私たちが日々、まとっているもの
初めてトーゴを訪れた時、行き交う人々の華やかさに目を奪われた。
男女ともに、面積いっぱいに広がるカラフルなプリント生地を、思い想いのスタイルで、全身を覆うようなボリューム感でまとっている。
ヘアスタイルも一人一人違っていて見飽きない。くりくりにねじれていたり、毛先だけ赤や青や金色に染まっていたり、後日写真をよくよく見返しても一体どうなっているのかさっぱり分からないようなスタイルも。(下記の写真の一番右の人とか。アップにしてみてください)
姿勢も見事。子どもの頃から頭の上に物を乗せて運ぶ練習をしているという彼らは、十数キロありそうなバナナやヤムイモの山、椅子などの家具、雑貨をたっぷり詰め込んだカゴなど、とにかくなんでも頭に乗せてスイスイ歩いていく。「日本には、こんなことできる人ほとんどいないよ」と言ったら、「どうして?練習すれば誰だってできるのに」と可笑しそうに言われた。どれと試してみると、スマホひとつ満足に載せられやしない。この体幹、とても敵わない。
通りを歩いていたり、車で通り過ぎる時でも、行き交う人ととてもよく目が合う。結構な距離が間にあっても、ニコッとすると、老若男女、どんな人もこちらが嬉しくなるような笑顔を返してくれる。目と目が合ってからの反応が早い。
もちろん、現地では珍しいアジア人だから見られやすいという面はありつつも、それ以上に体幹がしっかりしていて姿勢が良く、前を向いて視野が広けているからこそ、パッと目が合いすぐ反応できる、そんな高い身体感覚を持っているからなのではないかと思う。
服に関しては、マーケットで無数に売られているカラフルな生地の中から好みの柄を選んで購入し、お気に入りのテーラーへ持ち込み、作って欲しいスタイルでオーダーするのがスタンダード。採寸してもらうので、自分の体にぴったりに仕上がる。
これらのプリント生地は伸縮性がないので、体に合った縫製であることが大事。デザインも、年齢に関わらず背中が大きくくれていたり、体のメリハリに合わせたカーヴィなシルエットをよく見かける。全身を覆うプリント柄の迫力と、丸みのあるシルエットによる色気の両方が備わっている。
トーゴの平均年収は6万円ほどとも言われている。そこから私が想像していたファッションのあり方と比べて、現実は驚くばかりに豊かだった。生地も、デザインも、仕立ててくれる人も、自分のお気に入り。そしてできあがった服は自分の体にぴったり。着ている人と服が一体化しているようで、気持ち良い誇らしさが伝わってくる。しかもそうしたスタイルが、よそ行きのパーティの場ではなく、街中やマーケットや道端でそこかしこで見かける。
一緒にいたKさんが「みんな"自分の顔"をしているわね」と言った。
卑屈な顔をしている人が、全然いないと。
みんな「自分のための服」を着ているんだ、と思った。
他の人には合わない、自分のためだけの服を、体幹健やかなその体にまとっている。服と身体が一体化して、見事に「その人らしさ」を伝えている。
日本に帰り、夜中の新宿駅のホームで電車を待った。
向かいのホームで並んでいる、青白く照らされた人たちが、まるでゾンビのように見えた。黒やグレーの暗い色で、ダブダブとした誰が着ても構わないシルエットの服。疲れた顔で無表情に、一様にスマホを見て下を向いている。誰とも目が合うことはないし、合ったとしてもすぐに逸らされる。
個人の所得など経済的な軸で見れば、圧倒的に日本の方が恵まれているはず。でも、日々まとう「服」というものに対する視点や考え方の豊かさは、どうだろう。
手頃な価格で簡単に買えたり、たくさんの選択肢があったり。便利でラクでちょっと楽しかったり。けれどそこまで思い入れもないから簡単に捨てたり転売してしまえたり。そして、まとっているのは弱々しい体幹のうなだれた体だったり。ただ歩いているだけで、「自分の顔をしている」と感じさせる人が、街中にどれだけいるだろう。
アフリカ大陸の中でも、トーゴが位置する西アフリカには特に、今でもこうした仕立て服をまとう文化が色濃く残っているという。たしかに、東のケニア(ナイロビ)や、南アフリカ(ケープタウン)を訪れたときは、Tシャツやデニムなどを着ている人のほうが多かった。
トーゴで会った、「自分のための服」を着るのが当たり前である人々の存在に、私は励まされる心地がした。そして勝手ながら、この文化がなくならないで欲しいと思った。ファストファッションが上陸して席巻したりなんか、絶対にして欲しくないと思った。
それから、私自身の服や身体に対する感覚の鈍りを思った。服をむやみに捨てず、むやみに買わず、愛着を持ってまとい、そして背筋を伸ばして過ごすぞと思った。
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