第七話 祖 母
「健ちゃん。」
ホテルの地下駐車場に飛び込んだら、そこに立っていたシワシワの塊にぶつかりそうになった。
急いでいた僕はひょいと避けて通り過ぎようとしたその時、懐かしいニックネームで呼ばれた。
振り返ると二人の老女が立っている。
ぶつかりそうになったシワシワの塊は二人のおばあさんだったのか。
頭の中では、シワシワの乾燥した巨大梅干しが映像化されていたのだ。
「健ちゃん、久しぶりやねぇ。」
声の主は、僕の祖母だ。
就職した年には何度か会ったが、二年目に今の部署に配属され、近隣の市へ転勤になってからは会っていないから二年ぶりかと頭の中で記憶を辿る。
そして、二年で人間はこんなに乾燥するのかと思ったりもした。
祖母は肌に水分が一滴もないように見える。隣りにいる同年代の人もそうだ。
とりあえず、「こんにちは。お久しぶりです。」と、言ってみる。
「あんた、ちゃんと働きなさいよ。いつまでもお父さんの脛かじってたらあかんのよ。」
大学生の弟と僕を間違えているのだろうか。
いや、確かに僕の名前を呼んだ。
真面目に一生懸命に働きなさいということを言いたいのだろうか。
「この子、長男とこの長男。だから、うちの跡取りなのに働かないで困ってるのよ。」
と、祖母は連れの老女に僕を紹介した。
「あなたからも言ってやってちょうだい。」
と、けしかけられたお連れさんは、したり顔で、
「『プー太郎』って言うのよ。働かない若者のこと。」
と、祖母に言い、返す刀で僕に詰め寄りながら、
「人間、働かなくなったらおしまいです!最近はプー太郎とかニートとかフリーターとか言ってカッコつけてるんでしょうけど、ようは怠け者です。働かないと駄目です。」
と、断言した。いや、働いてるし。いきなり説教されてもなあ。
不愉快だなと思ったが、とにかく今は急いでいるので、腹を立てている時間も関わっている時間もない。
「すみません。急いでいるので。」
と、言い終わらないうちに、
「亀の甲より年の劫と言うでしょ。年寄りや思って馬鹿にしたらあかんよ。年配者の言う事は、ちゃんと聞きなさい。働く事は、人間が生きていくうえで一番大事な事なのよ。あんた、いくつ?立派な体してんのに働かなバチ当たるよ。私らは、戦後の何もない時代に育っていつもお腹すかせてたわ。お父さんやお兄さんは戦死したり戦地から帰ってきてなかったりで女子どもが力仕事もしたんよ。どんな事でもして働いた。生きていくんに必死やったからね。私はね、働いて、働いて、働いた。だから、息子も一生懸命働く子に育ってね、今では社長よ。若くて健康な人が働かないでぶらぶらしてるなんて許せないわ。」
うわぁ、スイッチ入っちゃったよ、この人。
僕は、ちゃんと働いてますって。
今日だって久しぶりの休みで、久しぶりのデートなのに急に呼び出されてここに来たのだ。
でも、下手に反論したら余計に火をつけちゃうんだろうなぁ。
「とにかく、僕、急いでますんで。せっかくですが、またの機会に・・・。」
「そう言って逃げるつもりでしょ。」
はい、逃げます。
「すみません。失礼します。」
と、背を向けたら、
「待ちなさい。まだ、話しは終わっていないのよ。」
待ってたまるか。
何で、いきなり見ず知らずのばあさんに説教されなあかんねん。
だいたいおばあちゃんは、僕が就職したん知ってるやん。ボケたんか。
「こら!待ちなさい言うてるでしょ。」
ダッシュすれば、当然、老女二人に追いつかれることはないだろうが、風紀違反をした中学生の様に逃げるのもなあと思い、足早に立ち去ろうとしていたら、
「どうしたんや?お母さん、どうしたんや。」
と、男の声がした。
「その子、捕まえて。」
って、捕まえては失礼やろ。
僕は何も悪い事してないし。
ばあさん、何のスイッチ入ったんや。
昔、風紀の先生やったとか?と思っていたら、
「君、待ちなさい。」
と、後ろから肩を掴まれた。
はあぁぁと溜息と共に振り向くと、
「あっ!」
と、言われた。今度は、何?
「よう捕まえた。さすが、私の息子。」
ああ、社長やってる自慢の息子ね。
「一体、何が?何があったのでしょうか。」
何気に息子は、低姿勢。
「その子ね、私の友だちの九谷さんの孫。働かないでぶらぶらしてるから説教してたら逃げたのよ。」
「やっぱり、九谷さんですよね。」
「はい?」
「山下部品の山下です。先日は、わざわざ弊社までお越しいただきまして、ありがとうございました。」
「ああ、山下部品の。」
どこかで見た顔と思ったら先輩のピンチヒッターで行った取引先の人だったのか。
「お母さん!何失礼なことを言ってるんや。この方は、ワールドビジネスの偉いさん。」
いや、偉いさんではありません。
「母が、失礼を、申し訳ございません。」
深々と頭を下げられた。
「いや、いいんです。とにかく、急いでますんで、これで失礼します。」
「ちょっと、どういうこと?何であんたが謝ってんの。社長のあんたが、こんな若造に頭下げることあらへん。」
「母さんっ!」
「本当に申し訳ございません。」
と言う声を背中で聞きながら僕は、自分の車に向かって足早に歩いた。
社会人なのだから取引先の人にもう少し丁寧に対応すべきとは思うが、こちらは、猛ダッシュしたいくらい急いでいるのだ。
そもそも、おばあちゃんは、二年ぶりに会った孫にいきなり何なんだよ。
ボケたんちゃうか。
そのボケ話に加速して捲くし立てて説教始めるおばあちゃんの友だちもパワーあるよなあ。
めっちゃ、迷惑。
僕は、自分の車にやっと辿り着いた。
疲れたぁ。
全く、今日はついてない。
久しぶりの休み、久しぶりのデートで楽しい日のはずなのに。
早朝に、商談に立ち合えと課長からの電話で呼び出されて、デートは午後からにしてくれと彼女に頼んで、何とか仕事を済ませて駐車場に駆け込んだら、二年ぶりに会ったおばあちゃんに何故かプー太郎扱いされて説教が始まったし。
説教ばあさんの息子は取引先の人だったし。
何か疲れるよなあ。
そうだ、帰ったら、おばあちゃんがボケてないか親に聞いてみよう。
転勤してから家にほとんどいないから親ともろくに喋ってないしなあ。
と、思っていたのにおばあちゃんのことなどすっかり忘れ、いつもの日々を過ごしていた。
母が、「この前、おばあちゃんに会った?」
と、聞いてきたのは、それから一か月くらい経っていただろうか。
「ああ、会った。」
「今日、おばあちゃんから電話があって、何か怒ってはんねん。健が働いてること知らなかったとか、健の会社は一流企業かとか、取引きが駄目になったとか、なんやかんやごちゃごちゃ言うてはったけど、意味わかんなかったわ。健が就職した時に報告したでしょって言ったけど、友だちの山下さんがどうの、取引きがどうのってお母さんにはさっぱりわからなかったけど、健に言うたらわかるから健に電話してほしいって言ってたわ。」
うざー。疲れてんのに。一か月もたって説教の続き?
「お母さん、おばあちゃんボケたんちゃうん?一か月くらい前に偶然会った時も僕が働いてないっていきなり説教が始まって大変やってん。」
「そうねぇ。今日も、何を怒ってるか説明してって言ったけど、全然、こっちの言うこと聞いてくれなくて。歳のせいかしら。まぁ、昔から人の話し聞かん人やったからねぇ。めんどくさいやろけど、電話してみて。長くなりそうやったら、お母さん代わるから。健が電話しなかったら明日もかけてきそうやから頼むわ。」
はあああ、溜息交じりで携帯のアドレス帳から『おばあちゃん』を探し出し電話をする。
「健ちゃん、あんた、仕事行っててんね。」
挨拶もなしにいきなりおばあちゃんは喋りだす。
行ってますよー、三年前からずっと。就職先が決まった時にちゃんと報告したよね、忘れた?
「ワールドっていういい会社らしいねぇ。うふっ。」
うふっって何だよ?
「山下さん、息子が社長や言うて自慢してたけど、健ちゃんの下請けなんだってぇ。」
別に、僕の下請けじゃないし。
「下請けとかってことじゃないと思うよ。取引先やと思うけど、僕の担当じゃないから詳しいことはわからん。」
「山下さんがえらい怒ってきてね。健ちゃんが偉いさんやって知らんかったから色々言うたけど、健ちゃんの為を思って言うたのに怒るんはおかしいって怒ってきてん。」
は?意味わからん。誰が怒ってんの?
てか、山下さんっておばあちゃんの友だちやん、僕に何の関係があんねん。
何が言いたいねん?
「あの時の事を仕事に持ち込むんは大人げないって言うてはんねん。おばあちゃんが、健ちゃんが働いてないっって嘘ついたって怒ってんねん。健ちゃんが、働いてるって言うてくれへんから、おばあちゃん、山下さんに怒られてんよ。」
いや、だから、ちゃんと言いましたって。
「でもね、私も知らんかってんから、わざと嘘ついたわけちゃうし、それを怒るんはそれこそ、あんた、大人げない言うたってん。」
って、自慢げだけど、ええ歳して、どっちも大人げないやろ。
「でもね、山下さんとは長い付き合いやし、まあ、わざとじゃないにしろ、私が言うたことで健ちゃんが怒ってんから、私が、健ちゃんに頼んだるって言うてん。」
いや、怒ってません。
てか、すっかり忘れてました。
むしろ、今、この電話にキレそうなんですけどぉ。
「山下さん、息子さんにえらいこと怒られてんて。健ちゃんが契約してくれへんかったって。山下さんが、健ちゃんに怒ったから、健ちゃんが気ぃ悪うして契約せんかったんやんね。それで、おばあちゃんに怒ってきてんけど、おばあちゃんは、人がいいから、山下さんが可哀想になってね。今まで、息子が社長って偉そうやったのに、うふっ。」
だから、その「うふっ」って何なんだよ。
てか、怒ってないし。第一、山下さんの息子の会社の契約とかって僕知らんし。
「山下さんが、健ちゃんに機嫌直してほしいって言ってんのよね。一度、お詫びに伺うって言うから、まあ、私が健ちゃんが働いてないって言うたことが原因やから、とりあえずは、私が仲介したげる言うたんよね。健ちゃん、機嫌直したってね。」
「機嫌直すも何も、もう忘れてたくらいやから。」
「そう、それやったら良かったわ。ほな、山下さんの息子さんの会社に今まで通り仕事あげてね。頼んだよ。じゃあね。」
「えっ?それは・・・。あれ?もしもし、もしもしおばあちゃん!!もしもーし。」