過去が笑える未来を
初夏の陽気に包まれ、四十九日の法要は優しくあたたかなOさんのお経に乗って滞りなく進んで行った。
また一つの節目を終えて、夫の死が確かに世界に刻印されていくようだった。
狭い家に親戚一同が集まり、夫が子供の頃の写真やビデオを観て、みんなで夫の話をした。
時間の仕業だろうか、悲しみはまだ全員に重くのしかかっていたけれど、葬儀の時とは違った、穏やかな時間だった。
その分、みんなが帰ってしまうとなんとも言えない寂しさが襲ってきた。
私は居た堪れなくなり夫の部屋へ行き、彼の断片を求めて再び机を物色した。すると、黒いカバーの小さなノートが出てきた。
まだ付き合っていた頃、一度、1年間別れていたことがあった。
3年付き合っても結婚からはどこまでも逃げるような彼の姿勢に業をにやした私が別れを切り出し、別れていた頃に彼が書いていたノートだった。
別れて初めて彼は私に弱さを見せるようになっていた。
そんな弱さに徹底的に向き合った跡がノートの端々にあった。
「俺、A()Cだから」とはにかみながら別れている間に一度会ったときに照れるように言っていた彼を思い出した。
ぐちゃぐちゃの流れるような文字でたくさんの後悔や懺悔、本や映画の感想、気づきや洞察が至る所に散りばめられていた。
初めて知るその姿がとても愛おしかった。
ノートを一ページ一ページ眺めていると、こんなページがあった。
聖フランチェスコ「平和の祈り」
慰められることよりも、慰めることが
理解されることよりも、理解することが
愛されることよりも、愛することができますように
なぜなら、与えることによって与えられ、
自分を捨てて初めて自分を見出し、
許すことによって許され、
死ぬことによって
永遠の命を与えられるからです。
その次のページに、水色の正方形の付箋メモに
二人で照らしていきたい
過去が笑える未来を
あなたにあげたい。
ます。
と書いてあった。
愛おしくて苦しくて、私はノートを抱き締めた。