お前、アレキシノミアって言うのか
たまたま見つけてしまった記事。私が長年抱えていたものがそのまま書かれてあった。そんなことはほとんど初めてだ(正確に言うと、集〇体恐怖症以来)。
アレキシノミア(Alexinomia)は、簡単に言うと、人の名前を呼べないという心理的状態、らしい。ここで大事なのは、呼べない理由が恐怖(不安?)によるものということ。名前が覚えられないとか、思い出せないということではない。あえて日本語にするなら、安直だが「呼名恐怖症」といったところか。
(例の記事タイトルにはアレキシソミアって書いてあるけど、違う意味になってしまうので多分誤植)
ここからは学術的というよりも、個人的経験とネットで見た体験談から受けた印象を中心に書く。
レベルは人によってさまざまだと思う。相手によって、家族なら大丈夫とか、親しい友達なら大丈夫とか。あるいは、名前の呼び捨てはダメだけどあだ名ならOK、苗字ならOK、「苗字+さん」ならOKみたいなのがありそう。
私の場合は結構重症で、対象は誰にでも起こる。たとえ家族でも、意識しないようにすれば呼べるけど、意識すると呼べなくなる。呼び方に関しても、名前はまず呼べないし、あだ名で呼ぶのも怖い。ただ、唯一「苗字+さんorくんor肩書」で呼ぶことはできる。なので全く見知らぬ人や目上の人は普通に呼べる。だが現実はそんなに甘くない。面倒くさいのは、「苗字+α」で呼ぶことが不自然、あるいはよそよそしい間柄である(と私が思う)ときには、そうも呼べなくなり、結局どうとも呼べなくなってしまう。
この症状があるので、基本的に人を呼ぶときは「ねえねえ」「おーい」という呼び方になる。あるいは肩を軽く叩いて気づかせる。近くに寄らないと気づかれないので、遠くから呼びかけざるを得ない状況になると詰む。呼ばないと不自然な状況でもギリギリまで粘り、最終的に諦めて呼ぶと、階段から後ろ向きに転げ落ちたような恐怖に襲われる。心臓がドキドキし、顔から血の気が引く。
個人的経験では、小2くらいから「発症」した覚えがある。何か明確なきっかけがあったわけではない。ただ、覚えていることがある。ちょうどそれくらいの頃、私はあるクラスメートと席が近くなった。私は彼を「名字+くん」で呼んでいた。しかし私の別の友達は、そのクラスメートを下の名前で呼び捨てにしていた。私はそれに影響され、彼を下の名前で呼んだ。その時に強烈な違和感を抱いた。(たしかこのとき相手の反応がなかったような……。)そして、どっちで呼べばいいのか分からなくなってしまった。これがきっかけと呼ぶには弱すぎる気もするが、実際それくらいの時期から人の名前を呼べなくなってしまったのは確かだ。
何が怖いのか?言語化するのは難しい。恐怖症というのは得てしてそうだ。ただ、「呼んだ名前が間違ってたら怖い」とは少し違う(もちろんそれも込みではあるが)。もっと深いところ、人と人との関わりの根源にある恐怖症なのかもしれない。名前を呼ぶことによって、自分と相手の間に不可分な関係が発生して、相互に責任が発生してしまうことへの恐怖?
どんな理由にしろ、結果的に他人との距離を縮めることがどんどん困難になっていったのは事実だ。人の名前を呼ぶことは、人と関わっていくうえでの大前提なのだから。名前を呼べないから人と関わらなくなったのかもしれないし、人と関わらないから名前を呼べなくなったのかもしれない。鶏と卵の無限ループだ。最近はさらに飛び火して、人だけでなく商品名や作品名、団体名なども怖くて言及できなくなりつつある(これはSNSのせいかも)。
このことは昔からずっとネットで調べていて、最近はもう慣れきっていて改めて調べることもなくなっていたのだけど、最近アレキシノミアという用語が確立した、というのを今日知った。自分の心の中にある化け物の正体が、またひとつ明らかになった。お前、アレキシノミアって言うのか。
用語が確立したということは、ある程度普遍的な現象だということだ。今後、アレキシノミアが有名になって、人の名前が呼べない人に配慮してくれるような社会になるのか? 集〇体恐怖症は最近、そうなりつつあるように感じる。一方、コミュニケーションの根幹に関わるこちらは、決して理解されないかもしれないし、理解されたとしても切り捨てられるのではないかという気がする。
少なくとも自分に限っては、もう一生治らないと思う。15年以上続いていて、しかも人格形成の期間ずっとそうだったのだから。そして、私は一生誰とも深い関係を築くことなく、生き延び、そして死ぬのだ。