映画「少林寺木人拳」を観ると「シェンムー3」が面白くなる!
「シェンムー」は父を謎の拳法家に殺された主人公、巴月涼の成長物語だ。横須賀から旅立ち、2作目は香港、3は中国を旅する。
ストーリーと関係ないところまで作り込まれた広い街を歩いて、あえてチープなゲーム内ミニゲームを遊んだり、緻密なジオラマを鑑賞するようにプレイする。
街全体が主役の「元祖オープンワールド」と紹介されることも多い。
監督・鈴木裕は、世界初の3D格闘ゲーム「バーチャファイター」を手がけた人でもある。
ポリゴンでできた格闘家たちは一見カクカクに見えるけど、絵を1枚1枚描いてパラパラ漫画のように動かすキャラクターよりも、ぬるっと動く。
それまで格闘ゲームの中国拳法は、チャイナ服を着て髪をお団子にするか「アチョー」って叫びながら蹴っていた。そうすると
「あれはカンフーだ」と思われていたんだけど、最新技術のポリゴンで作られたキャラクターは、なめらかに円を描くような、リアルな拳法独特の動作をした。
決めゼリフで「クンフーが足りない」と言われて、カンフーって競技名じゃないの? 足りなかったり増やしたりするものなの?と思った。
「シェンムー3」では、オープンワールドを使って、毎日道場に通う生活までもゲームにした。
バーチャからシェンムーへ。
最新技術を使って格闘表現をアップデートした。
だけど、18年ぶりの最新作「3」には困惑した。
ストーリーは目撃者を追うばかりで全く進まない。たんたんと、えんえんと、街を観光する。
話に期待するのはあきらめて、下校中の小学生の道草のように無心でガチャガチャに祈ったり草花を愛でていると楽しみ方は見えてきたんだけど、ヒロインのお父さんが誘拐されてる状況で、街をのんびり観光するのも変な話だ。
敵の悪事は、店で金を払わず、女の子にちょっかいを出すことだ。セリフまわしもベタすぎて恥ずかしくなってくる。
シェンムーがいたたまれない作品になっているのは、90年代からゲームをやっている人にとっては特別に寂しい。
「バーチャル」って言葉を教えてくれた、プロゲーマーのような存在を90年代に生んだ、つねに最先端の若者を熱狂させていた鈴木裕作品なのに、古臭い。青春時代のロックが懐メロになっていた寂しさだ。
あとDLCで、新たな敵が現れたと思わせて、すでに倒したこいつらだった。そういうとこだぞ。
それが、先日「少林寺木人拳」をはじめ、いくつかカンフー映画を観たら、わかった。
そこにシェンムーの世界があった。店の内装、看板、酒壺。「技書」の表紙までそのまんまだ。デザインだけじゃない。真剣な話の中に、コミカルな動きがまじる、独特のリアリティがある。
「レッドデッドリデンプション」が西部劇の世界に入って生活するだけで嬉しくなるように、「シェンムー」はカンフー映画の世界に入れるゲームだった。
「少林寺木人拳」は、若き日のジャッキー・チェンが、父を殺された若者を演じる。かたきを討つために、洞窟に幽閉されたあやしげな師匠に教えを乞うのだが、そこで要求されるのが「饅頭と酒」だ。
シェンムー3も、わざわざ饅頭を買ってこないといけない。
シェンムー3のゴロツキがやる悪事は飲み食いをして金を払わないことだけど、
「少林寺木人拳」でも「ドラゴン危機一発」も、ゴロツキが金をはらわず、店の娘にちょっかいを出す。
店員「払ってくれないと困ります…!」
悪者「いいじゃねえかよう!」
主人公「そのへんにしておけ」
必然的にこんな会話が始まる。ゲームだけ見ると、なんてベタなやり取りだろうと思ったけど、映画を観たあとでシェンムー3をやると、
「おっ、ちゃんとやってんな」と感心する。
昔のカンフー映画の悪党のかっこ悪さや、集団で来るけど危険な武器は使わないルールをちゃんと守っている。
カンフーといえば修行。それも、闘いと一見関係ない修行を命じられるのがお約束だ。有名なのは空手だけどベスト・キッド。
西洋の効率良い教育じゃなくて、無理難題の中に意図がある。掃除とか、日常生活の動きが拳法に繋がっているパターンが多い。
シェンムー3ではニワトリを捕まえさせられた。悪くはないが、俊敏さを鍛えているのがわかりやすい。腕立て伏せの姿勢のまま熱湯がひたひたに入った茶碗を乗せるとか、無茶してほしい。
そういえば、ドラゴンボールの亀仙人「ピチピチギャルをナンパしろ」や界王様「ギャグで笑わせろ」は、無理難題のうえに深い意味もない。だけど
シェンムー3にこそ、ナンパかギャグの修行を入れてほしかった。
シェンムー3でいちばん良くないと思うのは、村人と交流するゲームなのに、交流するほど涼さんがイヤな奴に見えるところだ。
脳ミソに「復讐」とマジックで書かれているのか、敵の情報以外に興味をしめさない。屋台で何も注文しないで話を聞く。同業者に他の店の場所を聞く。(マナー違反だ)
ジョジョの奇妙な冒険でも、バーで聞き込みするときは「そうだな アイスティーを4つ」と注文してみんなで飲み干していたぞ。涼さん、あれ見てないの? ダービー戦に入るところ!
父に、良き友を持てと言われたはずなのに、硬派を越えて感じ悪くて、ゲーム全体の印象を悪くしている。ナンパかギャグの修行があったら、笑顔とかあいさつとか、人にどう接したらいいかを考えないといけなくなる。
悪友のレンと食事しながら会話せず、そのへんで作戦会議をするのは男子小学生の秘密基地感があっていいけど、食文化に戸惑ったり、旅の楽しさを味わう姿を見せないから、動かしてる側も反応を見たくならない。
あと興味のない話になると「はあ」と口に出す、表情が変化しない、食事描写がない(旨いとか苦いとか一言コメントもない)悪党を追いかけるときだけ生き生きするから、ターミネーターみたい(どんどん不満が出てくる…)
都会の鳥舞に降り立つと、迎えてくれるのは常にカーラーを巻いたままの旅館のおばちゃん。
「カンフー・ハッスル」にリスペクト元っぽい人が出てくる。
あ、あなたは…。
たまたまだったら凄い。クラウドファンディングで出資した人が街に顔出ししているが、この人が巨額を投資したみたいになってる。もし旅館で暴れる客が出てきて、女将が成敗するシーンとかあれば確定なのだが。
追跡に失敗したら転んだり海に落ちたり、コミカルな動きをするのは、まんまジャッキー的。
ただ、シェンムー3では、表示されたボタンに即反応するQTEが難しすぎて、ボスバトルも修行も、スカッと決めてほしい場所でことごとくイライラした。今時のゲームが全部廃止してるシステムだけど、今のゲームシーンに興味ないのかな、と寂しくもなった。
終盤で出会うもう一人の師匠は、武道家を引退して鵜飼いをやっている。
初対面のときに、水上の丸太をジャンプしたところで会うのは映画「少林寺三十六房」を思わせる。少林寺の修行で、水上の丸太をわたらないと粥にありつけないのだ。達人はパワーよりもバランス感覚に優れているイメージ。
終盤では、敵の動きから、どの動物の動きをとりいれたカンフーなのかを当てる場面がある。
明らかなハズレの選択肢で「パンダ」があるのだが、それを選ぶと、
「アニメであった」と、時代をすっ飛ばしたセリフが聞ける。「カンフー・パンダ」だ。
「木人」への異常な執着は、スタッフにカンフー映画好きがいないとありえない。一般人はあれを見て別にテンション上がらない。
鳥舞はカンフー映画ごちゃまぜ街なのではないか。詳しいひとならもっと「この技はあれだ、この人はあれだ」と楽しめる。
ラスボスの藍帝VS涼さんは「ブルース・リーVSジャッキー・チェン」のような構図。
ブルース・リーは登場したときから完成されていて、ジャッキーは修行で才能が磨かれていくイメージがある。
完成されたカンフーに、発展途上のカンフーで追い付こうとする。
そのために横須賀から、カンフー映画にまつわる土地を旅していく。そう考えると熱いストーリーだ。
シェンムーは、どう完結するつもりなのだろう。
続編を出すこと自体が厳しいと思うが、最後は復讐するの?殺すの?許すの?
「少林寺木人拳」のラストは、復讐を果たしたジャッキーが出家して頭を丸める。シェンムーの最後が、今まで髪型変更だけは受け付けなかったのに、最後にミニゲームで剃髪して「出家END」だったら、あぜんとするけど、ありきたりなハッピーエンドよりも、ずっとシェンムーらしい気がする。