余白の心地悪さを受け入れる

最近、、でもないが、
予定に「余白」を作りましょう
というものが流行った気がするのは私だけではないはず。

スケジュールではないけれど、
「サレンダー」なるものが進めば進むほど、「余白」というものが自分の中にどんどんできてきて、それこそ、人間関係の整理なんぞと言い出すと、ぽっかり穴が空いたような気がするわけで、慣れない感覚に戸惑いがあったのは事実。
思い返せば、物心ついた頃からインプット多めの世界に生きてきて、「余白」なんて概念ないに等しかったし、そもそも、「余白」ができたら次々と色んなものを詰め込んできた数十年…
ぽっかり空いた穴の居心地の悪さったらないわけで。

それでも。
「余白」を余計なもので埋めることはなくなった。その分、無意識の執着にしがみついていたことに気がついたこの連休。
執着を手放すことでますます「余白」に拍車がかかり、さらなる居心地の悪さにぞわぞわしつつ、それを俯瞰して見られるようになったこの連休。そんな話を書こうと思う。

連休前に、何となく、本当に何となく、心のやり場のなさを感じていた私。連休であることをいいことに、盛大に向き合ってみることを決意。私の場合、通勤路とかあさんぽとか、とにかく歩いている時に何気ない気づきを得ることが多く、その日もいつもどおり、あさんぽに出かけて家まであと十数分までの距離に来ていた時だった。
さみしい
虚しい
やるせない
がんばらなきゃ(認められない)

などと出るわ出るわの私の感情。その感覚を否定せず、湧き出る感情のままひとつひとつ丁寧に全身で味わっていた。
普段だったら、心地悪さを見たくなくて、とっとと受け流してしまっていたのだろうけど、とことん受け止める覚悟をしてひたすらに味わった。
そこで気づいたことには。わざわざその居心地の悪い感覚を自分自身で握りしめていたということ。それを手放してしまったら、(私にとって)もっと居心地の悪い「余白」ができてしまうから。新しい(余計な)ものを入れない代わりに、しがみついていたものを増幅させることで余白を埋めていたのかもしれない。
そんなことに、気づいてしまったら、手放すしかないじゃないか!
ということで、味わい尽くしてキラキラワークでどんどん手放し。こればかりは体感覚なので、言葉にすることも難しいけれど、肩の詰まりとか、岩みたいな胸のつかえとか、順番に少しずつ溶かしていくように手放す。
肉体の滞りが解けてくると、何を握りしめていたのか気づくことも多く、更にその感覚を味わっての繰り返し。
連休が終わろうとしている今、私に何が残っているのか、何も残っていないのか分かる由もないけれど、できた余白は余計なもので埋めずにただただ居心地の悪さを味わって、流れに身を任せてみようと思う。
それが私の新たな挑戦なのかもしれない…

いいなと思ったら応援しよう!