私から年齢を奪わないで【バリバリ老いる⓺】
落合恵子氏を、久しぶりでTVで拝見した。
77歳、活動的で、お元気だ。
お母様の思い出を語る中で
「自分の人生は自分で決めなさい」
幼い頃からそう言われていたと言う。
前向きで、生きるための推進力はお母様のそんな教えがあったのかと思わされた。
さて、
落合氏はメイ・サートンというアメリカの作家と、その言葉を番組で紹介した。
それがタイトルにも使った言葉だ。
ちょうど老いと向き合っている自分には、とても印象的な言葉だった。
ややもすると「老いる」ということを人は恥ずかしく思う風潮がある。
自分の年齢を問われ、言い淀むことがある。
自分が重ねてきた年齢を答えるのが恥ずかしいという感覚はよくわかる。
でも一方では、そんな感覚こそちょっと違うかな、という思いに好感を覚える。
特に日本人。
なんて言い切れるほど私は国際人ではないが。
しかし、深く考えてみるまでもなく、誰でも1年生きれば1才年齢が増える。
昨日生まれた赤ん坊でも、小学1年生でも、30代でも、40代でも、(もっとやる?)
例外なく誰でもだ。
そんなシンプルな加算方式で、人は歳を重ね、生きてきたし生きている。
その1年1年で何かしらを学び、経験値を上げてきた。
加齢に伴い、確かに今まで出来ていたことがだんだん出来なくなってくる喪失感はあるかもしれない。
しかし年を重ねて獲得してきたものは、重ねた年齢があればこそだ。私が今私であるのは、年齢という時間があったればこそ。
加齢に伴うネガティブな発想や表現こそ手放してよいものだと思う。
ちょっと先に生まれたか、最近生まれたかで年齢の違いがあるだけだ。
年を重ねて生きてきた中で、私は私に成長してきたんだ。
いつでも年を取るのは別の誰かで、いつでも死ぬのは私以外の特別な人。
そうではないことはみんなが知っている。
だけど普段はそんなこと考えないんだ。誕生日が来たら2、3個まとめて歳を取るわけじゃない。
人はたいてい一個ずつゆっくりと歳を重ねるから、いつのまにか積み重なっていく。
そう、気が付かないうちにね。
奪われたくないものは、私が生きてきた証の「年齢」。
手放すべきは加齢に伴うネガティブな発想や表現。
「年は取りたくない」
「年寄りの冷や水」
「もう年だから」
「もう若くないから」
そんなものは可燃ごみの日に出してしまおう。
いや、燃えないごみの日かな?
兎に角、手放す❗️
この言葉に出会うことができて良かった。
メイサートンに、是非会いに行きたいと思います。
貴女の生きた証を、その言葉に込められた思いを、詰め込まれた書籍の中に探したい。
貴女が残し、生き残ってきた言葉たち。
貴女が生きた時間を共有し、重ねた年齢で得た知恵を腑分けしてもらいたい。
メイ・サートン
May Sarton
1912-1995。ベルギーに生まれる。4歳のとき父母とともにアメリカに亡命、マサチューセッツ州ケンブリッジで成人する。一時劇団を主宰するが、最初の詩集(1938)の出版以降、著述に専念。小説家・詩人・エッセイスト。日記、自伝的エッセイも多い。邦訳書『独り居の日記』(1991)『ミセス・スティーヴンズは人魚の歌を聞く』(1993)『今かくあれども』(1995)『夢見つつ深く植えよ』(1996)『猫の紳士の物語』(1996)『私は不死鳥を見た』(1998)『総決算のとき』(1998)『海辺の家』(1999)『一日一日が旅だから』(2001)『回復まで』(2002)『82歳の日記』(2004)『70歳の日記』(2016)『74歳の日記』(2019、いずれもみすず書房)。
『82歳の日記』もあります。
是非読みたいです。