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「空気を読む」を説明する難しさ。

先日、デンマーク人の友人と「デンマークと日本の文化の違い」について話をしている時、個人主義と集団主義の話になった。

デンマークは個人主義なのではと話してくれた。「例えば、授業のグループワークである子が参加せずにゲームをしていても、誰も干渉しない。」という。日本の場合どうだろう。メンバーや先生が輪に入るように説得をするかもしれないし、そもそもそんなことあまり起こらないかもしれない。

日本はどちらかと言えば「集団主義」なのではないかと思う。和や調和を重んじ、なるべく対立を避ける。空気を読んで、時には自分の意見や感情を抑える。

この「空気を読む」という感覚を説明するのがとても難しかった。日本で生まれ育った私は物心ついた時にはもう意識せずとも、誰に教えられずとも、空気を読むことができていた。子供のころ「KY」という言葉が学校で流行った。空気読めない人を略して「KY」。ネガティブな意味で使われ、KY認定された人は"和を乱す人"として敬遠された。少なくとも私の世代では「空気を読むこと」が自ずと身につけるべき能力の一つとして見なされていたのだ。

ここである本のことを思い出した。京都大学こころの未来研究センター教授、広井良典さんが書かれた「コミュニティを問い直す」という本である。戦後から現在まで日本社会はどのように変容し、今後どのような方向へ向かっていくのか。都市・社会保障・ケア・科学など、あらゆる視点からコミュニティのあり方について分析がなされている。中でも特に、第7章「二つの社会」という節が印象的であった。広井教授によると、この世の中には二つのタイプの社会があるという。

(a) 物事の対応や解決が、主として「個々の場面での関係や調整」によってなされるような社会
(b) 物事の対応や解決が主として「普遍的なルールないし、原理・原則」によってなされるような社会

日本はどちらに属するか。また、どちらがより"自由な社会"だと感じるだろうか...

一見(a)の社会の方が、(b)のようなルールに縛られるより、その場に応じて柔軟に対応し、自由度が高いように感じるかもしれない。

しかし、(a)の社会では確固たるルールがない分、当事者間の「力関係」や「場の雰囲気」によって物事が決められてしまう。広井教授は次のように述べている。

「普遍的な原則やルール」の存在しない社会においては、人はごく限られた範囲で感情や「空気」によって繋がるしかなくーその典型がカイシャと家族だったー、それを超えた何か(=集団を超えたつながりや原則)を見出せなくなった。

その結果、次のような弊害が生じてしまうという。

その人の年齢や性別といった”属性”がなお相当大きな意味をもっている社会でありーたとえば、ある会合のちょっとした場面で誰かがお茶を給仕しないといけないような状況になったとき、「なんとなく」女性がそれを行うのが暗黙のうちに期待されるといった小さなことを含めてー、女性の社会進出や管理職といったことがなかなか進まないのも、こうした点にひとつの実質的な背景があると考えられるだろう。
さらに日本において、労働基準法の労働時間規制などが半ば有名無実であり、先ほどの「”現場では通用しない"」といった言い回しが文字通り「現場」において力をもったり、つきあいや残業といったことを含めて、個人のよい意味でのドライな行動がなかなか浸透せず、結果として労働時間が減らないのも、(a)のような行動パターンが強いことに根本原因があるといえるだろう。

ー日本はまさに(a)の社会に属する。

家庭、学校、職場...あらゆる人間関係の場で、この重苦しい空気が私たちにのしかかる。目には見えないし、誰も口に出さない。でも確実にそこには「空気」が存在している。

それならば一層はっきりと「女性がお茶汲みをすべし」「残業しましょう!」とルールで明示される方が楽なのかもしれない(もちろんそんなこと絶対にあってはならないけれど)

ーデンマークはどちらかというと(b)の社会ではないかと思う。

デンマークでも「女性が家事をする」と言った性別役割分業が完全になくなっているわけではないが、だからこそある程度強制力をもって、男性の育休取得や男女共同参画を推進している。残業に関しても、自分の仕事が終われば帰るし、子供のお迎えがあれば早退する。

そんなデンマークにおける「普遍的なルール、原理・原則」と言えばキリスト教は間違いなくその一つであると思う。加えて「平等」や「連帯」は国民全体で共有されている原理原則。それも取って付けたようなものではなく、長い歴史の中でこれらの原則を確固たるものにしてきた。

だからこそ、デンマークは「個人主義」でありながら、社会全体には「連帯感」がある。これこそ"集団を超えたつながり"といえるだろう。

もちろん、どちらの社会にも良い面悪い面があって、一概にどちらが正しいとはいえない。(a)の社会では「空気」のおかげで人間関係やコミュニケーションが円滑に進むことがたくさんあるし、もし(b)の社会で共有されている原理原則が道徳的に誤っていたら...?

でも私は文化を比較する意義はここにこそあると思う。良し悪しといった二項対立で考えるのではなく、相手の文化のあり方を知って、自分の文化のあり方を再発見する。そうすることで両方の文化を受け入れられるようになる。

正直に言うと私は空気を読むことにうんざりすることもある。正直疲れる。でも今回の友人との対話を通じて、良い本に出会って、そんな文化に折り合いをつけることができた気がする。この文化の良い面にも目を向けられた。

そこで今一度考えたい。私としてはどちらのコミュニケーションが心地よくて、相手にとってはどうだろう?日本全体の文化として、そしてそれを構成するほんの一人の人間として。


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