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ある歌い手の独白

悔しい。
舞台を降りたあとに湧き上がった思い。泣きそうだった。7月からずっと、この日のために練習してきた。たった25分のために半年間練習し続けてきた。
それなのに、思うように歌えない。それが堪らなく悔しい。悔しい。悔しい。

ソプラノ転向から1年。
慣れない音形にブチギレし、高い音にハードルを感じ、主旋律に怯えていた。
アルトに戻りたいと何回だって思った。戻る場所ないけど。我が団はアルトが充実してるんです。それをありがたいことだとも思うし、寂しいとも思う。

なんなら、ソプラノアレルギーでもあったのだろうか。あまりにも歌えなさすぎて、音の列がプツンとちぎれた気がした。音を口から出しても繋がらない。音の粒が空間に舞う。ただそれだけだった。それは、歌ではない。音楽でもない。音の粒だ。それが、とても悲しかった。悔しかった。自分に歌う資格などない気がした。
そこから、1ヶ月。指揮者に無理を言って練習を休んだ。休まないと生きていけなかった。音楽を嫌いになるとかそういうことではなくて。
うまく歌えない自分が嫌で嫌でたまらなかった。

1ヶ月の長期休暇から復帰した時は、そもそも歌えるのかな、なんて弱気だった。練習に行くことすら怖かった。大丈夫かなと震えた。
予想に反して、息は吸えたし声はでる。口から紡がれたものは、流れにのった“音楽”だった
ほっとした。
何より、歌っていることが楽しい。曲を創ることに対して、ワクワクする。私には、やっぱり音楽だなぁとしみじみ感じた。

あとは、練習あるのみだった。
指揮者から紹介して頂いたソプラノのボイストレーナーさんのところに通った。
先生の歌いマネをしながら、高音に必要なブレスや筋肉の使い方を実践。けれど、足りないものを補うよりも、結局心理的に手放すことが必要なのだと感じた。
私にとって必要だったのは、「綺麗に歌おうとしないこと」だった。周りを気にしないことだった。
──のびのびと歌えばいいんだよ。
ボイストレーナーの先生はそう言って笑っていた。

舞台袖でスタンバイしている時。どういうわけか、歌うことに対しては緊張しなかった。
いつも以上にフラットだった。みんながいるから大丈夫。そう思っていた。


舞台袖から見るステージ


舞台に立っても、冷静だった。
客席も指揮者もきちんと見えていた。けれど、ブレスが思った以上に浅かった。声をもってしまった。身体が使えていなかった。
全体的な演奏としては、自分たちらしい演奏ができた。でも、個人としては悔いが残る舞台だった。

悔しい。本当に悔しい。
泣いても笑っても舞台は一度きりで。同じ舞台なんで二度と来ない。だから、いつも全力でぶつかっていく。
それでも、もっとできたのに。100%の力が発揮出来なかったと嘆いてしまう。
そんなすぐにボイトレの成果を100%出せないよ、と周りに言われるけれど、確かにそうだけど、もっと自分は空間に音楽を羽ばたかせることができるのに。

次の舞台は5月。
私は私の音楽を、みんなでみんなの音楽を奏でられるように。
ただひたすらに努力を重ね続けていく。

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