【連載小説】「春夏秋冬 こまどり通信」第十話(最終話)
それから、一緒にホットケーキを焼きませんか、と私は提案した。
私がこの家に来た小学一年生の時、林檎の絵を描くことの他にもう一つ、ちーちゃんは「悲しみを乗り越える方法」を教えてくれたのだった。
大きな調理ボールに卵を六つ、牛乳を一カップほど入れ、卵をよく溶きほぐして。そこに、ホットケーキミックスを三袋分を加えて、ボールの中でさっくりと混ぜ合わせる。
「卵を六つも入れるのですか?」
スーツのジャケットを脱いだ宇久井さんは、ちーちゃんの水玉模様のエプロンを身につけてコンロの前に立っている。ホットケーキは息子さんのために時々作るそうで、熱したフライパンを濡れたフキンの上で一度休ませて、適温になるよう冷ましてくれた。
「今日は特別なホットケーキなので、卵はいつもの二倍入れるんです。黄身が太陽みたいだから元気になれるんだって、先代の受け売りなんです」
「太陽か。確かに、元気になれそうだ」
私は、フライパンをコンロの火の上に戻し、薄く油をひく。
それから、調理用お玉じゃくしを、宇久井さんに差し出した。
「宇久井さん、ぜひ、タネを落として焼いてください。そして、思っていることを心の中で唱えながら、その生地と向き合ってみてください」
「思っていることを唱えながら?」
「そうです、どんなことでもいいんです。人に言えない秘密でも、誰かの悪口でも、呪いの言葉でも」
「うわぁ、何だか不吉だなぁ」
「ふふ、心配はいりませんよ。卵もたくさん入ってますし、食べる前には、バターも蜂蜜も増し増しにするんです。こんな甘くてカロリーの高いもの、不吉なものになるはずがありません! だからこそ、焼けるまでの間に全部吐き出してしまうんです!」
私がお玉じゃくしを高らかに掲げると、宇久井さんは「なるほど」と言って笑った。
神聖な儀式のように、宇久井さんがフライパンの上に丁寧にタネを注ぐ様子を、私は少し離れたところから見守っていた。
片面にふつふつと小さな穴がいくつも現れて、だんだんと生地が焼けていく様子を、宇久井さんは祈るように見つめている。
まだホットケーキを焼くことができなかった幼い私の側で、ちーちゃんもこんな風に祈りながらフライパンと向き合っていた。
あの頃の私は、お母さんのことが許せなくて、悲しくて、世界で一人ぽっちになってしまったような気持ちでいっぱいだったけれど、そんな気持ちをちーちゃんは私の代わりに全部ホットケーキに注いでくれたのだった。
繰り返し、繰り返し、何枚も、何枚も、ふんわりとした黄金色の円盤を焼いて。
怒った時や落ち込んだ時に行うこの儀式は、辺り一帯を甘い香りで包んで、どんな心の角も魔法のように丸くしてしまう。
「はい、一枚焼けました。次は、先生がどうぞ」
柔らかく微笑む宇久井さんからお玉じゃくしを受け取ると、今度は私がフライパンの前に立つ。
私は心の中でちーちゃんに語りかけながら、焦がさないようにゆっくりと、小さな炎で生地を焼いた。
忘れていた彼女の言葉一つ一つに、丁寧に返事をするように。
「父が僕をここへ寄越した理由が分かりました。実は、父の視力は段々と落ちているんです。母に会いたいとは決して言わないけれど、今の内に母の姿をどうしても見ておきたいと願ったんです」
焼いたホットケーキを一枚ずつラップで包んでいると、隣のリビングから声がした。宇久井さんは、ちーちゃんに挨拶がしたいと、先ほどから写真の前で語りかけていた。
「十年前、あなたが母の絵を捨てるのを止めてくれたから、父も、僕も救われました。母の絵を大切に持っていてくださって、本当にありがとうございます」
台所から様子は見えないけれど、ちーちゃんはきっと、いつもの笑顔で応えているはず。預かっていた絵をようやくお返しすることができて、安心しているに違いない。
「宇久井さん、ホットケーキのお持ち帰りの用意ができました。一枚ずつ包んでありますので、食べきれない場合は冷凍してくださいね」
「ありがとうございます。何日かに分けて、ゆっくり食べることにします。もちろん、バターと蜂蜜をたっぷりかけて」
宇久井さんの焼いたホットケーキを皿にのせ、バンダナで包んだものを紙袋に入れて手渡す。
焼きたてを食べるのが一番美味しいけれど、今日はクリスマスイブ。
家で家族が待っているのです、と言って、宇久井さんは夕方にはここを出ることになった。
「先生、申し訳ないのですが、やはり、シャンパンはお受け取りいただけませんか。絵とホットケーキで両手が塞がってしまって。それに、何かお礼をしないと気が済みませんので」
「分かりました。では、ありがたく頂戴いたします」
「実は、叔母もお酒が好きなので、喜びます」
とささやくと、「それはよかった」と宇久井さんもちーちゃんの写真の方をちらりと見て、目を細めた。
庭の石畳を歩いて、二人で空色の門を出ると、五時前だというのに日が落ちかけている。
私は忘れないうちに、宇久井さんに「百合の花」の下絵を描いた紙をクリアファイルに挟んで渡すことにした。
「あの、よかったら、気が向いた時にでも色を塗ってみてください。ホットケーキが焼けない時も、色鉛筆を塗っていると心が落ち着くので」
「先生、ありがとうございます。今日のために用意してくださっていたのですね。百合は、母が好きな花なんです。色を塗ったら、母にプレゼントしてみようかな」
「ええ。きっと喜ばれます!」
宇久井さんは、右腕に紫色の風呂敷を大切に抱えて、左手にホットケーキとクリアファイルを入れた紙袋をぶら下げて。少し猫背だった背中は、いつの間にかまっすぐ伸びて、視線は道の先を向いていた。
「よいクリスマスを」
そう言ってお別れをすると、道の角を曲がって姿が見えなくなるまで見送った。商店街から聞こえる「ジングルベル」の鈴の音が、しんと冷えた空気に溶け込んでいく。
『こまどり色鉛筆絵画教室 また明日』
門にかけてある表札プレートを裏返すと、
「まいど」
と、カワやんの声がした。
「カワやん、仕事はもう終わり? 早かったね」
振り返ると、彼はいつもの藍染のエプロン姿でも、サンタクロース姿でもなく、珍しく私服だった。紺色のダッフルコートの首元には橙色のマフラーが巻かれていて、こまどりの顔みたいに鮮やかな暖色が夕闇に浮かんでいる。
「ちどりの紹介で白石さんもバイトに入ってくれたし、早く行けってうるさくて……」
カワやんが突然、私の顔をじっと見た。
「何?」
「ん。何か、顔変わったな、と思って」
「え、どこが?」
「ちょっと、スッキリした感じ? 春からずっと、小学生の頃の『いい子ちどり』の顔してたから」
「何それ」
「千鶴さんに心配かけないための無理、っていうか。人生結構ハードボイルドなのに、あえて平気な顔するようにしてるっていうか。そういうのが、ちょっと抜けた気がする」
カワやんは、時々どきっとさせることを言う。
「まあ、一人も慣れたしね」
「一人じゃねえだろ。ほら」
カワやんが持っていた大きな紙袋の持ち手を開くと、中にはクリスマスカードと、たくさんの美味しそうな料理が詰まっていた。
「カードが、凛と椋から。サンドイッチが、赤羽さんと目代さんからだろ? サラダはバイトの白石さんからで、予定より豪華なケーキは隣町の江永さんから。みんな、ちどりにって注文してくれたんだ。あとは、この前予約してもらったチキンもある」
「ねえ、これは?」
色とりどりの賑やかな世界の中に、一つだけシンプルな包装の四角いものが控えめに忍ばせてある。食べ物ではなさそうだけれど……。
「……それは、後でいいよ。冷めちまうから、早く食おうぜ」
「そうだ。あとね、シャンパンとホットケーキもあるの」
「ご馳走だな」
「だね。こんな華やかな食事、久しぶり。みんなの愛が詰まったプレゼントを届けてくれたカワやんは、サンタさんだ」
「はは、サンタくらい、何年でもやってやるよ」
その夜、カワやんは私に、クリスマスプレゼントを贈ってくれた。それは、ちーちゃんの「こまどり通信」と同じ蜜柑色をしたノートだった。
表紙を開くと、最初に「あなたの叶えたい夢は?」という欄がある。
私はボールペンを手に取ると、こう書き込んだ。
【春になったら、この場所で「こまどり教室」の展覧会を開くこと】
今通ってくれている生徒さんにも、以前に通ってくれていた生徒さんにも声をかけて、お気に入りの作品を飾ってもらおう。
ちーちゃんのいたこの場所で、誰かへの思いも、悩みも、懐かしい思い出も、絵に込めた気持ちを大切に抱きしめてほしい。
洋館をみんなの作品で埋め尽くして、春が来たことをみんなでお祝いして。
屋根裏のアトリエには、ちーちゃんと私の作品をたくさん並べて、これまでの私達を自由に見てもらおう。
さて、私は春に向けて、新しく何を描こうか。
風景もよいけれど、私達を繋いだのは、やっぱり食べ物だ。
桜餅、林檎、素麺、葛湯にホットケーキ。そうだ、色んな具の入ったおにぎりもいいかもしれない。
テーブルの上に美味しいものを並べたら、その先に浮かんでくるのは、あなたの笑顔。
私は、ありのままの姿であなたと向き合って。
三十六色の色鉛筆で、ありったけの「愛してる」を伝えよう。
(了)
最後までお読みくださり、ありがとうございます☺
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