好きnote 20 「吉田峰子」
とうとう書いてしまう。吉田峰子とは、すなわち私である。私は自分のことがめちゃくちゃ好きだ。むしろ自分のことしか好きなんじゃないのかも知れないと思うくらい好きだと思う。自己評価が低めなナルシスト、それが私だ。
しかし、昔、私は自分のことが大嫌いだった。そのことを、この漫画を読んで思い出した。
Twitterにあがってて軽い気持ちで読んだら、昔の自分を思い出して何度も読み返してしまった。後半、自分で自分に溜めていた毒が自家中毒を起こしていき、毒が漏れ、さらに爆発して間違った方向に暴走していく。あの言動に思い当たることが多々あった。
過去の自分を思い出して、痛々しいし恥ずかしいと思っていたら、翌日たまたま過去に私が暴言を吐いてしまった人に会うことになった。そんな予定ではなかったのに本当にたまたま。会った時は忘れていたのだけど、友だちと3人でいろいろ話していたら思い出してきた。ちょうどその時に話した話題も、過去の自分を思い出すようなものだった。
我慢してしまうこと。ムカっとしても、相手の立場や思いもあるだろうし…とか、こんなことで怒るのは大人げない…とか、こんなことで嫌がる自分ではみっともない…とか、もっともらしいことを自分に言い聞かせては自分に毒を盛る。自分を抑えて相手を立てれば良いことがある、いい人でいればいつか良いことがあると思っていた。
だけど現実は違う。こちらがどんなに我慢しても、我慢してるとは思われずに、どんどん当然みたいになっていく。むしろやりたくてやってるんでしょって感じになっていく。自分に素直にやりたいことだけやって楽しんでる人ばかりいいことがあって、私はしんどいだけじゃないか! 何にもいいことなんてねーわっ! 仕事も恋愛もうまくいかねーわ! 人間関係もうまくいかねーわ! いつまで、どこまで私は我慢しなけりゃいけねーんだよっ!! 何なんだ! 何なんだよー!!
自分勝手に我慢してる癖にそうやって自暴自棄になり、愚痴をこぼしまくり、人に嫉妬して暴言を吐いたり、突然逆ギレしたり、ものすごく面倒くさい厄介な人になっていた。客観的に見てそういう人は怖いし、近づきたくなくなるよなと今は思うけど、当時の自分は止められなかったし、どうしていいのかまったくわからなかった。
1番思い詰めた29歳の頃、通勤電車や寝る時に過呼吸によくなっていた。過呼吸になりながら、いつか倒れるかも知れない。私はこのままくすぶったまま、何にもよかったと思うことなく死ぬのか? もし本当に倒れるなら、めちゃくちゃでも本当にやりたかったことを思い切りやって倒れたい!! と思った時に、その時に思いついたのは「京都大学西部講堂でイベントしたい!」だった。
めちゃくちゃ突拍子もないし、サブカル女子すぎる。しかしその時は何故かそう思って、自分が西部講堂で観たい、やりたいイベントの企画書を書き始めたら、だんだん元気になって、毎日が楽しくなってきた。実現できるかどうかはわからない。だけど想像していくだけで、こんなに元気になるなら、実現していったらどうなるんだろう? やってみたい! と思って、当時働いていた会社を辞めて、定期貯金を解約して、仕事も決めずに京都大学西部講堂の近くの風呂なし共同トイレ、共同水道のアパートに住み始めた。西部講堂連絡協議会という団体に入会して、自分でイベントをすることを夢見て、西部講堂のいろんなイベントの手伝いを始めた。
そんな頃に出会った「どんと」の歌。
https://note.com/minecosmo/n/nf9a186b57e81
↑詳しくはこちら。
トチ狂った暴走のようで、あの時、会社を辞めて京都に行ってよかった。
京都に行って人生は激変はしなかったし、激変しようとし過ぎて体調崩したり精神的にまいってしまって実家に逆戻り。余計に自己嫌悪が激しく落ち込んだりしたけど、それでもあの時行動した自分を褒めたい。その後も、本当の自分の感情がわからなかったり、チグハグは言動はありながらも、どんとの歌との出会いから自分で歌をうたっていく中で幸せを感じて自分を好きになっていった。
でも本当は自暴自棄になっていた頃も自分のことを好きだったんだと思う。こうありたいと思う理想の自分がいて、そうなれない自分に足掻いていた。理想に近づく努力もたいしてしてない癖に嘆いていた。間違った努力ばかりして苦しんでいた。自分のことを好きだったからこそ足掻いていたんだと思う。
その頃の話を短大時代の友人と話した。その友人も自暴自棄な頃の私に嫌な思いをしたことがある。その友人にこんなことがあって、昔の自分を思い出したよと話したらこんな返信があった。
…………………
私も当時と そして何年もたってからと みねちんのこと考えてた
みねちんがあんなふうにハラをたてたりしてたのは ただ泣いてただけなんやって
あのときの私は
『○○ちゃんみたいてきとうにいいかげんになれないよ!』と言われて 『ああ友だちだと思ってたけど 私のことそういうふうに見てたんだって。
ただカチカチの四角いとこをすこしだけまるくなってほしくて ちからになれたらって思ただけやのに そんなふうにしか受けとってもらえないんや』って ただかなしいやらハラのたつやら…
でもあのときのみねちんに真っ向から向かうのは違ってたのかもしれん
みねちんは文句言ってみたり怒ったり ただどうしようもないきもちをあんなカタチにしてぶつけて泣きたかっただけやもん
文句言うってことは 実は甘えられてたんかもしれん
理屈に合わないけど
そうやって泣いて
ただ うんうん…って聞いてたらよかったのかも…
あのときのみねちんは大変になってた
いろいろあってね…
それを どうこう意見言うてちょっと落ちついてもらえたら…とかそんなんいらんねんな
ただうんうんって…
みねちゃんしんどいんやね…って心の中で…
誰かが大変になってるとき
ちからにはなれなくって
無力やなぁって思うときあった
でもそんなときの相手は 私が触れるきもちになってもはねかえってくる
ゆっくりじかんかけて
何とかなるのを待つしかない
ただ べつに会わなくても
思ってるだけしかできなくても
その本人がきっといい子なんやからきっと 年数はかかっても明るいいろを感じて その人がそうなることも解かってる
あとは祈るだけ
大変なことになってるときの自分の無力さ
だけどいつか明るいとこに行くことは解かってて
だってその子はいい子やから
信じてて
いっぱいつっかかって
いっぱい傷ついたからこそ 解ることもあって今のみねちんが居る
みねちんすごくすごくしんどかったと思う
遠回りで 切ないもの抱えてても
『しあわせ』って言えて唄えて すてきと思う!
そしてみねちん
ありがとう
…………………
こんな友人に恵まれて私は幸せだと思う。
昔、また別の友人から「峰子は何かが出来るようになるとか、すごい人になるとか、そういうことじゃなくて、人間は変われるんだってことを人に魅せられる部分に価値があるんじゃないかなぁ」と言われたことがある。もし、それが本当なら…と思って、今回思い切ってこの文章を書いた。
ところで、たまたま会ってしまった過去に暴言を吐いてしまった方には、このタイミングしかないと思って謝りました。
めちゃくちゃ変なタイミングやし、ずいぶん時間がかかったけれど。一緒に話したり歌ったりしていたら、何かが溶けて流れていくように素直になれた。
そして実は謝れて私自身、とても嬉しかった。本当に思った時に、素直に生きられる自分に時間がかかったけどなれてきてるのも感じて。
その人がその日撮ってくれた写真。こういう美しい写真を撮る人だったんだなぁ。優しい人に私は甘えて当たり散らしていたんじゃないかな。私はとても寂しい人だったんだなぁ。
今も寂しい時はあるけど、私は私のことが好きだから何か大丈夫だと思ってる。好きなものがあるからこそ自分が好きで居られる。好きなことをしてる自分が好き。そういう風に素直に自分を愛おしむことができて初めて身近にある幸せや良いことがあることに気づけた。昔あんなに欲しがってたものは近くにあるのに自分が思ってたものと違うだけで全否定していただけなんだ。
いつか私が好きなことができなくなっても、私は自分のことだけは好きでいようと思う。
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