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【掌編小説】「ワタシ」の在りか

『婚姻届の証人を誰にするか、そろそろ決めた?』

 本日二度目の同じメッセージを送って来たのは、婚約者のタカアキだった。
 婚姻届の提出日にしようと決めた1月31日が来週に迫り、いまだ婚姻届の証人欄を埋めようとしないわたしに、結婚する気がないんじゃないかと、ささやかな疑いを向けているようだ。

 以前の婚姻届は、証人欄も必ず直筆である必要があったけれど、今はメールで送付した書類データに電子署名をしてから送り返してもらえばいい。婚姻届の提出も役所へ24時間電子送信が可能なのだから、まだ焦る必要はないのに。

「わざわざチャットで急かさなくてもいいじゃない」
 独り言は、これから二人の寝室となる部屋のくうに消えた。

 BGM代わりにテレビをつけると、早速1Kのアパートから運んできた段ボールを開けて、有斐閣ゆうひかくの『ポケット六法』を備え付けの棚に並べていく。
 タカアキは「そんなもの、寝室に持ち込むなよ」と文句を言ったけれど、これが側になければ眠れないのだから仕方がない。
 
 
 元はと言えば、『ポケット六法』を集め始めたのはパパだった。
 10年前に何を思い立ってか、法学部のある大学の通信教育課程に入学すると、課題に必要だと言って毎年秋に『ポケット六法』を購入するようになった。

 働きながら4年かけて大学で学び、ようやく卒業しようという、その年に──。
 
【もう誰にも所有されたくない】

 パパは、そんな紙きれを残してどこかへ行ったきりになった。

民法 第85条
この法律において「物」とは、有体物をいう。

 

 
 紙切れが挟まっていたのは、『ポケット六法』の民法85条のあるページ

 いつの日か、
「僕ら一人ひとりに民法上の所有権が認められるのは、原則的に『物』である有体物。つまり、手で触れられるものに限られるんだよ」
 と、パパが見せてくれた条文のある場所だった。

 あの日、部屋に散らばったパパの会社用の名刺を眺めながら、わたしの頭にぼんやりと浮かんでいたのは、その時の言葉だ。

 忙しくし過ぎて、何だか自分をタダで切り売りしているみたいな気持ちになったんじゃないかな。
 人は「物」ではないのに、そう思わずにはいられない何かが仕事であったんじゃないかな。

 それ以外に、理由なんて思いつかなかった。

  パパがいなくなってからも、わたしは『ポケット六法』の続きを買い続け、民法85条を見守っている。
 過去には「120年ぶりの民法大改正」と騒がれた年もあったけれど、変わったのはほんの一部で、民法はわたしに「物」以外の所有の権利を認めることはなかった。

 「パパは、今も所有されたくない?」
 わたしは小さな紙に「松崎優花」と丁寧に書いてから、4つ折りにして掌の中にしまう。   
 来週には変わってしまうパパと同じ苗字を、密かに「所有」した。

  その時、スマートフォンが机上で震えて、タカアキのメッセージを連続して待ち受け画面に浮かべる。

『もうお義姉ねえさんでいいんじゃない?』
『ただの電子署名じゃん』

  返信する気にもならず、スマートフォンの電源を切ろうとすると、テレビから拍手の音が聞こえてきた。

 「105歳、おめでとうございます! まだまだ元気でいてくださいね」

 ローカル局の情報番組で流れていたのは、市長から長寿を祝われたおじいさんが、恭しく賞状を受け取る場面だった。
 どこか他人事の顔をしたおじいさんは、紙面に書かれた名前を見つけると目尻に皺を寄せる。 

──ああ、そうか。
 データ通信が当たり前となったこの世界で、おじいさんもようやく、「ワタシ」に触れられたのだ。


 (了) 



秋ピリカグランプリ2024の応募用にと
先に書き始めた物語でしたが、
どうにもまとまらず。


所有権については、民法206条に
「所有者は、法令の制限内において、自由にその所有物の使用、収益及び処分をする権利を有する。」とあり、
「物」の要件のひとつが有体性(民法85条)とされています。
また、刑法上では電気は財物とみなされていたり、
法律によってはプログラムなどの無体物を「物」としていたりすることもあります。

婚姻届は証人含め自筆・直筆であることが必要であり、
この物語は創作です。


※ヘッダーは、写真は呼吸 <こさいたろ>さんの作品をお借りしました。


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