9月15日、映画

『浜の朝日と嘘つきどもと』
あたたかくてエンドロールで泣けてきた。
もう一度映画館に行きたいし、誰かと一緒に観るのもいいかもしれない、と思った。同じ作品を映画館で二度観た経験はないけれど、もう一度映画館で味わいたいと思える映画。
映画やから映画みたいな展開があっていい、

お世話になった人たちがいる南相馬市が舞台の映画、絶対に観ると決めていた。
野馬追、浜通り、飯舘村、
分かることが嬉しい。

震災から10年、そしてコロナが流行、追い討ちをかけられた人は知らないだけで沢山いる。南相馬市を舞台にしている以上、特に震災(による影響)はこの映画のキーワードの一つで、実際に所々描写されていた。でも決して、それでも乗り越えて生きていこうみたいな強いメッセージで訴えられないことがよかった。そんな単純なもんじゃないし、過剰に悲劇として扱うものではないと思うから。
あったこと、あることを、フィクションの中に散りばめられていた。除染、作業員、分断、被曝、
家族の分断は、特に他人事じゃなかった。残る人、離れる人、働く人、守る人、とか、考えによって立場が変わったり、立場による考えがあったり、どうしても両立できない価値観がぶつかった経験について話してくれた人がいます。そう、二次被害という表現がそもそも適切なのかは分からないけど、二次被害は長期的に続くことがある。分かり合いたい、そばにいたい人たちやのに、いつのまにか離れてしまう結末になるなんて悲しいけど、その悲しみによる怒りの矛先をどこに向けたらいいか分からんよな。映画の中の映画のワンシーンに、距離が近すぎると衝突する、っていうシーンがあって、まさにそうやなと、日常でも思う。近くにいたいのに、って、本当に距離感ってむずかしい。

遅かれ早かれ(どうせ)死ぬから死を急ぐ必要はない、動かないと始まらなくて、始まってないと終わらない。
血も血じゃないものも私たちには必要で、幻想と残像はきっと紙一重、これもどちらも必要やと思った。逃げ場が必要、目背けたっていい。信じること、信じたいことがあることが、自分を保つ。
きっかけなんてそんなもんやけど、案外そんなことが選択の理由になる。南相馬市が舞台、それで選んだ私みたいに。
正しさを頭では分かっていても、心が譲れないときがあって、それはきっと間違っていない。正しさが脅かされることはあってはならないと思ってる。でも正しさなんて立場や見方、角度を広げると一つじゃない。のに、一つしか選べないし、お試しなんてできない、いつだってぶっつけ本番やからしんどくてこわい

結果的になんとかなったけど、事業存続の危機や雇用機会の提供は、国が支援すべき。個人じゃなくて社会レベルの問題、太刀打ちできない。個人や一企業だけが抱える必要はない、重すぎる。
終わりを迎える時や失ってから、とか、思い当たる節がある。たしかに遅いけど、動かなかったかもしれないその時の自分と比べたら早い、きっと間に合うことがある。ていうか、なんとか間に合ってると信じる。死に際に笑ってもいい、笑わせてもいい、いいんやなあって思えた。泣いてたのに笑った看護師さんが忘れられない。そして、解体作業員が拍手していたのもすごくすごくあたたかかった。すごくいい、
泣き笑いしたくなった。


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