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その山で何を食べよう

「観光客の多い山と少ない山、どっちがいい?」「少ない山」

そう答えてまさか、こんな大冒険になるとは思ってもみなかった。
今思えば、聞く前から答えは決まっていたんだと思う。

その日、マルシュルートカとヒッチハイクを乗り継いで向かった先は、オズゴルシュ(Ozgorsh)という電気もガスもない、標高1400mの小さな村だった。


オズゴルシュの村の入り口

これから歩くTurkestan rangeは、キルギス南西部に位置する。

タジキスタンの飛び地に近く許可証が必要なため、外国人が立ち入ることがほとんどない。

オズゴルシュ(Ozgorsh)という村から入り、6日でOzgorshに戻る周遊プランで予定を立てていた。

バトケンという麓の町で、顔より大きいナン4枚と、オートミール、ピーナツバター、クッキー、チーズ、サラミ、マヨネーズ、ナッツとドライフルーツ、玉ねぎ、トマト、にんにく、固形ブイヨン、スパイス数種類、大好物ネクタリン(!)をパッキングした。

ULと健康志向のハイブリッド。

寝袋を持ってなかったので、バザールで綿の小さい布団を買った。バックパックは布団でパンパンだった。

バザールで買った綿布団。ロープで巻きつけて寝袋風に。
バザールで売ってた軍物の寝袋。大きすぎて諦めた。
麓の町、バトケンのバザール。


これが、私にとって初めての縦走だった。

テントは、彼が作った片手に収まる280gの極小ULテント。
コッヘルの代わりに手のひらサイズのステンレスボウル1つ。

バーナーはないからマッチだけ詰めて、焚き火調理だ。あとはヘッドライトとバッテリーと、ウォーターフィルター。

このときは極度のUL思考だった彼が重さを嫌い、錠剤タイプのフィルターを持参した。

この選択が大失敗だった。濁った水を浄化すると薬臭が強くなるし、浄化に6時間かかるため、多目に水を運ぶ羽目になった。全然ULじゃない。

Ozgorshに着いたのは日が暮れる少し前で、村から少し離れたアプリコットの木の下にテントを張った。

手作りのテント。2人には小さすぎる。

焚き火をしているとキルギス軍の少年たちやってきた。

少し身構えたが、クルートという乾燥ヨーグルトとチョコレートを持ってきてくれたのだ。水を汲む予定だった川が濁流で困っていたら、水を持ってきてくれた。

少年たちは、少し離れたところから物珍しそうに私たちを見学していた。

マヨネーズで玉ねぎ、にんにく、トマトを炒め、スパイスと固形ブイヨンと水を加えてスープを作った。

バトケンのナンはモチモチで、キルギスで一番おいしい。

「食べる?」

少年たちに訊くと、照れていなくなってしまった。


家畜の牛と一緒に、山から降りてきた家族たち。

翌日は絶景のなだらかな大地を歩いた。青草は秋に向けて色褪せ始めていた。

キルギスの地名は、山も川も峠も村も、Ak-suu(白い川)だらけだ。

Ak-suuの峠を越えた先もまたAk-suuだったりする。

2800m地点にお気に入りの場所を見つけて、テントを張った。本当はもう少し先まで歩く予定だったが、この先平坦な場所があるか分からないし、何よりその場所がとても気に入ったのだ。

お気に入りのキャンプ地。この川もAk-suu。

大変なのは3日目だった。

モレーンは足場が悪く歩き難く、標高4350mのAk-tubek峠に着いたのは、19時半だった。8月28日、この日の日没は20時前だったと思う。

16:38。頂上までの景色は変わり映えしない。
18:57。陽が傾き始めた。

氷河の融解水で喉を潤し、ボトルに補給した。
久しぶりにフィルターを通さず、おいしい水を飲めるのがうれしい。

日が暮れはじめていたので、テントを張れる場所を探しながら下ることにした。

幸い、峠の反対側はふかふかな砂で、両手を広げ走って下った。

19:28。頂上から見た反対側の景色。

4150m地点に、テントを張れそうな平らな場所を発見した。水も補給できる。ここにテントを張ることにした。

翌朝、起きると結露が凍っていた。

翌朝8:07。テント場からの景色。溶けた氷河をボトルに詰めて、遅めのスタート。

実は、この8日間で、3人の羊飼いに出会った。
遊牧文化が基礎にあるキルギスでは、夏の間だけ山に暮らす人がいる。

7月になると、山に100頭の羊を引き連れ、ロバのサドルバッグに小麦粉と玉ねぎとじゃがいもと油と砂糖とチャイを積んで、数日かけて自分の拠点に向かう。

テントは持たず、コシという石積の簡素な小屋を転々として、自分の本拠地に向かう。

本拠地と言っても、本拠地も石積の簡素な小屋で、電気も水道もガスもない。小枝だけで火を熾して煮炊きをする。

5〜6月はヤクや牛、7〜9月は羊といったかたちで、連れて行く家畜を分けている。おそらく、雪解けあとで草が生い茂る時期は青草をよく食べる牛、その後は何でも食べる羊なのだろう。


4日目、昼ごはんを稜線で食べていると、横に置いたはずのサラミが忽然と姿を消した。
食料が足りるか心配している最中の出来事だった。

すると、よく日に焼けたおじさんがどこからともなく現れた。サラミを咥えた白い犬を叱りつけた後、なにも言わず私たちの横に腰掛けた。

「アクダ?」
「ヤポニャ、アメリカ」
「アクダ?」
「アクスー」

それだけ交わし、鈴の音を聴きながら羊の群れを眺めていた。

こんな秘境で人に出会うなんて思いもしなかった。遊牧文化は、もう消滅したものだと思い込んでいたのだ。

この先に自分の小屋があるから、夕飯を食べていけと言って、おじさんは立ち去った。

峠を下り3150m地点の谷間に、彼の小屋はあった。

屋根の上でトマトを干していた。ドアをノックしたがまだ帰ってきていない様子で、その場を後にした。

その日、朝5時から歩いて2つの峠を越えた。2600mからスタートし、3200mのkosmoinockと3700mのak-suu pass。

アクスーパスの下りは急なザレ場で、下りきった頃には足が棒のようになっていた。

下山途中、また鈴の音が聴こえてきた。

視線を上げると、木の杖、長靴、望遠鏡を首から下げた男性2人組が山の斜面に腰掛けていた。その先には羊の群れ。

手招きされたので、横に腰を下ろした。ふたりは携帯で家族の写真を見せてくれた。中には羊の赤ちゃんの写真も。

「今夜、うちに泊まらないか?羊をご馳走する。」

嬉しかった。倒れそうなほど腹ペコで、二つ返事で誘いに応じた。

つづく



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