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【歿後120年】ドヴォジャーク1「青春の協奏楽と交響楽」【全4回】


若き日のドヴォジャーク


「青春の街ズロニツェ」


 プラハという街は実に小粋である。例えばカレル橋の傍であれ、旧市庁舎広場(旧市街広場)の端であれ、ロマとは異なる「真のボヘミアン──プラハっ子」らが、時に自らの技量を試すべく、あるいは戯れに宵の呑み代が費えの足しとすべく、得物つまりは楽器なり声なりを披瀝し、相応と看る人らが「良い出来」と感心をすれば「投げ銭」にて喝采を浴びせる、そんな風情を湛える街である。それは小路や辻に止まる話ではなく、本邦に擬えるなら「大衆居酒屋」でさえ変わらぬ。酒場では楽の音や歌声が途切れることもなく、誰しもが「当たり前」の如く、またジャンルを問わず常に音楽とともにある。無論、銭目当てではなくただそれを楽しみたき人々をも含め。ヴラスタに連れられて訪れし場末の居酒屋からしてこうであるから、昼日中から市街のありとあらゆる処に「楽の音」が鳴り渡る。千塔の街というが、その凡ての塔より「鐘の音」響くが如くに音楽の絶えることなき街⋯⋯これぞプラハであり、所謂「小屋掛け」だけで、一晩に数百を下らぬ音楽シーンが消費をされる街こそプラハである。ビールのジョッキを傾けつ、腸詰の類や野菜の酢漬け、あるいはクニェードリーキ(ボヘミア風茹でパンケーキ)などを肴に摘みつ、そんな様々な調べに「耳を傾ける」歓びたるや、これほどの無上なるそれもあるいは錚々なかろう。
 肉屋の倅たるアントニーン・レオポルト・ドヴォジャークは、斯様な喜悦に包まれ満ち溢れしプラハは近郊の街ネラホゼヴェス(ミュールハウゼン)に生を享ける。彼の一家もまた音楽に慣れ親しむ人達ばかりであった。父はおそらくのところ、営む店(生家は宿屋・居酒屋兼業である)にて酔客を相手にツィターの妙技を披瀝したというし、伯父達もヴァイオリンやトランペットを巧みに操り熟したという。彼自身、通う小学校の校長より手ほどきを受け、幼き頃よりヴァイオリンに親しむ。やがて彼は、父の意向で「肉屋」徒弟修業のためとて、やはりプラハ近郊たるズロニツェへと奉公に出されるのだが、この街に赴くことで彼の辿るべき途は決定づけられたと申し上げて過言とはすまい(後に家族もズロニツェに転居)。彼はこの街のレアルシューレ(実科学校)が校長たるアントニーン・リーマンから、肉屋のマイスター免状を得るに必須たるドイツ語のみに留まらず、オルガン演奏やピアノ、ヴィオラ、チェロ、あるいは和声学などを通じ音楽の基礎的素養を叩き込まれる。
 ゆえにアントン(敢えてそう呼ぼう。否、実際に彼は家庭であれ周辺であれそう呼ばれていたのは確かな事実である)が本格的に「音楽」と邂逅を果たしたる地こそズロニツェでありまた、実家の稼業が傾きを見るに、学修を切り上げ家業の扶けとなるよう父より懇望されにし折に、それへと異を唱えたのがまさしくリーマンであり同じくズロニツェ在住の伯父ズデニェクであったのは、あるいは偶然ではなく必然であったのやもしれぬ。
 そう、ズロニツェこそ彼アントニーン・レオポルト・ドヴォジャーク運命の地なのである。
 斯くして、実科学校が校長たるリーマンと伯父ズデニェクの説得、加えてズデニェクが経済的バックボーンを担うという条件の許、アントンは肉屋修行ならぬ「本格的」音楽修行へとその足を踏み入れるのである。
 彼の「オリジナリテ」──その根源がズロニツェにあるとするなら、その嚆矢となるシンフォニーが「ズロニツェの鐘」なる愛称を得るは決して不思議ではないし、実際のところ彼アントンのユニークが結実をしたる最初の大規模作品であるは言うを俟たない。彼は音楽学校卒業時こそ「理論における修養が不足している」との講評を付されてしまうも(尤もこれは、チェコ人校長であるクレイチーが、阿諛追従からドイツ語を母語とする生徒を優遇した結果がための、ある意味にて不当な成績評価ゆえであるが)次席で修え、そのままオーケストラのヴィオラ奏者、あるいは臨時オルガニスト、時には個人レッスンなどにて辛うじて糊口を凌ぐ程度の糧を得ながら、当初こそ独自性を発揮しつつ自らのノートを記したれども、やがてリスト、就中ヴァーグナーの影響を被るに到る。二番の交響曲はそれら二巨頭よりの「音楽的支配下」にあり、続く三番、四番も然りである。殊に「ヴァグネリアン」たるやの彼がものした三番など、斯様な意味にて彼アントンがユニークとは極北の位置にあり、一部で彼を二流扱いする依拠ともなる駄作であろう。
 なれど彼は「モラヴィア二重唱曲集」にてブラームスより評価をされ、親しく交わるようになるにつれ、宗旨替えをするが如くにヨハネスの感化が許にノートを紡ぎ出す。斯様な状況下で編まれし五番、六番の交響曲のうち、取り分け六番などは、極めて高い評価を与えられる一方で、ブラームスの二番を彷彿させるイディオムを滲ませるが(特に第四楽章)、これもアントンを二流扱いする論調を担保せざるを得ぬ暗き陰を翳す作品ではあるまいか。
 しかしながら彼アントンが、決して「二流の人」ではない証左とすべきこそ、続く第七番ニ短調作品70である。確かに、人に依ってはブラームス三番をも想起させよう一面はあれ、六番のあからさまな貌など微塵もない。彼アントンが再び見出す「オリジナリテ」に溢れし一大傑作である。
 以降の彼は、紛れもなく「アントニーン・ドヴォジャーク」色を勝ち獲るのである(とは言え、例の第九番「新世界より」にて彼は、おそらく余裕ある態にて自らがヴァグネリアンであった過去をさえ顧みるのであるが)。
 そんな彼アントン=アントニーン・レオポルト・ドヴォジャークの、主に幾つかの交響曲や交響詩など管弦楽曲、あるいはチェロ協奏曲などを四回に分けつお送りしたい。


交響曲第一番ハ短調「ズロニツェの鐘」作品3B. 9


 彼アントン(アントニーン)という人は、チェスキーながらドイツ語を日常的に用いるべドゥジフ・スメタナ、あるいはズデニェク・フィビフらとは異なり、根っからのチェスキーであった。なれど当時の職制・制度の絡みもあって(実家が稼業の一つたる精肉業へと就業し得るに必須たるマイスター資格取得のため)、実科学校への就学・徒弟奉公とて少年時代から青年時代を、プラハ近郊の街ズロニツェに送る。それが彼の行く末──羅針盤が示す「針」を定めるは運命の悪戯であろうか。故地ネラホゼヴェス時代より音楽に慣れ親しむ彼アントンは、音楽の素養豊かなる実科学校の校長たるリーマンより、猶も実践的なる手ほどきをさえ叩き込まれたるは、先述の通りである。
 つまりズロニツェとは、音楽家アントンが「第二の故郷」である。

「不老如若──不老人間ラヂオ」より


 そんな若きアントンは、惑いつつも実に恬淡とした気質であったのか、聊かなりとも気に喰わぬとなれば、惜しげもなく草稿、否、完成作品を認めたる五線紙でさえ破棄したのである(しかも焼却処分である)。どうやらそれは若きアントンの「慣い性」らしく、例えば彼の下宿・寄宿先の端女らをして「火を焚べるのに造作もなかった」などという笑い話さえ一挿話として残される程である。実際のところ、例えば「王様と炭焼き」という、一ディレッタント(本業は医師)による「極めて稚拙」なる台本を基に、全く異なるオペラを彼は二篇ものしているが、最初のそれは熱烈なヴァグネリアンであった所為であろうか、トリスタンとイゾルデなどの影響色濃くも取り止めのない音楽であった。スメタナは最初の「王様と炭焼き」を巡り「天才的である」と着目をするも、自身オペラ指揮者たるやのキャリアから、確信的に「演奏不可能」との烙印を捺す。斯く最初の「王様と炭焼き」などをも含む「欠格作品」の束から、決して少なくはなかろう幻の創造物らが朝な夕なの食膳とて彼へと供されるグラーシュ(シチュー)やポレーフカ(スープ)へと変わり果てては「還元」されるという「皮肉」たるや、聊か「胡椒が利き過ぎ」ではあるまいか。
 とまれ「王様と炭焼き」は、酷いスクリプトと共に、ナンバー・オペラながらもより洗練されたる新たな魅力を得る。そんなアントンゆえであろう。本人たる彼でさえも忘却をせし交響曲こそ、現代においては「第一番」と認められし「ズロニツェの鐘」である。
 今日、彼アントンの交響曲たるや九曲であるは誰であれ容易に知り得る事実であるが、最初に披瀝しそれは今日「第三番」と呼ばれる変ホ長調作品10 B. 34(ちなみに筆者は、当該作を「超絶駄作」と看做している)であり、しかもアントンは、このヴァーグナーの亜流的音楽にはナンバリングを施してはいない(彼の交響曲を巡っては、後に出版契約を結ぶベルリンはジムロック社の恣意もあってか、ブラームスの二番に触発されたる最初の成功的交響曲──今日では「第六番作品60 B. 112」が先ず第一番として出版され、以降、今日「七番」が旧「第二番」、今日「五番」が旧「三番」、かつジムロックへの不信感からイングランドはノヴェロ社より出版されたる今日「第八番」が旧「四番」と錯綜している。所謂「新世界より」を巡っては、オールド・ファンつまり概ね八十歳代前後より老いたるクラシカル・ミュージック愛好家にてや「第五番」としても認知をされたる事実が存在する)。加えて一番作曲直後、同じく1865年に着手されたる今日「第二番」へとその眦の行く先が移ってしまった所為か、作曲コンクールへと提出・落選の憂き目をみる、この彼になる最初の交響曲をアントンは、グラーシュやらポレーフカを拵えるための「燃料」へと供したるやに錯覚したるは充分にあり得べき話やもしれぬ。いずれ彼アントンは最初の「ハ短調」の存在をさえ忘却せるは間違いなかろう。
 しかし史実というのは偶然かあるいは必然かは措き、面白く出来ているのやもしれぬ。斯くアントンが今日「六番」にて栄光を確たるものとして明くる1882年に、これも偶然か必然なるかは別としてルドルフ・ドヴォジャークなる史学者(さりながら彼アントンとは同姓なるも血縁関係には非ず)が、古書などを扱うライプツィヒが書肆にてアントン最初の交響曲が総譜を入手する。しかしルドルフ・ドヴォジャークはそれをアントンへと知らせはせずにひっそりと所蔵。ルドルフが死したる1923年に漸くその存在が明らかとなる。ところが何故かルドルフの遺族らはその出版を拒むのである。それでも発見から13年後たる1936年には初演へと漕ぎ着けるのであるが、出版へと到るはチェコ(+スロヴァキア)がソヴィエト・ロシア体制にて衛星国へと組み込まれて後、1961年にやっと実現する(斯様な意味では社会主義体制も役に立つものである。それ以外にては害悪しか齎さぬが)。
 いずれにせよ、この若書きの交響曲を一顧だにせぬクラシカル・リスナーも少なくはないが、アナリーゼを試みれば極めて稠密に設計・構成されたる実像が浮かび上がる。野心的かつ個性的なる僅か八小節の序奏には、後続するソナタ形式になる主部にても重要な役割りが与えられているが、何よりも既に、後年ブラームスが羨む「メロディアス」な一面が、悠揚たる第一主題、鄙びた第二主題に早くも看て取れる。その上にフレージングを始めとする数々の処理は概ねオリジナリテに満ちており、落選したるが不思議にも思われるが如き力作である(おそらく落選の最たる理由は、全四楽章を通じての余りにもの長さ──若きアントンの作品は、往時としては何れも推し並べて「長大」に過ぎるのと、序奏動機を楽曲全体へのライトモティーフ=モットー動機として扱えきれぬ経験不足に求め得るであろう)。かつこの交響曲は同年作の第二番がリストやヴァーグナーの影響下にあるのとは異なり、彼アントン自身の個性が鮮やかにも反映されている点がチャーム・ポイントであり、それぞれ三部形式になる緩徐楽章たる第二、スケルツォたる第三楽章いずれも、逸早くメロディ・メーカーとしての相貌を十全にも滲ませて已まぬ。弱みたる点を一つ指摘するなれば、ロンド・ソナタに準拠するフィナーレであろうか。聊かシューマンに影響されたるフィナーレが、斯くその支配を弱めかつ更に簡潔要を押さえるなれば、あるいはコンクールにて入賞し得たやもしれぬ。尤も、仮にもそうなっていたとなれば、その後の彼の傑作群、例えば第七番ニ短調という畢生の名作を我々は手に入れるをさえ能わぬ悲運と邂逅するよりなかったと看做し得るだに、この忘却せらるる「青春が交響曲」は、個性的色合いとも相俟って「極めて重要なる」作品であると、そう褒め称えるべきではなかろうかと筆者は思惟するのである。

(続く)


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