「保守という思想観」1──そもそも論として
これほど「誤解されし」思想と体系──寧ろ「表現的イディオム」は錚々あるまい。まず「何を以て保守」するか──本題へと入る前に、保守という「概念」を、敢えて他国が言語表現より窺うとしよう。
とまれ「保守」を英語にて言い換えるなら「Conservative」であるが、欧州各国語に通じる向きであれば、斯く「英単語」が「ラテン語由来」であるはコンマ数秒=一瞬にて理解し得るはずである。語幹構成からして最早「自明」であろう。まず「Con」が、ラテン語由来の接頭辞なるは、語学を識れば「常識」であろう。
もっと言ってしまえば、この「Con」が前置詞「奪格」たる「CVM=cum」であるをも瞬時に理解し得る「はず」であらねばなるまい。それさえ判らぬ人など
「向後一切不語学 為小人閑居不善」
と自嘲しつも顧慮自省すべし(かなーりキツく言いますわこれらを巡っては明確にも口を酸くほどによ⋯⋯えっとでも対象は自称「語学得意派だけ」っすよw)。
この「CVM=Cum=Con」に託されし原義語義が「ともに」なるは、クラシカル・ミュージックを知る人なれば「すんと胸なり腑に落ちる」はず、とも附言しておこうか。
その上で敷衍しよう。
語幹主体たる「serve」については、ラテン語名詞「SERVVS=Servus」──堪の良い人ならとうにお気づきであろうが「SERVVS=Servus」の「VV=vu」が二重母音であるはとまれ指摘しておいたがよかろう。つまりこの語を敢えて「カナ表記」するなら「セルウース」(セルウウス)である。
「保守」なる品詞言辞の根源的意味たるや何そや?
この名詞には、俗に「奴隷」なる語感が付きまとうは致し方なかろう、しかしながら英語が「サーヴィス」も「サーヴァント」も同義淵源なる語⋯⋯斯く思わば俗に「奴隷」とは異なる「身内意識」をさえ看取し得るはずである。なれば余計に「守る」対象に入るは言うを俟たない。
要するところ、ラテン語を淵源とする「Conservative」には、本来的には「ともに守る」なる語義が「結論的にも」仮託されている。
「ともに守る」には、では如何にすべきか──。
時代というのは「価値基準=変遷」が推移に成り立つ。そを理解したる上にて「絶対的に死守すべきは何か」からまず問われよう。
とまれ「己が身」である、当たり前ではあるが。それを前提として「家族→氏族部族含む共同体→広範な社会規範(価値の変遷により変わり得る)」というのがある種の「パターン」となろう。いずれにせよまず「己ありき」であり、その集合体が「最低単位である」第二者との関係(友人や恋人、伴侶など)であり、各ユニットの複数的錯綜になる「絵図面」から「三者的世界」が生まれよう。
それらの諸関係──蓄積が「歴史→やがては伝統・文化」を形成する。
各過程における「彼我」の関係性さえ不明なれば、最早「結果は明白」ではあるまいか。
斯く意味においてはやはり、今であって猶も「ネット的世界観」は往々にして「砂上の楼閣」──無益な再生産の連続であると自らに問いかけるが良い。
「保守」するにてや果たせるに何そ為すへきかや?
確かに各個により二者三者世界の「在りよう」は異なる。当然、所謂「紐帯=繋がり」のそれも変わろう。飽くまで人の数ほどにあると「まず知るべし」
そを推し量りて如何なる「三者的複合的世界観」を築きかつ受認し得るか、それこそ「社会的生き物」たる「己が身」を再点検する「最小単位となろう物差し」ではるまいか?
「価値の差異」をまず知らねば第二者以降の世界さえ覚束まい。歴史や文化、文明を知るというのは「斯く営み」が前提にあって初めて成立し得ると思し召せ。
保守というのは本来「そうしたる」営為が担保にて機序する「機能」であるを改めて顧み給え。
例えば「生体反応」としての「自己防衛規制」が「機序」なるがゆえに、我々は「身体」に「異状」を認識した場合、それを「異常」ゆえと官能反応対処する。結果として「体温の上昇」とか「白血球およびその解体異物=死骸」の増加等を、例えば「風邪をひいた」あるいは「熱が上がって難渋した」直後に(検査結果を以て)認識する。
通院服薬など「自己にて考察をして判断する」以前、つまり無意識がうちに、既に「己が身=肉体」は「生理反応」としてこれだけの機序作用を運用しているのである。それがつまりは「一個」が「当たり前たる」反応である。
されども一個が「生体反応」のようには「物の理解度・受認受容」=能動的「頭脳学習」は機序作用しない。
なればこそ「正しく認識し判断を下し得る」最低限の情報収集と認知認識がための整理機能=知識・教養が求められる。
上記を「如何に涵養しかつ寛容」的に受動し血肉と為し得るか──次回より「ともに」考えようか。