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告発と批難声明──ご当人ないし関係者には読んで頂きたい「駄目押しの献言建白!」

 冬木透企画を具体化しようとするまさに直前、俗っぽくうなら「ケチが着く」「味噌が着く」にて辟易へきえきとしては兎も角も気分が悪い。
 斯く状況を巡り聊かネガティヴな話題が本稿に限り続くが、筆者の矜持きょうじとも関わるゆえ、恐縮ながら少々お付き合い願いたい。逆に「不快」とされるようであれば、所謂「そっとじ」に加え、ブロックなどして頂いても結構! と予め言明しておきたい。


「個性=固有性」──趣味観価値観は人の数ほど


 その前に、事前確認=大前提として筆者の信条(これも矜持きょうじではあるが)をば開陳しよう。

 筆者は「他人それぞれ」趣味観も異なればこそ、わば「人の数ほど」様々な見識見解があって然るべきとの立場であり、なれば面と向かってそんな「差異」を否定する真似だけは滅多にしない。またこの十数年来、所謂「執着」さえとしとともに「枯れて」きたゆえか、仮に180度異なる「眺め方捉え方」へと接して猶「この人とは合わないな」との予断は抱くにせよ、自らのソイツを「押し付けもせず」また否定もせず見下しもしない。お付き合いもそのまま、である。寧ろ異論との邂逅は「学びの機会」であり、快不快は措いて大切にすべき、尊重すべきとのスタンスである。
 それぞれが「個性=固有性」を有するからこそ、三者的「社会」も成り立つ。そう捉えるなら斯く思考は、決して忘れてはならないきもめいじている──。

 例えば以前にも触れたように、筆者はモーツアルトを学術分野以外にては全く顧みず等閑視とうかんししている。とはいえ「好んで耳にする作品」も決して少なくはない。加うるにモーツアルトを何より好む友人、知人も数多。まあ良いではないか、まさしく「人それぞれ」なのであるからして。
 されど飽くまで「原理原則論」である。実際のところ昨秋、これはまた異なるSNSであるが、政治絡み国際情勢絡みで「例外的に」訣別けつべつを宣言して切り捨てし手合いもいるが、それきりである(コイツも害悪と判断したが、エンゲージメント等を分析しては「捨ておけ」でよかれ、との帰結ゆえ)。

 いずれ流石に見過ごせないともなれば、明確にもきっぱりと「うべきは」なる姿勢を今でも貫く一方、執着も薄まるにつれ、その手の「下衆げす」は最早「一瞥いちべつを呉れる」価値さえないとて無視する。大抵はこれで仕舞いであるが、今回ばかりは怒髪天どはつてん」に到る自身をなだめ切れず⋯⋯否、問題人物たるかおさえ見出したるゆえ、一私人相手ながら珍しくも「告発」させて頂く。

「事此処に到る」経緯


 経緯としてはこうである。共通のSNS仲間たる方のタイトル(僕のポストへと触発され開陳されし反響)へと寄せる「当該問題人物」コメントが、おそらく「手前の耳にした話のみにて碌々ろくろく検証しなかったがためもあろうか、明確にも「嘘」なる情報を(しかもイクスクラメーション・マークを二つも附して!)たたき台としつつ、そのお相手様を萎縮させかねない(問題人物の「芸風」たるべらんめぇな口調にて)「否定的言辞ひていてきげんじ(邪道など)」を重ね、それを目にした筆者が「逆に激怒」した、というもの。
 尤もそれだけであれば、筆者も取り立ててアクションはしなかったであろう。

 当該問題人物は、筆者エントリーにても「汚らしい口調」で、無検証の思い込み自論を「まくし立てる」に到る。
 筆者の衷心ちゅうしん心奥にて「ぷっつり」と何かが切れる
音が谺し聞こえた──。

 以前から「当該問題人物」の言説には疑問疑惑を抱いていたのであるが、それら言説を極めて「無神経なる恰好」にて言葉も選ばず、所謂「べらんめぇ口調」を手前の芸風よろしく放言しており、折節「不快」な心地を憶えていたのは確実である。例えば誰知らぬ人とてなかろう「世界のO」を巡り不愉快にもさせられた(実は筆者、O氏からも数える程度ではあれレッスンを受けている。これについては、当エントリーにて初めて告げるが)。
 なれどそれは構わない。あれだけの御仁なるがゆえの有名税とも思わば⋯⋯しかも若き頃にはゴシップ・ネタとも無縁ではなかったがゆえ。
 いずれにせよ筆者「一人」が黙して抱えて済む「不快」程度であれば、大騒ぎなどはせぬもの。

「まるで嘘」ではないにせよ──検証なき「放言」


 しかしである。やはり「不愉快」なる前科を問題人物はやらかしていた、ともなれば、周囲周辺の皆様が「如何に大人」として対応はすれど、最早看過かんかはし得ず。前科とはつまり、また異なる共通のSNS仲間でらっしゃる方が大学時代にお世話になった、とある音楽家にまつわる「放言」
 確かに問題人物がべらべら喋る「それらには」ある種の「疑惑──確度の高いそれ」も潜んでいる、それは否めない。ところが問題人物が「いけしゃーしゃー」と非難するほど、その背景は決して単純ではない。いずれこの問題人物氏は元・音楽家ではある(そうだが)⋯⋯しかし何しろ彼の情報源というのが、傍証などにて検証可能性が担保されるかと言えばにも心許なく⋯⋯斯く意味からするに「話半分」というのが筆者なりの評価。眉に唾して掛かるべきなれど、さて果たせるかな。
 ゆえに懐胎する疑問疑惑ではあれ、さりとてまるで「嘘」ではないらしい、とも看るべきではなかろうか(上述SNS仲間さんが大学時代にお世話になった音楽家の件をも含め)。

 されど──。
話半分」ともなれば、虚報の混入が問題ともなろう、下手を打てば、問題人物氏が「名誉毀損」等にて訴えられる蓋然性も決してゼロとはし得まい。しかし多くは既に鬼籍ゆえそうなる確率は少ない。ともなれば余計よさね。
「死人に口なし」──ゆえに如何にも「汚く」また「怯懦きょうだ」に過ぎやしまいか?
 そんな「狡さ」も、筆者の疑念と猜疑へ拍車をかけているのであるが。

 いずれ斯く検証可能性が一切担保もされぬ「聞き及んだ話」=問題人物氏はそれを「取材」と宣うのであるが、その方面に限れば、正統的ジャーナルな手法を身に着けし筆者の方が問題人物氏より「遥かに先輩かつ経験豊富」であり、その上で警告かつ教訓として問題人物氏に申し上げたいのは「挙証責任」の重さと「検証可能性の担保──その気も遠くなるほどの枢要性」である。
 これら地道な(時に分解析をも含む)作業を蔑ろとする「取材」ほど悪質極まるものはないと苛烈にも宣告する。
 
そのような意味では、やはり問題人物が語る「円谷プロ倒産騒動」の時期でさえ、関連各方面からの多角的照射に基づく微細な分析は皆無であり、ともなれば事実誤認と看るべき素地も露わとされよう。筆者が主張する通り、二年という「時間」の欠落に加え、制作現場サイドからの各証言(制作番組の変遷)等を再検証の上にて勘案して猶、彼の主張には矛盾を生じる。

「語り口や芸風」に胡座をかくべからず


 今回顛末が契機となるSNS仲間の方はいずれも所謂「大人の対応」にて受け流されたのではあれ、寧ろ第三者たる筆者に「不快感」を抱かせる「口調・芸風」は、取り分け関係者などは当然ながら、十中八九というか誰が目にしたとて決して「痛快ならず」
 おそらく「口調・芸風」に加え「余計な言辞」が多過ぎるからではなかろうか。

「激怒」後に聴音にて書き出したウルトラセブンはホルンパートの一部。3本使用(下段実音)。

 その上で「価値観・趣味観」の押し付けである。経緯節で陳べた通り、これには筆者も早その時点で「激怒」したほどである。しかもである。その「音楽」に関して問題人物は「オタク」をすら自称するにも拘らず、なぜか「ホルンの本数」を間違え(しかもあのような表現を用い)、冬木透本人の手になる管弦楽手法等を、さしたる変化さえなきそれさえ「言外にも」貶すのか、筆者にはまるで理解出来ない。
 
アレンジの過程にて、例えば「経過句」などを中心に「書き換え」は存在しているし、交響詩版は五楽章へとリコンポウズド=再構成する過程にて大胆にもメスを挿れてはいる。しかしながら、オーケストレーションには「大幅なる改変」は施されてなどいない。
 多少の変更点はあるが、オリジナル含めどれも大抵はホルン4本を擁する、盛期ロマン派的「二管編成」を基本単位
とする。猶も附言すれば、彼のこれも勘違いであろうが、バス・フルートは採用されていない。アルト・フルートとの取り違えであろうか。この点については筆者も要検証ではあるが、オリジナル(ただし現在、筆者参照可能音源は全曲のおよそ三分の一)を聴く限り、二重管(U字形状)のバス・フルートらしきソノリティは確認されない。
 一方、これは素人が聴いても即座に判ろうそれとして、バス・クラリネットやコントラ・ファゴットは多用されている。加えて問題人物が言及する「制作費」絡みがゆえに、それら管弦楽編成は「室内楽的アンサンブル指向」を採るものが次第に増えるのは確かであり、この点に限れば100%、彼の言説は諸文献等を引き比べつ照応して謬りとはしない

 とはいえ──。
 例えば僅か三声部のホルンでさえ聴き分けられないとはさても⋯⋯この問題人物は「果たして本当に」元・音楽家なのか? との疑念さえ脳裡のうりかすめる始末である(否、それはきっと過たぬ事実であろうし、それだけの知識見識をお持ちでらっしゃるのは明白。オタクゆえ逆説的に本数の取り違えをしていたに過ぎず、オリジナル・サントラを改めてお聴きになれば、彼もすぐさま誤謬に気づくであろう)。

 確かに問題人物の場合、管弦楽法には決して明るくはないのやもしれない(臆面おくめんもなく宣うが、スタジオ・ワーケーション及びアマチュア中心ながら、各種アンサンブルから吹奏楽、合唱、四管編成規模の管弦楽作品など振り屋、編曲屋の経験からして筆者の方が数段、否、格段に上であろう)。とはいえ、まるで知らぬ訳でもなかろうし、何より「聴音」を弁えてらっしゃる「自称オタク」なら「ホルン2本!!」などという、初歩的ミスなど冒すはずもないのであるが──一体どうしたことであろうや。
 現状においては、彼の「過去エントリー」を隅々まで検証せねばなるまい(独特な「口調・芸風」ゆえこれが最大の労苦となろうが)。

 とまれ彼には口を酸く申し上げたい──。
「手前の聞き及ぶ話が全てじゃあねぇんだよ、複数の傍証を挙げつつ多角的に分析をしたまえよ、かつうは「適切な言葉」を選びたまえよ。それ以上に人それぞれ、趣味観や価値観の押し付けは野暮のそしりをまぬれぬぞ!」と。

 それとともに、謂わば「エール」として──。

 以て「他山の石」と為せ! 問題人物こと愛すべき先輩よ!
 
加えて人たる者「一生涯為修学」なんですよ先輩! 応援してますから!

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