【連載小説】はつこひ 最終話
《エピローグ》
蝶子の店を出て少し歩くとと、田中さんは片手を挙げてちょうど通りかかったタクシーを停めた。
「悪いけど、先に帰っていてちょうだい。私も夕食までには帰るから」
そう告げると、カイヤは「いつものこと」と素直に応じて「わかったわ」とだけ返事して車に乗り込む。
タクシーを見送った田中さんは、駅までまっすぐ伸びる商店街の一本道をさらに進み、小さな商店と商店の間にある一人通るのがやっとという狭い路地の中に「すいっ」と身体を滑り込ませた。壁の側面に不意に現れた深緑色の扉を三回ノックすると、僅かに開いた扉の隙間へと吸い込まれるように姿を消す。
「こんばんは、田中さん。そろそろ来る頃だと思っていたよ」
六畳ほどある部屋にランプを灯すと、穏やかなテノールの声で男は田中さんを迎え入れた。淹れたばかりの珈琲をソーサー付きのカップにゆったり注ぎ、彼女の前に差し出す。
「ありがとうございます。いただきますわ」
テーブルに備えられた椅子の一つに腰を掛けると、彼女はカップの取手を指先でつまみ珈琲を啜る動作をした。長い睫毛を伏せ、細い肩から指先までゆるやかな曲線を描くしなやかな仕草は、どこから見ても美しい人の所作そのものだ。
「それで、今日はどうだったかな」
部屋の主である男は、田中さんの「人間らしい」様子を満足げに眺めながら、早速本題を切り出した。彼女は「承知していますわ」と二度のまばたきで答えると、カップをソーサーに戻して唇を動かし始める。
「ご心配なさらずとも、今日も蝶子さんはお元気にされていましたよ。カイヤの腕を綺麗にお手入れしてくださって、娘もとても喜んでいましたの」
「そうか、それは良かった。きっと彼女も仕事に張り合いを感じられただろうね。彼女はカイヤ嬢とどんな話をしたのかな」
「もう、先生ったら。そんなに気になさるなら、ご自分で様子をご覧になればいいのに」
田中さんが「うふふ」と口元に手を添えて笑うと、「困ったなぁ」と男は白髪交じりの下がり眉をさらに下げて苦笑した。
「いや、僕はいいんだよ。下手に出て行っても、きっと思い出されるのは十三歳の僕だもの。あの頃、彼女の父上を『ろくでなし』だの何だの言って、彼女にも同じようにひどい言葉を吐いてしまった。飯村さんを助けるために父とあの厩舎に向かった時、僕は彼女が他の人間とは『違う』ということが分かったけれど、彼女の中では僕は意地悪なクラスメイトのままなんだ。だいぶ年を重ねて外見はすっかり変わっているけれど、どこかに面影でも見つけて嫌な記憶を思い出してほしくはないんだよ」
「そういうものなのですか。目の前に先生が現れれば、蝶子さんも先生のことを愛してくださると私は思いますのに。カイヤにも、とても優しくしてくださいましたのよ」
「そこは何というか、人間は少し感覚が違うところがあるかもしれない。誰であっても平等に愛するというのは、僕らにとっては難しいことなんだ。人間の心はいつまでも未成熟というか……。揺らぎやすいのが常だと僕は思っているよ。田中さんは長く生きているから、今よりも心が不安定な状態も経験しているんじゃないかな?」
「さあ、どうでしょう。私は八十年の間に何度も身体を入れ替わっていますから、昔のそういうことは良く覚えていませんの」
田中さんは左上の空間をぼんやりと見つめてから、男に視線を戻して微笑みを浮かべる。
「そうなのかい。でも、きっと少しずつ変わってきたはずだよ。確かアンドロイドに学校教育が導入されたのは、君が生まれた頃だったよね。当時、人権があってないようなものだったアンドロイドたちのために、なぜそんなことが始められたと思う?」
「学校教育が始まった理由ですか? それは人間がいかに尊く守るべき存在かを、私たちが学ぶためではないのかしら。昔の歴史の授業ではそう習いましたけれど」
「確かにね。昔は『人間のために尽くせ』、『人の命令は絶対だ』と学校でも教え込まれていたよね。けれど、知っているかい? あの時代、五十年前には既に政府や大企業の中にアンドロイドたちが紛れていたんだ。彼らは、とある天才科学者が作り出した特別なアンドロイドで、その姿も言動も人と見分けがつかなかったというよ」
「まあ。五十年も前に、そんな高度なアンドロイドがいたのですね。私はその頃、まだ『田中』ではない旧型身体の中にいて、ネイルのそれは美しい若奥様になりたいといつも夢見ていましたわ」
「信じられない話だよね。彼は国の中枢にアンドロイドを紛れ込ませることで、新しい教育体制を築こうとしていた。アンドロイドにも人間と同じような発達段階を追わせることで、その時々の葛藤や感情を学ばせようと考えたんだ。年齢と共に身体を入れ替えることも、より心を成熟させるためにと始めたようだよ。もちろん最初からうまくはいかなくて、初めの頃はアンドロイド教育はお粗末なものだったけれど」
「心の成熟と言われても、正直、ぴんとは来ませんけれど、その方はなぜそんなことを考えたのかしら。私たちは元々、人の役に立つためだけに生まれたはずなのに」
「その科学者は、人類が滅亡に近づいていく中で、この世界を維持する方法をずっと探していたんだ。アンドロイドだけがこの世界に残ったとしても、人間にプログラムされたままでは戦争に終止符が打てないことは目に見えていたからね。この世界が平和な時代の姿を残したかった彼は、争いを生まない唯一の感情を『愛』だと結論付けて、プログラムでは生まれないものを君たちの中に育てたかったんだ」
頬を紅潮させながら興奮しているらしい男を見て、田中さんは「何がそんなに嬉しいのだろう」と思う。しかし、今や「救世主」だの「アンドロイド学の権威」だのと呼ばれる男と議論をする気にもなれず、ひとまず話を合わせることにした。
「確かに、『田中』となった二度目の人生では、家族やお友達を大切にすること、皆等しく愛することを小学校に入ってすぐに学びましたわ。昔はすぐにそういう気持ちは理解できませんでしたけれど、身体と共に幾度も心の成長を繰り返していく内にきっと分かるようになっていったのですね。私たちは皆が『愛』を知るようになりました。そういえば、今の夫と出会ったのも小学生の頃ですの。出会った瞬間、将来に夫となる人はこの人だとすぐに分かりましたわ」
「おや、田中さんも『はつこい』を忘れられずに結婚に至った一人でしたか」
「うふふ。先生ったら、からかわないでくださいな。『はつこい』なんて、私たちには到底分からないのですよ。なぜなら、夫も子どもも、お友達も知らない方のことも、皆等しくお互いを愛しするよう学んでいるのですから。違いがあるとすれば、姿かたちと役割くらいですわ」
「そうだったね。けれど、恋もつらいことがあるから、その方が良いこともあるかもしれないよ」
「まあ、そんなことをおっしゃらないでください。先生のおっしゃることは難しくて、私には分からないこともありますけれど、時々恋を知っていることを羨ましくも思いますのよ。いまやアンドロイドの役割は、遠い昔に生きていた誰かの人生をその通りになぞっていくこと。新しい身体と名前で生まれ変わっても、私が今の夫と出会うことも、カイヤが娘になることも、全て知りながら生きているのですわ。夫や娘のことを、もちろん皆さんを思うのと同じように愛していますけれど、なぜ愛しているのかを思い出すことはできませんのよ」
「愛する理由を知りたいと?」
「いいえ。それは、とても危険なことかもしれませんもの。それこそ、偉大な科学者が目指した平和な世界にひびを入れてしまうことにもなりかねませんわ。ただ、いくつ記憶を失ってしまっても、『はつこい』だけを忘れられずに生きていらっしゃる先生や蝶子さんも素敵だという話ですよ」
「ははは。まあ、人類がこの世界に残るために作った薬の副作用が、こんな形で現れるとは予想していなかったけどね」
「『はつこい』の人が奥様だなんて、やっぱり素敵ですわ。今度、先生の恋のお話も聞かせてくださいね。また来週、蝶子さんのお店に寄りますので様子を報告に参りますわ」
「田中さん、いつもありがとう。よろしくお願いします」
*
中学校の教室の窓から少年少女らが無邪気にはしゃぐ姿を見下ろして、カイヤはため息をついた。
「私が好きになったのは、一体誰なのかしら。いつも誰かのことが特別愛おしくて仕方がないの」
気怠そうな表情の中に夢心地な瞳を浮かべるカイヤを見て、周りにいた三人の少女たちは「きゃー!」と色めき立つ。
「私の腕も早くトリートメントが終わらないかしら」
「次は私の番ね」
「その次は、私よ」
「「「ああ、早くドキドキしたーい‼」」」
「ねえ、蝶子さんの恋のお話の続きを聞きたくはない? 今日もお店にいきましょうよ」
居ても立っても居られない様子の彼女たちを見て、カイヤはすかさず声を掛ける。
宿題を鞄に詰め込むと、少女たちは賑やかに廊下を駆けていった──。
今日もこの世界は、いつかの日常を記録映画のように繰り返している。過ぎては巻き戻る悠久の時代が、これからも続いていくのだろう。
しかし、少女たちは何かを知ろうとし始めた。人を越えることを許されなかった彼らの中に、新たな感覚が芽生え始めている。
手を伸ばした先の温もりや柔らかさに気づいた時、彼らは何を感じるだろう。
世界は、誰も見たことのない時間を刻み始めようとしている。
(了)
(3856字)
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