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会いに来てくれた神様

一昔前、「会いに行けるアイドル」が一世を風靡し、その後も枝葉が分かれてアイドル人口密度たっか!なご時世ですが、失顔症につきもうナニがナニやらでございます(;´Д`)
とりまコッチ置いといて。今回は自身とキリスト教なお話。

童の頃より宗教には無関心で、実父が他界した折に初めて○○宗△△派だというのを知ったという体たらく。
ただ、無関心でも無関係ではなく、親戚の葬儀やら法事には普通に出向いておりました。
一昔前の田舎の法事は、単なる節目というだけでなく、親戚を大勢招いてのビッグイベントで、法要後は親戚揃って飲めや歌えのドンチャン騒ぎ+お土産付き。
当然、招いた側はおっとろしい出費で、お供え金では賄えない大赤字。
更に焼香の順番が〇〇より先だったor後だったで長年揉めるオチ。
よそは知らんがウチの田舎はこれがデフォで、ガチでオオゴトでした。
流石に、最近は親族も減り、すっかり疎遠になりましたが。

この節目イベントに、いつからか芽生えた違和感。
故人を偲ぶのに形式て必要?イヤ仏事てのはそういうもんなんだけど。
念の為、仏教そのものを否定するつもりは全く皆無です。ウチ実家と宗派の異なる、義父母の菩提寺の住職サンは、2代に渡る親しく長いお付き合い&とても優しく素晴らしいお坊さんで、ガチ尊敬しております。

宗派の違い、信仰度の違い、肌感覚、温度差etc
コレ突っ込むとほんとキリが無い。

そんな折、プロテスタント信者の同僚と雑談する機会があり、キリスト教の節目イベント云々は?な疑問をサラッとぶつけてみた。すると、

「節目アレコレは無くて、もしやりたければ、希望者のみ集まって”偲ぶ会”的なのをする…んじゃね??シランケド」

要は、死生観は至ってシンプルで、天に召された後は神様の御国で永久に生きるポジティブシンキング。
キリスト教をぼんやり知ってはいたけど、聞けば聞く程ポジティブで、災難があっても、後に必ず益にリサイクルされる救いのシステム←

そしてトドメはイザヤ書43章4節

「わたしの目にはあなたは高価で尊い わたしはあなたを愛している」

ASD、失顔症、クドい拘りetc、常に発達障害コンプがございました。
なぜ定型発達でないのか、なぜこんな自身なのか。
周囲と距離を取り、最低限のコミュニケーションは能面メンタルでやり過ごすのがデフォでしたが、この御言葉が脳天直撃。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」
マタイの福音書11章28節

この御言葉で生きて行けます。
聖書の御言葉の数々は、常に生活の生きた指針。
そんでイエス様は畏怖して見上げる神ではなく、降りてきて側にいて下さる神様。
「会いに行けるアイドル」ならぬ「会いにきてくれた神様」です。
握手ではなく手を引いて下さる。
信仰を持たなかった自身ですが、新たな生きる道筋を得ました。
ズィっと距離が近くなり、只今絶賛求道中に至ります。
目指せ洗礼。

頑なになってはイカンのだけれども。
頑なになってでも守りたいのが信仰。
ハレルヤ!( ゚∀゚) アーメン!

「主が私の手を取って下さいます どうして怖がったり逃げたりするでしょう 新聖歌474」


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