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情報概念の検討から社会学のパラダイムを再考する

2023年9月、『都市とモビリティーズ』(吉原直樹編著)、『福祉と協働』(三重野卓編著)の刊行を皮切りに小社の創立75周年企画「シリーズ・現代社会学の継承と発展」(全6巻、代表編者:金子勇・吉原直樹)が始まりました。現代の複雑な社会現象を捉えるとともに、社会学知の世代間継承も目指した本シリーズは、2024年11月に『ジェンダーと平等』(江原由美子編著)の刊行をもって完結となり、これを受けて、11月10日(日)、第97回日本社会学会大会(於:京都産業大学)においてシリーズ執筆陣によるテーマセッション「現代社会学の継承と発展」が開催されました。本noteではその発表の記録をお届けします。第4回として、第6巻『情報とメディア』の執筆者のお一人である伊藤守先生(早稲田大学)の発表を基にしたご論稿を掲載いたします。

情報概念への問い~情報の生成


 情報とはなにか。多くの辞典(事典)で情報に関するさまざまな定義が行なわれていることが示すように、この概念を定義することはきわめて難しい。たとえば、社会学の分野では、吉田民人、正村俊之が、社会情報学の分野では田中一が、そして基礎情報学の確立に貢献してきた西垣通が、それぞれ独自の情報概念を提起している。しかし、これで情報概念に関する探究が「閉じた」というわけではなく、さらなる検討が求められている。筆者はそのように考えてきた。
 一般的に、情報といえば、離散的な「0」「1」のデジタル信号を想起する場合が多い。あるいはインデックスやアイコンをはじめ音声言語や文字言語など自然言語を含めた「記号」が情報の中核をなしており、デジタル信号はこれらの記号を「0」「1」の信号に変換したものであると考え、情報をより広い領域をカバーするものと考える場合もある。いずれの主張も誤りではない。しかしながら、こうした捉え方に筆者は長いこと疑問を抱いてきた。たしかに、「つくえ」「くるま」といった記号は意味を伝える情報であることは疑いえない。だが、「つくえ」とも、「くるま」とも概念化できない事物に出会ったさいに、既存のことばでは表現できないとはいえ、目や耳や皮膚を通して私の身体が「なにか」を受容=キャッチし、私の身体も変容する過程も情報過程であると考えるならば、そのプロセス自体からいかに情報が成立するのかを考えたいと思い続けてきたからである。
 端的に言えば、情報をあらかじめ存在する固定したモノとして考えるのではなく、情報が生成するプロセスを把握できる内在的な視点なり概念を探り当てたい、という着想であった。その方向性をいち早く打ち出し、大きな示唆を与えてくれたのが、生命組織が自ら組織する「意味」が情報である、と明確に規定した、西垣通の情報に関する思索であった。
 加えて、従来の情報に関する考え方に対する第2の疑問は、情報が知覚や認知・認識といった意識や理性といった精神活動と結びつくかたちで把握されていることに対するものであった。先の例で言えば、これまで見たこともない物体に出会ったとき、恐れや恐怖をわれわれは抱くだろう。あるいは絵画や音楽にふれたとき、われわれは言葉では言い表せないほどのショックや感動をうけるだろう。つまり生命組織にとって情報は認知的なことがらのみならず情動や感情を誘発する重要な契機ともなる。言い換えれば、情報概念を主知主義的な枠組みから解き放つ必要性を感じていたのである。

シモンドンの思索


 こうした疑問を考えるための手がかりを、アリストテレスの形相質料という二元論的な概念構成に対する再検討をおこなった科学哲学者のG.シモンドンからJ.ドゥルーズとF.ガタリへと継承された展開に求めたのである。具体的に述べよう。
 アリストテレス流の形相質料概念は、「結合体を形成する条件かつ原理としての、「形相なるもの」と「質料なるもの」は、実際に単一の項として、そしてすでに個体化された「原因」として扱われている」とシモンドンは指摘して批判を加える。つまり、個体化された原子、すでに個体化された生命組織、個体化した図形といった、すでに個体化のプロセスを通して出来上がったものの形相質料を前提としつつ、それを個体化のプロセスの原因として見なす誤りを犯しているというのである。  
 このアリストテレスの形相質料概念に対して、シモンドンは「質料と形相が差異化するのは、無限に短い瞬間においてではなく、生成の只中においてである。形相はポテンシャル・エネルギーの乗り物ではない。質量は、それが逐一、実現されるエネルギーの乗り物でありうるゆえにのみ、形を与えることができる質料(matière informable)なのである」と指摘する。きわめて重要な指摘である。
 ここで指摘された<informable>という概念が、すでに形をなしたものではなく、<今-まさに-形を与えることができる>プロセスに光を与える概念として提示されている。従来の情報を「パタン」として、すでに形をなしたものとして情報を捉えるのではなく、「パタン」が生成する位相から情報を捉える視点が打ち出されていると言える。

極性をもった世界~生の内在性の地平から


 こうしたあらたな視点は、「心的個体化」においても適応可能である。ここでいう「心的個体化」とは、生命組織が日々準安定状態において個体化の歩みを続ける中で「全体において捉えられた知覚や認識に関して一つの個体化の問題」を考察することである。簡潔に言えば、知覚という問題系である。知覚とはもちろん、視覚・聴覚・触覚等の情報受容である。その知覚の際、情報(の強度)は、「生命の力動性によって方向づけられる主体を前提にする」とシモンドンは強調する。つまり、身体の情動的運動である。この情動的な運動を通して、主体は「対象ではなく、状況が意味をもつようなやり方で、極性をもった世界」を知覚する。すでに述べた、すでにパタン化され、形をなした情報ではなく、あらたな形を生成する情報のプロセスを、知覚においても問題化しているのである。<情報>概念は<情動>と対をなして捉えられていることを看過してはならない。
 以上の論点は、オートポイエーシス理論のさらなる理論的展開を後押しするものとであり、前―意識的な身体の力能のレベルから人間存在の可能性を切り拓く視点を与えるという点で、現在の社会学的パラダイムに新機軸を提示することにつながる、と筆者は考えている。

伊藤 守(早稲田大学:肩書は寄稿時)

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