超短編小説【お姉ちゃん】
【お姉ちゃん】 峯岸 よぞら
「陽介!あーもう!だからよそ見しないでって言ったじゃん!」
「うわーーーん」
3歳の陽介は、ジュースを溢した。
私はテーブルや床を拭いている。
「陽介、おいで。拭けば大丈夫だよ。
汚れちゃったから、着替えようね」
泣きわめいている陽介に、優しく諭して
対応してくれたのは、お姉ちゃん。
12歳年上で、この春から高校生。
こういうことが幾度もあって、
お姉ちゃんの方が育児に向いているんじゃないかと、私の不甲斐なさを感じていた。
──4年前。
「なんか最近食欲がないんだよなー」
夫が朝からボソッと言った。
「夏だし、夏バテじゃない?」
「そうだな。この暑さじゃバテても仕方ないよな」
麦茶を飲む姿を横目で見て、お姉ちゃん用の朝ご飯を作る。
ダイエット中だから朝ご飯はいらないとか言っているが、ヘルシーなものでも、食べてから行ってもらいたい。
外では、セミの鳴き声があちらこちら聴こえていた。
都会ではないが、田舎でもない。
中途半端に栄えたこの街は、
緑もたくさんあって、都内にも出やすいので
子育て世代が多く住んでいた。
「おはよう」
「…」
反抗期のお姉ちゃんは、最近話してくれなくなった。
夫には前から無視だったが、私にも来たかと、肩を落としたことを覚えている。
たまに話したかと思えば、来週修学旅行だとたか、驚くようなことを伝えて来る。
その時は、慌てて担任の先生に修学旅行の費用を持って行って、納付期限が過ぎていたことを謝った。
そんな慌ただしい日が、静かに過ぎていった。
夏の蝉は、道端で裏返っていたはずなのに、
いつの間にか姿を消している。
10月29日。
今度は私も体調の悪い日が続いていた。
夫は、食欲が復活することはなく、
痩せていった。
さすがにおかしいと思い、
病院へ行くように促した。
今日は検査の結果が出る日。
帰って来た夫は、顔が青ざめていた。
「それで、お医者さんはなんて…?」
「ガン…だって…」
「え?」
「もう末期で助からない。
色んなところに転移してしまっているって」
「え?」
「だから、入院はせず、ご家族と過ごしてくださいって…」
「え…」
全て聞こえていたが、内容が入って来なかった。
リビングで立ったままの夫と、固まる私。
冷蔵庫のモーター音が、やけに大きく聴こえる。
──ガチャ。
玄関の開く音で、我に帰った。
お姉ちゃんが帰って来た。
いつも一目散に自分の部屋に入って行く。
今日は、それを引き止めた。
「菜津実、待って」
「なに」
眉間に皺を寄せてぶっきらぼうに答えた。
「お父さん、ガンになっちゃったんだって」
「…ふーん」
一瞬、目を見開いた様子を見せつつも、
いつものように反応した。
すぐに自分の部屋に入って行った。
ため息を吐いて、夫を見ると、
仕方ないよと言うように、頷いた。
その後は、仕事は今まで通り行くけど、
上司には伝えておいた方が良いかとか、
そういうことを話し合った。
11月5日。
トイレから出た私は、驚いた。
──陽性。
スマホが鳴る。
「奥様ですか!? 今、病院に運ばれて…」
この時の電話は、きちんと覚えていない。
すぐにタクシーを呼んで、病院へ向かった。
タクシーの中で、お姉ちゃんの学校へ連絡した。
病院へ着くと、受付の人に怒鳴り込むように
名前を伝える。
「5階の…」
と、伝えられたのでエレベーターを探した。
上ボタンを押す。
扉の上にある、透明のクリスタルの数字は、
エレベーターの籠がいる階で光るらしい。
3から2に降りて来るのがやけに遅く感じて、
後ろにあった階段を使った。
走って走って駆け上がった。
途中、看護師2人くらいとすれ違ったと思う。
心配そうに、でも異物を見るような視線を感じた。
尋常じゃない汗をかいていたからだ。
そうだった。私、妊娠していたんだった。
5階に着くと、夫の会社の人がいた。
こちらです。と、案内された。
心肺停止している夫を、医師や看護師が
繋ぎ止めてくれていた。
息切れしながら、説明を受け、
それを止めてもらう。
いつからいたのだろう。
後ろにお姉ちゃんがいた。
後ろを向くと、すぐに目を逸らされたが、
隣に来てくれた。
「15時2分…」
医師の死亡宣告が耳の奥に響く。
あれから、あまり覚えていないが、
霊安室に移動されたり、葬儀会社の人と話したりした。
会社の人たちにもお礼を伝えて、帰ってもらったり…。
その間は、自分じゃないみたいに、取り繕って対応していたと思う。
帰りのタクシーは、お姉ちゃんも私も無言だった。
住宅街の一画。その入り口みたいなところで、降ろしてもらった。
玄関まで、あと十数メートル。
その時、私は感情が爆発してしまった。
ゴミ捨て場の前で、しゃがみ込み、声を上げて泣いた。
お姉ちゃんが、そっと私の背中をさすってくれた。
父親を失った娘も辛いはずなのに、
母親である私が、慰められてしまって、
情けない気持ちと、心の支えになっている
という感謝の気持ちが入り混じった。
──1年後。
オギャーという産声と共に、男の子が誕生した。
名前は、陽介。
夫との死別から光を差してくれたように、
太陽のような存在。
そして、夫が祐介だったから、
そこから取って、陽介。
高齢出産なので、実母に来てもらって、
何かあった時の対応をこうして欲しいと
伝えていた。
ありがたいことに、何もトラブルなく、
出産を終えた。
──3年後。
ジュースを溢した陽介の着替え。
せっかくよそ行きの良い服を着ていたのに、
もう替えがないので、お姉ちゃんが
いつものトレーナーとスエット生地のズボンを着せてくれた。
今日は夫の命日。
みんなでお墓に行く日。
あの日からお姉ちゃんは、優しくなった。
反抗期が終わったのではなく、
無理やり終わらせてくれていた。
それがなかったら、陽介のお世話も
こなせなかったと思う。
陽介の寝かし付けをしながら
寝てしまっても、お姉ちゃんが
残りの家事をしてくれていたり、
本当に頭が上がらない。
「お姉ちゃん、抱っこ抱っこ!」
「はいはい」
お墓に着き、掃除をしてから、
手を合わせた。
その間も、陽介はお姉ちゃんに抱っこをしてもらったまま。
「お父さん、私、将来は保育士になろうと思う」
真っ直ぐお墓に向かって、強い意志で、
それを伝えたお姉ちゃん。
その目を見て、気が付いた。
私は娘を、ずっと「お姉ちゃん」と呼んでいたことに。
凛々しいその目が、小さい頃、
「パパ抱っこ!」と甘えていた菜津実の目にも見えた。
今日は菜津実と、たくさん本音を話したい。
父親がいなくなってから、どう感じていたのか。
陽介のお世話で、友だちと遊ぶのを我慢しているんじゃないか。
私が陽介に付きっきりで、寂しい思いをしているんじゃないか。
反抗期を途中で終わらせたのは、気を遣ったからなのかとか。
無理していないか…。
美味しいものを、たらふく食べながら。
ダイエット中なのに!とか不貞腐れて欲しい。
ぎゅっと拳を握り、横を向く。
「菜津実、今日はお寿司とピザとドーナツ買って帰ろう」
「やったー!チョコドーナツ!」
もちろん、陽介が先に反応した。
菜津実は、驚いたような表情をした。
「…えー!ダイエット中って言ったじゃん!」
菜津実は、甘えて良いんだと、
ホッとしたように不貞腐れた。
私は、涙を浮かべながら、
陽介を包むように菜津実を抱きしめた。
<終>