パン×参考書=恋心

指導室の机に模試の結果が広げられていた。静かに白く広がるLEDの光が〈弁天校合格C判定〉の文字を眩しく照らす。
「見てのとおりC判定です。これは受験生の半数が腹痛で欠席でもしないと合格できない確率です。志望校の選定をやり直した方がいい」

 講師の乾いた声が白い空間に響く。 

 面談を終えた生徒が教室で自習をしている。夏樹なつきがいる特別進学クラスは私立進学校受験者を対象としているため、生徒は熱心で遅くまで残る者が多かった。

「お前どうだった?」ニヤついて聞いてきたのは冬真とうまだ。夏樹は黙ったまま教室を出ようとした。

「B判定は取ってるよな。C以下なら早く諦めろよ」

「ほっとけ!」

 夏樹は冬真の顔を見ることなく出て行った。夏樹と冬真は中学一年の時に入塾をした。入塾テストでは差は殆どなかった。だが、二年生になって一気に差をつけられた。今回の試験でも冬真はA判定。夏樹はいまのクラスのカリキュラムについていくのがやっとで、今回の模試の結果ならクラス落ちしてもおかしくなかった。それでも志望校を変える気は起こらなかった。

 塾を出て近くのコンビニに足を運ぶ。途中、ブラウンのスーツ姿の男子学生とすれ違った。弁天校の制服だ。弁天校は、地元では超エリートの進学校で、公立の進学校よりもレベルが数段上である。当然、難関大学への進学率も全国レベルで上位ときている。ゆえにその制服を着た学生は地元では一目置かれる存在である。

(あの制服を着てみたい)

 幼い頃から夏樹の憧れである。自然とその目は学生を見送った。

 夏樹はイートインの席に座り、いくつか買ったパンのうちからクリームチーズのかかったパンを選び口に運んだ。想像していたよりも甘く思わずカフェオレを吸い込むと、計算問題を見返して眉をしかめる。弁天校の入試は複雑な計算式を解かせるのが特徴で、とにかく計算ありきだ。

(こんな複雑な計算問題を解く弁天校受験者はどうかしている)

 夏樹はパンをかじるのと同時にペンを走らせて計算式を解く。一息ついたとき、ふと外の視線が気になった。外から小学三、四年生くらいの女の子がこちらを見ているのだ。目が合ってしまった。それゆえ、その表情は読みとれた。羨ましげというか我慢しているというか。とにかく、食べたそうにしているのだ。

(これ以上食べられないな)

 夏樹はかじりかけのパンをバッグに仕舞い込み、手をつけていないパンを持って外に出ると、女の子に渡そうとした。女の子は驚いて夏樹を見たまま首を振り、受け取ろうとはしなかった。

(まてまて。これじゃ、年上の立場がない。この手はもう引っ込められないぞ)

 しゃがみ込んで女の子と目線をあわせる。

「これから塾に戻らないといけないんだ。塾には食べ物を持ち込めないから、食べてくれたら助かるな」

 夏樹が優しく笑いパンを差し出すと、小さな手で受け取ってくれた。女の子は頭を下げて何度も振り返りながら歩き、少し離れたところでライムグリーンの鮮やかなパーカーを身につけた少女に挨拶をしていた。少女は夏樹とのやり取りを見ていたのだ。夏樹が塾に戻ろうとすると、少女が近づいてきてチラシを手渡してきた。一瞬迷ったが少女の笑顔に、手を引っ込める選択肢は無いとばかりに受け取ってしまった。

(こんなに可愛い子、学校でも塾でも見たことがない)

 一目だった。その笑顔が夏樹の脳裏に焼き付いて離れなくなった。

 夏樹は家に帰り部屋に入るとチラシを取り出した。チラシを見るだけで彼女の笑顔が浮かんでくる。チラシには、子供たちの学習ボランティアと食料支援をするアフタースクールという地域密着のボランティア施設が紹介されていた。

(歳は近い感じだったな。施設の職員だろうか。ここに行けば、また会えるかも)

 夏樹はかすかな期待を膨らませるのだが、行く口実が見つからない。理由もなく行けばきっと下心を見透かされるだろうし、がっつりボランティア要員になるには無理がありすぎる。チラシの隅にフードバンクのボランティア協力のお願いが目に入る。家庭で余っている食料品を寄付するものだ。消費期限切れでなければいいとのこと。

(これだ!)

 閃いたとばかり、早速食料品の捜索に取りかかった。

 数日後、調達した食料品を抱えた夏樹がスクールの前にいた。

(会えたらラッキーだぞ)

 そう思いながらドキドキして施設に入った直後、目的は達成された。ばったりと少女と会ったのだ。

「こんにちは」と声をかけられた。期待していたのに心の準備はできておらず、夏樹はしどろもどろでチラシにあったからと食料品を差し出した。少女は丁寧にお礼を言うと受取書を作成した。担当者秋川七海あきかわななみと書かれていた。夏樹も竹脇夏樹たけわきなつきと欄に書いた。

「これから配達行きます。もし興味があるなら一緒に来てくれたら助かるのですが」

 七海は期待する眼差しを向て夏樹にお願いをする。

(この顔に反抗できる男子はいるのか?)

 返事をする夏樹の声は裏返っている。嬉しさがこみ上げてきたが、悟られないよう平静を装った。内心はドキドキのガクブルだった。

 施設の自転車を借り、着いた先はアパートの一室。

「ここは上村春花うえむらはるかちゃんの家。竹脇さんも知っている子です」

 七海は夏樹に耳打すると、明るく元気な声をかけて玄関を開けた。目にしたのは女の子が正座をして待っている姿。パンをあげた子だ。春花は丁寧に挨拶をすると頭を下げた。七海はお母さんの様子を聞きながら食料品の入った袋を春花に手渡す。春花は中身を見て目を輝かせ、お母さんに見せに行く。戻って来ると再び正座をして、お礼を言って七海たちを見送った。玄関を出た夏樹の顔は驚きの一色であった。

「驚いた?あれは春花ちゃんの精一杯の気持ちの表現なの。嬉しいのよ。お腹いっぱい食べられることが」

 七海は春花の事情を話した。春花はお母さんと二人暮らし。いまはお母さんの体調が悪く収入もほとんどない。食事が満足にとれずに学校にも行けない状態だという。夏樹がパンをあげたのは、スクールからの帰り。春花はお母さんと喜んでパンを食べた。ただ、お母さんは泣いたという。

「竹脇さん、どうしてお母さんが泣いたか分かります?」

 夏樹は首を振った。

「あのパンの値段は?」
「たぶん二、三百円くらい」
「覚えてないくらい?でもね、その三百円くらいが払えない家もあるの」

 夏樹はその言葉に心が締め付けられた。沈んだ夏樹の顔に七海は優しく声をかけた。

「そんな顔しなくていいですよ。竹脇さんは、春花ちゃんに元気をあげました。その元気が次は希望になるんです」

 七海の笑顔に重く沈む心が救われた。

 このあと五軒の家を訪問したが、春花と同じようにみんな笑顔で受け取っていた。

 夏樹は春花の家を訪問して以来、たびたびスクールに行くようになった。もちろんお目当ては七海に会うことだが、子供たちの笑顔を見ると、あの時感じた苦しさを癒してくれることも理由だった。特に手伝うことがないときは、塾の課題をして過ごす。やはり強敵は数学だ。夏樹がいつもの計算問題に手を焼いてると、七海がひょっこり覗き込んだ。

「ふ~ん。悩んでるねー」

 七海の言葉で顔が近づけられていたことに気づき、胸の鼓動が大きく波打った。間近で見た七海の顔はやはり可愛いとしか言いようがない。焦りと照れからテキストをしまい込むと席を立って、慌てて塾へと足を運んだ。スクールを出ても鼓動は早いままだった。

 翌日、夏顔がスクールに顔を出すと七海の姿は見あたらず、パーカーを着た人が作業をしていた。手伝うことはないかと聞こうとしたとき、学習ボランティアで使っているホワイトボードに何やら書き込まれているのが目に入った。その内容に(なぜ?)と思わず目を疑った。昨日、解き損ねた計算問題の解答が書き出されていたのだ。しかも解法は二つあった。夏樹は福島と名乗るパーカーの人に解答のことを聞いた。

「昨日、部長が楽しそうに解いていたのをみんなが眺めていてね。あれこれ解き方を議論したよ。弁天校お馴染みの計算問題。全員で盛り上がった」

(部長、部員、弁天校?)

 夏樹の頭は混乱した。今までパーカーの人は施設の職員だと思っていたのだ。福島は続けて説明した。自分は弁天校ボランティア部の部員で一年生。パーカーは部のユニフォーム。さらに、七海は二年生で部長であり、特待クラスの生徒だという。特待クラスは入試の成績上位者で編成されており、授業料などは全額免除となっている。

「秋川部長、ああ見えても二年連続ミス弁天校なんですよ」と笑うと慌てて「これ、僕が言ったこと内緒にしてくださいね」と付け加えた。弁天校では、全校生徒の投票で学校代表にふさわしい生徒を決定する伝統がある。男子と女子それぞれが決定される。七海はそれに二年連続選ばれたのだ。福島はホワイトボードの解答についても説明した。一つは、数字を整理してから公式を使う方法。そして、もう一つはいきなり公式を使い計算する方法である。七海は、数字を整理する方法で解いた。多くの部員は同じであった。

「秋川部長は慎重だから」

 福島はホワイトボードを見ながら笑っている。夏樹の中で七海の存在が大きくなった瞬間であった。

 ここ数日、夏樹は七海と顔を合わせるタイミングがなかった。その代わりというわけではないが、春花と言葉を交わす回数が増えた。はじめは挨拶程度であったが、最近は昨日あったことなど少しずつ話題も増えてきたのだ。

 夏樹が子供たちに出すおやつの準備をしていると、「ヒャ~!」と声を上げながらチョコレート色のセーラーを身に着けた七海が飛び込んできた。女子の制服だ。男子がスーツなら女子はセーラーである。ゴシック調なところが他校にはない特徴で、これに憧れる生徒は多い。地元のアイドルグループがこの制服をモデルにして衣装を作ったのは有名な話である。

「まいったあ!テストの後に部長会があることすっかり忘れてた。遅れちゃったあ」

 七海は夏樹とばったり顔を合わすと、咄嗟に口に手を当てて誤魔化して笑う。

「福島君、奥で着替えてくるから代わりによろしくね」

 七海はサッと部長の顔つきに戻ると、そのまま走ってロッカー室へと消えた。


「部長、子供たちがいるんですよ。ドタバタしないでください」

 福島が注意すると「ごめんなさーい」と遠くから声が届いてきた。

「ね、あれでミス弁天校なんですから」と夏樹に目配せした。

 学習ボランティアを終えて、七海と話す機会があった。制服が似合っていてアイドルと見間違えたと言う夏樹に、誉めても何も出ないよと七海は照れていた。夏樹は弁天校の制服に憧れており、スーツを着るのが夢だと語った。特待生が聞けば、きっと笑い飛ばすだろうなと思っていたが、七海は「竹脇さんなら似合いそう」と夏樹を見つめていた。意外だった。夏樹は、七海の言葉で気が楽になり、小さな頃からの憧れで塾でも志望校を変えないでいることなど些細なことまで話してしまった。他人が聞けばさほど面白くもない話を七海は相槌を打ち、否定をすることなく素直に聞いた。時計のチャイムが遅い時間を告げる。自分が話しすぎたことに気づいて謝ると、七海は良い話が聞けたと子供のように笑っていた。

 翌日、七海が鞄から丁寧に本を取り出し夏樹に渡してきた。見れば所々擦れている数学の参考書である。ページをめくると至る所に付箋と書き込みがあり、かなり使い込まれているのことが分かる。中古の参考書であれ七海から譲ってもらったこと自体が夏樹にとっては何よりも嬉しく、参考書に触れる度に七海が側にいるように思えた。

「先輩から譲ってもらったお古のお古だけど、受験のお守り代わりにはなるかな」

 七海は悪戯っぽく微笑んでいた。

 月初めに受けた模試の結果が返ってきた。溜息しか出てこない。というのも、数学でまるまる一問に手がつけられなかった。時間配分のミスから焦った結果だ。勉強時間は減ってはいない。むしろ増えているのだが、成果が全くついてこなかった。ついに塾のクラスは下げられ、冬真は【都落ち】と夏樹を笑い者にした。目の前が真っ暗になるなか、ふと机にある七海の参考書が目に入る。何枚も貼られた付箋が参考書から放たれる光のように見えた。

(俺にはこんなに使い込むのは無理だな)

 そのまま目を閉じると眠ってしまった。

 負の連鎖は続く。焦りは新たなミスを生む。学校の試験でも順位が下がる。しかも三十番もだ。これは決定的だった。担任との面談にまで話が及び、ボランティアについても言及された。三年生の活動は内申書には加点されないという。余計なことはしないで勉強に励むように指導された。合格の道は閉ざされたのだ。

 塾でもトラブルが起きる。元のクラスに座っていた夏樹に冬真が難癖をつけたのだ。

「おいおい、往生際の悪い奴がいるなあ」

 夏樹は黙って席を立ち教室を出ようとした。

「忘れ物だぞ」

 冬真の手には私立進学クラスのテキストがあった。

「これはもうお前には用なしだよな」

 冬真は受講生がいる前で笑いながら破ってゴミ箱に放り込んだ。教室に嘲笑の声が響く。

 塾を飛び出し気がつけば足はアフタースクールに向いていた。ここに何があるのか分からなかった。けれど確かなことは塾の中の空気よりもここは心地よく、暗闇の中で見つけた明かりのように思えた。スクールの入り口で足が入るのをためらっている。そこに帰ろうとする春花と顔を合わせた。夏樹が笑みのない笑顔で挨拶をすると、春花は手に持った袋から飴を取り出して夏樹の手に置いた。学習ボランティアで出される子供たちにとっては大切なおやつだ。夏樹は首を振って春花に返そうとするが、春花は夏樹の手を握らせて温かく笑う。

「夏樹ちゃん、元気ないよ」

 手に残った飴が重く感じて涙が出そうになった。合格の道が閉ざされた自分が、なにを目的に勉強をするのか分からなくなっていた。頭がいっぱいになるなか、扉を開けた。

 足を踏み入れると「どうしたの?」という顔をして七海が立っていた。その顔を見たとたん「学校に行く目的も、なぜ勉強しないといけないのかも分からない。勉強する気が起こらない!」そう言葉がでた。愚痴だった。

 このとき夏樹は心の中で求めていたものが分かった。七海が笑顔を見せくれればと期待した。だが、七海の目は笑うことなく、鋭く刺す眼差しに夏樹の背筋は凍った。

「それなら、止めたらいいじゃないですか。勉強は贅沢な行為なの。自分の恵まれた環境に気がつかないのなら、そもそも勉強する資格はないです」

 七海の言葉に夏樹は突き放され、裏切られた感情がこみ上げた。

(秋川さんは僕と環境が違うのだ。エリートの環境なのだ)

 打ちのめされトドメを刺された。時が止まったような気持ちになる。そこに再び声が届く。

「ねえ、竹脇さん。おもしろいこと教えてあげる」

 意気消沈した夏樹を見つめて七海は含み笑いをすると、明るい声を部屋に響かせる。夏樹の心は掴まれた。さっきまでの七海とは雰囲気がまるで違った。

「みんなあ、教えてぇ」

 七海の声に作業をしていた部員の手が止まる。一斉に七海に注目し、誰一人動かず次の言葉を待っている。七海がいかに尊敬と信頼されているのか分かった。

「このなかで、弁天校がC判定だった人はいる?」

(いるわけない!)

 夏樹は心の中で叫んだ。七海の言葉に七人の部員のうち福島と奥にいた女子が手を挙げる。一瞬の沈黙の後、七海が「私も」と手を挙げた。驚く夏樹をチラリと見て笑う。

「じゃあ、ここにおやつ貰いに来てた人」

 その言葉に福島が笑いながら手を挙げる。夏樹の目は大きく開いた。その光景に七海の姿も入る。「仲間だあ」七海が福島と握手をすると、首を傾げて問いかけた。

「竹脇さん、この事実どう解釈する?人はこんなとき、二通りの考えをする。一つは、自分には無理だと考える。もう一つは、自分にもできるのではと考える。この二つの道の行き先は大きく違う。あなたはどっち?」

 七海の言葉に夏樹は恥ずかしさで隠れたくなった。誰でもいい、冬真だってかまわない。自分を殴りつけて欲しいと思った。少しでも七海を疎んだ自分を殴りつけて欲しかった。七海がどんな環境で育ったのかは知らない。でも、ここの子供たちを見ていれば少しは想像はできる。エリートでもなんでもないのだ。恵まれているのは自分だった。

(この人にもっと教えてもらいたいことがある。一緒の学校で学びたい。そして側にいたい)

 その気持ちが何であるかは分かっている。ただ、口には出せなかった。七海は答えを待っている目で夏樹を見つめている。一つの決意から答えを口にした。

「自分にもできる」

 夏樹の言葉に七海は頷いた。

 夏樹はいままで机に飾っていた七海の参考書が武器なのではと考えた。案の定、ページを開いて「お古のお古」の意味が分かった。二人の合格者が使ったもの。その書き込みに驚いた。一つの問題から応用問題と解答、弁天校の出題傾向全てが書き込まれている。この一冊、自分ならお金を出してもいいと思った。それほどのものを譲ってくれた七海のことを思うと抑えられない気持ちがこみ上げてきた。

 数日後、スクールに顔を出すと福島が伝言だとメモを手渡した。

【水曜日の学習ボランティアに来て下さい】と優しい文字で書かれていた。

 水曜に夏樹が顔を出すと、七海が子供たちを集めて学年に応じた課題プリントで勉強を教えてた。どの子も素直に楽しそうにしている。夏樹もプリントを渡された。見れば、弁天校の数学の入試問題だった。

「みんなあ、分からないところは遠慮なく質問してね。竹脇さんもです」

 七海は笑う。学習時間も進み休憩に入るとおやつの時間になる。子供たちにおやつが配られる。

「割り当てだから遠慮は駄目よ。私も食べたいし」

 遠慮する夏樹に、七海はそう言って袋を置いていった。七海が袋からクッキーを取り出して頬張ると、子供たちが周りに集まり次々と話しかける。七海は一人一人の話に耳を傾け、目を丸くして驚いたり、頷いたり、一緒に笑ったりする。子供たちは完全に心を開いていた。それは当たり前なのだ。なぜなら少し前まで七海もこっちに座っていたから。子供たちにとって七海は、尊敬と憧れのお姉さん。この子たちからまた七海に続く子も出てくるはずだ。福島がそうであったようにそして自分も。夏樹は七海を見つめてその思いをしまい込んだ。

 子供たちが帰ると部屋には夏樹と七海の二人だけになった。七海がプリントを一枚取り上げる。

「どう、もう一問」
「お願いします」

 夏樹は当然とばかり頭を下げた。問題はかなり難問で手が止まると、七海が側に来て塾の講師より上手に解説をした。頬が触れ合うほど近い距離に鼓動が早くなる。

「勘違いしないように言っとくね」
 
 七海の言葉に心が読まれたのかとドキッとした。

「前に悩んでたでしょ。学校行くきっかけや目的なんて大した意味を持たなくていいよ。でもね、勉強は違うよ。勉強はやらされているんじゃない。自分が知りたいことを知るためにするの。この世界に自分がいることの証なの。知りたいと思うこと。それが何より大切なこと」

 七海の言葉が夏樹の心に染み込んでいく。あのときの七海の目はそれが言いたかったのだ。夏樹はもう思いが抑えられなくなった。

「秋川さん、今は聞き流して下さい。弁天校は小さな時からの憧れでした。でも今は秋川さんと同じ学校に行きたいと思っています。秋川さんからまだ色々教えて欲しいことがあります。だから、その……合格したとき、秋川さんが僕と話をしても良いというのなら握手をしてもらえますか。あとカフェにも付き合ってもらえたら」

 夏樹の言葉に七海は首を傾げた。

「竹脇さん、それって合格しないと駄目なことなのですか?」
「駄目です。初めて会ったとき、僕は秋川さんに心惹かれました。ここに来たのも正直、秋川さんがいたからです。でも、ここで教えてもらったことは僕にとってはどれも大切なことでした。もっと秋川さんに教わりたいことが沢山あります。もっと知りたいことがあるんです。だけどそれは秋川さんと同じ位置にいて初めて成立するんです。バカみたいな事を言ってるのは分かります。でも、僕にとっては必要十分な条件なのです。だから、もし、僕が秋川さんの側にいてもいいと思ってくれたのなら握手をして欲しいのです。合格したらその返事を聞きたいのです。これが僕が弁天校に行く目的です」

 夏樹は思いのうちを言葉にならないまま打ち明けた。七海は少しのあいだ夏樹を見つめていた。

「まいったなあ。じゃあ、この問題を証明してくれたらいいかな」
 
 七海はククっと笑って問題を出した。

『秋川七海が握手をしたならば竹脇夏樹は合格している。これは真か偽か』

 夏樹の頭は一瞬で真っ白になった。七海は夏樹を優しく見つめていた。

 翌日、夏樹は塾をやめて参考書を中心に勉強を始めた。スクールにも顔を出して手伝いをしながら、分からないところを遠慮なく聞いた。七海がいないときは福島や他の部員が先生になってくれた。塾に行くよりも有意義だった。 

 受験の日。

 久しぶりに冬真と顔を合わせた。

「塾をやめて諦めたと思ったら記念受験か」

 相変わらずの人を見下す目に、夏樹は不思議そうな顔をした。

「なあ、お前は何の為にここに入るのだ」

 夏樹の言葉に冬真は言葉が詰まり、目を泳がせていた。

「お前はどうなんだ」

 ようやく返ってきた言葉に、夏樹は先を見通した目で冬真を刺して答える。

「決まっているさ。握手をするためだよ」

 席に着く。確かな自信はある。だが、周りの強者たちの雰囲気はかなりのプレッシャーを含んでいた。気持ちを落ち着けようと参考書を手したとたんにカバーがスルリと落ちてしまった。そのとき、カバーの裏に付箋がテープで貼られているのに気がついた。その付箋に七海の文字があった。

【待っています】

(これは、いつ貼られた?)

 夏樹の頭に浮かんだ答えは一つ。

(考えなくても分かる。もう、あの日しかないのだから)

 試験開始の合図が静かに教室に響いた。

 入学式の日、制服を身につけた夏樹は講堂に座っていた。あの日から冬真の顔を見ることはなかった。塾仲間の噂では、面接で心証を悪くしたのが落ちた原因とか。

 式の後は、部室に行き七海に挨拶をするつもりでいた。もちろんあの約束の返事を聞くために。

 式は滞りなく進んでいく。在校生代表挨拶。講堂に「在校生代表 秋川七海」と響きわたる。七海が壇上に立つ。新入生の間から感嘆のため息が漏れる。美しい立ち居振る舞いと二年連続ミス弁天校の魅力は見る生徒を引きつけた。挨拶状を読み上げる七海の姿はどことなく遠い存在のように見える。挨拶が終わり、挨拶状の封を戻した七海は一息つくとマイクのスイッチを入れたまま、まっすぐ見つめ声を発した。

「それでは、新入生代表 竹脇夏樹」

 シーンと静まりかえっていた講堂が一瞬ざわつく。当然だ。進行にない七海の単独行動。夏樹はこのとき何も理解できていなかった。先生から肩を叩かれ壇上に行くように促されて、自分が呼ばれたのだと分かった。壇上まではどこをどう行ったのか、覚えていない。気がついたときには七海と向かい合って立っていた。七海はまっすぐに夏樹を見つめた。黒く美しい瞳に夏樹は全てを支配されていた。凛とした声で夏樹に向かい言う。

「私たち在校生は、新入生を歓迎します。伝統そして格式と誇り高き弁天校にようこそ!」

 七海はゆっくりと右手を夏樹に差し出した。そして初めて会ったときのあの笑顔を見せた。ようやく七海の意図が理解できた夏樹はゆっくりと震える手を差し出した。二人の手が交わったとき、講堂から割れんばかりの拍手がなった。その拍手のなか七海は夏樹の耳元で囁いた。

「証明終了!今度は竹脇さんから誘ってください」

 七海は一礼して壇上を降りて行った。この握手の意味を知っているのは、夏樹と七海、二人だけ。ただ、夏樹には福島の「秋川部長は慎重だから」が霞んで聞こえてきた。

 春の香りがまだ残る夕方。学習ボランティアにパーカーを着た夏樹が立っている。

「まずは、学校の課題から片づけようか。分からなかったら、聞いて。何でも答えるよ」

 夏樹は元気に呼びかける。子供たちは顔を見合わせて頷くと一斉に手を挙げる。夏樹は驚きながらも男の子をさした。男の子はみんなと顔を見合わせると笑顔で質問する。

「七海さんと夏樹さんはラブラブなんですか」

 突然の質問に答えが見つからなかった。子供たちはそんな夏樹を見て「教えてー」と期待する目を向ける。夏樹は頭を抱えた。ちょうどそのとき、新入部員との作業を終えた七海が顔を出した。男の子が質問に答えてくれないと不満げに言う。七海は子供たちにどうしたのかと聞いた。春花が同じ質問をすると、七海は子供たちに問いかけた。

「みんなにはどう見える?」
「ラブラブ~!」

 一斉に返る答えに七海は笑った。

「なら、それが正解です」

 七海の答えに子供達は安堵して笑った。ただ、夏樹だけは真剣に考え込んでいた。

(秋川さんの答えの真偽を証明するのは難しい。もっと勉強がしたい。もっと秋川さんのことを知りたい)

 アフタースクールからは子供達の賑やかな声が溢れていた。

  (了)


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