『学校に行かなくても大丈夫』と伝えることは、(1)
今回は、よく「学校に行かなくても大丈夫」「大丈夫とか無責任」「学校くらいはいっておいた方が良い」と意見が飛び交う話題について書きたいと思います。
この話題は、最終的な結論は「行くか、行かないか」の2つになるのに、その答えを出すまでには、色んな価値観があり、メリットデメリット、良い悪い、と様々なことが頭の中をグルグルと回ります。グルグルと回るばかり答えが出ず、疲れてしまって「行けない」となる子もいるでしょう。
親や、その子の側にいたいと思う大人も同じです。
直接には、通信制大学のことでも、子どもの居場所のことでもないのですが、フリースクールやフリースペースといった居場所は、不登校と呼ばれることになった子にとっては大切な場所になりえます。通信制大学も、不登校の立場を経験した人にも役に立つ制度だと思っています。
僕も、子どもの側にいたいと思う大人の一人です。
書いているうちにも余談を含め、あっちこっちに飛び、一回では頭の中のことをまとめられませんでしたが、まずはメリットデメリットの内の「学力」について書いてみました。
(少しお断りしておくこと)
いきなり少し話がそれますが、この記事を書こうと思ったのはネットで見れる情報番組を見てしまったからです。
僕は、討論番組やネットで見られる論破合戦のようなものが得意でなく、というか多分本当は好きなんだろうけど、見てしまうとただでも少ない頭のキャパをもってかれて、他の考えていかないといけないことが考えられなくなってしまうタイプなのです。あまり見ちゃいけないと思っているのですが、ついつい見てしまい、どうせならもう、見て感じたことをまとめで書き出すことで一度吐き出そうと、この記事を書いています。
なので出典や引用元をちゃんと明示して書こうと思っていたのですが、一部、引用元に考えていた人がヘイト事案を起こしたようで、少し手を加えたところがあります。そのため、少し奥歯にものが挟まったようなところや話題がズレる部分があるかと思いますが、すみません。
学校にいった方が学力が上がるのか
「学校に行った方がIQ(※1余談)が上がる」という研究があるそうです。ただ、僕は英語ができず、根拠とされている論文を読み込めているわけではありません。しかし、どう見ても論文の中で効果があるとされているのは、“education“と書いてあるのが引っかかっていました。ただ、上に書いたような事情もあり、今回は、日本語訳もされている類似の研究を参考に考えてみました。
結論を先に言うと、研究で考察されている「教育」は、ほぼ学校へ行くことを指しています。ただ、「学校に行かなければ、教育を受けられない(学力は向上しない)」ということまで言及したものではありません。
参考にしたのは、『教育の効果』という日本語訳された書籍にまとめられた研究なのですが、「学校に行ったほうがIQが上がる」と紹介されていた論文の研究と同じ『メタ分析』(※2余談)の手法が使われています。
書籍『教育の効果』の中での、「教育」
『教育の効果』で行われた研究の目的は、IQではなく学力の向上について、個々の教育の取り組み(著者のハッティさんが独自にカテゴリー分けしたものですが)の効果量を可視化することとなっています。
そして、『教育の効果』の研究成果によると収集された一次研究の平均効果量を0.4として、学校に通わなくても学習者が自身で得られる効果量を0〜0.15としています。つまり、学校で平均的な取り組みがされていれば0.4の学力向上効果があり、更に効果に裏付けのある取り組みをいくつか行えば、それ以上の効果があげられるということのようです。(ちなみに、マイナスの効果、効果があると信じられてきたけど実は逆効果だったというのもあり得るようです(※3余談))
また、収集された一次研究は、学校現場における教師の取り組みや環境の違いを調査対象にしたものになっているため、ここでいう教育とは学校での取り組みとほぼイコールと考えて良さそうです。
また、平均でも0.4の効果があるということは、少なくとも学校に行くことで独学よりは効果が上げられるということにはなりそうです。ただし、『教育の効果』は、学校へ行っている場合と行かななかった場合の学力を比較しているわけでなく、学校で取り組みをした場合としなかった場合の比較をしているものがほとんどです。ここでは、あくまで学校で平均的な取り組みがされていれば、独学より効果があるとも読み取れる(推測できる)という話です。
学校教育には学力を上げる効果がある。それでも
学校教育に効果があるといえる研究を見て、それでもなお、学校に行くことが学力向上の絶対条件だとは思わないのは、『教育の効果』で取り上げられている取り組みが、全ての学校で現実に実施されているものというわけではなく、また、学校外でも可能な取り組みも含まれているからです。
社会教育や生涯学習の教育学の分野には、定型教育(学習)・非定型教育(学習)・不定型学習という言葉というか考え方があります。人によって少し言い回しや定義が違ったり、ユネスコで使われているのは「教育の分類」なので、教育と学習の視点がごちゃ混ぜな感はありますが。
定型教育・非定型教育・不定型学習といった分類を使うとき、「教育」とは知識を教えるということを指すのではなく、「学習」に効果を上乗せするサポートのことを指します。
定型教育というのが公教育や学校教育のことで、定型学習(フォーマル・ラーニング)という言い方になると、学校のカリキュラム(サポート)の元で得られる学習ということになります。非定型教育というのは、公的にじゃないけど、ある程度には系統だてて組織的に行われる教育。例えば、学外の習い事などです。
不定型学習になると、教育という言葉では表しにくい、「仕事や遊びの中にも学びがある」などと表現される時の「学び」を指します。
少し不定型学習については置いときますが、何がいいたいのかというと、非定型教育でも『教育の効果』の研究で効果があるとされている取り組みは、取り入れることはできます。もう少し具体的にいうと、フリースクールやホームスクーリングでも、学力を向上させる目的の「教育」は可能です。
もちろん、学校という場でなければ、もしくは近い環境を作らなければ、取り入れることが難しいサポートというのもあります。例えば、『教育の効果』であげられている「学校規模(の適正化)」などはホームスクーリングでは検討のしようがありません。
しかし、ハッティさんは『教育の効果』の学校要因の総括的な項目で、学校規模や学級規模、時間割(の工夫)は、重要ではあるが学習への影響は小さいと述べています。影響を与えるのは、
“・間違うことが歓迎され、安心でき思いやりのある学級風土のあること“
“・仲間からの影響を受けること“(ともに『教育の効果』p74)
であるとし、教師要因では、指導の質が最も影響があるが、次に必要なことは、上に書いたような学級風土をつくれることや、
“学習者の能力の伸びを見取り、その結果を明確に学習者に戻すのが教師の役割であるという考え方に基づく指導観、学習観、評価観、学習者観を教師がもつこと“
としています。
これらは、研究で発見されたエビデンスというより、エビデンスから著者のハッティさんが考えたこと、と言えるかもしれませんが、学校へ行かないことを選んだ人や、実際にフリースクールやホームスクーリングをしている人には、何か思うところがある記述かもしれません。
いったん、まとめ
いつものことですが、事のほか長くなったので、いったんまとめます。
まず、「学力を向上させる」という目的においては、学校教育はメリットがあると言えそうです。
ただし、環境や条件によっては、マイナスの効果やデメリットとなることもあります。
また、学校教育で行われている取り組みまで分解してみると、効果があるとされる取り組みのいくつかは、学外でも(学校に行かなくても)取り入れることができます。
言い換えると、
「学校にいった方が学力が上がるから行ったほうが良い」ではなく、「学校ではある程度の教育を公的資金で用意してくれるから、学外で自分で用意するよりお得」というのが僕の意見ということになりそうです。
あと、ただの感想ですが、もし自分で用意する道を選ぶなら、その道に「通信制大学」を組み込む選択も考えてもらえるように、僕も何か発信できるようになれればいいなと思います。
(※1余談)
ちなみにここで言うIQも、どんなIQを指しているのかわかりませんでした。おそらく全検査IQだと思いますが、全検査IQは言語性IQと動作性IQに分けて分析することもあります。さらに、別の角度から分析するIQ(“8つの知能“・MI理論・多重知能理論などと呼ばれています)もあり、学校教育はそれらのIQを低減させていると言う研究もあります。簡単に言うと8つに分類される知能のいずれが優位かによって学習方法の向き不向きがあり、学校教育(一律の集団学習)では不向きな学習方法が強要されてしまう、と言うことのようです。
(※2余談)
メタ分析というのを浅い理解からではありますが、説明しておくと、
統計や実験で数値を割り出すことを目的にした研究を「一次研究」と位置付けて、その一次研究の結果から統計的な処理によって効果量などを分析するものです。なお、本文では「メタ分析の手法を」といった書き方をしていますが、正確にいうとハッティさんの研究は、一次研究をメタ分析した複数の研究を更にメタ分析した「メタ・メタ分析」や「メガ分析」と呼ばられるものです。
学術的に認められた研究結果を更に複数分析するものだから、より優れていると言う人もいますが、別にだからといって優れていると言うものではなく課題もあります。
学問や学術といわれるものはどの研究も、その研究で明らかにしたいもの、目的やテーマ、“問い“というものが設定されて行われます。一次研究と位置付けられたといいましたが、それぞれその研究はメタ分析を行う人の明らかにしたいことのために調査や実験をしたものではなく、それぞれに目的やテーマがあります。手続きやサンプルもバラバラです。ある対象について「効果がない」と結果が出た研究よりも「効果がある」という結果が出た研究の方が公表されやすい(公表バイアスなどと呼ばれます)という課題もあります。
もちろん、課題があるからメタ分析は信用できないという話ではありませんが、ただ少なくても、「多くの研究を更に研究したものだから優れている」という認識は危ういと言えます。
「科学的な根拠」とは、学術的な論文に書いてあるから、高名な学者が言っているから「正しい」というものではありません。それでは、聖典に書いてあるから、教祖様が言っているからという理屈と変わりありません。科学的とは、その根拠となっているものの内容や手続きも含めて、聞き手が判断するための材料を提示していることを指すものだと思います。
(※3余談)
児童指導員の仕事で子どもが宿題するのをみることがあり、特に気になる項目なので例にあげてみます。
放課後等デイサービスで預かる子には、学習障害があったり、自己肯定感が著しく低くなっている子もいることもあり、その子に合ってないんじゃないかと思う宿題を出されているときがしばしばあります。子どもによっては、デタラメな答えを書き込んで宿題の時間を終わらせようとする子さえいます。
話を聞いたり様子を見てたりすると、掛け算の繰り上がりを理解していないのに、少数の掛け算の宿題が出ている。聞くと「やり方は家の人に聞いてって言われた」。まる付け(チェック)は、保護者の役目になっているところも多いようです。
『教育の効果』の宿題の項目を見てみると、
“宿題の効果についてのメタ分析を行なった5本の研究“(略)“これらの研究を統合して得られた統合効果量はd=0.29であり、“(『教育の効果』p37)
とある。“(略)“としたところの記述をみると、これは計10万人以上の調査対象者に行われた161の一次研究を分析した結果なのだそうです。そして、基準値とされている学習者が自分で得られる効果量は最大でd=0.15とされています。
では、「やっぱり宿題は出したほうが良いってことが科学的に証明されたんだ」となるのか。
ハッティさんが、その5本の研究結果を考察している部分を見てみると、内の一つを行なった研究者が、
“その結果、彼らは、宿題を大量に与えること、教師が宿題を点検しないことには学力に対する効果はないことを見出した。また、学習者の動機付けを低めたり、誤った学習行動を定着させるような宿題を与えることを牽制するとともに、短時間でできる宿題を頻繁に出したり教師が丁寧に点検するような宿題を出すことがよいと主張している。“(『教育の効果』p249,p250)
と紹介し、ハッティさんも、
“自力で学べなかったり学校の勉強についていけなかったりする学習者にとっては、宿題は動機付けを低減させ、誤った学習行動を定着させ、効果的でない学習習慣を身につけさせることにつながりうる。“(『教育の効果』p250)
と指摘しています。
もっとも、ハッティさんの『教育の効果』の研究目的は、あくまでこれまで行われた研究を統合して、網羅的に可視化することです。一次研究の一つ一つまで、その妥当性や信頼性を精査したわけではないことも明言されています。
「実は、今の日本の義務教育では、宿題は逆効果になるって科学的証明なんだ」と主張したいわけでもありません。
むしろ、先行研究は、自分が疑問に思ったこと、答えを出したい“問い“を考えるのにヒントにはなりますが、その結論だけを持って自分の主張を都合よく裏付けるものとして使えば、落とし穴にもなるのだと思います。
=参考・引用文献=
・John Hatti 著,2018,『教育の効果―メタ分析による学力に影響を与える要因の効果の可視化』,図書文化社
・赤尾勝己 編,2017,『学習社会学の構想』,晃洋書房
・石田智敬・ 森本和寿,2021,「ジョン・ハッティの研究成果と教育実践との 関係を問う -「わかりやすいエビデンス」の陥穽-」『教育方法の探究 』24号:39−56頁.