山田の「空っぽ」さ
「死んだ山田と教室」を読み終わった。楽しく読めるだけではなく「陰」から「陽」になった人間の気持ちが描かれている。この作品は面白いだけじゃない。「空っぽ」になったことのある人の為の物語でもある。
読み始めは純粋に物語に出てくる登場人物たちのやりとりを面白おかしく読ませてもらっていた。
しかし、1話目の終盤から「おやっ?」と思う展開が徐々に広がっていく。これは怪しいというよりも「大きいことではないけれど、何か不穏な気配がする」程度のものだが。まぁ、それは読んでいってもらったら、わかるので割愛させていただきます。
それに今回書きたいのは感想ではないしね。
純粋に山田という人物を見て、山田の空っぽさを見て、思ったことを書こうってだけなので。
最終話。山田の科白を聞いて、ハッとしてしまった。もしかしたら、これは過去の自分が選ばなかった道の話でもあるのかもって。
過去の自分はとてもとても人見知りで人と喋るのも苦手だったけれど、小学校で多少は克服して人並みに明るくなっていった。しかし、中学校で何かが壊れてハブられる側の人間になった。
その時に感じてしまったことがあって「人は自分の立ち位置が少し変わっただけで上にも下にもみるものだ」と。本当に一瞬で切り替わる周りの「ニンゲン」に冷めてしまって、バカバカしくなった。そうしたら、感情が薄れていって自分が「空っぽ」になっていった。そして、周りの「ニンゲン」のことを俯瞰的に(当時の自分の気持ちで言うとだが、単純に冷めて見下していただけだったように思う)見るようになった。
全てがつまらなくて、くだらなくて、何も笑えない喜劇を見せられながら、周りに合わせて強引に嗤えと命令されているような感覚。
でも、そんな世界でも死にたくはない。けれど、いつだって消えていい。むしろ、そのタイミングが訪れるならいつだって終わればいい。
そんな思考に取り憑かれたりもしていた。
まぁ、それも色々と人と接していって回復したけど、未だに「空っぽ」には取り憑かれる時がある。めちゃめちゃ薄れていってるけどね。
だから、山田の言った科白が心に響いた。
「楽しいのは楽しい…」から続くところから全部が昔の(主に20代前半の頃の)自分に見事に当てはまって「これ、オレのことやな」と謎に感慨深くなってしまったくらいに。
そう、これは「空っぽであった」昔の自分が、丁度良いタイミングで、終わることを選べる状況に至ってしまった話でもあるのかもしれないと。
空っぽだから「あぁ、ここで終わらせたらいいんだ」という気持ちとタイミングが重なってしまっていたら、きっと、うん、そう。
自分自身も終わりを選んでいたかもしれないから。
でも、そうはならなかった僕は今もこうして息をしている。
楽しく生きている。笑って生きている。
空っぽだからこそ、色々と得られた。まだまだ空白はあって、空っぽが虚無を誘い込むけど。
それでも。
「終わり」を選べるタイミングが現れなくて良かったなと思っている。
こうして、心を動かしてくれる本に出会えたりするし、音楽にも出会えているし、「人間」にも出会えている。
それって、とてつもなくありがたいことなんだよな。
山田を読み終え、過去の自分を投影し終えたあと。
空っぽになって「それでも」生きて、色々な触れ合いを経て。歩いてこれて、良かったなーと思ったのであった