父を亡くした日。

2021年7月14日、父 見並勝佳(みなみかつよし)が亡くなりました。77歳、3月に喜寿のお祝いをして「次は米寿のお祝いだね」と話していたのに。

父は進行がんの闘病中でした。2年半前に癌が発覚し、それもかなりの進行癌で完治は難しく、ホルモン剤や抗がん剤で少しずつ治療を行なっていました。副作用で苦しい日もあったでしょうに、会えばいつも笑顔で対応してくれました。
苦しい闘いではありましたが、がんの症状は毎月の治療で抑えることができており、まだまだ自分の意思もあり体も動く。そんな状況で突然のことでした。
急激な容体変化により入院。その後、呼吸困難となりICUに入り、医師の皆さんが懸命に治療をしてくださり本人も頑張ってくれましたが、それから約25時間後に呼吸停止したそうです。
私たちが知らせを受けてから、本当にあっという間に感じました。

情勢もありICUでは面会はほぼ不可。兄のみ、いよいよ危ないからと医師に呼ばれ、亡くなる20時間前に一瞬だけ目を開けた父と面会をしています。私たちは自宅から情報を待つしかありませんでした。
ドラマで昔からある、人が亡くなる前に家族が集まって手を握って看取るシーン。あれは随分恵まれた奇跡的な環境だと思います。実際はこのように、死のタイミングは突然やってきて、何もできないまま終わってしまいます。

さっきまで元気だったのに


亡くなる3日前、私たち家族は実家に行き父と母と会っていました。容体変化の前日まで、私たちは一緒にいたのです。
7月11日は夫の誕生日だったので、当日は何か美味しいものをテイクアウトしようと、午前中から私と父が一緒に車で出かけました。
がん治療にすっかり疲れた父は最近は散歩も億劫だったようですが、母の声かけにより私と2人で出かけることになりました。お父さんっ子だった私は昔から父との会話が多い親子関係でしたが、2人で話すのはずいぶん久しぶりだった気がします。
出かけたと言っても、がん患者はコロナ発症リスクが高いこともあり、父は広い駐車場で待機です。予約商品の店内受け取りは私のみ、空いてる店舗で短時間で行いました。
待ち時間に、最近の仕事のことや息子が最近頑張ってる勉強のこと、やっぱり車の運転苦手だわ〜(私が)というまで、いろんなことを話しました。基本的に人のことを否定しない父なので、いつも私の話は「うんうん」と聞いてくれます。

「最近はこんなふうに話してなかったから貴重な時間だな〜」と懐かしく思いながら会話をしていましたが、今思えばまさにこれが2人での最後の会話でした。いろんなことを話せてよかったなと今は思います。

「もう危ない」と言われても奇跡を願ってしまう

実家から帰った翌日に兄から電話があり、父が病院にいると聞いたときにはもう重篤状態でした。昨日までいつもの元気な父を見ていた私は、兄の言うことが一瞬理解できず「どこのお父さんの話?」と聞き返してしまいました。
「もう危険です」「重篤状態です」医者にそう言われても、「でも実は治療の手立てはあって、明け方くらいには症状が安定して回復に向かうのではないか?」なんて、根拠もないのにそんなことを考えてしまいます。
いよいよICUに入ると聞いた時には、「回復するまで会えない」と言われましたが、それでも「きっと数日後には「もうすぐ退院だよー」と笑顔でLINEをくれるだろう」と想像をしました。
もちろん、その気持ちは強がりでもありますので、不安の感情と交互に押し寄せます。数分に一回は最悪の想像に涙が出てきます。無意識に「もしも死んでしまったら」の事後を想像している自分に気づいては、全否定するために必死でした。何回か、本気で自分にビンタをしたくらいです。

昨日、いつものように息子(6歳)とベランダのミニトマトの世話をして喜んでいたのに。入院も重症も、やっぱり違う人の話なんじゃないかな?
実際に目にしていないと、そんなことまで考えてしまいます。

父が亡くなった連絡を受けた頃には、心の中に自分が3人くらいいるような不思議な感覚でした。ショックを受ける自分と、それを「予想してたことじゃないか」と納得させようとする自分、それを「人間にはこんな感情制御の機能があるんだね」と第三者のような目で分析している自分。涙を流すよりも、なんだか複雑なことを考えるのに忙しかったように思います。
連絡を受けた時に一緒に起きた夫が泣いてくれて、その後起きてきた息子も泣いてくれて、とても救われました。

これからの生き方でできる親孝行

仕事は休みをもらい、ひとまずスマホを片手にソファに座ってみたけど、「スマホってこんなにやることがないものだっけ?」と思うほど見たいものがない。何を見ても父を思い出しそうで、何ひとつタップできませんでした。忙しい普段は、ゆっくりスマホを見る時間もないな〜と思っていたのに、私はスマホで何を見たかったんだろう。こんなもの2度と見られなくていいからお父さんに会いたいなぁ。

まる1日ソファでごろごろしているとき、ふと自分の手に目が入りました。乾燥肌で、爪の形があまり好きじゃないと思っていた私の手。指が5本、ちゃんとあります。割と多くの人があるかもしれませんが。不自由のない健康な身体です。
このように健康に生み育ててもらったから、私の今の生活があるんだな…とあらためて思いました。
「趣味は○○です!」と、さも自分が経験し、作り上げたように語っていた自分の人生のほとんどの要素が、親から授かった環境で成り立っています。両親が私を健康に育て、援助をしてくれたからこそ今がある。そのことへの感謝の気持ちが一気に込み上げてきました。

父の癌が発覚した時から、親孝行のあり方についてはずっと考えていました。実家暮らしが長かったので、欲しいものをあげたり食事に連れて行ったりなどはそれなりにやってきましたが、自分の家族を持った今、私が思う一番の親孝行は「成長した姿を見せること」だと思うのです。小さかった我が子が、物事を自分で決め、人生を豊かにしようと頑張っている。人に気遣える。それだけで親は嬉しいんじゃないかなと思いました。
そして遺された私たちは、与えてもらった環境を存分に活かし、これからの時間を無駄にせず、成長し続けること。この親孝行は、親の死後もさらに続いていくものです。
私の存在そのものが父が生きた証なので、お父さんが生きた証をちゃんと受け継いで人生を歩むことが父への孝行です。

世界一しあわせな家族になること。
健康に過ごすこと。
死ぬまで勉強すること。
そしてそれを世の中に還元すること。
息子を大切に大切に育てること。

これからの時間を大切に生き、私は親孝行のバトンを息子に渡したいと思います。

父の広報担当として

このnoteを書こうと思ったのは、父に関する情報をどこかに記録したいと思ったからです。
私にとって、父は社会人としても親としても立派な人でした。とても真面目で何でもよく勉強する人でした。「お父さんなんでも知ってるね!!すごい!!」が小さい頃からの私の口癖でした。実に無邪気でおバカな娘の賞賛に、いつもにこやかに答えてくれる優しい父でした。

社会インフラ系の大手企業にて役員を長年務めていた父。引退後は自身の専門分野である水処理技術の環境コンサルタントとして、JICAを通じたアジア諸国のインフラ整備や地域環境保全のボランティアをしていました。「あの国の水道設備は、昔お父さんが手がけた事業だったんだよ」と、嬉しそうに話題にしていた姿が忘れられません。そしてそんな活動を認められ、県内環境功労者として千葉県知事からの感謝状表彰が決まったことを喜んでいたのは本当につい数週間前のことなのです。

今回のことがあり、こうした父の活動や私が影響を受けた出来事がきちんとどこかに記録されていてほしいと思いました。そこで、父とのエピソードや私から見た父のかっこいいところを1つ1つnoteにしていきたいと思います。
残念ながら私は激うま文章を書くことはできませんが、幸いにも書くこと自体は好きです。発信することが好きです。そんな一面すら、父から譲り受けたものです。父もしばしば環境関連では執筆をしたり、共著で書籍も出していましたので。
だから、家族の中でもこれはきっと私の仕事なのだろうと思い、書くことを決めました。
関係のない方からしたらどうでも良い情報かもしれませんが、目に止まった際に何か一つでも記憶に残ってくだされば本当に嬉しいです。


見並 まり江

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