。現代とは、より早く、より多くのことをこなすことが求められる時代ということなのだろう。おそらく「タイパ」を重視する人々にとっては、「二年間うつかり」していたために岩屋に閉じ込められてしまった山椒魚のような存在は、嘲笑の対象でしかないに違いない。
 
 ここで井伏鱒二の「山椒魚」という作品の内容を持ち出すことは唐突なように見えて、決してそうではない。何故なら、「山椒魚」が書かれた一九二〇年代というのは「速度」という言葉がさかんに使われた時代だったからである。一九二〇年代はまさしくモダニズムの時代であり、近代化が進展するなかで、時代の速度が増していったことが少なくない人々に意識されていた。そして井伏の作品に描かれる山椒魚とは、速度を増していく時代の流れから取り残されてしまった人々を表してもいるのである。

 あえて言えば、元祖「タイパ」の時代と言える一九二〇年代に、そうした時流に抗して書かれたのが井伏の「山椒魚」という作品であった。
  

♦老成した作家?

 だが現在、井伏の「山椒魚」を、そのような同時代との関わりのなかで生まれた文学作品であると理解している者は決して多くない。それどころか、井伏鱒二という作家は、若い頃から老成しており、そのような同時代の動向には煩わされず、自身の道を歩み続けた作家だと思われていることさえあるようだ。

 本書では、若き日の井伏鱒二に注目することで、従来の井伏に対するイメージを刷新することを目指した。井伏は決して若い頃から老成した作家ではなかったし、常に飄々として同時代の出来事から距離を取っていた作家でもなかった。井伏が生きた時代は、まさしく動乱の時代だったと言ってよい。そのあいだに井伏は幾度もの変貌を遂げているのであり、飄々としたイメージからは想像もできないような姿を見せてもいるのである。
 

♦多くの人々との出会いと別れ

 井伏は一九二二年に早稲田大学を中退しているが、その主な要因は大学教員の性加害であったようだ。また、大学を中退した直後に親友を失くしてもいる。その二つがまだ作家になれるかどうかわからない一人の青年に与えた影響というものは、きわめて大きかったに違いない。その翌年に発表されたのが「山椒魚」の原型である「幽閉」という作品である。そこでの岩屋に閉じ込められた山椒魚とは、半ばは井伏自身のことでもあっただろう。だが、それから六年という歳月が経ってから書かれた「山椒魚」という作品は、もはやそのような作品ではなくなっている。「速度」が重視される時代に取り残されてしまう人々に対する眼差しが、そこには明らかに看取されるのだ。

 「山椒魚」が発表された一九二九年は、井伏は新進作家として注目されながら、「朽助のゐる谷間」や「屋根の上のサワン」など、多くの作品を世に送り出した年でもある。「幽閉」から「山椒魚」へと至る六年のあいだに、井伏は多くの人々との出会いと別れを繰り返していた。「山椒魚」の場合、『文藝都市』という同人雑誌で知り合った年下の文学青年たちとの出会いが大きかっただろう。あるいは、その後の井伏は、〈漂流〉や〈亡命〉というモチーフを重視するようになるが、そこにはインドからの亡命者であったサバルワルの翻訳作業を助成した経験が関わっているに違いない。そしてもちろん、愛弟子であった太宰治との交流もまた、井伏の作品にさまざまな影響を与えていくこととなる。

 若き日の井伏が何に悩み、どのような軌跡を辿って作家となっていったのか? そのことの答えは、本書を読むことによってある程度明らかになるはずだ。そしてあなたが本書を読み終わった際には、井伏鱒二という作家に対して、従来とは全く異なる見方をしているだろうことを著者としては願うばかりである。

(『ミネルヴァ通信「究」』2024年10月号)

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