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【連載小説】「春夏秋冬 こまどり通信」第二話(全十話)

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「どうしたの⁉」
 応接間に駆けていくと、目を覆いたくなるような情景が広がっていた。
 凛ちゃんは座布団の上に座ったまま泣きじゃくり、椋くんは壁に茶色いクレヨンで何かを書き殴っている。丸テーブルに置きざりにされた画用紙は、茶色と緑色と赤羽さんのピンク色の髪がごちゃまぜになって、もはや二人が何を描いていたのか分らない。

 二人のクレヨンの争いは画用紙の枠を飛び越えて、丸テーブルの上へ。そして、椋くんはそれでも足りずに、勢いのまま壁まで飛び移ってしまったようだ。凹凸のある白壁にぐりぐりとクレヨンを押し付けて、今も熱心に手のひら大の楕円形を描いている。

「どうしよう……」
「ちどり、お前は凛の方へ行け。俺は、椋の方に行くから」
 私を追いかけて、カワやんがすぐ後ろに来ていた。カワやんは椋くんに駆け寄ると、小さな雛鳥をお腹の下に隠す親鳥みたいに、大きな身体で椋くんを包み込む。
 私も泣き続ける凛ちゃんのところに走って、すぐに身体を抱きしめた。

「椋。俺のことが分かるか? 『河瀬商店』に、母さんとよく一緒に来てくれただろう? もう大丈夫だ。落ち着いて、深呼吸しような」
 カワやんがゆっくりカウントし始めると、椋くんの両手がカワやんのTシャツの背中をきゅっと掴むのが見えた。

「凛ちゃん、ごめんね。千鶴先生なら絶対に二人の側にいたはずなのに、だめな先生で、ごめんね」
 腕の中で、小さな胸が短い息に合わせて上下する。
 ちーちゃんが「こまどり教室」を個人レッスンだけにしていたのは、世の中と切り離されたこの静かな洋館で、光や風や季節の香りを感じながら、思いのままに過ごしてもらうためだった。
 それは、大人だけでなく、子ども達も同じ。だから、ちーちゃんは「子ども心理学」や「色彩心理」についても勉強していた。

 私は、「こまどり教室」再開初日に、ちーちゃんの大事にしていたものを壊してしまった。見切り発車でちーちゃんの真似事を始めて、無垢な子ども達を傷つけてしまった。

「ちどりちゃん、ちづるせんせいは、いつかえってくるの?」
 泣きべそをかきながら、清らかな瞳が私を見る。
 そうだね。早く帰って来てくれないかな。
「ちどりぃ、どんな生徒さんでも、ちゃんと話を聞かないとだめじゃない。あんたは模写は得意だけど、うまく描くだけが絵じゃないからね」
 そんな風に、また叱ってくれないかな。

「凛ちゃん、椋くん、こんな先生でごめん……」
 窓から吹く風は、いつの間にか夕方の気配を含んでいる。肌寒い風が小さな身体を冷やさないよう、一層腕に力を込めた。
 カワやんの数を数える声だけが、密やかに繰り返される。それに合わせて、私もゆっくりと、ゆっくりと深呼吸した。


 赤羽さんが、椋くんと椋くんの叔母の北来さんを連れてやって来たのは、その夜のこと。

「先生、本当に申し訳ありません! これ、つまらないものですがっ……!」
 開口一番にそう言いながら、北来さんは玄関前で腰を直角に折って頭を下げる。腕をまっすぐに伸ばし、商店街にある「ときわ堂」という和菓子屋さんの紙袋を差し出した。
 仕事を終えて、すぐに駆け付けたのだろう。彼女の身につけた白いワイシャツとグレーのジャケットの襟元は、汗と蒸気ですっかりくたびれてしまっていた。

「北来さん、どうか頭を上げてください。お詫びしなければいけないのは、私の方なんです。少しの間だからと、私が目を離してしまったのが悪かったんです!」
「違うのよ。『ちょっとだから』と、ちどりちゃんに子ども達を押し付けたのは私なの。北来さんと約束したのは私なのに、本当にごめんなさい!」
 私と赤羽さんも順に頭を下げると、三人で頭を突き合わせた形になった。

 暫くの間、沈黙が流れる。誰も何も言わず、椋くんだけが大人達の顔を心配そうに見回している。
 あまりの沈黙の長さに、最初に笑い出したのは、赤羽さんだった。

「……あはははは! みんなで謝りあってたら、頭を上げるタイミングが分かんないじゃない!」
「赤羽さん! 北来さんに失礼ですって!」
「いいんです、いいんです! 私も頭を上げるタイミングが分からなかったから、助かりました」
「ほら、ちどりちゃん、とりあえず手土産を受け取ってあげなさいよ。北来さんが困ってるわ」
「……はい。では、ありがたく頂戴いたします」
「先生、受け取ってくださって、ありがとう」

 紙袋の持ち手は、きつく握られていた分、くたっとしなびている。けれど、その分、北来さんの温かさは十分に伝わってきた。

「あの……、凛ちゃんはその後、具合はいかがですか。椋が泣かせてしまったようで」
「もう、全然元気よ。落ち着いてから、椋くんとちゃんと仲直りできたしね。今は安心して家で寝てるわ」
「そうですか……。よかった……」
 赤羽さんの言葉を聞いて、北来さんは「ほおっ」と息を吐く。

「先生、あの、椋が汚してしまった壁やテーブルなのですが、こちらで清掃業者を手配させていただきますので、ご都合を伺えますでしょうか。もちろん、その他にも何か壊してしまったものなどあれば、できる限りのことをしますので」
「それは、いいんです。消す必要はないですから」
「えっ」
 北来さんは「そんなことがあるはずはない」と言いたげに、何度も顔を横に振った。

「家は、文化財などに登録しているわけではないんです。それより、私は椋くんが何を描いていたのか、どうして凛ちゃんと喧嘩になってしまったのか、そちらの方が気になっていて。椋くんに聞いてみても、よろしいでしょうか」
「ええ、それはかまいませんけれど……」

 私は膝を曲げて、椋くんの目線と高さを合わせる。椋くんは北来さんの影に隠れるように立っていたけれど、少しだけ顔を見せてくれる。

「椋くん、こんばんは。今日は、絵を全然見てあげられなくて、ごめんなさい。もっと椋くんの話を聞いておけばよかったなって、先生、反省しているの。もしよかったら、茶色のクレヨンで何をしたかったのか、教えてくれるかな」
「……ママのハンバーグ」
「椋くんは、ママのハンバーグが描きたかったんだ」
「……うん。がようしのそとにかいて、ごめんなさい」

 伏し目がちな椋くんと、その時に初めて目が合った。大きな黒い瞳はつやつやで、澄み切った世界がそこにあった。

「あの、どうやら椋は、生まれたばかりの赤ちゃんに、自分の好物を食べさせたいと思ったらしくて……」
「椋くんがハンバーグを描き始めたところに、凛が『メロンパンだっておいしい』と言って、勝手に椋くんの画用紙に描き込んだらしいのよ。それで、今度は椋くんが凛の画用紙に茶色のクレヨンでハンバーグを描き込んで、それでだんだん喧嘩がヒートアップしていったみたいなの。凛のことを叱ったら、どうやら凛も椋くんから赤ちゃんのことを聞いて、好きなものをあげたいと思ったみたいで」
 北来さんと赤羽さんは顔を見合わせて、「聞き出すまでが大変だった」と苦労を分かち合う。

「そっか。椋くんは、赤ちゃんに好きなものをあげたかったんだね。そうしたら、今度はお母さんと赤ちゃんも連れて、このお家に遊びに来てね。椋くんが壁に一生懸命描いたハンバーグ、見てもらおう?」
「先生、やっぱりいけません。ここは、とても貴重な建物ですよね。やはり綺麗に消して元通りにしていただかないと」

「いいんです。子どもの描いたものは、家の『お守り』なんですよ。これは、先代の受け売りなんですけどね。それに、普段はソファーの裏に隠してしまえば、誰にも分かりません」

 北来さんは困った顔をしていた。けれど、赤羽さんに「先代から、ここはそういうところですよ」と肩をぽんっと叩かれると、「ありがとう」と言ってほろりと泣いた。
 北来さんとしても、お兄さんの子どもを預かっている立場だったから、大正時代の建物に甥っ子が落書きをしてしまったと聞いて、修復に一体いくらかかるのかしら、とハラハラしていたのかもしれない。

 一通り話し終えたところで、もう遅いので北来さんと椋くんを送る、と赤羽さんが口を切ってくれた。このままでは、北来さんが「少しでも金銭を払わせてくれないか」と粘り始めてしまいそうだと、気配を察してくれたのだった。

「椋くん、またね」
 手を振ると、椋くんは振り返って、遠慮がちに手を振り返してくれる。北来さんも、こちらに向かって、何度も深々と頭を下げた。
 私は「帰り道、お気を付けて」と言うと、「こちらこそ、ありがとう」の気持ちを込めて丁寧にお辞儀をした。


 椋くんが壁に「ママのハンバーグ」を描いてくれたおかげで、私は十年前にちーちゃんとここで交わした会話を思い出したのだった。ちょうど、「こまどり教室」を始める準備を、二人で一緒にしていた時のことだった。

 応接間を教室にするために模様替えをしていると、高校生だった私はソファーの後ろの壁に、クレヨンで描かれた落書きを見つけた。
 誰かがこっそり描いて、忘れ去られていたんだな。
 と、布でこすって落書きを消そうとしていると、当時三十五歳だったちーちゃんは駱駝らくだ色のソバージュの髪を振り乱して、私の腕を掴んだ。

「消しちゃだめ! それは、この家のお守りなんだから!」
「ええ? こんな落書きが?」
「そうよぉ。子どもの描いたものは、最強の魔除! この方角はちょうど鬼門だから、邪気払いにもぴったりなの」
「何それ、そんなこと誰が言ったの?」
「誰って、そんなことは知らないけど、とにかくこの家ではそうなの。ばあちゃんも、ひいばあちゃんもそうしてたんだから。その落書きも、あえて残してあるの。あ、そう言えば、姉さんが子どもの頃に書いた絵も、どこかに隠してあったわね」
「……お母さんの?」

 ちーちゃんは、壁にぴたりと付けられていた書斎机を持ち上げて、少しだけ前にずらす。

「ほら、これよぉ、これ!」
「何これ。……虫?」
 白い壁には、くすんだ緑色のギザギザした謎の塊が描かれていた。頭とお尻の部分にはピンク色のしっぽのようなものが生えている。
「虫じゃないわよぉ。確かねぇ……」


 北来さんからいただいた菓子は、桜餅だった。
 薄桃色の薄い生地と塩漬けにされた桜の葉に、まあるく整えられたこしあんがくるりと包まれて、温和なたたずまいでプラスチックケースの中にしまわれている。

 ソメイヨシノはもう散って、葉桜になり始めているけれど、せっかくなので桜の花模様があしらわれた食器を棚から出すことにした。
 平皿と湯飲みを三つずつ並べ、平皿には桜餅をのせて、湯飲みには急須で淹れた緑茶を注ぐ。準備が出来たら、リビングへと運ぶ。
 飾り棚の上では、祖母と先代のちーちゃんの写真が「今日のおやつ」を待っていた。それぞれの前に、「どうぞ」と桜餅とお茶をセットした。

「ねえ、ちーちゃん。これ、ときわ堂さんの桜餅だって。今日ね、すごく昔のことを思い出したんだよ。応接間の、壁の落書きのこと」
 むすっとした表情の祖母に聞かれないよう、ちーちゃんに向かって囁く。

「私、小さい頃、お母さんが買ってくる桜餅がきらいだった。だって、お花見に連れて行ってくれたことはないのに、春になると桜餅だけは食べきれないほど買ってくるの。けどね、あの落書きを見つけた時、ほんの少しだけお母さんのことが分かった気がした。お母さんにとっての『春』は、桜の花より桜餅だったんだね」

 そう言うと、ちーちゃんの笑った声が聞こえてくる。
「いやあねぇ。姉さんの好きなものは、いつも『恋』と結びついてるんだから。そんな綺麗なもんじゃないわよぉ」

 前髪を眉毛の上で切りそろえて、長い髪を一つ結びにした写真の中のちーちゃんは、いつも明るく何かを笑い飛ばしている。見た目だけは、あの頃よりも若く見えた。

 その時、ポケットの中で携帯電話が短く震えて、メールの着信を知らせる。
『大丈夫か』
 短いメッセージは、カワやんらしい。
『今日はありがとう。大丈夫。椋くんと凛ちゃんも仲直りできたって』
 すぐにボタンを打ち込んで、返信を送った。

 帰り際、「また来週も、凛をよろしくね」と、赤羽さんは言った。「またくるね」と、椋くんは小さな手を振ってくれた。
 胸に手を置いて、もう片方の手で温度をさぐる。夕方から続いていた手の震えは止まり、指先も今は冷たくない。

「……私は、大丈夫」
 そう呟くと、ちーちゃんの写真の横に立てかけてある、A五版の大きさの手帳を手に取った。
 コマドリの顔の色に似た、きれいな蜜柑みかん色の表紙には、「こまどり通信」と手書きで記してある。少し傾いた流れるような文字は、ちーちゃんのもの。まだ「こまどり教室」の講師見習いだった私のために、ちーちゃんは日々の出来事や生徒さんの描いた作品、連絡先などをここに書き留めていてくれたのだった。

 ちーちゃんの書いた最後の日付は、半年ほど前のものだった。だいぶ日が空いてしまったけれど、私は新しいページを開くと、今日の出来事をボールペンで書き込む。

 凛ちゃんと椋くんのこと。
 赤羽さんと北来さんのこと。
 そして、私の大きな失敗のこと──。

 ちーちゃん。
 今日は色々あったけれど、明日も「こまどり教室」を開くよ。
 まだまだ、ちーちゃんのようにいかないけれど、それでも一歩ずつ。私は進む。


(つづく)



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