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夜泣き石

会津地方が武士によって支配されるようになったのは一一八九年(文治五年)の佐原(さわら)義連(よしつら)がらど言わっちぇんのは、歴史が好きな人は知ってらんべげんじょ、この義連(よしつら)は源頼朝(みなもとよりとも)の奥州征伐で手柄を立で、その恩賞どして会津の地頭職を与えらっちゃんだ。そして、義連(よしつら)ははじめ三浦氏を名乗ってだんだげんじょ、後に佐原ど称し、義連(よしつら)がら数えて三代目の光盛(みつもり)の時に蘆名(あしな)氏ど称するようになった。会津蘆名(あしな)氏は、義連(よしつら)を初代とし、一五八九年(天正十七年)に磐梯山麓摺(すり)上原(あげはら)で伊達(だて)政宗(まさむね)に滅ぼされる第二十代の義広(よしひろ)まで四百年続いだのな。

 昔、会津を蘆名(あしな)の殿様が支配していた頃の話だ。
 会津蘆名(あしな)氏の初代、佐原(さわら)十郎(じゅうろう)義連(よしつら)の時代からの譜代の家臣で代々奉行をしていた家に、だれもがほめる大層利発な男の子がおった。やがてその男の子は成長し、立派な若武者となった。そして、やはり蘆名(あしな)の家臣の家から妻を迎え、可愛い男の子も生まれた。若者は、主君のおぼえもめでたく、父の後を継ぎ若くして奉行となった。そして、周囲の人達からも、いずれは蘆名(あしな)氏を支える者になんべと、期待をもって見られておった。
 ところが、いつの時代、どんな社会にもあることだが、自分に非がなくとも他人(ひと)の妬(ねた)み、嫉(そね)みを買うっつうのはよくあることだ。この若武者に二人目の子ども、女の子が生まれ、仕事にも精励し、幸せな充実した日々を送っていたある日のこと、一人の朋輩(ほうばい)が若武者の恵まれた境遇をやっかみ、「あの者が、敵方と密かに通じ、金品を受け取っていたところを俺は見た」と出鱈目(でたらめ)を言いふらし、上役に讒訴(ざんそ)した。
 讒訴(ざんそ)とは、他人(ひと)を陥(おとしい)れようとして、事実を曲げて言いつけることだ。陰で人の悪口を言う陰口という意味もある。会津弁で「ザンゾする」とか「ザンゾ言う」っつうのは、このごどだ。
 さて、讒訴(ざんそ)された若武者は、身の潔白を信じてもらえず、とうとう濡れ衣(ぬれぎぬ)を着たまま切腹をしてしまった。
 若武者の奥方は、「このままでは、跡継(あとつ)ぎの男の子も無事では済まぬやも知れぬ」と、子どもに累(るい)が及ぶのを恐れ、夫の死を悲しむ間もなく、いたいけな幼児(おさなご)二人を連れ、宵闇(よいやみ)に紛(まぎ)れて黒川(くろかわ)を出奔(しゅっぽん)した。黒川(くろかわ)っつうのは今の若松のことだ。

 奥方は、遠い常陸(ひたち)の国に、寄(よ)る辺(べ)を頼って落ちのびようとし強(こわ)清水(しみず)村を過ぎて、ようやく戸(と)ノ(の)口原(くちはら)に辿り着いた。一息入れようと、道から少しそれたところに休み石を見つけ、そしてつくづくと思案をしてみた。
「二人の子どもを連れては長(なが)の道中(どうちゅう)がおぼつかないし、男の子一人連れていても、見つかれば殺されてしまう。どうせむごい殺され方(かた)を見るよりは、ここに捨てて行った方(ほう)が、もし運があれば良い方(かた)に拾われて、あるいは助かるかも知れぬ……」と考えた。
ちょうど今、男の子は歩き疲れて石の上で眠ってしまった。母親は、これ幸いと、心を鬼にして妹の乳飲(ちの)み児(ご)だけを連れ、 「神様、仏様、お慈悲によってこの子を救け給え」と念じつつその場から立ち去った。
  それから何刻(なんどき)かが過ぎた。真夜中に目を覚ました男の子は、母親の姿が見えないので驚き、声を限りに母を呼び、妹を呼んだ。すると道の向かいの藪(やぶ)陰(かげ)あたりから、母の呼ぶ声がした。


「母さんはここだよ。こっちにおいで、早くおいで……」

 母はしきりに呼んでいる。石の上の男の子は、すぐに駆け寄ろうとしたが、これは何としたことか、左の足が石から離れねぇ。母の声は、「早く、早く」と矢継(やつ)ぎ早(ばや)に呼びかけてくる。男の子は泣きもがいたが、もがけばもがくほどに左の足は石にくっつき離れねぇ。男の子はとうとう泣き疲れてまたもや深い眠りに落ちた。
 原っぱは、静寂(せいじゃく)を取り戻したかと思ううちに、短夜(みぢかよ)はほのぼのと明け初(そ)めてきた。すると急にどやどやと人の足音がした。

「ここだ、ここだ」 ――さては追っ手か?

 駆け寄ってきた者が子どもを抱き上げた。
 これは不思議。昨夜はあれほど固く石にくっついて離れねかった男の児の左足も、スルリと抜けた。追手かと思われた人達も、そうではねかった。朋輩(ほうばい)の悪巧(わるだく)みが露見(ろけん)し、冤罪(えんざい)も晴れたので、親類の人達が手分けをし、迎えのために後を追ってきてくれたのであった。
 男の子は、やがて黒川(くろかわ)城に迎えられた。しかも成人してからは、父の後を継いで請代の奉行となった。だが残念なことには、母と妹の消息はようとして知れねかった。


 戸(と)ノ(の)口原(くちはら)にあって、男の子の足を離さなかった石は、その後〝夜泣き石〟と呼ばれるようになったが、一方、道の向かい側で母の呼ぶ声がしたというのは、実は〝呼(よ)ばり石〟という魔性(ましょう)の石であった。もし〝夜泣き石〟が幼子の足を離していれば、この魔性(ましょう)の〝呼(よ)ばり石〟に喰い殺されてしまうところだったのだと、土地の人は言う。
 そして、〝夜泣き石〟はまこと仏性(ぶっしょう)の石だとの噂(うわさ)が広まり、湊の人達は、夜泣きする子どもをおぶってこの夜泣き石にお詣りすると、なぜかピタリと夜泣きがとまるっつうんで、ここにお詣りする人達が後を絶たなかったそうだ。夜泣き石には、今もお詣りする人があって、小さな子どもの靴や靴下がお供えされているのが見られるんだ。

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