「さよなら、白馬の王子様」【ショート小説】
今日は憧れのマサト先輩と、デートの夜。
端正な顔立ち、すらりとしたスタイル、名門私大出身。なのに嫌味ひとつなく笑うひと。
出会いは三年前、彼が新卒の研修担当だった時。入社したての私に、優しく仕事を教えてくれた。それからずっと、私の王子様。
デートとは言い過ぎた。同期が仕事で遅れ、二人で飲めることになっただけだ。一秒でも永く、この時間が続いてほしいと思った。
事件は起きる。カウンター隣のマサト先輩のスーツのチャックが半分、開いている。先輩が足を組み替える度、私の心拍数が上がる。
「ちょっと、トイレ行ってくるね」
良かった、これで気付くだろう。
数分後、マサト先輩が戻ってくる。更なる絶望が襲う。
先ほど以上、チャックが全開に! 私は顔を背け、覚えたての赤ワインをぐいと流し込む。
「飲むねぇ。俺、桑原ちゃん、好きだなぁ。桑原ちゃんも、俺のこと好きなんでしょ。今夜もうさぁ、どっか泊まっちゃわない」
マサト先輩は目を充血させ、赤ワインで黒ずんだ歯茎で笑う。青い血管と骨の浮き出た指が、私の左膝をしきりにさすっていた。
先輩が、急に、蛇になった。
「桑原、帰ろう」
助けて、と思った瞬間、右腕を強く掴まれた。
「ごめん、遅れた」同期の花本だった。カウンターに一万円札を叩きつけ、店の前に停めていた白いタクシーに私を押し込む。
「ちょっと待ってよ、先輩に失礼じゃない」
「あいつ見ただろ。やばいんだよ」
花本曰く、先輩はチャックを開けて口説くのが常套手段という。衝撃的すぎて耳を疑う。
「仲間内で『社会の窓戦法』と銘打って、女を誘い出すんだと。どうかしてるだろ」
ただ、酔って閉め忘れただけではなかったのか。悪い夢をみているようだった。
「あんなやつのために絶対泣くなよ。目が腫れて、これ以上ブスになっちゃったら、俺以外のイケメンは寄り付かなくなるから」
バカ。肩を叩く。花本は、いてぇ、と笑いながらシートベルトを締めた。
三年前、あんなに頼りなかった同期が今夜、白いタクシーに乗った王子様になった。
了