『学校に行かなくても大丈夫』と伝えることは、(2)
前の投稿もそうですが、モヤモヤした考えを書き出したいと思うきっかけになったのは、次のコメントを耳にしたからでした。
“上手くいった人だけをとりあげて、「学校行かなくても大丈夫だよ」ってメッセージを伝えるの(引用1)“ は良くない
もっともな話だとは思います。学校へ行こうが行くまいが、将来が大丈夫かどうかなど誰にもわかりません。
一方で、「学校に行かないと将来後悔するよ」という人が、子どもが学校に行くことで追い詰められても、耐えて通った将来で上手くいかなくても、そのアドバイスに責任を感じることはないでしょう。今の日本において、学校に行くのは普通とされているのだから。
もちろん、どちらのメッセージを伝える場合でも、責任と大きな不安を抱える立場の人もいます。その子の親です。
僕の感じたこと、考えたこと
大前提として、僕は“その子“の親ではありません。その上で、自分の考えをアウトプットできればと思います。できれば、一つの意見として読んでくれる人がいたら嬉しいです。
冒頭のコメントに引っ掛かりを覚えて、大丈夫というメッセージの是非をあーだこーだ考え始めたはずなので、結論と言えるか微妙なところです。でも、結局のところの意見をいえば、『大丈夫』という言葉を使うかどうかの是非は大した問題ではなく、子どもにメッセージを伝えるときに心に留めておかなくてはならないポイントがあるのだと思いました。
一つには、何故そのメッセージをその子に伝えようと思ったのか、伝えようとする者も自覚しておかないといけないということ。
もう一つ、人生について大丈夫であれ後悔する後悔したであれ、感想を言っていいのは本人だけだということ。
その二つです。
何故、そのメッセージを伝えようと思ったのか
“不登校「ダメだよ。それ絶対ダメ」っていうのだけは避けてほしい(略)それは本当に悪化してしまうと、それが長期化して、引きこもりであったりとかにつながってしまうので、
まずは、その子の存在とか在り方ありのままを認めてあげるっていうのが、まずは第一のステップじゃないかなと思います。“(引用4)
冒頭とは別の回の番組であった、支援の活動をされている中村さんという方のコメントです。
補足になるのかわかりませんが、「ありのままを認める」というのは、承認したり許可したりというのとは少し違います。説明することも実行することも難しい態度や姿勢ではありますが、いうなれば否定も許可もする権利は自分にはない、それでも話を聞きたい、そばに居たいということ(そう思ってることを伝えること)じゃないかなと思います。
子どもでも大人でも、不安や焦りを強く感じた時ほど、続いてきた状態を維持してしまいます。心のどこかで、その状態や行動が好ましくないと思っていたとしても。
後悔するぞやダメや、終わりといった言葉で、不安や焦りを煽ったところで、その子は状況を変えようとはしないでしょう。むしろ、変えなきゃという気持ちがより一層、その子が身動きの取れない状況に追い込んでいくことになります。
何より否定してくる相手をそばに置きたいと思う人はいません。違う視点を与えてくれるものとつながりを持ちたいという人はいても、それは否定とは別物です。
「後悔するんは自分やぞ(俺には関係ないけど)」というのは別として、「後悔せんように頑張ろう」であっても「大丈夫。心配しないで」であっても、そのメッセージを伝えようと思ったのは、将来が予測できるからでも予言できるからでもなく、その子に「寄り添いたい」と思ったからではないでしょうか。
「俺にはわかる」なんてことを言いたかったわけでは無いはずです。
つまり、「大丈夫」という言葉を使うかどうかより、その子に寄り添えるかどうかが肝心なのだとう思います。
ーー 「寄り添いたい」と思うこと
「寄り添いたい」と言った言葉を使うと、優しい気持ちとか思いやりが、、、と言った話のようになってしまいますが、それだけの話ではありません。
番組内の発言を聞いていても、ことはケースバイケースで、対処の仕方も違ってくるというのは、どの人も共通認識と言ってもよいように感じます。
“「学校に行きたくない人」でまとめるんじゃなくて、個人レベルでどういう理由があるのかっていうのを“ 考えていくのが大事。 “そのためには、やっぱ親の力ってすごい必要ですよね。親がいなければ近くにいる誰か“ (引用3)
“ほんとにケースバイケースで、“ (中略) “その子自身がどう思っているかってのが何より大切ですし、まあ、不登校になるにしろ、学校に頑張って我慢して行くっていうにしろ、その子自身が決める“ のが大切だと思います。(引用5)
“いじめられてるとかっていう人は、今、ほんとに俺、行かなくてもいいと思っているんだけど、そういう事こそ親に言えなかったりするじゃないですか“(中略) “『信長の野望』やりたいだけでコイツ行かねんだな、なのか、本当に深刻なのかをジャッジしてやらないと、“(引用7)
これら以外にも、司会が「ケースによって対処の仕方も違ってくると思いますが」と話を進める場面や、意見の前に「学校に殺されるくらいなら行かない方が良い。一方で、、、」と枕をおいて話すという場面も多くあります。
ケースバイケースであるなら次に課題になってくるのは、じゃあその親に言えなかったりする、本人自身もはっきりわからない、そういう「学校に行けない(行きたくない)理由」をどう探っていくのかになります。
少し蛇足になりますが、上で引用した3つ目のコメントの(中略)とした後の部分については個人的経験からですが意見があります。「ジャッジしてやる」のは避けたほうがいいと思います。子どもが親に話せなくなるのは、何かとジャッジ(評価)されたり、心配をかけてしまうことを恐れたりというのがほとんどです。なにより、正確にジャッジするなんてことは、親であっても専門家であってもまず不可能なことです。
ともあれ、ありのままを受け止めるのが第一のステップとするなら、対処するより前に、一緒に理由を探っていくのが次のステップと言えるでしょう。
しかし、否定したり、評価したり、焦り心配したりは、子どもに伴走することの妨げになります。人と人との間のことなので、それらを完全に取り除くことはできないですが、「何故、そのメッセージを伝えようと思ったのか」「何故、語りかけようとしたのか」を折にふれ思い出すことは大切なことではないでしょうか。
本人にもはっきりしない理由を探るのは本人を中心に少しずつやっていくしかありません。だからこそ、ありのままを受け止めることや、「寄り添う」ということは、優しさが大事だからといった価値観の話でなく、その先の対処のステップに進みたければ必要になってくることなのです。
人生の感想を言っていいのは本人だけ
実はこれを書いている途中で考えたことですが、実際に本人に「学校に行かなくても大丈夫」と話す場面というのはあるのだろうか、とふと思いました。
大人同士の会話で「学校に行かなくてもなんとかなる(学ぶ方法はある)と思う」といった話をしたことは僕にもあります。不登校という状態になって、「もう僕は(私は)人生終わり」と嘆く子がいれば、「そんなことで人生は終わらないよ」とは言うでしょう。でも、本人から「学校に行かなくても大丈夫かな?」と実際に聞かれることなどあるでしょうか。
答えれられないことをわかってて(意地悪とかでなく、関わってほしくて)、聞いてくることはあるかもしれませんが、本気で確認するために聞いてくるとは思えもせん。
問われてもいないのに、大丈夫などとわざわざ言いに行くのは大きなお世話だというのは、僕でもわかります。知りもしないで!と思われるのがオチです。
これは、単なる自己満足の話なのかもしれませんが、やはり、事実として将来がどうなるかなんて誰にもわからない以上、人生を評価したり感想を言っていいのは、その本人だけだと思うのです。
かけた言葉が評価になってしまったり、そう受け取られてしまったり、つい心配な気持ちが顔に出てしまったり、といったことは繰り返しになりますが、無くす事はできないでしょう。でも、「大丈夫」であれ別の言葉であれ、自分が何故それを言ったのか、本当は何が伝えたかったのかは、常に振り返るようにはしたいと思います。
最後に、社会として考えなくてはいけないと思うこと
正直なところ、僕は、前の投稿で書いていたように『学力』に関しては、学校に行くことが絶対条件だとは思ってません。
『社会性』といったことに関しては、
“集団で生活するっていうのを10代半ばまでにある程度やっておくことで身につける“ ことが大事 (引用2)
“絶対に行けとは言わないけど、知った方がいい“ “基本的にみんな行っている人達で、この日本は出来ていると思うんですよ“ “その人達に感性を合わせてあげられる能力があることで、より違った自分を演出できる“ と思う (引用8)
これらのコメントにとても納得いくし、重みもあると思うものの、無理をして行って身につくものでもないとも思います。
その子の理解度や進捗を無視した授業を受け続けて『学力』が低下したり、勉強嫌いを強めたりするように、いっときの我慢が成長につながるにしても、何年もにわたる我慢は『社会性』どころか人間嫌いや社会への憎しみを生みかねない。
だから、『学力』にしても『社会性』にしても、状況次第で、良いにも悪いにもどちらにも転んでしまうことであり、正解のあるものではないはずです。
そして、寄り添って一緒に理由を探った結果として、やっぱり学校に行けない、行きたくないとなっても、行かないことを自分で決めたのなら、学校以外でも学力や社会性を身につけるにはどうすれば良いか考える事はできるだけエネルギーは保てるでしょう。社会にもそれに応える資源は増えてきていると思います。
ただ、中村さん曰く、
さまざまな支援や選択肢は増えてきてる。ただ知ってほしいのは、 “それが、やっぱり、経済的な理由とか、地理的な理由で制約されてしまっている“ (引用6)
これは、現場に身を置く人だからこそ感じる現実なのでしょう。
学校に行くことが学力にしろ社会性にしろ絶対条件ではなくても、寄り添うために「大丈夫」と声をかけるのであっても、少なくても「大丈夫だから放っておいていい」には決してならないとだけは言えます。
今現在、僕はまだ周りや側に居ることが出来ている人間ではなく、ただ何か偉そうなことを書き連ねてしまった気もしますが、これらをヒントに何か自分にできることを探していければと思っています。最後まで読んでいただいた方、ありがとうございました。
=参考・引用=
・ABEMA変わる報道番組#アベプラ【公式】,『【教育】授業に出なくても留年なし?義務教育って必要?』,2021/02/21,YouTube
(引用1)9:40 西村博之さんの発言
(引用2)11:05 カマたくさんの発言
・ABEMA変わる報道番組#アベプラ【公式】,『【不登校】兼近「学校が嫌で校内で暴れたことも」いじめや不登校,貧困など“学校に行きたくない“理由は多様?』,2021/07/24,YouTube
(引用3)2:50 兼近大樹さんの発言
(引用4)7:34 中村孝一さん(eboard代表理事)さんの発言
(引用5)9:11,9:24 中村孝一さん(eboard代表理事)さんの発言
(引用6)11:57 中村孝一さん(eboard代表理事)さんの発言
・上記ノーカット版
(引用7)15:15 インパルス板倉さんの発言
・ABEMA変わる報道番組#アベプラ【公式】,『【ゆたぼん】EXIT兼近「敵を作らない方法を知ってほしい」学校は通わなきゃだめ?』,2021/04/24,YouTube
(引用8)4:33 兼近大樹さんの発言