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「死ぬために生きたい。」 と思う様になったこと
去年の末に父と祖母が相次いで亡くなり、それ以来死について度々考えるようになりました。
私が父と最後に話したのは、亡くなる一週間前のテレビ電話でした。
父はそのテレビ電話中にポロッと、「アメリカに行ってみたい。広大な大陸で馬に乗って、西部劇の格好して銃を構えて、かっこいいだろうなぁ。」と言い出しました。
父は外国文化、特にアメリカ文化に非常に興味を持っていました。それは祖父が船乗りであった影響もあるかもしれません。しかし、父は一度も海外を訪れたことがなく、一生涯パスポートを持つこともありませんでした。
そんな父に向かって私は思わず「行こう!体調が悪くなっても大丈夫なように、私がスイートクラスの飛行機とるよ!」と、すっからかんの銀行口座を忘れて反射的に言いました。
すると父は悲しそうな顔をして言いました。「無理だよ。パパは病気があるからね。病院から離れられないんだ。」
私は悲しくなってしまい、何も言えなくなりました。それから適当な話をして、体調に気をつけてと言って電話を切ったのを覚えています。
これが父との最後の記憶です。
その後、父の最期を母から詳しく聞くことができました。父は亡くなる前日、体調が安定していないにも関わらず、担当医師や看護師さんの反対を押し切り病院を退院していました。その日、母は無理な退院をサポートしてかなり疲弊していました。しかし家に帰っても、母が少しでも父の元を離れると直ぐに母の名前を呼んでは、些細なことを頼んだそうです。
そして次の日も朝からまた母の名前を何度も呼び、昨日の夜と同じように些細なことを頼みます。お昼時になり、いつも通り母が呼ばれて父の元へ行くと、一瞬気力を取り戻した様でしたが、その後ふっと意識を失ってしまいました。その時偶然にも介護士の方が訪問していたので、その人が救急対応したものの、その努力も虚しく父は亡くなってしまいました。
父が母を何度も呼んだのは自分がまだ現実の世界にいることを確かめたかったのかなぁと、このまま死の世界へと旅立つのが怖かったのかなぁとふと考える時があります。
そしてアメリカに行きたかったのかな、と思うのです。
やりたいことがたくさんあるのにもう体は思う様に動かず、死への入り口がもうすぐそこに見えている。
私は今まで、自分の死を知りながらも、若さに甘んじてその短さを意識することなく生きてきました。
満足できない日々が続くけれど、やりたいことに飛び込む勇気を出せずにいるけれど、それを反省することはありませんでした。
なぜなら、この先長い時間が私を待っていると勘違いしていたから。
そこから私は、”もう死んでもいいように生きたい" と思う様になりました。自分が死ぬ時に苦しまなくて済むように、怖い思いをしなくて済むように、私は死ぬために、今日を全力で生きたいと思うのです。