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夢に龍を斬る――わたしの『西遊記』

前話:はるかな道、とおい国 / 次話:「水の少女」の話——みなの古代史ミステリー


年の瀬や夢に龍斬るてんさん

ミナノひさしぶり俳句

中国語に、こんな言葉があります。

人算不如天算。

「人算」——つまり、人間がいろいろ計算したり、計画してみたって、「天算」——つまり、天の計算や計画には及ばないという意味です。

人間がどうあがいても、結局「天意」には逆らえない。

そうなのかもしれません。

わたしはこの言葉を見る度に、自然に連想するお話があります。

『西遊記』第十回「老龍王拙計犯天條 魏丞相遺書託冥吏」です。

唐突ですが、わたしは子供の頃から『西遊記』が好きなのです。正直、『三国志』より好きです。

子どもの頃、あまり身体が丈夫でなく、しょっちゅう風邪を引いては学校を休んでいたのですが、そんな時、布団の中で子供向き――とは言っても、かなりぶ厚い『西遊記』を、何度も繰り返し読んでいた記憶があります。

わたしの中華文化に対する興味というのは、どうやらこの本がきっかけだったみたいです。

最近、台湾の出版社から出ている文庫版の『西遊記』(全五巻)を見つけ、注釈が充実していて読みやすいので購入しました。これです。

吳承恩『西遊記』台灣:人人出版

今回ご紹介する第十回では、三蔵法師はまだ孫悟空に会ってすらいません。さすが大長編古典文学だけあって、物語の展開がのんびりしていますね。

この回では、どうして唐太宗(唐朝第二代皇帝・李世民がモデル)が三蔵(玄奘)に命じて天竺(インド)に仏典を取りに行かせることになるのかという、そのきっかけが描かれます。(歴史的事実としては玄奘の行為は国禁を犯すもので、命懸けの脱出劇だったのですが……)

孫悟空が三蔵に出会ってからの物語を本篇とするなら、『西遊記』-1.0的な内容と言っていいかもしれません。

さて、当時長安の都は西門街に、よく当たること神の如し、と評判の占いの先生がいました。

その噂を聞いた龍王の手下が、龍王に伝えました。龍王というのは涇河の主である龍で、長安の天気を司っているのです。

龍王は「白衣秀士」(白い服に身を包んだ、インテリっぽい雰囲気の人)に化けて、その占いの先生を訪ねます。

「白衣秀士」(龍王)が明日の天気について訊ねると、先生は「明日は雨だ」と言いました。

「明日は何時から、どのくらいの雨が降る?」重ねて問う「白衣秀士」(龍王)。それに対する先生の答えがすごいんです。

先生道:「明日辰時布雲,巳時發雷,午時下雨,未時雨足,共得水三尺三寸零四十八點。」(先生は「明日は辰の刻に雲が空を覆い、巳の刻に雷が鳴り、午の刻から雨が降り始め、未の刻に雨が止む。雨の量は3尺3.48寸だ」と言った。)

――そ、そこまでわかっちゃうの!?

龍王は笑って、こう言いました。「よし、そこまで言うなら賭けをしようではないか。お前の言葉通りなら、金五十両をやる。その代わり、もし少しでも違ったら、店の看板を壊し、お前を長安の都から追い出すぞ。どうだ?」

先生は落ち着き払って、こう答えます。「這個一定任你。請了,請了」(「どうぞ、どうぞ! あなたのお好きなようになさるがよろしい」)

龍王は涇河水府(竜宮城のような場所)に戻って、手下どもにこの話をします。手下どもは大笑い。「龍王様とも知らずにそんな大口叩くなんて、そいつ、馬鹿っすね! 龍王様は雨も風も思いのままとも知らないで!」

ところが、そこに天上界を治める玉皇大帝からの勅旨が届くのです。そこにはなんと――

明朝施雨澤,普濟長安城。

「明日、長安に雨を降らせるように」と書いてあるではありませんか!

しかも雨を降らせる時刻、雨量ともに、占い先生の言葉と寸分たがわなかったのです!

龍王は思わず頭を抱えます。

「これは困ったぞ! 玉皇大帝の命令には逆らえない。どうすればいいのだ!?」

すると、「鰣軍師」がこう進言しました。ちなみに「鰣」は「ハス」というコイ科の淡水魚です。

「龍王様。雨を降らせる時刻と雨量を、ちょっと変えちまえばいいんですよ。そうすれば、玉皇大帝の命令には従ったことになるし、占い野郎との賭けには勝つことになります」

「それはいい考えだ! さすが鰣軍師!」

龍王以下大喜び。なんだか単純ですね。そんな杜撰ずさんなことで大丈夫なんでしょうか?

ちなみに、中国語に「蝦兵蟹將」という言葉があります。文字通り「エビの兵と蟹の将」という意味で、「龍王の手下」を表します。そこから派生して「役に立たない手下や将兵」という意味になるのですが、『西遊記』のエピソードを読むと、その意味するところがよくわかりますね。

翌日、龍王は鰣軍師のアドバイス通り、雨の降る時間をわざと二時間遅らせ、雨量も「3.8寸」分少なくしました。

そして、また白衣秀士の姿になると、意気揚々と占い先生の店に現れ、その看板を叩き割ってしまいます。

先生はゆったりと椅子に座ったまま動かず、静かに白衣秀士の狼藉ろうぜきぶりを眺めています。

白衣秀士は先生の顔に指を突きつけ、大声で罵ります。「見ろ、雨の降り始まる時刻、雨量ともに外れたではないか! 命だけは勘弁してやるから、さっさとこの長安から出て行くがいい!」

ところが、先生はちっとも慌てません。天を仰いで冷たく笑うと、こう言い放ちました。

「私はお前の本当の姿を知っているぞ! お前は龍王だろう。玉皇大帝の命に背くとはいい度胸ではないか。死罪は免れぬところだというのに、こんなところで私を罵っていていいのかね?」

この言葉に龍王はぞっと震え上がり、いきなりがばっと先生の前にひざまずきます。(龍王の威厳はどこへ?)

「やつがれが間違っておりました! 先生、どうかお助け下さい! 助けてくれなければ、幽霊になって憑りつきますぞ!」

いやはや。こうなると、助けを乞うているんだか、脅しているんだかわかりませんね。

先生は静かに言います。「お前は明日の午の三刻、魏徴という男に斬られることになっておる。魏徴は唐太宗の丞相じょうしょうだから、それを止める力のある者は、この世に唐太宗しかおらぬ。唐太宗に頼んでみるんだな。それだけがお前の命を救う方法だよ」

龍王は先生に拝礼し、目に涙を浮かべて辞去します。(「あなた、本当に龍王なの?」と言いたくなりますが、原文にそう書かれているんです。原文:「龍王聞言,拜辭含淚而去」

龍王は唐太宗の夢の中に入り込み、どうか魏徴に自分を斬らせないでほしいと懇願します。龍王を憐れに思った唐太宗は、その願いを聞き入れると約束します。

そして、翌日。

巳の刻から午の刻になろうとする頃、唐太宗は魏徴を呼び、「久しぶりに碁を一局打とうではないか」と誘います。

皇帝と碁を打っていては、魏徴に龍王を斬ることはできませんよね。

それにしても、唐太宗が直接魏徴に、「龍王を斬ってはならぬ」と命じるわけではないところが面白いですね。

中国の皇帝というのは、日本の天皇家のような、いわゆる「万世一系」ではなく、家臣たちの心が離れると、けっこう簡単に滅ぼされてしまったりするためか、丞相の魏徴に対して、細かい気の遣い方をしています。

いよいよ問題の午の三刻になりました。この時、魏徴は突然、碁盤の上に突っ伏して寝てしまうのです。

唐太宗は、きっと魏丞相は日頃の劇務で疲れているのだろうと思い、そのまま眠らせておきます。

やがて目を覚ました魏徴。自分が皇帝の前で居眠りしていたことに気づき、ひれ伏して謝罪します。

「陛下、それがしの罪、万死に値します!」

唐太宗は笑って、「よいよい。さあ、碁の続きをしようではないか」

ところが、その時――

重臣が血だらけの龍の頭を捧げ持って入ってきます。

「陛下、雲の上からこんなものが落ちてまいりました! 海が干上がったり、河が枯れることはあっても、こんな異常事態は聞いたことがございません!」

唐太宗は驚いて、魏徴に問います。「これはいったい……どういうことなのじゃ?!」

ここです、魏徴が叩頭こうとうして名台詞を口にするのは――

「是臣才一夢斬的。」

それがしが、今夢の中で斬りました」


※※※※※

皆さん、いかがですか。このお話……

この日、「午の三刻」に龍王が魏徴に斬られるというのは、「天意」なのです。

唐太宗がいくらそれを阻止しようとしても、「天意」を覆すことはできなかったのです。

地上の王たる皇帝にも無理なら、わたしたち凡人には……これはもう言うまでもないですよね。

例えばわたしみたいな、吹けば飛ぶようなささやかな毎日を送っているものでも、「これは元々定められていたことだったのではないか」と、時に自分のかたを振り返って思うことがあります。

人生の中で得られるものだって、実は同じなのではないでしょうか。

それがあなたのものであると定められているなら、途中で何が起こったとしても、最後はやっぱり、あなたの手の中に落ちてくるのです。

でも逆にあなたのものでないなら、無理に手に入れようと焦ったり、下手な計略を張り巡らせてみたって、結局は指の隙間から滑り落ちていってしまう……。

だからじたばたしたって、仕方がない。やるだけのことをやったら、後はなるようになれと思っていればいい――

何かとせわしい年の瀬、心も余裕がなくなりがちですが、こんなふうに考えると、少し穏やかな気分になれるような気がします。

しませんか?


※本文中の訳は南ノによります。気楽なエッセイということで、かなり意訳しておりますので、その点をご理解いただければ幸いです。

『西遊記』原文

前話:はるかな道、とおい国 / 次話:「水の少女」の話——みなの古代史ミステリー