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もっとコーヒーを淹れてあげればよかった

仕事終わって、夕飯を食べ終わって、片付けも終わって、そのあとに飲む温かい飲み物って格別じゃないですか?

コーヒーでも、紅茶でも、日本茶でも、温かければなんでも。

そして、誰かに淹れてもらった飲み物は一層に格別なこと。
自分で入れる何倍もおいしくて、何倍も心と身体に沁みわたる。


ずっと母親のこの言葉が嫌いだった。
「コーヒーでも淹れてくれればいいのに」ってやつ。
嫌味感たっぷりのやつ。

自分の飲み物くらい自分で淹れたらいいのに、なんて当時のわたしは思ってた。執事でもメイドでもないんだぞ、こっちは。とすら思っていたかもしれない。

でも自分自身が働き始めて気づく。

仕事で疲れ切った心に沁みるのは、生き返らせる小さな手段は、その一杯のコーヒーだったんだな。

コーヒーを淹れる行為、すなわち「労う」ことだと思う。
その労いがいかにパワーを持っているか、労われたい年頃にならないとわからない。


働き始めてから気づくことは本当に多くて、今なら母親がどうして「あんな」だったのか、少しは理解できる。

女手一つで子供2人を育てることがどれだけ大変かもわかる。
だれかに認めてほしかった、労われたかった、のも。わかるんだよ。
ただ、子供に求めるのは構造的に違う、と思う。
それは対等な関係の他者に求めるべきものだったんだと思う。

それでも「もっとコーヒーを淹れてあげればよかった」と、ふと仕事終わりの一杯を飲むときに思うのだ。

それはわたしの子供ながらの母へのやさしさで、愛情。それ自体は否定しなくてもいいものだと、最近ようやく割り切れるようになったもの。

いつしか、毒親は憎むべき対象と思いすぎていて、自分の気持ちとしばしば対立することがあった。「コーヒーを淹れてあげたい」という気持ちを持っているのは洗脳されているからなの?この気持ちはあってはいけないものなの?と。ダブルスタンダード的な違和感があった。

でも、この優しい気持ちを持っちゃダメなんておかしいよね。
だって、わたし優しいんだもん。仕方ないよね。いいんだよ、いいんだ。

母親への感情はいまだに揺れ動くし、それはきっと生きてる間中続くのかもしれない。それでも、子供が持つ当然の愛情は持ったっていいし、やさしさもあげてもいい。それで自分が搾取されていないと感じるのなら、どんな感情も持ったっていいんだ。

毒親だと指摘しても、すべてを否定する必要はない。
自分の気持ちも大事にしたらいいし、愛情も憎しみもごっちゃに持っててもいい。ダブスタ上等。人間だもの。そんな開き直りをしてみてもいいのかもしれない。


今度、実家に帰ったら、コーヒーを淹れてあげよう。
それで「わたし」が満たされるなら、この気持ちも大事にしよう

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