俺は時々、自分は永遠の命を授かっているのではないかと錯覚を起こす。
今日という日がこれからも未来永劫続くのではないかと甘ったれた妄想に耽ることがある。
しかしこれは妄想なのだろうか?
はたまた錯覚なのだろうか?
もしかしたら、現実ではないのだろうか?
【死】とは何を意味するのだろうか?
子供の頃から【死】を意識して生きてきたのだが、またここにきて【死】というものを再び考えさせられるイベントに参加してきた。
今回の投稿はイベントのそのレポート…というよりも、そのイベントに参加したことによって今一度【死】というものと向き合うきっかけをいただき、自分にとっての【死】とは何か?【死】を考えるとは【生】を考えることに他ならないのではないか?
そんな内容のことを徒然と書いてみたい、そう思いたって書いた散文だと受け取ってもらえたら嬉しい。
僧侶と葬式屋
今日俺が参加してきたイベントとは【僧侶と元葬儀屋が『死』について語り合う】というイベントだった。
その僧侶とは福井県は越前海岸にて善性寺という寺を営む夫婦である。
個人的にも親交のある2人だ。
彼らは僧侶でありながら耕作放棄地で自然農を行ったり、人間にとって最も必要な調味料である塩をギリシアから直輸入して『塩がいかに人の営みに必要か?』というメッセージを発信したり、お寺というコミュニティを地域の繋がりが希薄になりがちな現代においてどのような立ち位置で機能するのか?などを人生を持って実践(又は実験と言ってもいい)している社会活動家の様な側面も持つ。
そして元葬儀屋の高畠さんは現在は農業を中心として様々な活動に関わられている。
葬儀屋として人の死と向き合ってきたからこそ、生命の循環として農業にも強い関心を持たれたのかも知れない(あくまでも個人的な推測) 。
人はいつか必ず死ぬ。
永遠の命などどこにも存在しない。
しかし人は生きている間に自分の死を意識する機会はそれほど多くない。
どのように死にたいか?
などと自分に問うた人間がどれほどいるのだろうか?
俺たちは
「生まれたい!」
と強く願って生まれてきたわけではない。
気がついたら生まれていたのだ。
そして『いつか自分が死ぬ』ということも、生きている中でやっと気付いていく。
…真剣に考えることなく…
土葬というネアンデルタール人の甘美な夢
俺は幼い頃から魂の存在を直観的に確信していた。
この肉体がいつか朽ち果て、俺という人格と性格がこの世の中から消え去ったとしても、この肉体に宿った魂が肉体が焼かれると同時に消えてしまうとはどうしても思えなかった。
しかしその『直観的な確信』にはなんの根拠もなければ確証もない。
もしかすると魂など存在しないかも知れない。
むしろ魂などというものが存在していようがしていなかろうが、どちらでもいい。
大切なのは、ただただ
【俺が信じている】
という自分だけが確信している自分の事実だけなのだ。
それは信仰心に近い。
特定の宗教や神様への祈りではなく、『自分の魂は不滅である』と根拠もなく信じている力。
これこそが信仰心でなければ何が信仰心なのだろう?
俺は特定の宗教に対する信仰心は持たないが、畏れ多いと感じる存在への純粋な祈りの感情を持っている。
これもまた、信仰心だと感じている。
絶対的なもの。
宇宙的なものへの分厚い信仰心。
この信仰心に対して『スピリチュアル』などのラベリングを行ったり、想いに近い宗教観を当てはめて『◯◯教に近い』などとカテゴライズすることは避けたい。
俺が勝手に感じている畏れ多いもの、言ってしまえば【真理】や【本質】のようなものに『ラベリング』をしてしまうことによってその【真理】や【本質】は遠ざかってしまう。
人間は言葉によって理解を深めようとするが、言葉にすれば言葉にするほど本来の本質から遠ざかってしまうものもある。
【本来の本質】、それこそが【魂の居場所】だと考えている。
仏教的な輪廻転生でもなく一神教的な魂の救済でもなくなぜ魂がこの肉体を借りて現世にて過ごしているか?の意味は問わないでおきたい。
今回は純粋に自分の魂が【魂の居場所】に帰った後に残された【肉体】
この【肉体】をどのようにして扱うのか?つまり、どのように埋葬をするのか?の選択肢として【土葬】することへのあまりにも甘美な夢について時に散文詩のように、時に吟遊詩人のように歌い上げることができたら幸せではないか?
そんな気分で今この文章を書いている。
土に還る
我々ホモサピエンスと、ホモサピエンスよりも先に滅んだ人類『ネアンデルタール人』との差とは、『共通認識力の差』だったらしい。
体力的にも体格的にも我々ホモサピエンスよりも恵まれていたとされているネアンデルタール人。
体力仕事であったりシンプルな『狩り』などではネアンデルタール人の方が有利だったらしい。
つまり一対一の殺し合いではホモサピエンスはネアンデルタール人に勝てなかったとされている。
ではなぜネアンデルタール人は滅び、ホモサピエンスだけがこの地上の残った唯一の人類となれたのか?
それは例えば、我々日本人は『俺たちは日本人である』という共通認識を無条件に有している。
何を持って日本人とするか?は人によって定義は変わってくると思うが、それでも日本人の両親から生まれて日本の文化の中で日本語話者として生活している自分のことを
「俺はイタリア人だ」
と本気で信じている人にはなかなか出会えないだろう。
「俺たちは日本人だ」
こうした無根拠でお互いの共通項を認識し合える能力が、ネアンデルタール人よりも勝っていたらしい。
つまり、一対一で勝てない相手ならば、10人のネアンデルタール人に対して50人で挑もう、俺たちは右から攻めるか、お前たちは左側の林に隠れていてくれ…というような大人数での行動を取れることが優れていたらしい。
そんな我々は
「このお金は¥100だ」
「私たちの神様はこれだ」
「私たちは日本人だ」
などの大小様々な共通認識を元に社会を形成して生活を営んでいる。
しかしその共通認識がどうしても確証を持てなくなるのが『魂の居場所』でもある。
ネアンデルタール人は家族や友人が死んだ際に土葬をして花をたむけていたらしい。
共通認識を持つ力が我々ホモサピエンスよりも弱かったネアンデルタール人は、死に行く家族や友人を土に埋めるとき、どんな想いで花を手向けたのだろうか?
魂の抜け殻となった肉体にどのような想いを添えて花で飾ったのだろうか?
その想いは言葉することを拒否してただただ土へと還っていったのだろうか?
もしかすると本質的に肉体が土へと還ることでこと大地と共に生きている間は死者とも繋がっていると感じていたのではないだろうか?
そうなると死者を埋葬した大地とは生者と死者を繋ぐ約束の大地となったのだろう。
その死者を埋葬した大地から花が咲いたとしよう。
ネアンデルタール人は魂の永遠性や生命の神秘、死者との永遠の繋がり、生命の美しさを信じたのかも知れない。
ここに肉体と魂とが溶解してひとつの大きな存在として漂うことを夢想することは罪なことなのだろうか?
大地がある限り、我々は死者と共に生きていける。
この肉体がある限り、我々は死者の魂の美しさを忘れずに済む。
ネアンデルタール人は肉体と魂の繋がりを、または死者と生者の繋がりを、本能で知っていたのではないだろうか?
言語化する必要もなく。
それはなんて甘美な死生観なのだろうか。
火葬とは?
俺個人としてはネアンデルタール人が土葬に願った夢(あくまでも個人的な妄想だが)のように「いつか自然に還れたらな…」という想いから土葬で葬られたらいいなと考えている。
しかし元葬儀屋の高畠さんの説明によると現在の日本では99.97%が火葬だそうだ。
イスラム教徒が増えたり、オーガニックでサステナブルな観点から土葬を望む人が増えているとしても、土葬はかなり壁が高いのも事実だ。
なにせ勝手に自宅の庭に埋めると死体遺棄という犯罪になる。
また「水質汚染に繋がるのでは?」とい地元住民の懸念も大きいらしい。
東日本大震災の際にどうしても掘り起こせなかった遺体の埋まっている場所からは3年も過ぎても異臭が消えなかったという話もある。人間の体が土に還るというのはハードルが高いのだろうか?
また、土葬が可能な土地を見つけたとして、それが死者の生まれ育った地域ではなかった場合、受け入れる側の地元感情として
「なぜ地元でもない人間をこの土地に埋めなくてはならないのか?住民税も払ってないのに?」
という地元感情もある。
これは地方で暮らす人ならば理解はしやすいのではないだろうか?
土葬というのは現段階としてはロマンチックな散文詩の域を出ていないと感じている。
しかし土葬を望むということは、生きている人間が死ぬまでどう生きたいのか?という自分の『生命』と『生き様』に対してのひとつの意識の現れと見ることはできないだろうか?
どんな埋葬のされ方を望むのか?
それを考えることによって今日という一日をもう少し愛おしく抱きしめることは出来ないだろうか?
「あなたはどう埋葬されたいですか?」
それをたくさんの人と話したり考えを聞いたりすることはとても豊かな時間では無いだろう?
『死』を身近なものとして考えて、今手にしている『生』への愛着と慈しみを深める機会にできないだろうか?
そんなことを思いながら高畠さんの話を聞いていた。
涙をきちんと流させる
高畠さんの話の中で俺が一番印象に残った話は…
「葬儀屋として葬儀を取り仕切る中で一番大切にしていたことは、遺族の方にきちんと泣いていただくことです」
この言葉は俺の胸に深く刺さった。
言葉ではなく悲しみを『泣く』ということで表現して、大切な人の死を受け入れる。
この人はもういなくなるんだ。
話しかけることも叶わないんだ。
そうきちんと認識するためににも、泣く。
泣いていただく。
悲しみの感情で相手の死を受け止める作業とは、
『私はまだ生きていてこの人はもうこの世にはいない』
という事実を客観的に理解する作業に繋がるのだそう。
泣けずに相手の死を受け入れられない人は、悲しい病気や結果に繋がることが多々あるとのこと。
高畠さんも遺族が後に相手の死を受け入れられない喪失感から自殺されたことを見てきたそうだ。
我々はきちんと悲しまなくてはならない。
古来日本人は
『美し』
と書いて
『いとし』
とも
『かなし』
とも呼んだらしい。
相手を愛するということは、美しさと悲しさとを常に併せ持っているということを、本質的に理解していたのかも知れない。
愛する人を失った悲しさを涙を流すということで表現することは、死者を埋葬した大地から花が咲くような現象に似ているとは思わないだろうか?
こじつけだろうか?
それほど誰かを想うということは、美しい。
だから今日も我々は祈りを忘れない。
お墓は死者を思うシンボルたりえるのか?
俺は時々1人で墓参りに行く。
墓参りという行為が少しだけ好きだ。
墓に刻まれている先祖の名前を読んでみると、驚くことに自分の先祖に対して何も知らないことに気付く。
お墓というのは俺にとって名前も顔も知らない先祖たちとの繋がりのシンボルとして存在している。
しかし世の中のスピードは驚くほど速い。
離婚する夫婦が増えたり、昔よりも虐待などが可視化されたことで親に愛されずに育った子供が増えたり、またはLGBTQなどが認知され始めたりもしえ日本も【家族】の形や価値が変わり始めている。
無縁仏が増えたり、整備されていなくて朽ち果てていく墓もよく見かける。
お墓に対する価値観も多様化していくだろうし、していけばいいと思う。
その中で俺のようにお墓を先祖を思うひとつのシンボルと考えない人だって増えてくるし、それは人それぞれでいいと思う。
我が身を自然に還したいと願う時、血縁の繋がりを超えてこの地球や大地、大袈裟に言えば宇宙と繋がろうとする時、俺たちは【家族】や【血縁】【先祖】【宗教】というものに対しての意識がどのように変わっていくのだろうか?
俺は自由に変わっていけばいいと思う。
答えはひとつではない。
家族、血縁、先祖、宗教…そうした自分の『外側』からやってくる価値観お相対して、自分の胸の奥(宇宙と呼応する紛れもない自己)は何を求めているのか?
すぐに答えは出さずに自分に問いかけてみる時に、【土葬】というものが何かヒントを与えてくれる気がしてならない。
今回のお話会は時間があっという間に過ぎていった。
話の内容が濃すぎて沢山質問をしてみたかったのだけど、頭の中がこんがらがってしまい自分が何を質問したいのかもわからなくなってしまった。
今回は元葬儀屋の高畠さんの体験からの話が中心だった。
今度は参加者の質問からより死生観を広めたり、または土葬を広めたいと考える善性寺の山田夫妻の考えや、仏教と土葬との関係や、仏門に所属する2人のお墓への感覚なども聞いてみたい。
とにかく一回で終わるには勿体無いし、もっとたくさんの人にも参加してほしいとも感じた。
でも少人数だからこそいいのかな。
またみんなの顔もみたいしね。
桜の樹の下には
小説家梶井基次郎の短編小説『桜の木の下には』はこんな書き出して始まる。
「桜の樹の下には屍体が埋まっている!これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか」
とても短い短編小説なので俺の妄想に付き合ってくださった皆様には是非とも読んでほしい。
桜の根が屍体を包み、体の養分を吸い上げて、見事か花を咲かせて繚乱と舞い散る時、人は何を思うだろうか。
儚さとは、命のことではないだろうか。
そして俺たちは知っている。
来年も同じ時期になると桜は再び咲き誇ることを。
ここに命の美しさと儚さを感じるとともに、魂の永続性を感じることは許されるだろうか?
俺は信じている。
夢のイリグチ
俺個人の感覚としては、自分の葬式など必要ないと感じている。
俺は誰よりも長生きして俺の知り合いなど誰もいなくなった果てに死ぬのではないかと考えている。
もし俺の死を悲しんでくれるなら、葬式なんていらないから飲み会を開くか、ひっそりと俺に献杯をしてほしい。
それだけで充分だ。
つか…俺、死ぬんかなぁ?
死なへん気がする。
魂の永続性を信じているから、この肉体、人格、個性が死んだとしても俺の魂は死ぬことはないのではないかと感じている。
俺は死んだことを自覚するのだろうか?
魂のみになったら意識はなくなるのだろうか?
今の肉体や意識や性格や人格が借り物ならば、俺の魂はどこからきてどこへ行くのだろうか?
それは誰にもわからないし、答えはない。
だから永遠のテーマとして創作を続けたい。
俺の創作とはもちろんスープヌードルキュイジーヌであるが、イラストや誌も20年以上ぶりに書き始めている。
そうした創作が魂の永続性と森羅万象を追い求めていることはもちろん、さらにスープヌードルキュイジーヌに深みを持たせてくれる日がくる。
絶対き必ずくる。
そう信じて、中山うりの【夢のイリグチ】を聴きながらこの文章を締めくくりたい。
歌詞を噛み締めて聴いてほしい。
死に行くということは、決して暗いことではない。光に包まれてまた新しい世界へと旅立つのだろう。
その時に自然と共に魂が流れていくのであれば、そんな幸せなことはないのではないだろうか。
最後まで読んでくださってありがとうございました。
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