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【歿後120年】ドヴォジャーク3:颯爽たる青春と葛藤なる円熟の協奏曲


円熟期のドヴォジャーク。

はじめに

 その時代──つまり「ロマン派」期における「音楽が華」は、ヴィルトゥオーゾ的「表現手法」へと次第に収斂しゅうれんされていく。これは「送り手側」=則ち作曲家・演奏家側にせよ、また「受け手側」=聴衆にせよ変わらず、結果たるとて超絶技巧あるいは難易度の高いパッセージなり構造なりを披瀝ひれきするに打ってつけたるピアノ、あるいは弦楽器であればヴァイオリンがそれへとあずかるに能う風潮・土壌をつちかい養う「一面」にて歓迎をされ、就中なかんずく独奏曲やソナタ、協奏曲分野において上記二楽器が「王者」然として君臨するへと到る過程が雄弁にも物語る「歴史的経過」に明白である。
 一方で「据え置き型」たるピアノは別として、より大型なる筐体きょうたいを持つ楽器群は、例えばヴィオール属にてかつてはまさに「華」であったヴィオラ・ダ・ガンバが廃れ、肩より提げて奏でるヴィオロン・チェロ・ダ・スパッラも今日ヴィオラとの競合にて姿を消す。以降は現代において猶、俗に「チェロ」と呼ばれる楽器が時にヴィオラとともに中音域を、かつうはコントラバスとオクターヴにて低音域を主に受け持つが、その魅力・妙を堪能し得る作品となると、室内楽や独奏曲、ピアノと組むソナタなどに限られる。チェロのための協奏曲たるや、ロマン派以前にあってはハイドンのそれのみがレパートワー唯一と呼ばれるほどに貧弱であったは、やはり否めない(往時は、チェロの名手でもあったボッケリーニの一群になるそれらはほぼ忘れられていたのである)。例外的に、ベートーフェンになる三重協奏曲が数少ないレパートワーを補うに過ぎず、新たな「一挿話」を加えるべく試みる人も、指手折ゆびたおるばかり──否、アントンが果敢にも最初のそれへと手を染める1865年なる時点においては、独りシューマンが気を吐くのみであるは驚嘆に値するが否定し得ぬ事実である(尤も、ロシア「チェロが帝王」カールル・ユーリイェーヴィチ・ダヴィドーフになるささやかな協奏的作品が62年に1タイトル作曲をされてはいるが)。
 いずれ範を求めるべきモデルは乏しい。
 にもかかわらず、アントンがチェロ協奏曲へと着手するは、自身もチェロを心得の一つとしていたのみならず、仮劇場における同僚で親しく交わることとなるルデヴィート・ペールの存在を抜きには語れまい。この、ムシェノ出身たる若きチェリストが彼アントンへの霊感──その淵源として枢要な役割を果たすは、今日否定はし得まい。いずれにせよアントンは、齢僅よわいわずか十八たるルデヴィートの技倆ぎりょうへと思いを託しつ、往時惹かれつつあったリストあるいはヴァーグナーなど「新ドイツ楽派」の影響をさえ被る最初のコンチェルトへと手を染めるに、躊躇ためらいなくチェロを選んだのである。

チェロ協奏曲イ長調 B.10

 同年6月30日18時、彼はチェロ協奏曲イ長調 B. 10を脱稿する 1(この段階ではチェロとピアノによるスケッチに止まる)。
 アントンは逸早いちはやくルデヴィートへとその完成を知らせたかったのであろう、未だオーケストレーションをさえ施してはいないうちに、草稿をルデヴィートへ手渡すのであるが(おそらくはチェロ・パート書式へのアドヴァイスをも受けようと考えていたに相違あるまい)、結果的にはその直後、欧州各諸邦へのツアーを敢行すべくルデヴィートはボヘミアを後にし、以降彼が再びボヘミアの地を踏むことはなく、両者が再度まみえることさえなく⋯⋯この実り多き「65年」における(二月中旬から二月余りの短時間で完成をせるハ短調交響曲=今日「第一番・ズロニツェの鐘」として知られるそれと同様)「忘却をされたる作品」の一角を為す。
 一方でヨセフィーナ・チェルマーコヴァーへの失恋と関連づけられる歌曲集「糸杉」 2 3 、あるいは友人であるアンゲルがスコアを保管していたことから「朝な夕なの食膳が燃料=定期的な燃やし」(チヴィディーニはこれを「Autodafé」と表現している 4)より救われ、80年代後半にアントン自身により改訂が施され初演へと漕ぎ着ける現行の「交響曲第二番変ロ長調 op. 4 B. 12」とは、まさに対照的である 5
 若きルデヴィートそしてアントンともに、しくも1904年に帰天するのであるが、ルデヴィートの遺品よりイ長調のチェロ協奏曲が発見されるのは、その死より14年をる1918年(1925年説も存在する 6)であり、発見が過程に聊かなりとも関わったのがドイツの作曲家、ギュンター・ラファエルである。彼はある種の「山師根性」がゆえか否かは措き、発足後間もないマサリク首班チェコ・スロヴァキア共和国に法外な値にて買い取るよう打診。なれどマサリク共和国政府は敢然としてこれを拒み、当ての外れたラファエルは自らオーケストレーションを施し公表、普及へと乗り出すことでかてを得ようと試みる(一方で彼は、ある程度の値で買い取る先をも探し続けたようであるが、自らのオーケストレーションが完成をするのとほぼ時を同じくして、ドヴォジャークともゆかりの深いイングランドは大英博物館へその自筆譜は購入、収蔵されるに到る 7)。とまれラファエルのスコアへと接する態度・姿勢はかなり恣意的しいてきなもので、おそらくは効果を優先しつつチェロのテクニカルな表現を中心に大幅な書き換えと大胆なカットを断行する。

・ラファエルの恣意

 結果として若きアントンにありがちな「長大さ」は改善を看るも、そのノートは全1558小節、およそ55分に何なんとするものが僅か376小節、30分程度にまで縮小をされ、フィナーレ終結部に到っては「ラファエル」オリジナルへと差し替えられるなど、ある意味にて原曲の「姿を留めぬ」大改変ゆえに、発表をされし1929年当時より、批判を喚起する編曲=代物であったは想像に難くない。
 斯くなる経過を看るがゆえに、チェコ出身の音楽学者、作曲家たるヤルミル・ブルグハウゼル(ドヴォジャーク作品目録番号劈頭Bはブルグハウゼルのイニシャルである)は同曲をオーケストレーションするに当たり、極めて慎重かつ敬意を以てそれへとのぞ 8

 ブルグハウゼルによるプロジェクトは、社会主義体制チェコスロヴァキアが国を挙げて取り組む一大事業であり、往時確認をされるドヴォジャーク全作品の刊行を目標として掲げるものであり、ラファエルの「たかり行為」と前後する1929年には既に、ヤン・ブリアンのチェロパート校訂版にて知られていたイ長調協奏曲を巡っては、先ずピアノ伴奏版を1975年に、続いて管弦楽版を1977年に上梓じょうし、刊行するに到る。いずれもドヴォジャークのオリジナルなノートを尊重しつつ、その研究が帰結より得られ導かれたる解を基に、可能な範囲──その限界値内に止まるカットと代替だいたい演奏譜(所謂「Ossia」として)を提案、奏者らによる選択の余地を残す形でオーケストレーションを施している(管弦楽編成はドヴォジャーク中期──その開始を告げるピアノ協奏曲へと準拠し、古典派的二管編成を採る。つまり金管楽器はホルン2、トランペット2であり、打楽器はティンパニのみであるが、これは奇しくもラファエル版も同様であり、斯く意味にてはラファエルも決して恣意が過ぎたる訳でもなかったと弁疏べんそし得ようか)。
 先述の通り、アントンが範を求めるべき作品はハイドンやベートーフェンなど古典派になる協奏曲より外にはなかったのであるが、それゆえか否かは措いて、後年円熟になる著名なロ短調をも含め、長大なオーケストラによる提示部が確保、敷衍ふえんをされて後にチェロ独奏が挿入をされる点は、彼アントンの善くも悪くも、あるいは新たなスタイルかオールド・ファッションかを問わず、所謂いわゆる「ドイツ的」イディオムを基盤とする手堅てがたさと美学ゆえであろう。

・ドヴォジャークのドイツ性とネイェドリィーの私怨

 実のところ、私怨しえんからドヴォジャーク及びそれに連なるスクらを排撃することとなる、社会主義体制下におけるチェコ文化行政の初期トップたるズデニェク・ネイェドリィーであるが、前述事由から出身地を同じくするスメタナ、師であるフィビフらを擁護する一方、ドイツ的堅牢さを併せ持つアントンを批判するは、まさにドイツ色濃厚ゆえそれなりに「いわれある」と考えてもよかろう。しかしながらドヴォジャークとは親しかったもののタイプとしては聊か毛色も異なるモラヴィアが生みしヤナーチェクをも排撃するは、純粋に「美学的」事由などをも含め、論理的たるそれなど毛筋ほどでさえ担保されまい(確かにヤナーチェクの場合は、スメタナやフィビフ、そしてドヴォジャークとも異なる「第三の道」を歩みはすれど、その独特なるイディオムを排撃するは、素材とその確保・敷衍、展開という意味において、当初ネイェドリィーのロジックからすれば一切そうする論拠は見出し得ぬ。尤も後には、社会主義者としてソヴィエト・ロシアが打ち出す「社会主義的リアリズム」という「免罪符」を手にするが)。
 やはりその私怨たるや、若きネイェドリィーが情動を左右するほどの葛藤=衝撃をもたらした結果ゆえ、と看做みなす外にはなかろう。
 ちなみに私怨とは、オティーリェ・ドヴォジャーコヴァーつまりアントンの娘への失恋であり、彼女がヴァイオリニスト・作曲家たるヨセフ・スクと結婚をしたことで、その矛先がスクへ、更にはアントンと親しきヤナーチェクへと向けられたやに考えてくはない。
 ただしこの狡猾こうかつな社会主義者は、アントン生前には大規模な非難的論陣を張るまでには到らず、それでも1901年に発表されし歌劇「ルサルカ」を痛烈に批判する他、プラハにおけるスメタナ、フィビフらとドヴォジャーク党派(プラハ音楽院学閥)との対立を煽り始めるなど、アントン生前から陥穽かんせいを仕掛けていたとも言えよう。やがて彼が帰天をし、ズデニェクはその攻撃性をやおら露わに表出するのである。とまれ──。

 ネイェドリィーを巡る挿話は、また異なる機会へと譲ろう。いずれ日常的にはドイツ語話者たるスメタナ、フィビフとは異なり、なればこそ「ボヘミア人」的肌感覚を「ドイツ的」イディオムへ託し表現するに何らの躊躇いを憶えることなきアントンゆえの、若きそれと円熟になるそれ=チェロ協奏曲と断じて過言とはすまい。此処で蛇足ながら付言すれば、むしろ「ボヘミア人」(シュレージエン=シレジア人もではある)は「ボヘミアン=ロマが民」とは異なる意味にて「きわが人達=インターナショナル」気質が未だに「当たり前」であり、チェコ語プラスアルファが日常である。少なくない彼らは、母語たるチェコ語の他に、世代により異なるがドイツ語や英語に加え数多あやつこなす。つまり彼らは大抵「バイリンガル」どころか「トリリンガル」も少なくはなく、その数はプラハ市街にて「石を投げれば必ず当たる」程であろうか(ゆえに筆者など、どの言語にて「会話を交わすべきか否か」を図りかねるほどである)。さて閑話休題──。
 いずれの協奏曲ともに、度々触れる通り古典派的王道たる「管弦楽のみになる」提示部の確保がなされて後、チェロ独奏へと引き継がれるソナタ形式が冒頭楽章の特徴であるが、若書きイ長調の第一楽章は、後のロ短調よりも長大であり、しかも第二楽章とはアタッカにて連携をしている点で、後年のロ短調、あるいは一般的な協奏的作品とは一線をかくす。加うるにフィナーレ結尾も夢見るかの弱奏にて終えるなど、若きアントンの野心とオリジナリテが「マリアージュ」したる佳品である。
 一方で先述の通り、この若書きたる最初の協奏曲はリスト、ヴァーグナーらに代表される「新ドイツ楽派」的思潮に彩られている。
 第一楽章は縷々るる申し陳ぶる通りロ短調 op. 104のそれとほぼ同一の構造を有する(というよりも寧ろ、同一の「雛型」を基に、アントンは円熟期になるそれを描いたのやもしれない)。取り分け長大な管弦楽のみになる提示部、比較的短い展開部、第二主題から開始される再現部など、三十年という途方もない経時性けいじせいを超越して近似的きんじてきですらある 9

・「ヴァグネリアン」宣言

 提示部冒頭4小節は、ヴァーグナー「タンホイザー」序曲の冒頭3小節(所謂「巡礼の動機」)より和声的構造やその進行をほぼダイレクトに引用、また拍節は異なれどリトミカル的にもほぼ同一と看做してよい 10

ドヴォジャークチェロ協奏曲イ長調第一楽章冒頭とヴァーグナー「タンホイザー」序曲。

 リトミカル面あるいはその他の第一主題要素等構成動機としては、タンホイザーのみならず、同じくヴァーグナー「ローエングリン」前奏曲をも構造的霊感の淵源と看做すべきそれらとして数えて良い(斯く意味でタンホイザー以上にローエングリンよりの影響を指摘すべきであろう 11)。
 それはまた、和声進行的にほんの僅かながら匙加減を加えたるイマーゴとして一定以上の影響力を若きアントンへと行使をし、彼を支配する 12
 いずれにせよ、この第一主題群にて決定的役割を担う冒頭4小節から、彼は自らヴァグネリアンたるを宣言したと断じて差し支えなかろう。斯くして134小節 13わたる管弦楽になる提示の確保を経て、タンホイザーは「巡礼の動機」より着想を得たる第一主題が独奏チェロにより朗々と高らかにも歌い奏でられるのであるが、管弦楽のみになる提示部(実は第一主題主要要素の一部のみ)から更に幾つかの構成要素が抽出をされつつ音楽は昂揚こうよう、チェロによる「聴かせどころ」をブリッジとして形成しつつ(遂にはトリスタン的和声進行さえ登場する! 14)、やはり歌謡的な第二主題がチェロに現れる。

 それらを彩る第一主題要素群が管弦楽などを通じ、より劇的にも青春を謳歌するやの提示部を徹底敷衍。それのみで眺めるならチェロの独擅場どくせんじょうともたとえるべき第二主題部が20小節ほど長いのもこの若書き協奏曲の特徴であろう。提示部終結後、4小節と極めて短い(しかも技巧披瀝のそれではない)カデンツァの後に、管弦楽のみを前駆とする短くはあれ劇的な展開部へと到り、張り詰めたテンションを維持するままに再現部へ突入、表情を様々に移ろわせつ、そのまま第二楽章へとアタッカにて移行する。
 この第二楽章は、そう考えるなら「肥大したるコーダ」とも看做し得ようか。勿論、額面通りそう解釈するには聊か無理はあるが。とまれ新たな主題要素を得し三部形式になるこの間奏的楽章は、ある種の「リトルネッロ」的性格をも懐胎する 15。第一楽章と同様、構造的には古典派的特質を備えつも、その音楽的思潮はやはり「新ドイツ楽派」的である。
 その一端が最も「強烈なる面持おももち」で迫り来るのは、あるいはフィナーレ第三楽章冒頭やもしれない。チヴィディーニはその調性感を曖昧とする強烈な劈頭へきとうに、リストのピアノ協奏曲第二番は513-514小節の「影」を的確にも看取している。それはA-F6の交差による、不安げでいて何処かときめくかのノートに明白である。この目紛しくも活発なフィナーレは「ロンド」とされてはいるが、実際のところは「自由なロンド・ソナタ」形式と規定すべきであろう。
 73小節の、管弦楽のみになる不安とときめきがぜとされたる序奏の後に、跳ねるように飛び抜けて明るく闊達なチェロ独奏が歓びも弾けんばかりにその音を奏でる。にも肯定的な音世界が拡がるかのようである。いずれにせよ、サブドミナントとしての「トライアド──シックス」あるいは7度や9度を頻用することで、構造的には「古典派的」なこの協奏曲をまさしく新たな「ドイツ的流儀」により修飾をするという大胆な試みに、彼アントンは概ね成功していると看做してあやまりとはしない 16
 一瞬の静寂がうちに、夢から覚醒めざめるように、なれど清涼感に包まれつつ閉じるというのも新たなる地平を切りひらくという意味では、その結尾も功を奏していよう。

・元祖「長大作品常習犯」若きアントン

 尤も「弱点・難点」も存在する。
 この時代、つまり19世紀中葉から後半期というのは、一般市民が様々なスタイルにて「音楽──その妙」を味わい楽しむ慣習が根付いて、未だ百年を経ずであり、往時聴衆の質的問題をも顧慮するなら、彼の作品はあまりにも「長大に過ぎた」のである。確かに、一時間あるいはそれをも超える「純演奏会用」作品は既に存在している。ベートーフェンの「第九」がまさにそうであり、シューマンが発見をしメンデルスゾーン=バルトルディが初演にて披瀝をすシューベルトの「大ハ長調」がそうであった。斯くメンデルゾーン自身も、ベートーフェンに肖りつつ、半ばカンタータとでも呼ぶべき二番の交響曲をものしている。これらはいずれも、一時間前後乃至ないしは七〇分を要する。あるいはフランスが生ましむるベルリオーズの交響的作品も五〇分前後と長い。
 なれどこれらは飽くまで例外中の例外であり、交響曲にせよ協奏曲にせよ三〇〜四〇分が限界=閾値いきちであったのは間違いない。
 聴衆は様々なスタイルになる楽曲をアラカルト的に求めており、そんな紳士淑女には一曲当たり長くとも三〇分前後に収まる音楽作品が歓迎されたのである。結果たるとて、少なくとも1850年代より世紀末期にかけては、いずれのジャンルであれ三〇数分前後またはそれ以内にコンパクト化をされ収斂されていく傾向が一般的であった(なれど送り手側=作曲家の決して少なくはない層からは、肥大化する表現的イディオムを現出すべく、裏腹にも「長大化という逆位相」へとそのヴェクトルを作用させる傾向を探る人々も増える。マーラーなどはその典型であろう。他にもブゾーニやパデレフスキ、指揮者として著名たるフルトヴェングラーが作品などもそうである)。
 斯様な状況下にあって彼の初期作品──その大半は一時間近くを要する物ばかりであり、およそ実演向きとは言えぬ代物しろものの山ともうべきそれらであったは確実であろう(ちなみに「交響的大蛇」ブルックナーの本格的登場までは、あと数年を要する)。
 加うるに、このアントンの記念すべき最初の協奏曲に関しては、独奏チェロへの過重な負担も指摘されている 17 18

・ブルグハウゼルの挑戦

「おざなり」と表現しても良いほどに「恣意的」なる手を加えたラファエルに対し、アントンの研究家でもあるブルグハウゼルは、独奏者への負荷を解消するのみならず、一部のチェロ・パートのオーケストラへの編入による「単調さ──その回避」手段として代替奏譜たる「Ossia」を、謂わば様々な組み合わせ・チョイスにて奏者側が任意選択し得る解決手法を打ち出している。斯く過程で、彼は可能な限り「アントンがノート」を尊重する姿勢を示してはいるが、両端楽章では「Ossia」と同時に、可能にしてかつ限界内にて許容され得るであろうカットをも併用している。それは副次要素以外の不要な動機や執拗な反復など、最小限に止められてはいる 19

75年ブルグハウゼル版チェロ・パート譜冒頭。初演者サードゥロによる運指、運弓付き。

 代替としての「Ossia」を巡っても、ブルグハウゼル自身が「オリジナル」として「補遺的作曲」をするシーンを、これも適う限り回避、アントン自身のイディオムを転用、類推する程度に抑えており 20、その他では先述の通り、チェリストへの負担軽減と曲想をより豊かなそれへと転じるためのパート異同・書き換えなど、飽くまで「アントン」在りきのスタイルを貫いている。
 それでも結論的に申し添えるなら、およそ55分になろう自筆譜(チェロとピアノ)版に比すれば、ブルグハウゼルになる管弦楽版もかなり短縮をされているは致し方なかろうか。現在一般に入手可能なメディアのうち、最も近年のそれにしてかつ、独自的改変も少ないアレクサーンドル・イズライリェーヴィチ・ルージン(ルーディン。チェロ独奏&ディレクティング)とムジカ・ヴィーヴァになる演奏でさえ、およそ36分──とまれ未だ洗練されシェイプされし作曲技法を水平線の彼方に眺める、若きアントンならではをも楽しんで頂くべく、上記ブルグハウゼル管弦楽版の他、チェロとピアノによる自筆譜版 21、現在唯一たるイッサーリスらによるラファエル版 22全てをお届けしよう。
 いずれこの若き日の佳品が、アントン独自のオーケストレーションこそ実現をせぬも無事に「救われたる」歴史の必然に感謝したい。

 さて──。
 彼アントンの協奏曲ともなれば、数多のクラシカル・ミュージック愛好家が先ず挙げるであろうは「著名な」チェロ協奏曲つまりロ短調 op. 104 B. 191を措いて他にあるまい。それは最早疑いようもなかろう。
 筆者にとっても、実に思い入れ深き作品である。
 初めてオーケストラにてプレイしたのがこのロ短調協奏曲であり、それのみに留まらず筆者は、異なるパートにて同曲演奏の舞台へと上がっている(最初はテューバ、次なる機会ではオーケストラ内チェロ・パート)。
 とまれ筆者の個人的なる思い入れを巡っては、これ以上の言及はしない。

チェロ協奏曲ロ短調 op. 104 B.191

 この「著名」かつ「偉大な」協奏曲については、様々な観点からメスを入れるのも面白いやもしれない。ただ「明確」に申しぶるなら、このアメリカ時代「最後の作品」がある種のホーム・シック、及び彼アントンの精神的危機へと聊かなりとも関わる点については、それが確固たる傍証的論拠を時には欠くにせよ、彼アントンの心理的イマーゴと少なからず連動する蓋然性がいぜんせいの高さから思惟しいすれば、斯くなる切り口より迫るのも要を得るであろう。
 俗にこの協奏曲の冒頭楽想を彼は、アメリカ時代は比較的中期になる1893年の秋、雄渾なナイアガラの瀑布をの当たりにしてひらめいた、なる風聞も伝わり、例えば関根日出男先生なども折節触れている 23が、その「祖型」ともなるべき淵源は、凡そ半年ほど後に耳にせる、ニューヨークはナショナル音楽院の同僚にして親交を結ぶチェリスト・作曲家たるヴィクター・ハーバートのチェロ協奏曲第二番ホ短調 op. 30は第二楽章主要主題に求めるべきやもしれない 24 25。とはいえ仮に、比較的膾炙かいしゃをされたる前者(ナイアガラ瀑布のピソード)との関わりをも一つの足掛かりとして捉えるなら、アントンの息つまり「小さい方=次男」オタカルの回想録他が浮き彫りとする、先に触れたる「精神的危機」の影を、我々は見出し得るのではなかろうか。

・アメリカ時代アントンの精神的危機

 オタカルの回想録によれば、アメリカ時代のアントンは、決して軽くはない神経症へと見舞われ、時に外出でさえ困難を伴うものであったという。
 これも俗説的に囃される小話ではあるが、アントンが所謂「鉄道マニア」であったのは間違いなく、次男オタカルの回想録にもその様子がしたためられる。のみならずアメリカ時代当初は、港湾の埠頭に浮かぶ巨大な船舶・艦船を眺めるために、態々わざわざニューヨーク港、ニュージャージー港へと脚を運んでいたという。おそらくのところは、今日的なる「マニア」としてのかおに止まるのではなく、往時的ハイテクノロジーへの興味・関心が結果ではあろう。
 斯く意味でそれは、異郷の地におけるささやかなる楽しみではあれ、本来が故地ボヘミアを好み、故にハンスリックらの強い勧めにも拘らずヴィーンへの移転をも断った経緯を思えば(尤もこれは、あの時代がボヘミアへと燻るアンチ・ハプスブルク気質がアントンを逡巡させた結果でもあるが)、郷愁──故地への思いが募るのに比例し、やがてはそれさえいとうべき存在、否、唾棄すべきものへと変じてしまう 26なる見方も、決して穿うがち過ぎと一笑にすべきではなかろう。その頃の様子をオタカルは、ボヘミア帰還後の挿話として「遠洋定期船、ニューヨークの街角や動物園など色々なことについて魅力的な話を語ってくれた。しかし、最後のビール2杯を飲み干す頃になると、さっき話したことは全て本当ではないのだよと告白するのが常だった 27」と、回想録にて振り返っている。

チェロ協奏曲ロ短調の自筆スコアより。

 福田宏によれば、それを裏付けるように、ニューヨーク時代の彼が居酒屋などでかなり「無茶な飲み方をしていたという証言が残されていることを考えると、どうやら適切と言える量ではなかったようだ。オタカルの回想録は父親の死から半世紀以上経ってから書かれたものであり、記述には多くの事実誤認が含まれていると思われるが、父の精神状態や飲酒に関する説明に間違いはないだろう。その他、アメリカでの通訳兼サポート役を務めたコヴァジーク(Josef Jan Kovařík, 1870-1951)なども、公演前に異常な不安感を示したり、突然癇癪かんしゃくを起こしたりといったドヴォジャークの『奇行』を書き留めている」 28と、アントンの神経症ただならぬを示唆している。

・ナイアガラ瀑布か華厳の瀧か?

 いずれロ短調のチェロ協奏曲に限れば、福田が示す通り、単なる郷愁が故のホーム・シックのみでは説明さえ及ばぬアントンの精神的危機──その爪痕を、随所に嗅ぎ取り得るのではなかろうかと筆者は思量する(加えて福田は、彼が「広場恐怖症」であったとも触れているが、なればとてかの雄渾な「ナイアガラ瀑布」から、何か躊躇うかの楽想を思い浮かべたとの理解をすら容易く導くも可能ではなかろうか)。
 確かに、そも渡米そのものでさえアントンは逡巡をして挙句一旦固辞している。されどナショナル音楽院を創設・運営するジャネット・サーバーは諦めることなく根気強くアントンを説得、また彼自身、多くの子を抱える状況下にてプラハ音楽院教授としての俸給とは比べようもない巨額な年俸(およそ25倍たる15.000ドル)を提示されては折れる外なしとて渋々受諾しての結果であり、アメリカ行そのものがもとより本意ではなかったのである。
 それでも渡米から暫くはロンドンを凌ぐ巨大都市ニューヨークへと惹かれるのみならず、現地よりの熱烈なる歓迎、あるいはブラック(ネグロ)ミュージックへの興味共感が呼びます「新鮮なる感覚」、そして何より現地チェスキ・コミュニティとの交流という支えもあり、最後の交響曲たる第九番ホ短調 op. 95 B. 178、あるいは弦楽四重奏曲第十二番ヘ長調 op. 96 B. 179(夫々「新世界より」「アメリカ」の愛称で馴染み深い傑作的人気作)をものするが、凡そ二年半(実質上はほぼ二年)に及ぶアメリカ生活にあって、アントンが充溢じゅういつせる期間というのは、実のところ最初の一年に限られると、そう眺めるよりないのではあるまいか。
 そのような仮定の許に彼の創作──軌跡を辿るなら、「新世界より」「アメリカ」は渡米後から間もない93年前半にものされ、またその基本設計=アウトラインを得るのであるが、以降については聊か抑制的、というよりも散発的となる。
 斯くして作曲家アントンはみ停滞するのである。

 その間に彼アントンは、契約の延長を条件に、94シーズン・オフをも含む半年近くを故地ボヘミアはプラハ、そして愛すべきヴィソカーに送るが、やはり愛聴されたる「ユモレスク」を除けば実りも少なく、新たな作品への創造的歩みは鈍きものであり、いずれこの長い帰郷がより以上の郷愁=ホーム・シックへと彼を駆り立てたに違いあるまい。また、病を得た父を残してアメリカへ再渡航するという事情なども、フラストレーションをより増大させ、過重なストレスを猶一層齎したであろうは容易に想像もつこう。謂うなれば、彼アントンのメンタルは「退きならぬ」状態であったのではあるまいか。
 それでも彼は、十月下旬には休暇を切り上げアメリカへと渡る。

・悲しき報らせ──そして偉大な協奏曲へ

 アントンがチェロ協奏曲ロ短調を書き始めたのは、ニューヨークへと再渡航して間もない11月8日である 29
 直截的にはプラハ音楽院でかつての同僚であったチェリストたるハヌシュ・ウィハンより委嘱いしょくを受けての着手であるが、一年余り前に目にしたナイアガラ瀑布、その半年ほど後に耳にしたハーバートが協奏曲の楽想、加えてニューヨーク到着後の様々な憂慮を起因とする健康や精神的危機──そのうちの一つには、着手直後の11日付になる娘・オティーリェよりの書簡にしたためられし初恋の人・ヨセフィーナの「死病」を告げる深刻ならせ 30 31など、葛藤や衝撃をはじめとする実に様々な情動が坩堝に蠢き、なればこその暗鬱とレイジ、目眩く表情の変化を描くべく、大規模な編成になる管弦楽とその書式を必要としたのであろう。

チェルマーコヴァー姉妹。譜捲りするが初恋の人ヨセフィ、妻となるアンナはピアノを奏でる。

 実際のところ、ロ短調協奏曲はチェロの見せ場(聴かせどころ)も然りながら、管弦楽も介添えつまりは陰で支えるのみならず、あたかもソリストと拮抗するやに主張し聴く者を飽かさず、一切弛緩しかんするを許さぬ緊張に溢れている。
 おそらくは彼アントンの往時が精神的危機をも反映しているに違いあるまい。そう規定するなら、単なる「円熟味」とは異なる那辺にこそ、このコンチェルトの真髄を求めるべきやもしれない。一方で、彼アントンは闘う必要にも迫られていた。アルゼンチンの政情不安などを発端とする、アメリカ初の「93年恐慌」の余波から、サーバー夫妻は破産寸前であり、アントンへの俸給支払いも遅滞していたのである。斯くして彼は、筆をりつつ夫妻と対峙、延長予定であったナショナル音楽院学長職をなげうつに到る。
 彼アントンが仮に、その気力をすら絞り出せずにいたなれば、この協奏曲はより悲劇的なる色合いを帯びていたであろう。その闘争の結果、謂わば「陽の逆位相たる陰」は破れる。ゆえにこその「威容を誇る偉大な」協奏曲とも捉えてよかろう。
 例えば第一楽章冒頭、クラリネットが吹奏する第一主題は、例のハーバートの二番二楽章主要主題を意識したものではあるも、ハーバートのそれがメジャー・キイによるグリーグ的抒情性を醸すのとは裏腹に、アントンのそれは93年に帰天せしチャイコフスキーは交響曲第五番の冒頭とも相通じる空気さえはらむし、同六番(所謂「悲愴」)との連関性さえ指摘し得よう 32(またこの主題には、アメリカ的セヴンスさえ含まれる)。なれどもこれは「猶も生きん」とせるアントンの闘争──その決意の表れであり、続く二楽章は今や義姉たる初恋の人ヨセフィーナへの、ある種の「エール」でさえあろう。

・闘争への勝利と帰還──憤怒と対立

 謂わばその第一楽章においては自らが懐胎する葛藤との闘争を、第二楽章ではヨセフィーナへの「想い」を描出する音楽ではなかろうか。なればこその、劇的表現を多用するオーケストラ及びオーケストレーションと書式を彼アントンは求めたのであり、若書きのイ長調以来「高音域は鼻にかかるようなうめき声を、低声域ではぶつぶつとうなるよう 33」な音色がゆえどうも好めないとさえ漏らしていたチェロをも、ウィハンの委嘱という事情は抜きにして猶も、ある種の絶対的枢要なる「得物」と見定めたのである(そう思うなれば、彼にサジェストしたるヴィクター・ハーバートの存在は、今少し脚光を浴びても良さそうではある)。
 とまれ全ては解を得たのである。彼は倦み飽いていたアメリカを引き払い、死病へと取りかれつあるヨセフィーナが床へとく故地ボヘミアへの帰還を果たす以前、つまり95年2月9日にはオーケストレーションをも含め、この協奏曲を完成する 34
 なれどこの「偉大な協奏曲」を巡っては、更に幾つかの後日譚ごじつたんが待ち受ける。

 アントンがアメリカにて為した「最後の作品」を携えて故地ボヘミアへと戻ったのは、95年4月である。初恋の人の容態を初め不安を抱いての帰国ではあれ、異郷にて仕上げし「チェロ協奏曲」初稿フィナーレは、そのコーダを謂わば「凱歌」にて締めくくるという意味で肯定的なる「勝利が産物」であった。しかしながら──。
 帰国から程なくしてアントンは、奈落の底へと突き落とされる。ヨセフィーナの「死」である。5月27日のことであった。
 間もなく、彼はジムロックやハンスリックなどを前に、ウィハンとともにチェロ協奏曲非公開試演へと臨むのであるが、ヨセフィーナの死が彼を頑なにさせる。アントンのピアノ、そしてウィハンのチェロによる試奏そのものは好意的評価を得る。なれどウィハンは第一楽章そして第三楽章夫々それぞれのソロ・パート改変を提案する。ヨセフィーナが愛していたアントンの歌曲「私に構わないで──Kéž duch můj sám (Lasst Mich Alein)」(四つの歌曲 op. 82 B. 157より第一曲)が第二楽章に引用をされているのを考慮の上であろう、とまれアントンへの敬意・配慮を以て、ウィハンは両端楽章のみの提案に留めたのである。
 ところが、このアイディアにアントンは「憤怒」する。

 第一楽章を巡っても「内心」に踏み込む容喙ようかいに憤りはすれど、内心ゆえ「自省」を受け容れる余地は彼にもあった。おそらくはそのような心持ちにて忍従・受忍したのであろう、それのみなればアントンもウィハンの提案を諒とする準備はある。されど、第三楽章だけは許容し得ない!
 この問題はやがて、作曲者と委嘱者・献呈先である両者の紛糾という事態をさえ招くのである。

・初演──60小節の「レクイエム」と「喝采」

 ヨセフィーナの死により、彼は「凱歌=コーダ」へと手を入れる意思を固めていたのは確実であり、実際にすぐさま着手、6月11日にはその改訂作業を完了している 35
 改訂は449小節以降に施され 36 37 、独奏チェロによる、当楽章主要主題に基づく回想する如くに呻吟しんぎんせし旋律に恰も寄り添うかの第一楽章冒頭第一主題が、クラリネットにて同主調たるロ長調上にまず再現をされ、更にはヨセフィーナの愛した「私に構わないで」が、ほぼオリジナルのままに、第一ヴァイオリンのソロにて胸に迫り来るかの(秘匿されたる)哀惜の許に追憶される。そして再び第一楽章冒頭一小節が、オクターヴ上のロ短調上に、次いで第一楽章冒頭そのままにて同じ一小節がホルンに現れる。チェロは折節「私に構わないで」の一節さえ口遊くちずさむように奏でつ、かついのりを捧げつ感極まるやに慟哭する。
 斯くチェロの慟哭を慰め同調する管弦楽は、497小節よりアンダンテ・マエストーソにて感情を爆発させつも、初稿「凱歌」の要素をも孕んでは堂々と幕を下ろす。
 これはまさしく「レクイエム」ではなかろうか。
 これぞ帰天せし「初恋が人」への「手向けが供犠の花」ではあるまいか。故にアントンはウィハンの第三楽章改変を強固なる意思の許に拒絶したのである。

 いずれにせよ、第三楽章に限ればアントンに妥協の余地など毛筋ほどもない。そこへウィハンは、おそらくは美技を披瀝せんとて華麗なカデンツァをじ込もうとしたのであろう。問題は、ではウィハンが如何なる時点で(しかも「ウィハン自身になる」華麗なる)改変を提案したのかに尽きる。
 帰国後のアントンとウィハンは複数回、ともに時を過ごしている。先述する6月の試演会のみならず、帰国早々たる4月にも顔を合わせているし、夏の休暇時にも彼らは親しく交わっている。
 夏の休暇については措いて、試演会の折にはウィハンも当然スコア──ノートが如何なるものであったかはわきまえているはずであり、それどころか4月の再会時には、既にこの協奏曲の詳細を両者は確認・検討している 38。この時点では、未だ関係は良好なはずである。6月の試演会の折にも、特に揉めたという風聞は伝わっていない。そうなると、8月の休暇あるいはそれ以降となろう。
 様々な説が取り沙汰されているが、濃厚なのは9月 39 40 、連れ立って著名な建築家フラフカの住まうルジャニ城を訪れた折である。取り分け「プラハ・クラシック音楽アカデミー」が運営をする「アントニーン・ドヴォジャーク公式」サイトは、

「Jasně to vysvítá jak ze skladatelovy korespondence, tak z jeho sporu s violoncellistou Hanušem Wihanem, jemuž je dílo věnováno ──この事実(筆者註:アントン改訂版への改変提案)は作曲者の書簡からも、献呈先たるハヌシュ・ウィハンとの論争にても明白である」

と確信的に叙述している。事実、アントンは翌10月3日付ジムロック宛書簡に「意見の食い違いがあるが、私の指示通りに印刷されねばならない」と主張(一方で第一楽章、例えば練習番号12つまり261小節目よりの、展開部終結部5小節に亘る難易度の低いOssiaなど数箇所は妥協)。それ以外の「何人たりとも」手を加えてはならないという条件の許でのみ浄書譜を渡す、そうでなければ受忍し得ない、と飽くまで強硬な姿勢を崩してはいない。
 一連の顛末を機にアントン、ウィハンの関係は険悪化する。それは世界初演にまで影響を及ぼす。アントン自身は関係修復へと腐心するも、最終的にはウィハンとのスケジュール調整が着かず、披露公演を主催するロンドン・フィルハーモニー協会はレオ・スターンを推挙、アントンも容認し、ヴィソカーの別荘における二週間に及ぶ「合宿」を経て、96年3月19日、この「偉大な」協奏曲はようやく陽の目をみては熱狂的な歓呼を浴びる。大成功である。翌月のプラハ初演もアントンとスターンのコンビにより好評を博し、スターンは以後もライプツィヒやシカゴなど各地で披瀝するのである。
 ウィハン自身もその後、メンゲルベルグとタッグを組みオランダ初演でソロを担当、アントンとの関係も「元の鞘」へと納まる。

 付言するなら、第一楽章の「Ossia」は難易度も相当低く、アントンのオリジナルも運指、ボウイングとも聊か難しくはあれ、ソリストを務めるプロなれば決して越えられぬ壁ではない。ルジャニの城で一体何が起きたのか──今となっては、最早確かめようもない。

第一楽章再現部直前のOssia。難易度的には相当低い。

 掉尾ちょうびに。イ長調の解説にて触れる第一楽章は、クラシカルなソナタ形式になる。第二楽章は中間部にヨセフィーナお気に入りの「私に構わないで」が引用をされ、同じくその旋律が回顧されしフィナーレは自由なロンド形式をるが、初稿コーダは当初、僅か4小節であったものが60小節の「レクイエム」を得て後、8小節へと拡大されし新たなコーダへと生まれ変わり大団円を迎えるは、先にも触れた通りである。

プログラム

https://youtu.be/oExRGdSXAV0?si=XuxKh9QwLuqlIoYQ

00:00:00 オープニング「ユモレスク」
 I. パールマン/Y. Y. マ/小澤征爾&ボストン交響楽団

00:01:17 ナヴィゲーションと解説

00:05:28 チェロ協奏曲イ長調 B. 10(チェロ&ピアノによる自筆譜版) 第一楽章:解説文
00:29:53 チェロ協奏曲イ長調 B. 10(チェロ&ピアノによる自筆譜版) 第二楽章:解説文
00:39:39 チェロ協奏曲イ長調 B. 10(チェロ&ピアノによる自筆譜版) 第三楽章:解説文
 イジー・バールタ(チェロ)、ヤン・ツェフ(ピアノ)

01:01:20 チェロ協奏曲イ長調 B. 10(ラファエル版) 第一楽章
01:17:51 チェロ協奏曲イ長調 B. 10(ラファエル版) 第二楽章
01:24:46 チェロ協奏曲イ長調 B. 10(ラファエル版) 第三楽章
 スティーヴン・イッサーリス(チェロ)、ダニエル・ハーディング&マーラー室内管弦楽団

01:35:05 チェロ協奏曲イ長調 B. 10(ブルグハウゼル版) 第一楽章
01:50:17 チェロ協奏曲イ長調 B. 10(ブルグハウゼル版) 第二楽章
01:58:04 チェロ協奏曲イ長調 B. 10(ブルグハウゼル版) 第三楽章
 アレクサーンドル・イズライリェーヴィチ・ルージン(チェロ&ディレクティング)、ムジカ・ヴィーヴァ

02:53:54 ナヴィゲーションと解説

02:14:27 チェロ協奏曲ロ短調 op. 104 B. 191 第一楽章
02:29:19 チェロ協奏曲ロ短調 op. 104 B. 191 第二楽章
02:40:47 チェロ協奏曲ロ短調 op. 104 B. 191 第三楽章
 スティーヴン・イッサーリス(チェロ)、ダニエル・ハーディング&マーラー室内管弦楽団

02:53:54 ナヴィゲーションと解説

02:56:50 チェロ協奏曲ロ短調 op. 104 B. 191 第三楽章(初稿)
 スティーヴン・イッサーリス(チェロ)、ダニエル・ハーディング&マーラー室内管弦楽団

03:06:27 エンディング「私に構わないで」:参考文献
 アリサ・ワイラースタイン(チェロ)、アンナ・ポロンスキー(ピアノ)

脚注

  1. イ長調になる協奏曲最終ページ(ロンドン、大英博物館蔵:署名の追加。 Ms. 42050)。署名は「1865年6月30日午後6時、チェロとピアノ版完成。神へ感謝。Antonín Leop. Dvořák」とあるが作曲開始日は不明。ヤルミル・ブルグハウゼルは、6月初旬以前にはスケッチを開始しているものと推定している(ベーレンライター・プラハ=旧スプラフォン版「ドヴォジャーク:作品目録・参考文献・概要・人生と仕事について。1996年。518ページ)。

  2. 歌曲集「糸杉」 B.11を巡っては、多くの研究者が仮劇場かりげきじょうの同僚=女優であるヨセフィーナ・チェルマーコヴァーへの恋情と関連づけているが(クラウス・ドゥーゲ「アントニーン・ドヴォジャーク:生涯、作品、資料」チューリッヒ、アトランティス出版社。1997年。96 -109ページ。オタカル・ショウレク「ドヴォジャーク:管弦楽曲集」。プラハ、アルティア出版。1954年。187ページ。同「アントニーン・ドヴォジャーク」巻1。プラハ、アルティア出版。1954年。75ページ以降)、現時点において確証は得られていないとの見解も存在する(イアーコポ・チヴィディーニ「ドヴォジャークの協奏曲」。2007年。トゥッツィング、ハンス・シュナイダー社。48ページ。297ページ)。

  3. しかしながら、今日においてもドヴォジャーク作品におけるヨセフィーナへの「思慕」が影響を指摘する論調なり分析なりは根強く、またそれらの幾つかは一定の説得力をさえ懐胎をしていると看做して良い。例えばナイル・ウェンボーン「ドヴォジャーク:彼の生涯そして音楽」。香港、ナクソス・オーディオブック。2008年。34-60ページ。斯く前掲書にもその詳細を巡る言及が為されているが、取り分け膾炙されているのが「著名なチェロ協奏曲」=ロ短調 op. 104作曲時の挿話であろう。同曲へと着手して間もなく、彼は彼女(往時は義姉=妻の姉という関係)が「死の病」へと瀕しているとの報へと接し、彼女のお気に入りであった「四つの歌 op. 82」第一曲「私に構わないで」を用いつ、その第二楽章にて彼女へと思いを馳せつ作曲。更にはヨセフィーナの訃報を契機に、第三楽章フィナーレはコーダを中心に同歌曲に基づき改変している。付言するなら「オリジナよりも一貫性に優れる」としてイ長調ではラファエル版を採用するスティーヴン・イッサーリスであるが、併録「ロ短調」では、現行版フィナーレに加え、訃報へと接する以前の「短いコーダ」のみならず、「私に構わないで」(管弦楽版)をも併録している。2013年。ハイペリオン・レコード。また、ワイラースタインをソロに据える「ドヴォジャーク:チェロ協奏曲ロ短調」にても、ピアノ伴奏付きチェロへの編曲になる同歌曲が採録されている。2014年。デッカ・ミュージック。

  4. イアーコポ・チヴィディーニ「ドヴォジャークの協奏曲」。2007年。トゥッツィング、ハンス・シュナイダー社。51ページ。

  5. ドヴォジャーク自身の手になる七つの作品リストのうち、彼自身が「引き裂き燃やした」と主張する作品の実態は未だ解明されてはいないが、例えば、彼が破棄したと記録する作品のうち、初期の二つの交響曲については、彼自身「燃やしてしまったもの」と誤認している。イアーコポ・チヴィディーニ「ドヴォジャークの協奏曲」。2007年。トゥッツィング、ハンス・シュナイダー社。50ページ。

  6. https://www.antonin-dvorak.cz/dilo/koncert-pro-violoncello-a-klavir-a-dur-b10/

  7. https://www.antonin-dvorak.cz/dilo/koncert-pro-violoncello-a-klavir-a-dur-b10/

  8. 作品解説にて参考文献として採用する朴賢娥の博士課程論文では、チヴィディーニの著書を巡り「オーケストレーション」等には言及せずとしているが、実際には部分的ながら、チヴィディーニは各楽器用法など管弦楽書式に触れている。※版選定には触れていないが、おそらく両版を参照していようは彼の著作「ドヴォジャークの協奏曲」参照スコア・リストに明白であろう。

  9. 朴賢娥「A.ドヴォルザーク チェロ協奏曲イ長調 B.10 オーケストラ版演奏に向けての基礎研究」東京音楽大学博士課程論文。2018年。8ページ。

  10. イアーコポ・チヴィディーニ「ドヴォジャークの協奏曲」。2007年。トゥッツィング、ハンス・シュナイダー社。55ページ。

  11. 同上。55ページ。

  12. 同上。55-57ページ。

  13. 小節数は、全て自筆譜版あるいはブルグハウゼル75年ピアノ二重奏によるノーカット版に依拠する。

  14. イアーコポ・チヴィディーニ「ドヴォジャークの協奏曲」。2007年。トゥッツィング、ハンス・シュナイダー社。60ページ。

  15. 朴賢娥のアナリーゼによる。朴賢娥「A.ドヴォルザーク チェロ協奏曲イ長調 B.10 オーケストラ版演奏に向けての基礎研究」東京音楽大学博士課程論文。2018年。13ページ。

  16. イアーコポ・チヴィディーニ「ドヴォジャークの協奏曲」。2007年。トゥッツィング、ハンス・シュナイダー社。65-67ページ。

  17. 朴賢娥「A.ドヴォルザーク チェロ協奏曲イ長調 B.10 オーケストラ版演奏に向けての基礎研究」東京音楽大学博士課程論文。2018年。20ページ。

  18. 同上。64-73ページ。

  19. 同上。66-67ページ。

  20. これらの経緯を巡っては、朴の博士論文中68-73ページを中心に詳細なアナリーゼが提示されている。

  21. イジー・バールタ(チェロ)、ヤン・ツェフ(ピアノ)。2002。スプラフォン。

  22. スティーヴン・イッサーリス(チェロ)、ダニエル・ハーディング&マーラー室内管。2013。ハイペリオン・レコード。

  23. 例えば音楽之友社「レコード藝術」1990年1月号など。

  24. 同上や関根訳書、関根著作他。

  25. 渡鏡子「ドヴォルジャーク チェロ協奏曲 ロ短調 作品104:ZEN-ON SCORE」。c1970。9ページ。

  26. 福田宏「国民楽派再考に向けて─ドヴォジャークにおける社会進化論とオリエンタリズム─」。2017。「東欧史研究」第39号。114ページ。

  27. 同上。115ページ。及びオタカル・ドヴォジャーク(ポール・ポランスキー篇)「我が父:ドヴォジャーク」。アイオワ州スティルヴィル。アメリカ・チェコ歴史調査会。1993年。71ページ。

  28. 福田宏「国民楽派再考に向けて─ドヴォジャークにおける社会進化論とオリエンタリズム─」。2017。「東欧史研究」第39号。115ページ。加えて福田は、アントンの「奇行」が渡米以前から確認されているとも指摘、彼の精神的危機を単なるホームシック由来のそれと看做すべきではないと示唆している。

  29. イアーコポ・チヴィディーニ「ドヴォジャークの協奏曲」。2007年。トゥッツィング、ハンス・シュナイダー社。294ページ。

  30. 同上。294ページ。脚注5。※原典:ドヴォジャーク書簡7。274ページ。引用元:ジョン・クラップハム「ドヴォジャーク」。ロンドン。デイヴィッド&チャールズ社。231ページ。

  31. 同上。294ページ。脚注5。※原典:ドヴォジャーク書簡7。286ページ。同ページ所載の書簡は、ヨセフィーナ本人からのものであり、書簡日付は凡そ二週間後の26日となっている。引用元:ジョン・クラップハム「ドヴォジャーク」。ロンドン。デイヴィッド&チャールズ社。231ページ。

  32. イアーコポ・チヴィディーニ「ドヴォジャークの協奏曲」。2007年。トゥッツィング、ハンス・シュナイダー社。294-295ページ。

  33. https://www.antonin-dvorak.cz/dilo/koncert-pro-violoncello-a-orchestr-h-moll/

  34. イアーコポ・チヴィディーニ「ドヴォジャークの協奏曲」。2007年。トゥッツィング、ハンス・シュナイダー社。301ページ。

  35. ヤン・スマチュニー「ドヴォジャークのチェロ協奏曲」。1999年。ケンブリッジ。ケンブリッジ大学出版。78ページ。

  36. https://www.antonin-dvorak.cz/dilo/koncert-pro-violoncello-a-orchestr-h-moll/
     尚、当サイトは「ドヴォジャーク・プラハ国際音楽祭」などを主催する「プラハ・クラシック音楽アカデミー」が運営をする「アントニーン・ドヴォジャーク公式」サイトであるが、英語版とチェコ語版いずれも簡潔かつ明瞭で判り易い記述ながら、両言語間の内容(主に情報量)に差があり、チェコ語版がより充実している。チェコ語版は明快かつ手本的な文体でもあり、チェコ語を解する向きは双方を比較参照されたい。

  37. 同上。及びスティーヴン・イッサーリス(チェロ)、ダニエル・ハーディング&マーラー室内管。2013。ハイペリオン・レコード。

  38. イアーコポ・チヴィディーニ「ドヴォジャークの協奏曲」。2007年。トゥッツィング、ハンス・シュナイダー社。302ページ。

  39. 同上。

  40. https://www.antonin-dvorak.cz/dilo/koncert-pro-violoncello-a-orchestr-h-moll/


参考文献

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Döge, Klaus. Antonín Dvořák. Leben, Werke, Dokumente. 2. Aufl. Zürich: Atlantis Musikbuch. 1997 (1991).

Dvořák, Antonín. Autographes Manuskript (Concert pro Violoncello s průvodem Piana
[…] Dokončeno dne 30ho června 1865 v 6 hod: večer Antonín Leop. Dvořák). London: British Library, Signatur Add. Ms. 42050.

Dvořák, Anton. Konzert in A Dur für Violoncell und Orchester. Neugestaltung und
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Dvořák, Antonín. Violoncello-Konzert A-Dur B 10. Partitura. Kritische Ausgabe nach dem Manuskript des Komponisten. Realisation und Orchestration nach der kritischen
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Dvořák, Antonín. Autographe Partitur ([…] 1894–1895. Koncert […] (op. 104) pro Violoncello s průvodem orkestru složil Antonín Dvořák Partitura). Prag: Národní Muzeum – České Muzeum Hudby – Muzeum Antonína Dvořáka, Signatur ČMH-MAD 1540.

Dvořák, Antonín. Cellokonzert op. 104. Partitura. Kritische Ausgabe nach dem Manuskript des Komponisten. Vorwort von Otakar Šourek. Hrsg. von František Bartoš.
Prag: Artia 1955. In: ders., Sämtliche Werke: Kritische Gesamtausgabe, hrsg. von der Antonín-Dvořák-Gesellschaft und dem Staatlichen Musikverlag Prag, Prag: Artia / Editio Supraphon. 1955ff., Reihe III, Bd. 12.

Dvořák., Otakar. Antonín Dvořák. My Father. Edited by Paul J. Polansky. Above Translation from Czech by Miroslav Němec. Spillville:
Czech Historical Research Center. 1993 [1961].

Smaczny, Jan. Dvořák. Cello Concerto. Cambridge: Cambridge University Press. 1999.

Šourek, Otakar. Antonín Dvořák. Sein Leben und sein Werk. Prag: Artia. 1953.

Šourek, Otakar. Antonín Dvořák. Werkanalysen I. Orchesterwerke. Prag: Artia. 1954.

Wenborn, Neil. Dvorak: his life and music. N axos Books. 2008.

関根日出男:訳. カレル V.ブリアン. ドヴォルジャークの生涯. 東京: 新時代社. 1983.

関根日出男:訳. ヤン. ヴェーニグ. プラハ音楽散歩. 東京: 晶文社. 1983.

関根日出男. レコード藝術1月号. 東京: 音楽之友社. 1990.

朴賢娥. A.ドヴォルザーク チェロ協奏曲イ長調 B.10
オーケストラ版演奏に向けての基礎研究
平成29年度 東京音楽大学 博士後期課程音楽専攻博士論文. 2018.
https://tokyo-ondai.repo.nii.ac.jp/record/1196/files/Park_Hyunah_%25E6%259C%25AC%25E6%2596%2587.pdf&ved=2ahUKEwjm5cyb8PaIAxWubfUHHQC9CKQ4ChAWegQIJBAB&usg=AOvVaw0qjluKxlVdQ2DzPUTEBy2y

福田宏. 「国民楽派」再考に向けて─ドヴォジャークにおける社会進化論とオリエンタリズム─(1)
東欧史研究 第39号. 2017.
https://www.jstage.jst.go.jp/article/aees/39/0/39_11/_pdf

渡鏡子. ドヴォルジャーク チェロ協奏曲 ロ短調 作品104:ZEN-ON SCORE. 東京: 全音音楽出版 c1970.

Akademie Klasické Hudby, Z. Ú. ANTONÍN DVOŘÁK
https://www.antonin-dvorak.cz/

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