すべての肖像画には物語がある。 【燈の記 #0コンセプト】
わたくしといふ現象は 仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける 因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
―宮沢賢治 心象スケツチ「春と修羅」より引用
眼が見つめる「目に見えない物語」
私が描く肖像画を見て「ひかりですね」と話しかけてくれた人がいた。
そう言われて、頭をよぎったのが、冒頭に引用した宮沢賢治の一節である。
2012年、今まで描き続けてきた肖像画を個展で発表すると、
肖像画を描いて欲しいと、多く依頼をうけるようになり、描くことを生業と出来るようになった。
望まれるのは、自分自身の肖像画、父や母、子や孫の肖像画などである。
そこには、自らのアイデンティティーへの誇りであったり、
伴侶への愛であったり、両親への感謝の思いや、子や孫への愛おしみなど、
どの依頼にも様々な“想い”という「目に見えない物語」がある。
肖像画を描く時、いつも脳裏にあるのは、その物語をどれだけ描き留めることが出来るかということである。
そのために必要なことは、「出会う」ということだった。
時間、空間を共にしてコミュニケーションしあうこと、
すなわち聴き語らいあう交流の時間が不可欠なのだ。
その時間に話したこと、肌で感じたぬくもり、香りなどを思い出し、その人に成り変わったように想像しながら描くうちに、眼は、脳裏にある「目に見えない物語」を見つめ始めていく。
人との交流で感じたもの
私自身は、どちらかというとコミュニュケーションを得意とするタイプではなかった。世間一般には「暗い」と言われるタイプだ。
しかし、そんな私が肖像画を描くために、彼らと出会い、語らい合っていると、燈(あかり)に照らされたような感覚がわいてくる。
眼の前にいる人々の語る姿が、ふと輝きを放つ瞬間、「ひかり」を燈している姿として私の眼に映り始め、その「ひかり」に照らされ、私自身の中にも「ひかり」が燈るのを感じるのだ。
ある日、個展会場で「ひかりですね」と言われたとき、
この交流の時間こそが「ひかり」なのかもしれないと思った。
人はたしかに、明滅している因果交流電灯だ。その「ひかり」との出会いを、肖像画として描いてるのだという思いが深まった。
人が発する「ひかり」は「光」ではなく「ともしび」
人が発する「ひかり」は
星の瞬きのような、
蛍のひかりのような、
呼吸するように揺らぎ明滅する燈(ともしび)のような「ひかり」
だと私は思う
その「燈(ひかり)」を、紙と鉛筆をつらね記した肖像画
それが「燈の記」シリーズである。
これらは二十二箇月の 過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケツチです
―宮沢賢治 心象スケツチ「春と修羅」より引用