【連載小説】はつこひ 第五話
「蝶子ちゃん、おはよう!」
今は使われなくなったバス停の前に車を停めると、後部座席の扉を開けて彼が乗り込んだ。
「飯村さん、おはよう。今日も元気そうね」
「うん。僕はいつも元気だよ」
彼の肩に舞い落ちていた雪の結晶が、車内の温かい空気に触れた途端に溶けてゆく。
彼と出会ったあの日からすでに半年ほどが経ち、暦は十二月を迎えていた。
「飯村さんはいつも元気でうらやましいわ」
「なぜ、僕がうらやましいの?」
彼の制服の上に残った水滴をハンカチで拭うと、彼は顔だけをこちらに向ける。
「だって、私、寒いのが苦手なの。すぐに熱を出してしまったり、風邪をひいてしまったりで、冬はあまり良い思い出がないのよ」
「蝶子ちゃんにも苦手なことがあるんだね」
「そうよ。だから、こうしてコートを着たり、マフラーを巻いて、必死に寒さに抵抗しているの。飯村さんは、冬でも薄着で寒くはない?」
「正直なところ、寒いという感覚はよく分からないんだ。風邪をひいたこともないしね。でもね、蝶子ちゃんの手に触れれば温かいということは分かるよ」
飯村さんはゆっくりと私の右手に手のひらを重ね、私の目を見つめた。瞳の透明な青いガラス玉には私の顔が鏡のように映っている。
彼は、この半年の間に随分と知能を向上させた。
最初は、言葉の意味や人間の行動に理解できないことがあると、随分と時間をかけて主記憶装置にアクセスして「学習履歴」を探しに行っていたけれど、近頃は分からないことがあっても聞き返して確認をしたり、相手の言葉の一部を繰り返して会話を進めることで「その後の文脈から意味を理解する」ということを学習している。
肌への刺激や感覚から情報を学習することはまだまだ難しいようだが、それでも「柔らかい」、「温かい」ということは分かるようで、こうやって毎朝私の手を握っては目の前で嬉しそうに唇の端を少しだけ上げていた。
「飯村さんは、すごいわね」
尊敬の気持ちを込めてそう言うと、彼の瞳の中で「カシャ」と音がする。
「あ! また勝手に写真を撮って。いきなりはやめてって言ったじゃない」
「だって、可愛い蝶子ちゃんを僕の中にしまっておきたいんだよ。主記憶装置は情報が古くなるほど探しに行くのに時間がかかるけど、写真データなら『ここ』に残してすぐに取り出せるから」
彼は胸の辺りに手を置くと、両目をしっかりと閉じて写真をディスクに焼き付けた。
それにしても、「可愛い」なんて言葉をいつの間に覚えたのだろう。同じ年頃の男の子から、こんなことを言われたのは初めてかもしれない。
「ねえ、飯村さん。今日はクリスマス・イブよ。学校を休んで、一緒に過ごしましょうよ。それがいいわよ、ね?」
「クリスマス・イブ……。うん。そうだ、一緒に過ごそう。それがいい」
突然の提案にも、彼は何の迷いもなく賛同してくれる。彼の左手を表に返して指を絡ませると、優しく握り返してくれた。
「お嬢様、それはいけませんよ。旦那様にも申し訳が立ちません」
それまで無言で車を運転していた寺尾が、急に私たちの世界に割り込む。
「寺尾、お願いよ。今日だけ。今日だけでいいの」
「そう言われましても……」
「ちゃんと下校の時間までには戻るようにするわ。お父様もお母様も、どうせ今晩は会社のクリスマスパーティーで帰りが遅いでしょう? せめてクリスマス・イブくらい、お友達と過ごさせて? 寂しいクリスマスなんて嫌よ」
「ううーん……」
「今日は体調もいいし、大丈夫。ちゃんと温かい場所で過ごすわ。だから、ね、お願い!」
「……そうしましたら、午後の三時までですよ。その時間に、いつも彼が立っているバス停までお迎えに上がりますので……」
「いいの⁉」
「その代わり、ちゃんと約束は守ってくださいよ」
「ええ、もちろんよ!」
私は飯村さんの手を握ったまま、小さく飛び跳ねた。
クリスマス・イブを飯村さんと過ごしたい。その思いは、もちろん嘘ではない。
けれど、本当のところは、これで学校に行かずに済むことに心底安堵していた。
昨日から、クラスメイトに叫ばれた言葉が脳裏に張り付いて離れない──。
「日野蝶子! お前の父上は、人でなしだ! あいつが何をしているのか、お前は知っているのか? 自分の会社でつくった旧型のアンドロイドを回収して、馬鹿でかい溶接炉で溶かしているんだ! 溶かした溶湯で何をつくっていると思う? あいつは、彼らから新しい兵器をつくって、戦争をしている他の国に平気な顔をして売ってやがるんだ! このクズめ! 人でなしめ‼」
泣きながら私を責め立てたのは、国内外の平和活動に参加する人権派弁護士の父親を持つ男子生徒だ。
彼は長期休暇の度に父親の活動に同行し、様々な国でアンドロイド達と接していた。
彼の父親はアンドロイドへの差別を改めるよう世に訴え続け、彼も小さな頃から人間と同様にアンドロイドとの友情を築いてきた。
しかし、ある日突然、類似したシリアルナンバーを持つ友人たちが一斉に姿を消すという事件が起こる。
友人たちの行方を、そして、真実を知った時、彼は穏やかであった性格を一変させた。
昨日、ほんの些細な雑談から私の父がその根源となる会社を経営していることを知ると、彼はその身に抱えきれない怒りを爆発させ、正気を保っていられなくなった。
両脇を教師に抱えられながら保健室へ連れていかれる際にも、彼はこう叫び続ける。
「お前の父上も、お前も同じだ!」
いつまでも廊下に響き渡る声。
けれど、誰も何も言わない。何も言えない。
考えることをやめた大人たちは、「可哀そうな子なので、許してあげてくださいね」と彼を憐れみ、事態を終結させるだけだった。
「蝶子ちゃん、今日はどこへ行く?」
私が暫く黙っていたことを不思議に思ったのだろうか。飯村さんが私の顔を覗き込むようにして、話しかけてきた。
「そうね。せっかくのクリスマスイブだもの。特別なところへ行きたいわ」
急いで笑顔をつくると、寺尾に聞かれぬよう「行きたい場所」を彼の耳に囁く。
「うん。わかった」
彼はそう答えると、赤信号で車が停止した瞬間、私の右手を取って車の扉を開けると、すぐに外に向かって走り出した。
「あ! この野郎!」
それに気づいた寺尾はすぐに追いかけようとするが、信号は青に変わり、後続車からクラクションで催促を受ける。
「お嬢様―! 三時ですからね! 約束は守ってくださいよー!」
雪が舞い、景色は白さを増していく。寺尾の声はどこか遠くへ流されて、私たち二人の姿も灰色を帯びた白い町の中へと溶けていった。
(つづく)
(2689文字)
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