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「Sweet Omelette」
「ちょっと、進藤くん! このメール、添付資料がついてないんだけど、このままお客様に送ったの⁉」
夏見先輩の甲高い声が、また俺の名を呼んでいる。
「あ、はい。先方が来月の講座の場所、知りたいって電話があったんで」
「ちょっと待ってよ。確かに、日時と場所は書いてあるけど、『詳細は添付資料をご確認ください』って本文にあるでしょ? なんで、私に確認しないで送っちゃうかなあ!」
俺の指導役の夏見先輩は、急いで顧客名簿を開くと、こめかみの髪を一度ぐしゃっと握ってから電話の受話器を上げた。
「もしもし、尾形様のお電話でしょうか? 私、鶴平アカデミーの夏見と申します。実は、先ほど送ったメールに誤りがありまして……。あ、はい、そうです。はい、申し訳ありません。後ほど改めて……」
夏見先輩は、肩を縮めながら受話器を握りしめて、ひたすら謝り続けている。
資格取得のための多彩な講座を売りとする、鶴平アカデミーの事務局職員として雇われて半年。
社会人や主婦が顧客のメインであるこの学校では、職員も受講生たちも、俺のことを「お子様」扱いだ。
「言ったことをやってくれればいいから」
配属されて早々、夏見先輩もそう言い放った。
だから、俺は今回も言われた通りにやったのだ。
顧客からの問い合わせには、先輩のPCフォルダから問い合わせ別の定型文をコピーしてメールで返信しろ、と言われた通りに。
──俺のせいじゃないだろう?
先輩の丸くなった背中に視線を送る。
今日は金曜日。
そういや、秀平は帰り遅いんだっけ。
食事済ませて帰らないと。
時計は、定時の十九時を指している。
「すいません! 今日は用事があるんで帰ります」
ブルーの付箋に急いで書き込むと、夏見先輩の手元に貼った。
「え、ちょっと……!」
夏見先輩は一瞬振り向いたが、どうやら受話器の先のお客様はまだまだ彼女と話がしたくて仕方がないようだ。
「お子様」の俺には、何の用もないだろう。
*
土曜の朝七時。
美味しそうな温かい香りが漂っている。
「おはよう、薫」
台所で料理をしながら、爽やかな笑顔を向けるのは、ルームシェアしている同い歳の秀平だ。
高校まで同じ部活の腐れ縁で、同じタイミングで上京したこともあり同居を始めた。
今の仕事を始めてから、朝ぎりぎりの時間まで寝て、ゼリー飲料でカロリー摂取するというのが常だったが、仕事が繁忙を極める土日だけは、それでは眩暈を起こすようになり、秀平の作った朝食を一緒に食べるようになった。
「お、今日は玉子焼きじゃん。いただき!」
「あ! 待て、薫!」
キッチンカウンターに置かれた焼き立ての玉子焼きを前に、食欲を抑えられなかった俺は、まっすぐ切れ目の入った玉子焼きを一切れ、口に放りこむ。
すると、予想しなかった感覚が舌を刺激した。
「わ、今日は塩味かよ! いつも甘いのだから、びっくりした!」
「待てって言っただろ? それは僕のだよ。薫のは、今焼いてる。甘いやつ」
「え、もしかして、いつも作り分けてんの? まさか、みそ汁も?」
「そんな、作り分けなんてほどじゃないよ。薫、しょっぱいの好きじゃないだろ。元は一緒で、ちょっと味を変えてるだけだよ」
「そっかあ。すげえな、秀平は……」
感心しながらそう言うと、秀平はクスリと笑った。
秀平は、鼻歌を歌いながら甘い香りのする玉子焼きを手早く火から上げると、俺のみそ汁の椀だけに茹でたほうれん草を追加する。
「なあ、秀平。何で、ここまでしてくれるんだ? いちいち面倒だろ?」
「別に、そうでもない。一緒に美味しく朝食を食べられれば、嬉しいってだけだよ」
「嬉しい……か」
相手が嬉しいかどうかなんて、随分と長い間考えていなかった気がする。
朝食を平らげた後、「ごちそうさま。ありがとう」と少し照れて言うと、秀平は満面の笑みを返した。
*
朝十時、デスクに着くと、すぐに夏見先輩がやって来た。
「進藤くん、おはよう。昨日はよくも、とっとと先に帰ってくれたわね。ひどいじゃない」
「……すんません」
「でも、新講座の案内に必要なデータをちゃんと説明してなかったから、怒って悪かったわ。今日中にマニュアルを作るから待ってて」
俺の担当する講座以外にも、幾つもの講座を掛け持ちする夏見先輩は、目の下にうっすらと青いクマを浮かべている。
「あの、先輩。俺、マニュアルより実際にやってみた方が覚えやすいかもしれないです。説明だけだと、よく分かんない時あって」
「え、本当? それなら、後でやってみましょ。入力してほしいところもあるから、やりながら覚えてみて」
「はい、よろしくお願いします!」
こんな俺でも、いつか「ありがとう」の言葉をもらえる日がくるだろうか。
その時、あいつのように笑えたら、きっと幸せだ。
(了)
――――――
(本文1981文字)
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