ホンダのzoomer
コミュニティを通してすでに夫のことを聞いていたマスターは私の顔を見るなり、ただうなずいて私をカウンターの席につかせた。
マスターの言葉に頼らない優しさが心に沁みた。
黙ってコーヒーを淹れてくれて、目の前に差し出してくれた。
夫がいつも飲んでいた、サントス豆のコーヒーは柔らかに口に広がり、すーっと食道を通って空っぽの胃に入っていくのがわかった。
「奈美ちゃん、大変だったな。」
マスターが絞り出したその言葉に涙が溢れ、コーヒーと共に涙も飲んだ。
「いい奴はみんな早く行っちまうんだよ。本当、みんなそうだよ。」
「彼はいつからマスターのところに通っていたのですか?」と私が聞くと、
「いつからだろうなぁ。ここらへんに住みだして割とすぐからじゃないかな。人懐っこい笑顔で毎日くるかと思えば仕事入ると3ヶ月くらい全くこなかったり。だから信じられないよ。またちょっと経ったらふらっと入ってきそうだよ。」
マスターはドアの方を見つめながら言った。
「あいつさぁ、最初の頃ホンダのzoomerっていうバイク乗ってたの知ってる?」
付き合っているころ、マスターに紹介してもらったディーラーで車を買ったのは知っていたが、バイクに乗っていたのは初耳だった。
「そうなんですか?知らなかったです。」
「そのバイクが壊れてさぁ、それで相談乗っているうちに仲良くなったんだよ。」
結婚する前の付き合いが5年、結婚して12年経っていたから、彼のことはなんでも知っていると思っていた。私が知らないそんな彼がいることを彼が亡くなった今知れたのはなんだか不思議だった。
彼について知らないことを知れたのは嬉しいようで悲しく、複雑な気持ちが胸を締め付けた。
M、あなたのこと、もっと知りたかったよ。
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