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デンマーク国王のスピーチ🇩🇰
デンマークでは大晦日に君主がスピーチを行うのが伝統となっており、多くの国民はそれを見て新たな年を迎える。昨年の初めに52年間君主を務めたマルグレーテ女王が退任し、フレデリク国王が即位した。これにより昨年の大晦日はフレデリク国王の初スピーチとなった。自分なりに訳したのでその一部紹介しながら、感じたことを書いてみたい。
新年は時の流れを明確にします。時計が12時を打つと2つの年が互いに触れ合い、終わりが始まりとなります。今夜私たちは古い年に別れを告げ、新しい年を迎えます。毎年そうしてきたように。
とはいえ変わったこともあります。私の母マルグレーテ女王にとっても、私にとっても、そして皆さんにとっても。私たちはこの考えに慣れるのに1年かかりましたが、私の代わりにまだ少し緊張している人がいることは承知をしています。というのも新年のスピーチがマルグレーテ女王以外に務まるのでしょうか?
大晦日には多くの人が1年の棚卸しをします。過ぎ去った1年から何を持っていき、これからやって来る1年に何を期待するか。私は特にある1日を持っていきたいと思います。1月14日。コペンハーゲンの街を歩いてクリスチャンボー城へ。私の母の最後の閣議。バルコニーのドアが開くまでの数分間。深い深呼吸。クリスチャンボー城の広場。目の前の群衆。私のすぐ後ろにいる家族。
一歩前に踏み出して、多くのサポート、喜び、愛に応えること。デンマーク王室の夫妻としてメアリー王妃とバルコニーに立つこと。そのすべてを受け止め、少なくとも受け止めようとし、感動し、圧倒されたこと。私はそれを持っていきます。私たちはそれを持っていきます。永遠に。本当にありがとう。
1年前、私の母は52回目の新年のスピーチをしました。それが最後となることに多くの人が驚いたスピーチ。そして今夜私は初めてのスピーチをします。何事にも始めがあり、同じくらい終わりがあります。そのような時は、他の時よりもはっきりと目立つものです。それらは人生の始まりであり、終わりであり、私たちは特別な意味を持たせます。初めての登校日、そして最後の日。私たちはその日を覚え、そして祝います。
この夏私たちの家族もそうしました。(息子の)皇太子が高校を卒業し、他の何千人もの若者たちと共に華やかな終止符を打ちました。私はこの時期が大好きです。若者たちが色とりどりの帽子をかぶって飛び出し、腕を組んで、通りや路地や浜辺を埋め尽くす時が。誰もあの押し寄せる開放感を忘れることはできないでしょう。すべての世界が開かれていて、どのドアもハンドルが回されるのをただ待っています。
若い人たちが自由になる時、それは遊びのように簡単なことのように見えます。と同時に、それとはまったく違う状況であることもあり得るのです。ある若者たちは足場を失います。しばらくの間ではなく、長い間。それが原因で病気になる人もいます。彼らは「どうして他の皆と同じようになれないんだろう?」と問いかけるかもしれません。それに答えるのは簡単なことではありません。ただ私たちは、打ち明けたり、頼れる人がいることが助けになることを知っています。私たちの近しい人は、私たちにとって最も大切な防波堤になるのです。人生に打ちのめされる時も、人生に圧倒される時も。
4人のティーンエイジャーの親として、メアリーと私は話を聞くことが有益であると学びました。決めつけずに聞くこと。即座に対応するよりも、先延ばしにすること。私たちの子供は一人ひとり違います。それは他の若者たちも同じです。すべての若者を包含する1つだけの物語は存在しません。若者がどのような人であるかを理解する最善の方法は、それぞれの若者に発言の機会を与えることです。何度も何度も、彼らは自身と他者に対する理解によって感動を与えてくれます。私の目にはかれらが勇敢に映ります。なぜなら、彼らははあえて弱さを見せ、それを強さとして捉えているからです。今日の若者たちは自分たちのために立ち上がっています。両方であることをあえてしているのです。弱さと強さの両方を。
両方、そして一方と他方。二極化が進む今、そのニュアンスは容易に失われてしまいます。線引きをすると、世界を両極端に分断してしまう危険性があります。「あなたは賛成ですか?反対ですか?」と問われます。しかし私たちはその中間にいることもあります。なぜなら私たちは物事を多面的に見ることができ、他者の立場に立つことができるからです。それは人間として最も優れた資質のひとつであり、私たちデンマーク人の得意とするところです。
私自身、他者の視点を借りて新しい視点を得ることはよくあります。それは挑戦的なことでもありますが、その人が物事をまったく同じに見ているかいないかにかかわらず、常に多くのことを得られる豊かな体験です。私たちは意見の相違によって、認識や意見を交換することを止めるべきではありません。このようなやりとりの中で私たちは歩み寄り、互いに近づくことができるのです。幸運にも私たちはこの国でお互いを信頼しています。私たちの間には強い信頼関係があります。これにより相手を敵と見る前に、仲間であると見ることができるようになるのです。
この後はデンマークを支えるボランティアへの感謝、ウクライナ情勢への懸念と団結の必要性、環境保全の重要性の話題に触れ、最後にデンマークのすべての国民に新年の挨拶を送り、スピーチを締め括った。
私としてはまず、フレデリク国王が若者に言及してくれたことが嬉しかった。スピーチにあったように、デンマークでは高校の卒業をお祭り騒ぎで祝う。卒業シーズンにはトラックの荷台に若者が乗り、爆音で音楽を流してノリノリで街を走り回る。もし日本で同じことをやれば、まっさきに迷惑行為として中止になるだろうけど。デンマークの大人たちはそれを昔を懐かしむような目で見ながら、祝福を送る。
フレデリク国王もその1人であり、若者が巣立つ姿を見るのが大好きだという。ただ、そんな可能性に満ち溢れたキラキラ見える若者だけれど、実はとても苦しい時期でもあるということを述べている。その苦しさへの答えを出すのは簡単ではないけれど、側に居て彼らの声を聴くこと、あせらずにゆっくりと。「若者は大人が思っているよりもずっと勇敢だから大丈夫」と投げかけてくれているように感じた。
そして話は二極化に移る。白か黒かではなく、私たちはグレーの時だってある。白の部分も分かるし、黒の部分も分かる。なぜなら人間には想像力があるから。それによって互いに歩み寄り、多様性を認め、共生することができる。そういうことを伝えてくれているのだと思う。
この頃、自分と違う人の意見を受け入れるってこうも難しいのかと愕然とする。福祉においても重要なキーワードである「多様性」「共生」。それを研究していながら、自分はまったく出来ていない。言うは易く行うは難しとはまさにこのことだなとつくづく感じる。
日常の小さなことでもそうなのだから、政治や争いの規模になればその溝を埋めるのは本当に難しいよなと。もう無理なんじゃないかと諦めそうになるけど、フレデリク国王は、諦める代わりに私たちには「想像力」があるじゃないかと教えてくれている。他者のことを100%理解するのは、たとえ家族であっても友達であっても不可能なこと。でも私たちは想像力を使うことができる。自分に向けていた視点をふっと相手に向けて、もっと言うと相手になったつもりで。「この人にはどういう背景があるのかな、今どんな気持ちなのかな」そう思いを巡らす時、少しだけ相手のことを理解することができる。この分断が広がる時代だからこそ、こういう日常の個人レベルでの積み重ねがすごく大切なんだと、改めて気付かされた。
来年はどんなスピーチをしてくれるのか、今から楽しみに思う。