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「パイロットの妻 」アニータ シュリーヴ

「パイロットの妻 」アニータ シュリーヴ

                1

彼女はドアをノックする音を聞いた。
そして犬がないた。
彼女は夢から覚め、夢は閉まったドアを通り過ぎて行った。
それは暖かく、親密な、良い夢だったと、思い出した。
彼女は目を覚まそうと戦った。
小さな寝室の中で、ランプもついていないので暗かった。
彼女はランプの方に手を伸ばし、金属部分を手探りし、思っていた、「何? 何?」
 
 明かりのついた部屋は彼女に警告を発した、そのそぐわなさ、真夜中の救急処置室の様だ。
彼女は急いで続けて考えた:マティー、それからジャック、それから隣人、交通事故。
しかし、マティーは寝ていた、そうじゃない?
キャスリンは彼女を寝室で見ていた、彼女がドアを通って、ホールを降りてドア通って降りて行ったのを見ていた。
そのドアは煩いほどの騒音を立てるほどではないがしっかり閉められた。
そしてジャック、ジャックはどこ?
彼女は自分の頭の側面を掻いて、寝癖の付いた髪の毛を整えた。
ジャックは・・・どこ?
彼女は予定を思い出そうとした:ロンドンだわ。
お昼ご飯の頃帰ってくる予定だ。
確信した。
それとも、記憶違い?又、彼が鍵を忘れたの?

 彼女は立ち上がって、凍えるように冷たい床に足を置いた。
彼女はなぜ冬に古い家の木がそれほど完全に暖かさを失ったのか理解できなかった。
彼女の黒いレギンスはふくらはぎまでめくれ上がり、寝ているときに着ていた、ジャックの擦り切れたジャックのワイシャツ、シャツの袖口は手繰り上げていたのが落ちて指先まで来ていた。
もうノックの音は聞こえなかったので少しの間それが気のせいだったのかと思った。
夢を見たの、彼女は時々夢の中で夢から目覚めると言う夢を見たことがあった。
彼女は枕元のテーブルにある小さな時計に手を伸ばしそれを見た。:3時24分だ。
彼女は暗闇に中に光る文字盤の表面をじっと見て、テーブルの大理石の上に強く置いたのでケースがポンと開いて電池がベッドの下に転がり落ちた。

でも、ジャックはロンドンだったわ。
彼女はもう一度自分に言い聞かせた。
そして、マッティーはベッドの中。

 又別のノックがあり、ガラスを3度叩いた。
彼女の胸の中で小さく留まったものが胃の中に降りて来て、そこで止まった。
遠くの方で犬が不安げに緊張した短い声でまた泣き始めた。

 彼女は、あまり速く動くと何かまだ始まっていないものが動き出すのではないかとでもいうように、注意深く床を横切った。
彼女は寝室のドアの掛け金をカチッと音を立ててそっと外し、裏階段を降りて行った。
彼女は彼女の娘が2階にいるので注意しなければと思った。

 彼女は台所を通って流しの上の窓越しに家の裏に続く車道を覗き込んだ。
彼女は単にいつもの黒い車の形が見えただけだった。
床材よりもひどいタイルが貼ってある狭い裏廊下の角を曲がった。
彼女の足の踵に冷たい氷があった。
彼女は裏口のライトを点けて、ドアの上に付いている小さな窓ガラス越しに、一人の男がいるのを見た。

 彼は突然のライトにびっくりしたように見えないようにしていた。
彼はゆっくりと頭を横に動かした。
まるでそうする事が不躾であると言うようにガラスを覗き込まないで、ずっとそこにいたかのように、朝の3時24分ではないかのように。
彼はライトの光の中で青ざめて見えた。
彼は腫れた瞼をしていて、額が富士額で、短く刈られた髪は埃のような色をしていて、横で後ろに撫ぜつけられていた。
彼のコートの襟は立てられ、肩に力が入っていた。
彼は一度急いで玄関前の階段を一歩上がった。
その時彼女は判断した。
少し悲しそうな、長い顔、上品な服、興味深そうな口、下唇が上唇よりわずかに曲がりふっくらしている。
危険な男ではなさそうだ。
彼女がドアノブに近づいた時、彼は押し込み強盗でも強姦犯でもないと思った。
絶対強姦犯じゃない。
彼女はドアを開けた。
 「リオンズ夫人ですか?」と、彼が聞いた。
それで彼女はわかった。
彼が彼女の名前を言ったと言う事は彼女の姓名とも知っていると言う事だ。
彼の目の中には用心深い瞬きがあったが、すぐ安堵の息をついた。
 
彼女は彼から離れ腰をかがめた。
彼女は胸に手を当てた。

 彼は戸口から手を伸ばし彼女の背中にちょっと手を触れた。
彼女はその事にたじろいた。
彼女はまっすぐ立とうとしたが出来なかった。
 「いつですか?」と、彼女は聞いた。
 彼は家に一歩入ってドアを閉めた。
「今朝早くにです。」と彼は言った。
 「どこで?」
 「アイルランド沿岸から10マイル離れたところです。」
「水中ですか?」
「いいえ、空中です。」
「ああ・・・」彼女は口に手をやった。
「爆発だったことはほぼ確実です。」と、彼は急いで言った。
「間違いなくジャックでしたか?」
 彼は眼をそらし、それからもどし「そうです」。
彼は彼女が崩れ落ちた時に彼女の両肘を捕まえた。
彼女は一瞬恥ずかしく思ったが、どうしようもなく、彼女の両脚は無くなってしまったようだった。
彼女は自分の体がこれほど自分を見捨てる事ができるとは知らなかったので、彼に身を任せる事ができたのだ。
彼は彼女の肘を支えたが、彼女は腕を元に戻したかった。
彼はそっと彼女を床に寝かせた。
 彼女は顔を膝の方に向けて腕で顔をおおった。
彼女の中にはホワイト・ノイズがあり、彼の言う事は聞こえなかった。
彼女は意識して息を胸いっぱいに吸い込もうとした。
頭を起こして空気を深く吸い込んだ。
ずっと遠くからであるかのような、正確には彼女の顔は濡れていないので泣いている声ではない、変な衝撃音が聞こえた。
男は彼女を後ろから持ち上げようとしていた。
 「あなたを椅子に運んで行かせてください。」と彼は言った。
 彼女は首を横に振った。
彼女は彼にそっとしておいてほしかったのだ。
タイルの中に沈んで床の上ににじみ出たかった。
 彼は不器用に彼女の腕の下に自分の腕を置いた。
彼女は彼が彼女を立ち上がらせ易いようにした。
 「私は・・・・」と、彼女は言った。
  急いで彼女は彼を両方の手のひらで押しやって、壁にもたれかかった。
彼女は咳をして吐こうとしたが、胃の中には何もなかった。

 彼女が見上げた時、彼が心配そうにしているのが分かった。
彼は彼女の腕を掴んで角を曲がってキッチンへ連れていった。
 「この椅子にお座りなさい」と彼が言った。
「ライトはどこですか?」
 
 「その壁にあります。」
 彼女の声はざらざらして小さかった。
彼女は自分が震えているのが分かった。
 彼はスイッチを手探りして、見つけた。
彼女は光を避けるために手を顔の前に持って行った。
本能的に顔を見られたくなかったのだ。

 「グラスはどこに仕舞ってありますか?」と彼は聞いた。
 彼女は食器棚を指さした。
彼はグラスに水を注いで彼女に手渡したが、彼女はそれをちゃんと持っていることは出来なかった。
彼は彼女がそれを飲む間彼女の指を支えてあげた。
 「あなたはショックを受けています。」と、彼は言った。
「毛布はどこにありますか?」
「あなたは航空会社の方ですよね」と、彼女は言った。

 彼は自分のコートと上着を脱いで上着を彼女の肩にかけた。
彼は彼女の腕をそでに通させた。
そでは驚くほど暖かくすべすべしていた。
「いいえ、私は組合のものです。」と、彼は言った。
彼女はこれを理解しようとゆっくりうなずいた。
 「ロバート・ハートと言います。」と彼は自己紹介をした。
 彼女はもう一度頷いて、水をもう一口飲んだ。
彼女の喉は乾いてひりひりしていた。

 「お手伝いするためにここに来ました、」「これは乗り越えることは難しいでしょう。娘さんはここにいらっしゃいますか?」と、彼は言った。
 「娘がいる事をご存じなんですか?」と彼女は急いで聞いた。
  そして彼女は思った、勿論彼は知っている。
 「彼女に説明してほしいですか?」と彼が聞いた。
キャサリンは首を振った。
「組合が一番最初に来るって皆言っていました、」と、彼女は言った。
「奥さんたちが、ってことですけど。
彼女を起こすべきですか?」
彼等にどれだけの時間が残っているのか考えるように、彼は自分の腕時計に眼をやって、そしてキャサリンを見た。
「数分以内で、準備ができれば・・・急がなくていいですから。」と、彼は言った。

 キッチンの静けさの中で鋸の歯の様なギザギザした音で電話が鳴った。
ロバート・ハートがすぐ電話を取った。
「ノーコメントです」と彼は言った。
「ノーコメントです」
「ノーコメントです」
「ノーコメントです」
彼女は彼が受話器を戻し指で額をマッサージするのを見た。
彼の指はずんぐりして、体のわりに手が大きかった。
彼女はその男のシャツを見た、灰色の縞模様の白のオックスフォード・シャツだった。
しかし彼女がわかったのは、遠くの偽物の空に飛んでいる偽物の飛行機だけだった。

彼女は組合から来た男が振りかえって彼女に、間違いだった、飛行機を間違えました、別の奥さんと間違えました、さっき言ったことは起こらなかったのです、と言ってほしかった。
もしそうならほとんど喜びを感じる事ができたかもしれない。
 「誰か私に電話してほしい相手はいますか?一緒にいてほしい人は」と、彼は聞いた。
「いいえ、」彼女は言い、「はい。」しばらくして「いいえ、いません。」
 彼女は首を振った。
彼女はまだ準備ができていなかったのだ。
彼女は目を伏せて流し台の下の食器棚に眼を留めた。
中に何が入っていたかしら?
カスケード、ドラノ、パイン・ソール(洗剤)とジャックの黒の靴墨。
彼女は頬の内側を噛み、台所を見回した、ひびの入った松の木のテーブルを見て、錆びついた暖炉を見て、乳緑色のフージャーの食器棚。
彼女の夫は2日前にこの部屋で、その作業の為に引き出したパン入れの引き出しに腰かけて、自分の靴を磨いていた。
それはしばしば仕事に出かける前に彼がやる最後の作業だった。
彼女は椅子に座って彼を見ていたものだ、そして最近それが、彼が家を出る時の一種の儀式になっていた。
 
 彼が家を出るのは、どんなにたくさんやらなければならない仕事があって、どんなにたくさん彼女自身のためにやる時間を楽しみにしていたとしても、いつも彼女にとってつらいことだった。
そしてそれは彼女が恐れている事ではなかった。
彼女は恐れると言う習慣を持ち合わせていなかった。
車を運転するより安全だ、と彼はいつも言っていた、そして彼の安全は会話の話題にする価値さえもないと言うほどに、手放しの自信を持っていた。
いや、正確には安全ではなかった。
困難を感じていたのはジャックが家から離れると言う、家を出ると言う行為なのだった。
彼女はいつも彼が厚い、角ばったフライト鞄を片手に、もう一方の手に一泊用のカバンを持って、脇に制帽をはさんで、家のドアを歩いて出るのを見て、ある種の言いようのないやり方で彼女から離れてゆくのを感じていた。
そして、勿論、彼はそうだった。
彼は170トンの飛行機を離陸させ海を渡ってロンドンやアムステルダムやナイロビに運ぶために彼女の元を去ろうとしているのだった。
それは特に整理できない程の難しい感情ではなく、一瞬のうちに過ぎてしまうのだった。
キャサリンは、彼がいない事に慣れてしまうので、彼が戻ってきた時、日常の変化に苛立つこともあった。
その後3,4日後に、またそのサイクルが始まるのだった。

 彼女はジャックが彼女とまったく同じ様に来ることと行くことを考えているとは思えなかった。
結局行ってしまう事は置いて行かれる事とは同じことではなかったのだ。

 俺はただの栄光のバスの運転手にすぎないのさ、と彼は言っていたものだ。
そして、それほど栄光を与えられているわけじゃないけどね、と付け加えるのだった。

そう言っていたものだ。
彼女はそれを受け入れようと努力した。
彼女はジャックがもういないのだと言う事を理解しようと努力した。
しかし彼女に見えたのは一箱分の煙草の煙、いろいろの方向に外側に吸いだされてゆく煙の腺だった。
彼女はそのイメージを思いついた時と同じくらい急いで取り消した。

 「リオンズ夫人?別の部屋にあなたのお世話をしながら見ていられるテレビはありますか?」とロバートは聞いた。
「前室にあります。」と彼女は指さしながら言った。
「私はただ彼らが今、何と報道しているのか聞く必要があるのです。」
「それは良いわね、私は大丈夫ですから。」と、彼女は言った。

 彼は頷いたが、彼は気が進まないようだった。
彼女は彼が部屋を出て行くのを見た。
彼女は目をつぶって考えた。:私には絶対マッティーには言えないわ。

 彼女は既にそれがどんな風だか想像できた。
彼女はマッティーの部屋のドアを開ける、壁にはレッスン・ジェイクのポスターと、コロラドでのエクストリーム・スキーのポスターが貼ってある。
床の上には2,3日分の裏返しになった服。
マッティーのスポーツ用具は隅の方に立てかけてあるだろう。
―彼女のスキー板やストック、彼女のスノーボード、フィールドホッケーやラクロスの棒など。
彼女の掲示板は彼女の友達、テーラー、アリッサやカーラ、ポニーテールや前髪の長い15歳の少女たち、のマンガや写真で覆われているだろう。
マッティーは彼女の青と白の掛布団に包まってキャサリンが3回彼女の名前を呼ぶまで聞こえないふりをするだろう。
それからマッティーは背筋をピンと伸ばして、起こされたことにいら立ち、学校に行く時間だと考えて、何故キャサリンが部屋に入って来たんだろうと考える。
砂の赤い色のつやつやの糸状のマッティーの髪は、彼女の小さな胸に白い文字で「エリー・ラクロス」と書かれた紫色のTシャツの肩に広がっているだろう。
彼女はマットレスの上に後ろ手に置いて自分を支えているだろう。

 「何なのママ?」と彼女は言うだろう。
そんな風だ。
「何なのママ?」ともう一度、彼女の声はすぐに高音になる。
「ママ、何なのよ?」
 そしてキャサリンはベッドの横に跪いて娘に何が起こったのかを告げなければならないだろう。
「いいえ、お母さん!」とマッティーは叫ぶだろう。
「いいえ、お母さん!」

キャサリンが目を開けた時、テレビの低いつぶやきが聞こえた。
 
彼女はキッチンの椅子から立ち上がり、芝生と水を見下ろす6対の床から天井まである窓のある長い前室に歩いて行った。
隅にクリスマスツリーがあり、彼女は入口の所で立ち止まった。
ロバート・ハートはソファー上に丸くなっていて、テレビでは老人がインタビューを受けていた。
彼女はそのレポートの最初を聞き洩らした。
それはCNNか、多分CBSだった。
ロバートはすばやく彼女を見た。 
「あなたは本当にこれを見たいんですか?」と彼は聞いた。
「お願いです、どっちかと言うと見たいです。」と彼女は言った。
彼女は部屋に入り、テレビにもっと近づいた。

 老人のいる場所は雨が降っていて、後で画面の下に場所の名前を表示した。
マリン・ヘッド、アイルランド。
彼女はそこが地図上のどこにあるのか思い描くことは出来なかった。
彼女はアイルランドが何処にあるのかさえ知らなかった。
老人の頬から雨がしたたり落ち、彼の目の下では白い頬がたるんでいた。
カメラが引いて、建物の真新しい正面の白い正面ファザードのある建物群のある、村の緑が映し出された。
建物群の並びの中央には悲しげな眼をしたホテルがあり、貧弱な玄関の廂にマリン・ホテルと書いてあるのが読み取れた。
その入り口のまわりには男たちが手にお茶やコーヒーのマグカップを持って立って、ニュースのクルーたちを恥ずかしげに見渡していた。
カメラが老人に戻り、彼の顔を寄りで写した。
彼の目はショックを受けた様子をしていて、まるで呼吸するのが難しいかのように、口は開いたままだった。
キャサリンは彼をテレビで見て、思った。
:それが私の今の様子なんだわ。
顔は灰色。
眼はそこにありもしない何かを見つめている。
口は釣り針にかかった魚の様にだらんと開いている。
 黒い傘を差した髪の黒いインタビュアーの女性が老人に彼が見たことを説明するように求めた。
暗い水面と月の光です、と彼は途切れ途切れに言った。
彼の声はかすれていて、訛りがひどかったので、テレビの画面の下の方に彼の言った事を文字で表示しなければならなかった。
空から銀のかけらが船の周り中に落ちて来た、と彼は言った。
その小片は鳥のようにひらひらしていた。
傷ついた鳥だ。
下の方に落ちて来た。
らせん状にクルクル回って。

彼女は、彼女の顔が画面上の老人の顔と同じ大きさになるくらい、テレビの方に歩いて行って、絨毯の上に跪いた。
その漁師は彼の言った事を表現する為に両手をひらひらさせた。
彼は円錐形を作って指を上下に動かしその後ギザギザを描いた。
彼はインタビュアーにその奇妙なものは彼の舟には落ちなかったので、彼が、それが落ちたと思える場所に操船して行った時までにはそれらは海に沈んで消えてしまって、それらを彼の網を使っても回収する事は出来なかった。

レポーターはカメラに向かってその男の名前はイーモン・ギリーだと言った。
彼は83歳で最初に名乗り出た目撃者だった。
この漁師が見たものを見た人は他にいないようで、まだ何も確認されていなかった。
レポーターはギリーの話をしきりに本当だと信じたがっているという印象を持ったが、キャサリンはそうではないかもしれないと言わざるを得ないと感じていた。

 しかし、それが本当だと知っていた。
彼女には海の上の月の光が見えた、灰色の光が、小さな天使たちが地球に降りてくるように、空からひらひらと降って来る様子が見えた。
彼女には水上の小さな舟と舳先に立っている老人が、その顔は月の方を見ていて、手はいっぱいに伸ばされているのが見えた。
彼女には彼がはらはらと落ちてくる破片を捕まえようとして、小さな子供が夏の夜蛍を捕まえようとするように、空中に手を突き出すのが見えた。
そして彼女は、そんな美しい事が起こっている時に、その種の災害が ― 体から血を出して、肺から空気を出して何度も何度も顔を殴るような災害 ― であるとは何と奇妙な事だろうとその時思った。

ロバートが近づいてきてテレビを消した。
「大丈夫ですか?」と、彼は聞いた。
「あなたはそれが何時起こったとおっしゃいましたか?」

 彼は膝に肘をついて手を組んだ。 
「ここの時間で1時57分です。現地時間の6時57分です。」
 
 彼の右の眉毛の上には傷があった。
彼は30代後半に違いない、ジャックの年齢より自分の年齢に近いわ、と彼女は思った。
彼は金髪で虹彩にしみのある茶色の眼をしていて美しい肌をしていた。
ジャックは青い目をしていた。
2つの違った色合いの青、一方は洗いざらしたような、ほとんど透明な水彩の様な空色の青、もう一方の目は明るい藍色だ。
その普通と違った色合いは他人の目を引き、この左右非対称が不均衡、多分何か間違っていると思わせるのだった。

彼女は、これが男の仕事なのか、と思った。
「それが最後の通信の時間でした、」と組合の男は彼女がほとんど聞き取れないぐらいの声で言った。
「最後の通信は何だったのですか?」
「いつも通りでした。」
彼女は彼が言った事を信じられなかった。
最後の通信がいつも通りだっただなんて?
「ご存じなのですね?」彼女は聞いた。
「パイロットが墜落しようとしているときに言う最もありがちな最後の言葉を?
そうね、勿論ご存じですわね。」
「リオンズ夫人」と、彼は彼女の方を振り返って言った。
「キャサリンです。」
「あなたはまだショック状態です。
何か糖分を取った方が良いでしょう、ジュースはありますか?」
「冷蔵庫にあります。爆発物だったのですか?」
「あなたにもっと詳しい事を話せればいいのですが。」

 彼は立ち上がって台所に歩いて行った。
彼女は、今は部屋に独りで残されたくないと思ったので彼について行った。
流し台の上の時計を見た、3時38分。
二階のナイトテーブルの上の時計を覗いてたった14分しか経っていないなんてあり得るかしら?
彼女はもう一度台所の椅子に座って、「あなたは速くここに来たわ」と言った。
彼はグラスにオレンジジュースを注いだ。
「どうやってそれをやったのですか?」と、彼女は聞いた。
「私たちは航空機を持っています。」と、彼は静かに言った。
「いいえ、そうじゃなくて、それはどんな風になされたのですか?
あなたは飛行機を待たせていたの?
墜落が起きるのを座って待っていたの?」

 彼はジュースの入ったグラスを彼女に手渡した。
彼は流し台にもたれて右手の中指を額に垂直にあて、鼻梁から髪の生え際に持って行った。
彼は決心し、そしてそのあと判断しているかのようだった。

「いいえ、そうではありません、」と彼は言った。
「私は墜落が起きるのを座って待っているわけではありません。
しかし一度それが起きると、我々には手続きがあるんです。
我々はワシントン・ナショナル空港にリア・ジェットを持っています。
それが私を主要空港に飛んで行かせるのです、今回の場合ポーツマスです。」
 「そして?」
「それから、車が待っています、そしてあなたは・・・」
 
彼女は彼が組合本部のあるワシントンからマサチューセッツの州境を越えてすぐのニューハンプシャーのエリーまでにかかる時間を計算した。

 「一時間ちょっとです。」と彼は言った。
「しかし何故?」と、彼女は聞いた。
「最初にここに着いて、あなたに知らせる為に。あなたがそれに耐えるのをお助けする為に。」と彼は言った。
 「それは理由にならないわ」と、彼女は急いで言った。
彼はちょっと考えた。
「それもあります、」と彼は言った。
彼女は松材のテーブルの表面の割れ目を手で撫ぜた。

ジャックが家にいた頃の夜はジャックと彼女とマッティーはそのテーブルの10フィート圏内で、新聞を読んだり、ニュースを聞いたり、食べたり、掃除をしたり、宿題をしたり、そしてマッティーが寝室に行った後では二人で話をしたり、しなかったり、時には、ジャックに旅行がない時は、一緒にワインを飲んだりして、生活していた。
最初、マッティーが小さくて早く寝た時は、時々ろうそくに火をともして、二人の内のどちらかが突然の欲望か愛情にかられて、キッチンで愛し合ったものだ。

 彼女は頭を後ろにそらして目をつぶった。
痛みが腹部からのどへ伸びて行ったように感じた。
彼女はまるで限界に近付き過ぎたかのようにパニック状態を感じた。
彼女が余りに鋭く息を吸ったので、ロバートは彼女を見守った。

 それから彼女はまるで別の部屋に移るように、ショック状態から悲しみの状態に移った。

彼が彼女の骨に囁きかけている様な、彼女の背骨の先端部へのジャックの息の感覚が、それらのイメージが彼女を悩ませた。
彼が仕事に出かける時に、彼が急いで行う時のキスが彼女の唇を滑る感覚が彼女を悩ませた。
マティの最後のフィールドホッケーの試合の後、マティが汗でべとべとになりながら、チームが8勝1敗で泣いたとき、彼の腕がマティを包んだこと。
ジャックの腕の内側の青白い皮膚。
彼の肩甲骨の間に青年期の名残のあるちょっとしたへこみ。
スニーカー無しでは海辺を歩けない程の彼の足の変な柔らかさ。
彼の中にある暖炉が贅沢に燃えているかのように、彼は寒い夜もいつも暖かかった。
それらのイメージがお互いに場所を求めて押し合いへし合い無遠慮に競争していた。
彼女はそれらを押しとどめようとしたが出来なかった。

 組合から来た男は、流し台の所に立って彼女を見つめていた。
彼は動かなかった。
 
 彼女がしゃべれるようになった時、「私は彼を愛していました、」と、言った。

 彼女は立ち上がってペーパータオルをホルダーから引きちぎった。
鼻をかんだ。
一瞬、彼女は時制の乱れに戸惑った。
もし、時間が封筒を開いて彼女を数日間、一週間、いや多分永遠に、呑みこむのだったらどうなのかしら。

 「分かりますよ。」とロバートは言った。
彼女は座り直しながら「あなたは結婚なさっていらっしゃるの?」と、聞いた。

彼は両手をズボンのポケットに突っ込んで、そこにある小銭の音をたてた。
彼は灰色のスーツ用のズボンを履いていた。
ジャックはほとんどスーツを着なかった。
制服を着て働く多くの男性と同じで、彼は特に服の着かたが上手いわけではなかった。
「いいえ、バツイチです。」
「お子様はいらっしゃるの?」

「男の子が二人います、9つと6つの。」
「男の子たちはアレキサンドリアに妻と一緒に、元妻と一緒に。」
「お子さんとはしょっちゅうあっていらっしゃるの?」
「そうしようと努力しているんですが」
「何故離婚なさったの?」
「私は飲酒を止めました、」と彼は言った。
彼は説明するでもなくこの事実だけを言った。
彼女は自分が理解したのかどうか確信が持てなかった。
彼女はもう一度鼻をかんだ。
 「学校に電話しなければいけません。私は教師なんです。」
「それは後回しで良いです。とにかく学校には誰もいないでしょう。まだ誰も起きていません。」と彼は言って、腕時計を見た。
「あなたの仕事について教えてください、」と彼女は言った。
「言うことは余りありません。ほとんどが広報活動の仕事です。」
「どれくらいこんなことをやらなければいけないのですか?」と彼女は聞いた。
「こんなことって?」
「墜落事故です。」と、彼女は言った。
「墜落事故」
彼はしばらく沈黙した。
最後に、「5件です」と、言った。
「主なものを5件」
「5件?」
「それと、もっと小さいのが4件。」
「その事を話してください、」と、彼女は言った。
彼は窓の外をちらりと見た。
30秒が経った・・・多分1分。
彼女はまた、彼が判断し、決断していることを感じた。

 「かつて私は未亡人の家に行きました。」と、彼は言った。
「そして私は他の男とベッドにいる彼女を見ました。」
「どこでの事でしたか?」
「コネチカットのウエストポートでした。」
「何が起きたんですか?」
「その妻がガウンを着て降りて来て、私が彼女に話して、それからその男が服を着て降りて来ました。
彼は近所の人だった。
その後、彼と私は女性の家の台所に立って彼女が崩れ落ちるのを見たのです。
それはもう、めちゃめちゃでした。」

 「あなたは彼のことを知っていましたか?」と、キャサリンは聞いた。
「私の夫の事です。」
「いいえ、すみません。」と、彼は言った。
「彼はあなたより年上でした。」
「知っています。」
「彼らは他に何をあなたに言いましたか?」
「ビジョンに11年、その前はサンタ・フェに5年。その前は、テターボロに2年。
ベトナムに対地攻撃用のDC-3に2年。ボストン生まれ。 大学はホーリー・クロス。
子供が一人、娘15歳、それと妻。」
かれはちょっと考えた。
「背が高い、6フィート4、ぴったり。」
彼女は頷いた。
「良い記録です。実際、素晴らしい記録です。」
彼は片手でもう一方の手の甲をひっかいた。
「すみません、」彼は言った。
「今はあなたのご主人のこれらの事実を知っていますが、彼を全然知らなかったのです、すみません。」
「彼らは私の事を何か言いましたか?」
「あなたがあなたのご主人より15歳若い事だけです。
それと、娘さんとここに住んでいることです。」
 
 彼女は自分の脚を調べて見た、脚はまるで血の気が引いたように小さくて真っ白だった。
踵はきれいじゃなかった。
 「何人乗っていたのですか?」
「105人です。」
「満席じゃないですね。」
「はい、満席ではありませんでした。」
「生存者はいますか?」
「捜索中です・・・。」

今、別のイメージが邪魔をしてきた。
一瞬、知っている事の心象、何の心象だろう?
操縦席の中で操縦しているジャックの手。
体が空中で回転している。
いや、体でさえない。
彼女は激しく頭を振った。

 「私は一人で彼女に話さなければいけないのよ、」と、彼女は言った。
彼は急いで頷いた、まるでそれが既に合意事項であるかのように。
 
 「いいえ、あなたは家を出なければならないと言う事よ。
私は誰にもこれを見たり聞かれたりしたくはないの。」
「私は自分の車に座っています、」と彼は言った。
彼女は彼が掛けてくれた上着を脱いだ。
電話がもう一度鳴ったが、どちらも動かなかった。
遠くで留守電が起動する音が聞こえた。

 彼女は、深い、打ち解けた、母音にちょっとボストン訛りのある、ジャックの声が、いつも通りのメッセージで、聞けるとは期待していなかった。
彼は顔を手で覆って、メッセージが終わるのを待った。

 彼女が顔をあげた時、ロバートが彼女を観察しているのが見えた。
彼は眼をそむけた。
 
 「それは、私が報道に話すのを防ぐためですよね、そうでしょう?」と、彼女は言った。
「その為にあなたがここにいるんですよね。」

 一台の車が私道に入って来て小石が音をたてた。
組合の男が窓を見て、彼女から上着を受け取って、着た。

 「私がパイロットの操縦ミスだと思われるようなことを彼らに言わない事ですよね、」と、彼女は言った。
「あなたは彼等にパイロットエラーと考えさせたくない。」

彼は受話器を持ち上げてカウンターの上に置いた。

 最近、ジャックと彼女はほとんど台所で愛し合う事は無かった。
彼らは、今はマッティーが大きく、お菓子を捜しに台所に降りてくるかもしれないと言ったものだった。
ほとんどの夜は、マッティーが彼女の部屋にCDを聞いたり電話で話したりするために二階に上がって行ったあとは、彼らはただテーブルに座って雑誌を読んでいて、疲れ果てて皿を片付けたり、話したりすることさえできなかった。

 「私は今彼女に話すわ、」と、彼女は言った。
彼は躊躇した。
「あなたは、私たちがそこに長く留まれないのを理解していますよね。」と彼は言った。
「彼らは航空会社から来たんでしょう?」と、彼女は台所の窓を見ながら訊いた。
私道には、2つの人影が車から出るのが見えた。
彼女は階段の下に向かって歩いた。
 
 彼女は急な階段を見上げた。
500段、少なくとも500段ある。
階段は延々と続いている。
彼女は何かが動きだし、今始まっていると分かった。
彼女は自分がそれを最後までやれるスタミナがあるか確信を持てなかった。

 彼女は応答に出る為にドアに向かって台所を動いている組合の男を見た。

「お母さん、」と、彼女が言い、彼が振り返った。
「彼らは普通お母さん、って言うんです。」

時折通り過ぎる車から反射された太陽のまぶしさは、ゆっくりとしたストロボのように店の後ろの壁に沿って動く。
その店は、今日空気が無いように暑さに窒息し、その空気は光線の中に漂う埃で厚みを増している。
彼女は手にボロ布を持ってマホガニーとウォルナットのテーブルとランプと古い亜麻布、本とカビの匂いの迷路の中に立っている。
彼女は彼が入ってくるのをちょっと見上げる。
彼女は彼が公式の用事で来ているか、迷って道を聞きに来ているという印象を持った。
彼は肩から薄い白い旗の様に突き出した白い袖の短いシャツを着ている。
濃紺のズボン。
黒くて重そうで大きな老人の様な靴を履いている。
―閉店しましたよ、と彼女は言った。

 彼は後ろを振り返りドアの内側の「オープン」の標識を見た。
彼は首の後ろを掻く。
―悪いね、と彼は言い、立ち去ろうとする。

 彼女はいつも心が判断を下す速さに驚いていた、―1秒、長くても2秒、誰かが動いたりひとこと言ったりする前に判断を下してしまう。
30歳前半だと彼女は推測する。
正に頑丈と言うわけではないが、大柄だ。
彼は肩幅が広く、すぐに彼が貧弱なところがまるでないと思う。
最初四角で平らな彼のあごの輪郭に、それから何となくてっぺんが付き出ている滑稽な耳に心を奪われる。
彼女は彼の目は何か問題あるかもしれないと思う。

 ―棚卸をしているところですけど、御探し物があるのでしたら、よろしいですよ、と彼女は言う。

 彼はドアの上の丸窓から差し込む光線のチューブの中に入って行く。
 彼の目の縁には小さな皺があり、歯がちょっとだけ欠けていた。
 軍人カットで短く、ほとんど黒に近い暗い色で、伸びるとカールしそうな髪をしている。
帽子をかぶっていたようなへこみがある。
両手をズボンのポケットに突っ込んでいる。
彼は彼女にチェス用のボードがないか尋ねる。

 ―彼女が、ありますよ、と言う。
 彼女が、散らかっていてごめんなさいねと謝りながら、遠くの壁の方に向かって迷路を歩いて行く。
彼女は彼が後ろからついてきているのを意識していて、自分の歩き方や姿勢が突然不自然に、硬すぎるように見えることに気づく。
彼女はジーンズを履いて赤いタンクトップを着て、古い革のサンダルを履いている。
髪はゆるくべったりと首の後ろについている。
彼女は暑さと湿気と、自分が巻き上げた埃とで、汚れた膜のようなものができているような気がする。
モザイク状に映った、壁に掛かっているアンティークの鏡の中の彼女の鏡像の中で、彼女は呼吸で輝く彼女の顔の片側の湿っぽい髪の巻き髪を見ている。
赤の下に白い閃光が走っている彼女のブラの紐が見えているし、タンクトップには洗濯でしみたものなのか青いしみがある。

 チェス用のボードは何枚かの古い絵と共に壁に立てかけてある。
男は彼女の前に移動してもっとよく見ようとかがみこむ。
彼女は太ももに彼の力強さを感じ、しゃがんだ背中の長さを感じ、サスペンダーがつっぱって背中がへこんでいる場所を見ることができる。
彼女は彼の肩に白い肩章が付いている事に気が付く。

―これは何ですか?と、彼が聞く。
彼の目はチェス盤の横の絵を見ていた。
風景画ですよ、ショールズ諸島にあるホテルの印象派的な絵です。
19世紀の古いホテルで、岩だらけの海の風景の中に、深いポーチと長く滑らかな芝生があります。

 彼は立ち上がってその絵を彼女に見せる。
その絵は彼女が今まであまり気にしていなかったものだ。

―これはほんとに良い、と彼は言う、誰が書いたのですか?
 彼女は頭をかしげて絵の裏側を読む。
―クルード・レグニーです、と彼女が言う。
―1890年、ポートマスの遺品整理で出品されたものだとここに書いてあります。
―それはクライド・ハッサムみたいだ。
 
 彼女は返事をしない。
彼女はクライド・ハッサムが誰なのか知らない。
彼は指でその木の枠をなぞった。
それは彼女にとって、誰かが彼女の背骨を上下に指でなぞっている様な感じがした。
―おいくらですか?、と、彼が聞く。
―お調べします。と彼女は言う。
 
 彼らは一緒にレジに歩いて行く。
彼女がその値段を知った時、びっくりするほど高く思えた。
彼女はそんな値段を言うのは決まりが悪いと思ったが、ここは彼女の店ではなく、祖母のために売ってあげるべきだと思う。
 彼女がその値段を言うと、彼は瞬きもしない。
―買います。と、彼は言う。

 彼は彼女に現金を渡し、彼女が彼に領収書を渡し、彼はそれを無造作にシャツのポケットに入れる。
彼女は、彼は軍隊で何の仕事をしているんだろう、何故水曜日の午後に基地にいないのだろうと不思議に思う。
―何のお仕事をしていらっしゃるんですか?と、彼女は彼の肩の肩章を見ながら尋ねた。
―輸送機に乗っています。と、彼は言った。
―いま乗り継ぎの時間中なんです。
 空港のチケット売り場で車を借りてドライブしてここに来ました。
―あなたは飛ぶんだ、と彼女ははっきり断言する。
―私はトラックの運転手みたいなものです、ただそれが飛行機だってだけで、と彼は彼女をじっと見つめて言う。
―飛行機の中には何があるんですか?と彼女が聞く。
―支払い済み小切手です。(チェックリストの欄を山ほどチェックしている、と言う意味)。
―支払い済み小切手?
 彼女は笑う。
彼女は飛行機中が支払い済み小切手でいっぱいになっているところを想像しようとした。
―いい店ですね、と、彼が周りを見回しながら言う。
―私の祖母の店です。
彼女は胸の前で腕を交差させる。
―あなたの目の色は左右違いますね、と彼女が言う。
―遺伝なんです。
父方の家族のからの遺伝です。
彼は話を切る。
―目は両方とも本物です、一応言っときますけど。
―実は知りたかったんです。
―あなたの髪は美しい、と彼は言う。
―遺伝です、と彼女が言う。
彼は、一本取ったぞと言うように頷いて笑う。
―それって、何色っていうんでしょうか?と、彼が聞く。
―赤。
―いやそう言う意味ではなく・・・・
―光線によります。
―おいくつですか?
―18歳です。 
彼は驚いたようだ、びっくりしている。
―何故ですか?と、彼女は聞いた。
―あなたはおいくつなの?
―31歳です。思っていたんですが・・・
―何を思っていらっしゃったの?
―もっと年長だと、わからないけど。
そこには、2人の間には年の差が15年もある。
―ほら、と彼が言う。
―ほら、彼女が言う。
彼はレジに手を置いた。
―私はボストンで生まれました、と、彼は言う。
―そしてチェルシーで育ちました。
チェルシーは知りたくないでしょうがボストンの一部です。
私はボストンラテン・スクールとホーリークロス大学に行きました。
母は私が9歳の時に死に、父は私が大学の時に心臓まひを起こしました。
くじ運が悪く、徴兵されベトナムで飛ぶことを学びました。
今、彼女はいません、結婚したこともないです。
テターボロに1ベッドルームのコンドミニアムがあります。
小さすぎて、私はほとんどそこにいません―
―やめて、と彼女が言う。
―これだけは言わせてください。

 彼女はその時、理解している。
彼女はある意味、18歳と言う年齢でその様なことを知る事を許され、その瞬間その全てを手に入れ、自分の手でつかみ、しっかり握りしめ、決して手放さない、かそれとも手を開いて手のひらを開いてそれを手放してしまうという事ができるという事を。
手に入れるのと同じくらい手放すこともできると言う事を。

―私はチェルシーが何処にあるか知っています、と、彼女は言う。

 10秒、いや多分20秒が経った。
彼らは店の蒸し暑さの中に立って、どちらも話さない。
彼女は彼が彼女に触れたがっていることを知っている。
彼女はカウンター越しにさえ彼の肌から出る熱を感じる事ができる。
彼女はその努力を気付かれないようにゆっくりと平静に息を吸う。
彼女は眼を閉じたいと言う欲望をやっとのことで押さえつけた。

―ここは暑いですね、と彼が言う。
―外は暑いですよ、彼女が言う。
―季節外れに暑いです。
―6月の初めにしては。
―ドライブに出かけませんか、涼みに、彼が聞く。
―どこに? と、彼女が聞く。
―どこでも。ちょっとしたドライブです。
 
 彼女は自分に彼を見つめる事を許す。
彼はゆっくりと微笑んでいて、その笑顔に彼女が驚く。
彼らはビーチにドライブに行き服のまま泳ぐ。
水は冷たいが空気が厚くその対比が微妙だ。
ジャックは制服をダメにして、後で他のものを借りなければならない。
彼女が水から上がってくると、彼は脇に毛布を抱えて、両手をポケットに入れて立っている。
彼の服はびしょびしょで、だらんと、さがっていて、シャツは不透明に光っている。

 彼らは砂の上の毛布の上に寝そべる。
彼女は彼の濡れたシャツに震える。
彼が彼女にキスし、右手をタンクトップの下から彼女のお腹の平らな部分に沿って動かしたとき、彼は左手の指を彼女の髪に入れたままにしている。
彼女は手足が緩み、まるで誰かに糸を引かれ、解き放たれたように開放されたように感じる。

 彼女は自分の手を彼の手に重ねる。
彼の手は変に暖かく、荒々しくカサカサしてざらざらしている。
彼女は幸せを感じる。
それは純粋で混じりっ気のない幸せだ。
全て初めての事で、彼女はそれを知るのだ。

キャサリンが階段の上に付く前に、彼女はマッティーが洗面所に入ってくるのが聞こえた。
彼女の娘の髪は美しく自然にカールしていたが、マッティーは髪を洗うため毎朝起きて、それを苦労してまっすぐにするためにドライヤーで乾かすのだった。
キャサリンには、マティーが少し前に現れた自分の一部と格闘しているように、髪を抑えようとしているように見えた。
キャサリンはマティーがこの段階をから脱却する事を待っていて、いつの日にか彼女の娘が目を覚まし彼女の髪をそのままにしておくことを考えていた。
そのときキャサリンは、マティーが大丈夫だと分かるだろう。

 キャサリンはおそらくマティーが私道の車の音を聞いたのだろうと考えた。
多分、台所での話し声も聞いたはずだ。
マティーはよく、特に冬には、良く暗いうちに目を覚ましたものだ。
 
 彼女はマティーを洗面所から出さなければいけないと分かっていた。
彼女には、すでに彼女の娘と話すには洗面所は安全な場所ではないと考えていた。

 彼女はドアの外に立った。
マティーはシャワーをだしてしまっていた。
キャサリンは彼女が服を脱いでいる音を聞いた。
キャサリンはノックした。
「マティー」と彼女は言った。
「何・・・・?」
「あなたに話さなければいけないの」
「おかあさん・・・」
 マティーがそれを言った言い方はもうすでにイライラしているかのような、聞き慣れた、歌うような言い方だった。
「だめよ、シャワーを浴びているから」と、彼女は言った。
「マティー、大事な事なの」
「何?」
 
 洗面所のドアが急に開いた。
マティーは体に緑色のタオルを巻いていた。
私の可愛い美しい娘、キャサリンは思った。
彼女にどんな風に説明すればいいだろうか?
キャサリンの手は震えはじめた。
彼女は胸の所で腕を組み、手を脇の下に挟んでいた。
 「バスローブを着なさい、マティー」と、キャサリンは泣き出しそうになりながら言った。
彼女はマティーの前で泣かなかった。
「あなたに話さなければいけないの、大事な事よ。」

 マティーはバスローブをフックから外して呆然としながら従順にそれを着た。
「何なの、ママ?」
子供の心はそれを受け入れられなかったのだとキャサリンは後で思った。
子供の体はそんな奇怪な事実を受け入れる事は出来なかった。
マティーは、まるで自分が撃たれたかのように、自分自身を床に投げ出した。
彼女は自分の腕で頭の周り中を、激しく打ち、キャサリンはそれを見てミツバチの様だと思った。
彼女はマティーの腕を押さえてしっかりと掴もうとしたが、マティーは彼女を放り出して走った。
キャサリンが彼女を捕まえる前に、マティーは家を出て半分芝生に降りていた。

 彼女がマティーに追いついて「マティー、マティー、マティー」と言った。
 何度も何度も・・・
「マティー、マティー、マティー」

 キャサリンは両手をマティーの頭の後ろに置いて彼女の顔を自分の顔に強く押し付けた、あたかもマティーは聞かなければいけない、それ以外に選択肢はない、とでもいうように。

 「私があなたの面倒を見るわ」とキャサリンは言った。
そしてもう一度。
「聞きなさい、マティー、私があなたを守ってあげる。」
 
 キャサリンは自分の娘を腕に抱いた。
彼女達の足元には霜が降りていた。
マティーは、今は泣いていた。
キャサリンは自分の心臓が壊れてしまうかと思った。
しかし、彼女は、これで良かった、と知っていた。
この方が良かったのだ。

キャサリンはマティーが家の中に入るのを手伝い、彼女を長椅子に寝かせた。
彼女は娘に毛布を掛け、彼女を抱き、震えが止まるように手脚をこすった。
ロバートがマティーに水を与えようとするとマティーはむせ返った。
キャサリンを育てた祖母のジュリアが呼ばれた。
キャサリンはそのとき、家の中に他の人たちがいるのにぼんやりと気が付いていた。
スーツを着た男女が台所の隅に立って待っていた。

 彼女はロバートが電話で話してその後航空会社の人たちと囁き合っているのが聞こえた。
彼女はテレビが付いているのには気付かなかったがマティーが突然立ち上がって彼女を見た。

 「彼らは爆弾って言ったの?」と、マティーが聞いた。
 
 それから突然、キャサリンはニュース速報を聞いた、思い返せば、すべての言葉が潜在的に聞こえていて、それが呼び出されるのを待って心の中にあることに気づくようなやり方で。
 後でキャサリンは速報(ブリテン)を弾丸(ブレット)と考えるようになった。
脳に食い込んで爆発した弾丸と言う単語が記憶を消し去ってしまった。
 「ロバート」と、彼女が呼んだ。
彼が居間に入って来て彼女の横に立った。
「それは確認されたわけではありません。」と、彼が言った。
 
 「彼らは爆弾だと思っているの?」
 「それは一つの仮説にすぎません。
彼女にこれを一つ飲ませなさい。」
「それは何ですか?」
「ヴァリアム(胃検診などに使うバリウムとは違う精神安定剤)です。」
「あなたはこれを持ち歩いているですか?」と彼女は聞いた。
「自分で・・」

ジュリアは、死に対して無礼にも、その脅しに屈服しないという意思を持って、緊急ゾーンにいる救援隊員のようにしっかりした存在感で家の中を歩き回った。
彼女は既婚婦人らしい堂々とした風格をしていて、髪は、年齢を重ねた唯一の譲歩だが、プードルの様な髪型をしていて、数分もしないうちにマッティーを長椅子から降ろし二階に運び上げた。
ジュリアはマッティーが一人で自分で立ってジーンズ地のパジャマに着替えられるのを確かめて、自分の孫を介護する為に二階から降りて来た。
彼女は台所に立って濃い紅茶を点てた。
彼女はお茶に、買ってきたボトルからブランデーをたっぷり注いだ。
彼女は航空会社の女性にキャサリンに少なくともマグカップ一杯は飲ませるように指示した。
それからジュリアはマッティーの所に戻り顔を洗わせた。
その時までにはヴァリアムが効いていて、突然の小さな驚きと悲しみが来ることはあったものの、マティーは寛いでいた。
キャサリンは、悲しみはとりわけ消耗するものだと考えていた。

 ジュリアはマティーをベッドに寝かせて居間に戻った。
長椅子のキャサリンの横に座ってキャサリンがどれくらいお茶を飲んだのか見るため、コップを覗き込み、それからもっと飲むように言った。
彼女は精神安定剤があるかキャサリンに単刀直入に聞いた。
ロバートが、ヴァリアムがあります、と言った。

 ジュリアが「あなたは誰?」と言うと、ロバートが答え、ジュリアは「一錠ください。」と言った。
 「これを飲みなさい、」とジュリアはキャサリンに言った。
「飲めないわ、ブランデーを飲んだもの。」と、キャサリンが言った。
「それが何だと言うの、飲みなさい。」

 ジュリアはキャサリンに気分はどうなのか聞かなかったし大丈夫かとも聞かなかった。
ジュリアの考え方では、キャスリンは、ある程度の大丈夫であることに代わるものはないことを知っていた。
それ以外の事は何も機能しないだろう。
涙、ショック、同情、そんなものが全て後で来るだろう。

 「恐ろしい事だわ」と、ジュリアは言った。
「キャサリン、それが恐ろしい事だとは分かっているわ。
私を見て。
でも、向こう側に行くにはそれを通り抜けるしか方法はないのよ。
分かってるわよ、ね? 頷いてちょうだい。」

「ライオンズ夫人?」
キャサリンは窓から振り向いた。
機長組合事務所から来た小柄なブロンドの髪の女性リタが彼女のコートの中に腕を滑り込ませた。
「私はその宿に行くつもりです。」
茶色の口紅をさしたリタは朝の4時から一日中ずっとその家にいたのだった。
しかし彼女の顔は妙にくすんでいて、彼女の濃紺のスーツにはほとんど皺が無かった。
航空会社から来た、その女性の、同僚のジムなんとかも、数時間前に既に家を出ていた。
;キャサリンはそれが何時だったのか正確には思い出せなかった。

 「ロバート・ハートはまだここにいます。」と、リタが言った。
「事務室に。」
キャサリンはリタのまっすぐな髪の完璧な分け目をある種の強い興味を持って眺めていた。
リタはほとんど瞬きしなかった。
リタはポートランド郊外の局のニュースキャスターに驚くくらい似ているなあと思っていた。
その日の早い時間に、キャサリンは彼女の家にいる見知らぬ人々を気にしていたが、すぐに自分一人では対処できないとわかった。

 「タイズに部屋を取っていますか?」と、キャサリンは聞いた。
「はい、私たちは何室か取りました。」
キャサリンは頷いた。
オフシーズンには週末に2組のカップルが泊まれば運が良いようなタイズ・インは今や報道や航空会社の人々でいっぱいだろうとキャサリンは理解した。
「あなたは大丈夫ですか?」と、リタが聞いた。
「はい」
「行く前に何かあなたに買ってきましょうか?」
「いいえ、大丈夫です。」と、キャサリンが言った。

 リタがキッチンを出て行くのを見ながら、キャサリンは馬鹿げたことを言ったと思った。
笑っちゃうぐらい意味のない事だったわ。
彼女は多分二度と大丈夫にならないだろう。

 まだ4時15分だったが、すでにほぼ暗かった。
12月の終わりには昼食が終わるとすぐ陰り始め、午後の間中光線は長く伸び薄くなるのだった。
それはここ数か月見なかったようなぼんやりと柔らかな色にするので、もはや正確に見覚えがあるものは何もないようだった。
夜はゆっくりとした盲目の様に居座り、彼女の自身の姿以外はなにもの残さないまでに、木々や低い空や岩や凍った草や、霜で白くなったアジサイから色を吸い取るのだった。

 彼女は腕を組んで流し台の縁にもたれかかって、台所の窓から外を見た。
長い、長い恐ろしい一日だった。
余りにも長く恐ろしかったので、キャサリンが今まで知っていた全ての現実から、数時間前に通り過ぎて行ってしまったのだった。
彼女はまた眠ることはないだろうというはっきりした感覚を持った。
彼女はその朝早く起きた時に二度と入る事の出来ない状態から抜け出してきたのだった。
彼女はリタが自分の車に歩いて行って、エンジンをかけ、私道に向かって出て行こうとしているのを見た。
今は家の中には4人いた。
―マティーは自分の部屋で眠っていて、ジュリアとキャサリンが交代で彼女を見守っている。
そしてロバートは、ジャックの事務室にいるとリタは言っていた。
何をしているのか?
キャサリンは訝いぶかった。

 一日中、長い砂利道を下ったところで、木製の門の後ろに、中を覗き込んでいる人や、その人々を遠ざけている人がいた。
しかし今はリポーターやカメラマンやプロデューサー、メークアップアーティストたちは多分、酒を飲んで噂を検討し、夕食を食べ、眠るために、タイズ・インに向かっているだろうとキャサリンは想像した。
これは彼等にとって単なる普通の仕事の終わりではなかったのだろうか?

 キャサリンは階段の上で重い足音を聞いた、男の足音だ、一瞬彼女はジャックが台所に降りてきていると考えた。
しかしその後、すぐにそれはジャックであるはずはない、絶対ジャックではないと思いだした。
「キャサリン」
ネクタイは外されていてシャツの袖はめくり上げられ、シャツの一番上のボタンは開いていた。
彼女はロバート・ハートがペンを指の関節の間でバトンのようにひっくり返すと言う神経質な癖がある事を知っていた。
「知っておいた方が良いと思うけど、彼らは機械の故障だと言っています。」と、ロバートが言った。
「誰が機械の故障だと言っているの?」
「ロンドンです。」
「彼らは知っているの?」
「いや、現時点ではただのたわごとです。
推測でしかありません。
彼らは機体の一部とエンジンを見つけたのです。」

 「ああ、」と、彼女は言った。
彼女は自分の髪を指でとかした。
それは彼女の神経質な癖だった。
機体の一部、彼女は思った。
彼女は心の中でその言葉を繰り返した。
彼女は機体の一部を見ようとした、それがどんなものか想像しようとした。

 「機体の一部の何?」と、彼女は聞いた。
「客室です。6mほどです。」
「何か?・・・」
「いや、あなたは一日何も食べていないでしょ?」と彼が聞いた。
「それは大丈夫。」
「いや、大丈夫じゃない。」
 彼女はテーブルを見渡した。
テーブルは、なべ料理、パイ、プラスティックの容器に別々に入った夕食一式、ブラウニー(チョコレートケーキ)、ケーキ、クッキー、サラダでいっぱいだった。
それを全部食べるには大家族でも数日かかるだろう。

 「それが、みんながやってくれることなんだわ、」と彼女は言った。
「彼らは他にどうしたらいいのかわからなくて、食べ物を持ってくるのよ。」

 一日中、警官が、定期的にみんなが提供するものを運んで私道を歩いていた。
キャサリンはこの習慣を理解し、家族に死者が出た場合この様な事が何度も何度もおきるのを見たことがあった。
しかし彼女は体が、ショックと悲しみを越えて、吐き気と心の中の虚しさを越えて、前に行き続け、食べ物を欲しがり食べようとするのに驚いた。
それはまるでセックスを求めるように不適切な事だと思えた。

 「ドライブの終わりまでにそれをお返しすべきだったわ、」とキャサリンが言った。
「警官と報道の人たちに。ここではゴミになるだけだわ。」
「報道に餌を与えてはいけません、」と、ロバートが急いで言った。
「彼らは愛情を求めている犬の様なものです、彼らは部屋に入れてもらえる事に飢えているのです。」

 キャサリンは笑い、彼女は自分が笑えることにショックを受けた。
彼女の顔は傷つき、渇き、涙で塩が浮いていた。

 「じゃあ、私は今から外に出ます、」と彼が言い、手繰り上げていたシャツの袖を戻し、袖口のボタンをとめた。
「多分あなたはご家族だけで居たいでしょうから。」

 キャサリンは自分が家族だけで居たいのかどうかまるで確信が持てなかった。
「ワシントンに帰るんですか?」

 「いいえ、タイズ・インに泊まります。帰る前に明日まで泊まっています。」

彼は椅子の背にある自分の上着に手を伸ばしてそれを着た
ポケットからネクタイを取り出した。

「ああ、良かった。」と彼女はぼんやり言った。
 
 彼はネクタイを襟に巻いた。
ネクタイを結び終わって、それをちょっと引っ張って、「それで、」と、彼が言った。

 電話が鳴った。
それは台所では大きすぎ、不快で、押しつけがましいように思われた。
彼女はそれをどうすることもできず見つめた。
「ロバート、私、できないわ」と彼女は言った。

彼が電話の所に歩いて行ってそれに応えた。
「ロバート・ハートです、」と、彼は言った。
「ノーコメントです、」と、彼は言った。
「今のところまだです、」と、彼は言った。
「ノーコメントです。」

 彼が電話を置いたとき、キャサリンはしゃべり始めた。
「二階に上がってシャワーを浴びて来なさい、」と、彼が言い、彼女の話を遮った。
彼は上着を脱ぎ始めた。
「何か温めましょう。」
「いいわね」と彼女は言い、安心した。

二階の廊下で彼女は一瞬戸惑った。
余りに長い廊下、ドアが多すぎ、部屋が多すぎる。
一日の記憶は既にそれらの部屋を汚し始め、今までの記憶を塗り替え始めていた。
彼女は廊下を歩きマッティーの寝室に入った。
マッティーもジュリアもマッティーのベッドで安らかに眠っていた。
ジュリアは軽いいびきをたてていた。
お互いに背中合わせで、ダブルベッドのシーツと掛布団を一緒に使っていた。
キャサリンはカバーの山になった部分が上下しているのを見て、マッティーの左耳たぶの彼女が最近買ったイヤリングが光っているのに気が付いた。

ジュリアが目を覚ました。
「やあ」キャサリンはマティーを起こさないように囁いた。
「彼女はどんな具合?」
「一晩中寝ているといいんだけど」とジュリアは眼をこすりながら言った。
「ロバートはまだここにいるの?」
「いるわ。」
「ここに泊まるつもり?」
「分からないわ、いいいえ、他の人たちと一緒に宿に行くつもりだって。」

 キャサリンは彼女の祖母と娘と一緒に横になりたかった。
一日の一定時間ごとに彼女は自分の腿が座りたいと言う要求を発しそれに圧倒されるのを感じていた。
ここには上下関係があるのだと彼女は思った。
キャサリンがいる事で、マティーは子供で居られる。
ジュリアがいる事でキャサリンはジュリアの慰めと抱擁を欲しがっている事を知る事ができた。

階下の廊下のテーブルには、別の時代を思い起こすジュリアの写真があった。
写真の中では膝下まである細い濃いシャツと白いブラウス、短いカーディガンのセーターを着ていた。
首には真珠のネックレスを付けていた。
腰が細く痩せていて、光沢のある黒髪を片側に分けていた。
彼女の容貌ははっきりしていて、人々がハンサムな女性というのは、こういうことを言うのだろう。
写真の中で、ジュリアはソファに座ってフレームの外の何かに手を伸ばして取ろうとしていた。
もう一方に手には、魅力的に吸ったそのタバコを手元に戻したかのような恰好で、タバコを持っていた。
それは細い指でさりげなく持たれ、煙が喉と顎の周りに巻き付いている。
写真の女性は恐らく20歳だった。

 ジュリアは今78歳でいつもちょっと短いダブダブのジーンズをはき、突き出したお腹を隠すゆったりしたセーターを着ていた。
今やマティーと一緒にいた薄い白髪の女性には、もはや光沢のある黒髪と細い腰の若い女性の面影は無かった。
多分、目元は似ているがそこでさえ時間が美しさを破壊してしまった。
ジュリアの目は今や時には涙目になり、まつ毛でさえほぼ抜け落ちてしまっていた。
キャサリンがどんなに頻繁にその現象を見たとしても、それを理解することは難しかった。
崩れ落ちてしまった家が何も残らない様に、美しかった女性の顔には、かつてそうだったものは全く残っていなかった。
少女時代も、結婚当時のものも、愛さえも。

 「説明はできないけど・・・」と、キャサリンは言った。
「私は一時的にジャックを失くしてしまっただけで、彼を探さなきゃいけないような気がするの。」
「あなたは探せないのよ、彼は死んでしまったんですもの。」と、ジュリアが言った。
「分かってるわ、分かってるわ」
「彼は苦しまなかった。」
「それはわからないわ。」
「ハートさんはそう断言してくれたわ。」
「誰もまだ何もわからないわ。
それは全部噂だし推測なの。」
「あなたはここから出て行くべきね、」と、ジュリアが言った。
「車道の端は精神病院だったのよ。
怖がらせるつもりはないけど、チャーリーとバートを連れてきて、みんなを門から遠ざけるようにしていたのよ。」

 キャサリンの後ろには、窓の開いたすき間から冷たい空気が入って来ていて、彼女はそれを深く吸い込んだ、塩の匂いがした。
彼女はマティーを中に連れ戻した時以外は一日外に出なかった。

 「私は、この事が収まるまでどれくらい長くかかるのか分からないけど、」と、ジュリアが言った。
「ロバートはしばらくかかると言っているわ。」

 キャサリンは深く息を吸いこんだ。
それはアンモニアを吸っているような、頭がすっきりして感覚が研ぎ澄まされるような感覚だった。
「これに関しては誰もあなたを助けてくれないわ、キャサリン。
自分でやらなきゃいけないことなのよ。
分かっているでしょう?」
キャサリンはちょっとの間目をつぶった。
「キャサリン?」
「私は彼を愛していたのよ、」と、キャサリンは言った。
「それはわかっていたわ、私も彼を愛していたわ。私たちみんながそうだったのよ。」
「これはなぜ起こったの?」
「何故かなんて忘れなさい、」と、ジュリアが言った。
「理由なんてないのよ。
それは問題じゃないわ。
そんなことを考えても何にもならないわ。
それは起きてしまったことで、元に戻せないのよ。」
「私は・・・」
「あなたは疲れているのよ。
ベッドに行きなさい。」
「私は大丈夫よ。」
「ねえ、」とジュリアは言った。
「あなたのお父さんとお母さんがおぼれた時、私は文字通り耐えられないと思ったわ。
私は正に、いつかバラバラになってしまうのじゃないかと思ったわ。
痛みは本当に恐ろしいものだった。ひどいものよ。
息子を失うって。
それが起きるまでは想像できないわ。
そして私はあなたのお母さんを責めたわ、キャサリン。
そうしなかったふりをするつもりはないわ。
あなたのお母さんとお父さんは 飲んでいる時は、どうしようもなく ぞっとするほど不注意で危険だったの。
でもその両親を失って、その事をちゃんと理解できていないで戸惑っているあなたがいたの。
その事が私を救ったのよ、キャサリン。 
あなたを救う事が私を救ったの。
あなたの世話をしなければならなかったことが。
私はなぜボビーが死んでしまったのかを聞くことを止めなければならなかったの。
単に止めなければいけなかったの。
そこに理由は無かった。
今もそうよ。」

 キャサリンはマットレスの上に頭を横たえた。
ジュリアは彼女の頭をなで始めた。
「あなたは彼を愛していた、私にはわかっているわ、」と、ジュリアは言った。

キャサリンはマティーの部屋を出て、洗面所に歩いて行った。
お湯を最高に熱く設定したシャワーの中に立って、動かないでお湯が体の上を流れるのに任せた。
彼女は泣いたので目が腫れていた。
彼女の頭は重く感じられた。
彼女は鼻から上唇の皮膚がチクチク痛むほど何度も鼻をかまなければならなかった。
彼女は早朝から頭痛がし、アドビル錠を何度も飲んでいた。
彼女は自分の血が薄くなってシャワーのお湯と一緒に流れて行くのを想像した。

 こんな日々がこれから沢山あるでしょう、とロバートは以前言ったのだった。
最悪と言うわけではなくても悪い。

 彼女は自分が、ちょうど今経験しているようなもう一つの日を生き延びる事を想像する事は出来なかった。

 彼女は今日起こった事の順番を思い出す事が出来なかった。
最初に起こったことは、その次に起こったことは、三番目は。
朝起こった事、午後起こった事、いや、朝の遅い時間それとも午後の早い時間。
テレビで速報があり、彼女がそれを聞いたとき、彼女の胃を蹴り委縮させるようなことを言ったニュースキャスターがいた。
:離陸後、機体が降下. . ベビー服と浮き輪......悲劇が......。
遭難の90秒.双方の衝撃と悲しみ.就航19年目のT-900 ... . 残骸が広がる... ...
ヴィジョンフライト384の物語の続き。
レポートによると、 ... .
早朝のビジネスマンの... .
イギリスとアメリカの共同出資の航空会社....
空港に集まって来ている . .
連邦航空局の調査 ... . 大規模な... ...という憶測。

その後、キャサリンが忘れる事は無いだろうと思った映像があった。
スクリーン一杯に移った高校生の少女の卒業アルバム。
:白い破片を波間に反転させながら、ヘリコプターが飛んでいる広大な海。
;腕を伸ばしている母親、両手のひらはその空気を押している、あたかも好ましくない言葉の流れを差し戻すことができるかの様に。
複雑な潜水用具を身に付けた男たちがボートの端を心配そうにのぞき込んでいる。
;空港では親族たちが速報を見ている。
そして突然親族たちの映像の直後、上下に3つの静止画が現れた。
3人の男たちは制服を着て正式なポーズをとっていた。
下に彼らの名前が書かれていた。
キャサリンはジャックのこんな特別の写真は見たことが無かった。
どんな目的でこんな写真が撮られたのか想像できなかった。
きっとこんな不慮の事故のためでない事は確かだ。
万一の場合。
しかしそれ以外のどんな場合にニュースでパイロットの顔がニュースに出ると言うのだろうか?
彼女は不思議に思った。

 ロバートは一日中、見るなと言っていた。
映像は彼女の中に留まるだろうと、彼は警告した。
イメージは頭から離れないだろうと。
見ない方が良い、映像を持たない方が良い、と言うのは昼間でも彼女の夢の中でも戻ってくるから。

 それは想像を絶するものだった、と、彼は彼女に言った。
意味?それは考えるな。

 しかし、どうやって考えないで居られると言うのだろうか?
どのようにして彼女の心の中のその言葉と写真の詳細な流れを止められると言うのだ?

 電話は一日中、留まることなくなり続けた。
ほとんどの場合ロバートがそれに応えるか、航空会社の人の一人に渡した。
しかし時には彼らが速報を見ている時、彼は電話を鳴ったままにしておき、彼女は留守電の声を聞いた。
躊躇いがちな報道機関からの問い合わせの声。
町の近所の人や友達からの電話、それがどんなに恐ろしいことか (それがジャックに起こったなんて・・・)、(何か私にできることがあれば・・)。
組合の年長の女性からの声―事務的な堅い口調でロバートにかけ直すように要求する。
キャサリンは、組合がそれがパイロットの過誤であってほしくなかったし、航空会社もパイロットの過誤や機器の故障であって欲しないと思っていると知っていた。
彼女は既に弁護士が証拠漁りをしていると聞いていた。
彼女は、もし弁護士が彼女に連絡を取ろうとしたら、ロバート・ハートはそれを止めさせるだろうかしらと考えた。

 彼女は潜水夫たちがフライトデータ・レコーダーとCockpit Voice Recorder (最後の声が入っている箱) を探していることは知っていた。
彼女はダイバーが後者を見つけている事が怖かった。
それは彼女が聞くことに耐えられないと知っていたニュース速報の一つだった。
―ジャックの声を聞く事、その権威、管制官の声、それ以外に何が?
人の最後の数秒を録音する事は恐ろしく押しつけがましい事のように思えた。
死刑囚以外のどこで彼らはそれを行ったことがあるだろうか?

 彼女はシャワーから足を踏み出し、タオルで体を拭き、女性がぼんやり車に乗ってカギを忘れたことに気が付くように、石鹸もシャンプーも使わなかったことに気が付いた。
もう一度お湯をひねってシャワーに戻った。
今、そこには彼女の思考と思考の間に空間があった、―すき間、綿毛の様な。

 彼女はもう一度シャワーから出て、体を乾かし、急いで自分のバスローブを探した。
彼女が一日中身に着けていたシャツと靴下とレギンスは床にばらばらに散らばっていたが、ローブを忘れていた。
彼女はドアの裏側を見た。
ジャックのジーンズがフックに掛かっていた。
膝の所が色あせていた。
彼は最後の日にこれを履いていたのだろう、と思った。

 彼女はそのジーンズを顔に当てた。
デニムを通して息を吸った。
彼女はジーンズをフックから外し洗面所のカウンターに置いた。
ポケットの中の小銭がチャリンと鳴り、紙がカサカサなった。
後ろのポケットを探ると、座った時に押し付けられて、少し曲がった、紙の束を見つけた。
広げて見ると20ドル札と数ドル。
エイムズの、延長コード、電球の包み、ライトガード(男性用 デオドラント)の缶の領収書。
ピンク色のクリーニングの伝票があった。:シャツ6枚、糊付け軽め、ハンガー。
ステープルズ事務用品店の領収書:プリンタケーブルとペン12本。
郵便局の12ドルの領収書:切手、彼女は急いで見て何だろうと思った。
名刺があった。:バロン・トッド、投資案件。
宝くじが2枚、宝くじ?
ジャックが宝くじをやるなんて知らなかったわ。
彼女はその内の一つを詳しく見た。
そこに鉛筆で書かれた微かなメモがあった。
M at A’s と読め、それに続いて数字の羅列。
誰かの所でマッティーと?
でも、数字の意味は?
数字はたくさん書いてあった。
宝くじの番号?
それから、その紙束をさらに広げてみると、罫線のある白い紙が2枚あるのが見えた。
最初の一枚には詩のようなものが本物の万年筆のインクで書かれていた。
ジャックの手書きだった。
     この狭い通路と無情な北の大地で、永遠に続く裏切り、容赦のな   い結果なき戦い。
     暗闇の中の真っ暗な無差別な怒り、生存のための闘い。
     子宮の中の生命の飢えた盲目の細胞たちの生存のための闘い。

 当惑し、彼女は壁に寄りかかった。
彼女は思った、これは何の詩なんだろう、その意味は?
ジャックはなぜこれを書き留めたのだろう?

 彼女は二枚目を開いた。
覚え書きの一覧表だった。
ジャックは家にいる時は毎朝それを作っていた。
彼女はリストにある項目を読んだ。:延長コード、排水溝修理業者へ電話、マッティー、ヒューレットパッカード・カラープリンター、バーグドルフのフェデックス社製ローブが20日に到着。

 バーグドルフのフェデックス社製ローブ。20日に到着。
バーグドルフグッドマン?
ニューヨークの高級百貨店?

  彼女は考えようとした、冷蔵庫以ある12月のカレンダーを思い出した。
今日はひどく苦しくて長い一日だったがまだ12月の17日だ。
20日には彼女は学校にいるはずだ、休暇の前日だ。
そして、その日は、ジャックは家にいただろう。
旅行と旅行の間の日で。

 これは彼女へのクリスマスプレゼントの事だったのだろうか?
 
 彼女はそれらの書類を手に集めて、しっかりと握った。
彼女はドアにもたれかかり、座り込んだ。

車は過度に温められた空気で満たされていた。
彼女は、胃をより快適にするためシートを後ろに倒さなければいけない程、ジュリアのクリスマスの夕食でいっぱいになっていた。
ジャックは彼らの住み始めた最初の冬に彼の為に編んだ、一個だけ背中に失敗した箇所を見つけられる、クリーム色のセーターを着ている。
彼は感謝祭とクリスマスにはサンタフェから旅行に行くときはいつも律儀にそのセーターを着る。
彼は髪をいくらか伸ばしていて耳の後ろでちょっとだけカールしている。
彼は曇った日以外はいつもかけているサングラスをかけている。
 ― あなたはこれが得意ね、と、彼女が言う。
― 何が得意だって?
― サプライズよ。

 一度など、彼は突然メキシコ旅行をした。
別の時はクリスマスの訪問中に、週末に彼の背中の治療で整形外科医に会う為にボストンを車で走っていると思っていた時に、彼女をリッツに連れて行った。
今日、ジュリアとの食事の後、彼は彼女のクリスマスプレゼントを買いにドライブがしたいと言っただけだった。
二人だけで。
ジュリアは新しいおもちゃを手放さない年頃4歳で、マティーと残った。

 彼らはエリーの街を離れ、夏の家のあるフォーチュンロックに向かってドライブする。
少女の頃、彼女は村からビーチに歩いて行く途中、一年の10ヶ月空き家のこれらの家には個性と特徴があると想像していたものだった。
これは誇り高くちょっと派手だ、それから、特に激しい嵐の後は少し冷静さを失っている。
これは背が高く優雅だ、歳を経た美しさがある。
これは風雨にさらされ、無鉄砲に顔を前に出している。
別の物はまるで愛されていないかのように、静かすぎて不機嫌でぶっきらぼうだ。
しかし、他の一つは他のから離れて、落ち着いて自足して、夏の人々の殺到や長い冬の寂しい夜によって煩わせられない。
 ― 私はこのプレゼントが何なのか想像できないわ、と、キャサリンが言う。
―もうすぐわかるよ。

車の中で彼女は自分に目をつぶる事を許す。
彼女はほんの一分間ウトウトしたと思うが、目が覚めた時、彼女はハッとする。
車は私道にいる。
見慣れた私道だ。
― 懐かしいの? と彼女が聞いた。
― そんなふうなものだよ。
  
 彼女は車の窓からその家を覗き込む。
その家は彼女が今までしばしば思っていたように、今までに見た一番美しい家だと思う。
側面に白い鎧下見板の付いたその家は2階建てで、周りをゆったりとベランダが取り囲んでいる。
シャッターは靄のかかった日の沈黙した海の半透明な埃っぽい青い色をしている。
2階の屋根は杉で葺かれ、風化がひどく、まるで誰かが切り取ったかのように浅く湾曲している。
多分それはマンサード型の屋根だ― 彼女は確信が持てなかった。
その二階には等間隔で屋根窓が付いていて、その奥で人が快適に眠れるのが想像できた。
彼女は古いホテル、古い海沿いのホテルの事を考えた。

 ジャックは黙って車から降りると、ベランダの階段を上がり、彼女は彼について行く。
蜘蛛の巣の張ったロッカーと広い床板は、風化して古色蒼然とした灰色に変色している。
彼女は手すりの所に立って芝生を越えて海岸線を見渡した。
海岸線では潮が退き、岩の上の水の流れは集まっては散らばって行き海に落ちて行く光そのもののようだ。

 遠くの方で、海の上に天気のいい日だけにかかる清潔な霞が架かっている。
彼女には正確に島々の位置はわからないが、そこにあって、水の上に浮かんでいるようだ。
芝生の片方のがわには牧草地があり、もう一方には梨と桃の低木の果樹園がある。
ベランダの横には四角形に扇形を付けたような形のアーチ形の窓に沿って、奇妙に花が植わっている、茂りすぎた花壇がある。
そのアーチの中には大理石のベンチがあり今はブドウに覆われている。

 突然東風が起こり微かに湿気のある冷たさを運び、いつもそうするかのように、ベランダを吹きぬける。
すぐに彼女は水の上に白い波頭が立つだろうと知っている。
彼女はコートの中で肩をすぼめた。

彼女の後ろでジャックが台所のドアを開けて家に入る。

 ― ジャック、何をしているの?と、彼女が聞く。

 恐る恐る、彼女は彼について台所を通り居間に入る。
家の海に向いている側の長い空間で、背の高い、床から天井まである6対の窓のついた素敵な居間だ。
壁には継ぎ目の剥がれた、色褪せた黄色い壁紙が貼ってある。
窓には四分の一ほど巻き取られていないロールスクリーンがある。
それは彼女に古い学校の教室にあるロールスクリーンを思い起こさせた。

 この家に初めて侵入し、2階の寝室で愛の営みをして4年半が経つ。
それは服のまま泳ぎに行った後だった。
彼女は彼に廃墟になった家を知っていると言った。
彼女は彼がシャツのボタンを外して床に置いたときの仕草を思い出す。
彼はシャツを脱ぐとなんと違って見えたことだろう ― 数年若く見え、解き放たれ、かつて彼女が一緒に出かけたことのあるかもしれない工場の誰かのようだった。
彼は彼女の上にしゃがみ込み、彼女の皮膚についた塩を舐め始めた。
彼女は暑さで目眩がしそうだった。
彼女自身の唇の下で、彼の胸の皮膚が鼻にツンと来る匂いを発し、細かい毛が絹のように滑らかだった。

 ジャックは居間を通りぬけて階段の下で彼女を待つ。
家は未だに、何十年も人が住んでいなかった。
かつては女子修道院で、その後そこを夏の家として使うボストンの家族のものだった。
それは数年売りに出されていて、彼女はなぜその家が売れないのか不思議だと思っている。
多分、沢山の寝室とホールの端にお風呂が一つだけなのは寮としての用途のためだ。

 彼は手を差し伸べる。
彼女は階段を登りながら、彼はかつて愛し合った部屋で彼女にプレゼントを渡すつもりなのだと判断する。
だから彼女は明るいライムグリーンの部屋にはいる時驚かない。
隅の方に、寝台兼用の長椅子が花柄の敷物が掛けられている。
しかし部屋の中で最もびっくりする物は赤い椅子だ、簡素な台所用の椅子は消防車の赤色のラッカーで塗られている。
椅子は陽の光に輝いている。
― 窓から見える海の青さにライムグリーンの壁紙に赤い椅子が映える。
― そして彼女は昔不思議に思ったように、その椅子を塗った男はどんな奇妙な飛行中にそんなびっくりさせるような色を選んだのかしら、と不思議に思った。
― ヴィジョンから電話があったんだ、と彼は突然言う。
― ヴィジョン?
― 英国とアメリカの合弁の新興の航空会社だよ。
ローガンで誕生し急成長している。
僕は数年で国際線の路線を取得できるよ。

 彼は笑う、驚くような事を計画しそれをなし遂げた男の勝利に満ちた複雑な笑顔だ。

 彼女は彼の方に行こうと足を踏み出した。

― そしてもし君がこの家が好きなら、この家を買うつもりだ。

 その言葉を聞いて彼女は立ち止まる。
彼女は胸に手を当てる。
― 以前にもここに来たの?、と彼女が聞く。

 彼は頷く。
― ジュリアと一緒にね。
― ジュリアはこの事を知っているの?
 と、キャサリンは信じられないと言うように尋ねる。
― 僕らは君を驚かせたかったんだよ。
この家はボロボロだ、作業が必要だ、明らかに、ね。
― あなたはいつ彼女とここに来たの?
2週間前さ。
ポーツマスで乗り継ぎ時間があった時にね。

キャサリンは思いだそうとする。
彼女は12月のその日をカレンダーのページの塊として見ている。

それぞれの旅行が次の旅行と混じってしまているように思える。
彼女はその内のどれも正確には覚えていなかった。
― ジュリアはこの事を知っているの? と、彼女はもう一度聞いた。
― 彼らは私たちの提案を了承しているよ、とジャックが言った。
― 私たちの提案?
彼女は自分が愚図でのろまだと感じている。
驚きが整理できないうちに積み重なってゆく。

― ここで待っていて。 と彼が言う。
体を震わせながら彼女は部屋を横切って赤い椅子に座った。
横の窓から入ってくる太陽がベッドカバーの上に四角い明るい暖かい光を作る。
彼女は自分の手足を温めるために光の中に飛び込みたいと思う。

 どうやってあれができたんだろう?
彼女は不思議に思った。
こんなに大変なことを。
これは単純な、タンスに箱を隠すような簡単なことではないのだ。
誰か別の人がかかわっていた。不動産業者だ。
それとジュリア。
ジュリアはそんな秘密を守ることができるかしら?
多分サプライズのためだったら、とキャサリンは自分で答えた。
それにジャックは秘密にするのが得意だ。

 彼女は首を振った。
ジャック抜きで家の購入を申し込むなんて、彼女には考えられない。

 彼は戻ってきたとき、両手にシャンペンのビンとグラス2つを持っている。
彼女はそのグラスがジュリアの食器棚にあったのに気が付いている。

― 君がここにいてくれて幸せだよ、と彼が言う。
― ここで会えることが幸せだ。
彼女は彼がシャンペンを抜くのを見ている。
彼女は考える。
: でもこれがジャックが最も得意にすること、そうでしょ?
彼は物事を実現する。
 
 彼女は幸せを感じたい。
すぐに、そのニュースを消化したとき、自分が幸せを感じることができるだろうと思う。
― ボストンまで通勤するの、と、彼女は聞いた。
― 時間を計ったんだ。50分さ。

 何ということかしら、彼はここに来てみて、ここからボストンまでの通勤時間もすでに計っていたのだ。
彼は2つのグラスにシャンペンを注ぎ、一個を彼女に渡す。
二人は同時に飲む。
彼女の手は震えている、自分でも見てわかっている。
彼は自分のグラスを置いて彼女に近づく。
彼は彼女を立たせて、彼女が窓の外が見えるように向きを変えさせる。
彼は急いで彼女の耳に話しかける。
― まま僕たちは自分たちの家を持とうとしている。と、彼は言う。
― 君は海の上にいることになる、君がずっと望んでいたように。
マティーはここで学校に通うだろう。
君は学位を取ったら教師の仕事を得るだろう。
ジュリアは君が、僕たちが、彼女のそばにいることにワクワクしている。

 キャサリンはゆっくりと頷く。

彼は彼女の髪を首から持ち上げて、彼の舌を彼女の背骨から生え際に走らせる。
彼女はその感覚に身震いし、自分が意図したように、シャンパンを窓辺に置く。
彼女は前屈みになり、窓枠に体を預ける。
彼女は窓ガラスに彼ら二人の姿がかすかに映っているのを見ることができる。

「何か食べてください」
ロバート・ハートはテーブルをはさんでチリコンカンの丼の最後を食べ終わろうとしていた。
「食べられないの」と彼女は言った。
彼女は彼の空の丼を見ていた。
「しかし君はお腹がすいているよ。」
彼はそのどんぶりを一方に押しやった。

 時間は遅いのでキャサリンは今何時だかはっきりわからなかった。
2階ではマティーとジュリアがまだ寝ていた。
キャサリンの前にはチリコンカンだけでななくガーリックブレッドとサラダと生ぬるい紅茶があった。
前にパンをチリに浸けて食べようと努力したが、彼女の喉を通らなかった。
彼女は清潔な服を着ていた。
― ジーンズとネイビーセーター、ラグソックス、皮のブーツ。
彼女の髪はまだ濡れていた。
彼女は自分の目と鼻と口が腫れていることを知っていた。
彼女は多分浴室の床で今日は一番泣いただろうと思っていた。
おそらく人生で一番。
彼女は泣いたことだけで消耗し空っぽになっていると感じていた。

 「申し訳ありません」と、彼が言った。
「何が?」と、彼女が聞いた。
「食べていることが?」
彼は肩をすくめた。
「その全てがです。」

 「あなたの仕事は想像できないわ、」彼女が突然言った。
「あなたは何故この仕事をやっているの?」

 彼はその質問に驚いたようだ。

「タバコを吸っても構いませんか?」と彼が聞いた。
「だめなら外で吸いますが・・」

 ジャックは喫煙者を嫌っていた、彼らと一緒に部屋にいることが耐えられなかった。

「外はマイナス10℃よ、もちろんここで吸ってもいいわ。」と、彼女は言った。

 彼女は彼が振り返って椅子の背に掛けた上着に入れた煙草に手を伸ばすのを見ていた。

 彼はテーブルに肘をついて座り、両手をあごの下で折りたたんだ。
煙が彼の顔の前で丸くなった。

 彼は煙草を使って自分の考えを現すしぐさをした。

 「AAです、」と、彼は言った。
彼女は頷いた。

 「なぜ私がそれをやるか、ですって?」、彼は神経質に咳ばらいをしながら聞いた。
「お金のためだと思います。」
「私はあなたが信じられないわ、」と、彼女が言った。
「本当に?」
「正直なところ信じていません。」
「私は強烈な瞬間に惹かれているんだと思います、人間の経験の範囲内で。」と、彼は言った。

彼女は無言だった。
その時、初めて背後に音楽があるのに気が付いた。
アート・テイタム(盲目のジャズピアニスト)だ。
彼女がシャワーをあひている間にロバートがCDをつけたに違いない。

 「それは公平だわ、」と彼女が言う。
「僕は人々が立ち直るのを見るのが好きなんです、」と、彼は付け加えた。
「彼らは立ち直るものなんですか?」と、彼女は聞いた。

 「十分な時間があれば、女性はいつも立ち直ります・・・」と言って彼は話をやめた。
「すみません、」と、彼は言った。

 「私は人々がすみませんというのにうんざりしているの。
ほんとに。」
「子供たちは思ったほど立ち直らないです、」と、彼はゆっくり言った。
「一般に子供たちは回復が早いと言われていますがそうじゃありません。
彼らは災害で変わってしまうし、順応するのです。
パイロットの女性は少ないので、私は悲しみに打ちひしがれた男性を見ることはほとんどないです。
そんな男性を見る場合、彼らは父親で、怒っています、それは別の話ですが。」

 「怒っているに違いないと私も思うわ。」と、キャサリンは言った。

 彼女は、もしマティーが飛行機にいてジャックが父親として経験する悲しみと怒りで常軌を逸しているとしたら、どうだろうかと考えた。
ジャックとマティーは親密だった。
ジャックとの間には、キャサリンとマティーとの間に時々交わされるような泣き言や怒鳴り声はほとんどなかった。
ジャックにとっては、与えられた条件、パラメターがまさに最初から異なっていたのだ。
:それほど、険悪な関係ではなかったのです。

 彼ら3人がエリーに越して来てすぐ、マティーが幼稚園の時、ジャックは家で仕事をする間、彼女を自分の助手として雇った。
― ペンキ塗りや、床掃除や、壊れた窓の修理など。
彼はずっと彼女と話していた。
彼は彼女にスキーを教えて、毎冬父と娘のスキー旅行に連れて行った、最初は北ニューハンプシャーに、そしてメインに、それから西部に出てコロラドに。
室内では二人はレッドソックスやセルティックス(バスケットボール)を見たり、何時間も一緒にパソコンの前に座っていた。
ジャックが旅行から帰ってくるといつも、彼はまずマティーの所に行き、それか彼女がジャックのところに行き、すばらしい親子の関係性を築いているようだった。
:親子で仲良くやっていた。

たった一度ジャックがマティーを激しく非難したことがあった。
キャサリンは今でもマティーが遊び友達を階段から突き落としたことを発見した時のジャックの激怒した顔を思い出すことができる。
マティーと彼女の友達は何歳だったかしら?
4歳?5歳?
ジャックはマティーを腕で掴んでおしりを一度強くたたいた、その後引きずるように彼女を彼女の部屋に連れていきキャサリンが震える上がるぐらいの強さでドアを閉めた。
彼の動作は衝動的で素早かったので、キャサリンは彼が子供のころそんな風にお仕置きをされていて、彼は一瞬いつもの自制心を失っているのだと想像した。
後で彼女はそのことを彼と話し合おうとしたが、深い赤い顔したジャックはそれを話し合うことはなかったし、彼に何が起きたのか分からないと言っただけだった。

 「あなたはこんなことが専門なんでしょ、」と、キャサリンはロバートに言った。

 彼は隅の方を見て灰皿の代わりになりそうなものを探していた。
彼女は彼女のお茶のカップに敷いてある白い皿を取って松材のテーブルの向こうに滑らせた。
彼は煙草を皿に置き彼の彼の皿を手に取り始めた。

 「そうでもありません、」と、彼は言った。
「これは私にやらせてください、」と彼女は言った。
「あなたは充分やりました。」
 彼は躊躇した。
「お願いよ、私はお皿を洗えるわ。」と彼女は言った。

 彼はもう一度座って、煙草を手に取った。
彼女は流し台に歩いて行って食洗器を開けた。
水を出した。

 「私は自分が、外の世界から家族を隔離して、家族の周りに繭を作っていることを考えるのが好きです。」と、彼は言った。
「グロテスクに侵入してくる外の世界から、」と彼女が言い、「グロテスクに侵入してくる外の世界からです。」と彼が答えた。

 「封じ込め、」と、彼女は言った。
「それがあなたがやっていることです。封じ込め。」
「あなたの仕事について話してください、」と彼は言った。
「あなたは何を教えているのですか?」
「音楽と歴史です。
それと私はバンドを担当しています。」
「ほんとですか?」

 「ほんとうです。
高校には72人しか生徒がいませんから。」
「教えることは好きですか?」と、彼は聞いた。

 彼女はちょっと考えた。
「好きです、」と、彼女は言った。
「はい、大好きです。
本当にずば抜けてすばらしい生徒を担当したこともあります。
去年、私たちは一人の女の子をニューイングランド音楽院に送り出しました。
私は子供たちが好きです。」

 「それはパイロットと結婚しているのとは別の生活ですね、」と、彼が言った。
彼女は頷いた。
彼女は、変則的な勤務時間や、祝日をその日に祝わないことについて考えていた。
ジャックが夕方7時に朝食を欲しがったり、朝の7時に夕食とワインを欲しがったりすることについて。
彼らは他の家族とは異なる生活をしていた。
ジャックは3日出かけて、2日家にいて、そのスケジュールが2から3か月続いたものだ。
その後、次の月、4日休み6日勤務、マティーとキャサリンはそのリズムに適応していった。
彼らは他の家族の様に決まりきった日常を送っていなかった ― 彼らは細切れの生活をしていた。
ジャックが家にいるときは少し、いないときはもっと長い時間。
そして彼が出かけていると時は、家は少ししぼんでしまったようで、静かだった。
キャサリンがどれほどマティーのことを気をかけて、一緒に楽しい時間を過ごそうと、キャサリンは宙ぶらりんなような気がして ― 入口からジャックが入ってきて、もう一度本当の生活が始まるのを待つのだった。

キャサリンはロバートの前に座って、今も自分はあんな風に感じるのだろうか知らと思った。― ジャックがもう一度ドアから入ってくるのを待っている、宙ぶらりんの時間。

 「彼はどれくらいの頻度で通勤していましたか?」と、ロバートは聞いた。
「ここから? 月6回くらいよ。」
 
 「それほど悪くないね、50分でしたっけ?」
「そうよ。あなたは事務所にスーツケースを持っているの?」と彼女は聞いた。
「荷造りしてあるの?」
彼は躊躇した。
「小さなスーツケースを持ってはいますが、」と、彼は言った。
「今夜は宿屋(タイズ・イン)に泊まるつもり?」
「はい、でも、あなたが良ければここでソファーで眠れます。」
「ええ、私は大丈夫よ。
ジュリアとマティーがいるもの。
もっとお話を聞かせてください、」と、彼女は言った。

 「どういう意味ですか?」
彼女は最後の皿を食洗器に入れ、ふたを閉めた。
彼女はタオルで手を拭いて、タオルを引き出しの取っ手に掛けた。

 「あなたが家に帰るときのことよ。」
彼は自分の首の後ろを搔いた。
彼は背は高くなかったが、座っている時でさえ高いような印象を与えていた。
彼女は彼をランナーとして想像していた。

 「キャサリン、これは・・・」
「どうぞ話してください。」
「いや。」
「助けになりますから。」
「助けにはなりませんよ。」
「どうしてそれがわかるんですか?」と、彼女は厳しく言った。
「私たちはみんな同じ主婦なんですか? みんな同じ反応をするのですか?」
彼女は自分の声の中に怒りを聞くことができた、それは一日中ずっとそこにあった怒りです。
怒りの泡が液体の表面に浮かび上がり、飛び出します。
彼女は彼の向かいのテーブルに再び座った。
「勿論そうではありません。」と、彼は言った。
「もしそれが本当じゃないとしたら?」と、彼女は聞いた。
「もしあなたがニュースを知って、奥さんに話して、あとでそれが本当じゃなかったと分かったら?」
「そんなことは起こりません。」
「なぜ起こらないの?」
「私は携帯を持ってかなりの時間私道の端で立って、絶対正しいと確認できるまで待ちました。
あなたはこれを信じるのは難しいかもしれないけど、私はご主人が死んでいないのに死んだということを言いたくはありません。」
 「ごめんなさい。」
「私はそのことが禁止されていると思っていました。」
彼女は笑った。
「こんな質問をしていいかしら?」と、彼女は聞いた。
「私は何故あなたがそんな質問をするのかは気になるけど、かまいませんよ。」
「じゃあ、このことを質問させてください。
: あなたは私が何を報道に話すのを恐れていますか?」

 彼はネクタイを緩め、シャツの一番上のボタンを開けた。
「パイロットの奥さんは当然大変取り乱します。
もし彼女が何か言い、報道がそこにいてそれを聞いていれば、それは記録として残ります。
例えば、新しい未亡人が、彼女の夫が最近整備士のことについて不満を言っていたというかもしれません。
それとも、彼女はうっかり、こんなことが起こることは分かっていました、というかもしれません。
彼が航空会社はクルーの訓練を手を抜いていると言っていました、などと。」
「ええ、それがもし本当なら、言ってもいいんじゃありませんか?」

 「人は取り乱しているとき、後で言わないようなことを言うものです。
本心からではないこともあります。
でも、それが記録に残れば、もう後には引けなくなるんです。」

 「あなたはおいくつなの?」と、彼女が聞いた。
「38歳です。」
「ジャックは49歳でした。」
「知ってますよ。」
「あなたは墜落を待っている間何をしているんですか?」
「私はそんな言い方をされたくはありませんが、」と椅子に座りなおしながら彼が言った。
「私は墜落を待っているわけではありません。
私には別の仕事があります。」
「例えばどんな?」
「私は衝突の調査を大変厳重に研究しています。
たくさんのパイロットの家族の追跡調査をやっています。
この家は築何年ですか?」
「あなたは話題を変えようとしているわ。」
「そうじゃありません。」
「1860年代に建てられました。最初は女子修道院として。 一種の避難所です。」
「美しいです。」
「ありがとうございます。作業が必要です、いつも作業が必要です。
私たちが修理しないとすぐ壊れてしまいます。」

 彼女は「私たち」と、聞こえた。
絶えず変わり続ける、光線によって、季節によって、海の色によって、空気の温度によって、変わり続ける、この家を愛さないということはないだろう。
その風変わりな所でさえキャサリンは真価を認め始めていた。
:寝室の傾斜した床
;尼僧の好みでデザインされた簡素な収納家具。
;苦労して毎春に取り外し、毎秋取り付けなければならなかった、古風な防風窓の付いた窓。
(ジャックは、それらは雪の結晶の様にまったく同じ暴風窓はなく、それらにラベルを取り付けることを学ぶまで、その仕事は梯子の上に立って行うジグソーパズルのピース合わせをするの様なものだと発見した。)
しかし、掃除すると単にそれ自体で美しく愛らしい物体だった。
実際、手元に雑用があったりすると、それらの窓を視界から引き離すのは時として一つの苦労だった。
キャサリンはしばしば、長い居間に座っていそこで空想に身を任せるのだった。
彼女はこんな家で、こんな地理の場所で、世界から隠遁して、孤独で瞑想的な生活をすることが、この家の初期の住民の職業とは異なり、どれほど簡単なことであるかについて特に空想するのだった。
:聖ジャン・ド・バプティスト・ド・ビエンファイサンス騎士団のシスターたち、19歳から82歳までの20人の修道女が、イエスと貧しさと結婚した。
彼女は居間にいるときはしばしば、長椅子の付いた長い食堂のテーブルが、シスターたちが食事中海を見ることができるように片側に寄せて置いてあるのを想像するのだった。
尼僧たちは貧困の誓いを立てていたが、息を呑むような美しさの風景の中に住んでいたのだ。

 何年間もキャサリンはシスターたちが彼女たちの礼拝をした場所を探そうとした。
彼女は芝地や隣接した果樹園を探したが、土台を見つけることはできなかった。
礼拝所は家の中で彼らがいつも食堂として使っていた部屋の中にあったのかしら、と彼女は思った。
シスターたちは出てゆく前に聖母マリアと十字架の付いた粗末な祭壇を取り壊したのだろうか?
それとも、フランス系カナダ人の移民と一緒にセントジョセフ教会での礼拝に出席できるように、フォーチュンズロックスと工場の町エリーフォールズの間の広大な塩性湿地を旅したのだろうか?

 「あなたはここに11年住んでいるんですか?」と、ロバートが聞いた。
「はい。」

 電話が鳴り、二人が同時に驚いた。
おそらく最後に電話が鳴って20分、30分経っていただろう。
それは朝の最初の呼び出し以来最も長い間隔があいていた。
彼女はロバートがそれに応えるのを見ていた。

 彼女とジャックがイーリー地区に引っ越してきたとき、たった23歳だった。
キャサリンは街の人々からの恨まれるのじゃないかと心配していた。
彼女は水辺に家とヴィジョン航空のパイロットの夫を持つことになったのだ。
彼女は、もはやイーリーに住んでいないが、むしろフォーチュンズロックスに住んでいた。
フォーチュンズロックスは彼女の祖母の店のお得意様で奇妙な魅力のある小さな町を見下すような好奇心を持っている人々が夏の間だけ一時的に住んでいる、つかの間の世界だ。
基本的には匿名のままだった。
見た目は無尽蔵に現金があるように見える、つやつやと日焼けした体たち。
しかし、フォーチュンズロックスで唯一の食料品店「インガーブレッツォン」を所有するマーサは、ウォッカやロブスターやポテトスティックやマーシャのホームメイドチョコレートのコンフェッティカップケーキなどの多額の料金を請求されたカーキ色の短パンを履いて白いシャツを着た男たちが、そのあと破産手続きで消えてしまい、40万ドルのビーチハウスの前の砂に立った「売家」の標識だけが残っているという、少なからぬ危ない話を話すことができた。

 しかし、ジュリア・ハルに対する地元の善意は篤く、それはジャックとキャサリンにも波及していた。
彼女はジャックとキャサリンがイーリーでの生活に溶け込むことを考えてくれ、マティーが学校へ行けるよう世話を焼いてくれた。
ジャックの仕事は彼を町から遠ざけたが、それでも彼はタウンリーグで中学校の副校長のヒュー・レニーや村外れでガソリンスタンドをやっているアーサー・カーラーとテニスをやっていた。
驚いたことに、あまりに簡単にマティーを妊娠したことを考えると、ジャックとキャサリンはもう次の子供はできないだろうと考えていた。
ジャックとキャサリンは、マティと一緒にいるだけで十分幸せなのだと、自分たちに言い聞かせていた。

 キャサリンはロバートが電話をかけているのを見ていた。
彼は一度素早く振り向いて彼女の方を向いて、また振り返った。
「ノーコメントです、」と、彼は言った。
「そうは思いません。」
「ノーコメントです。」
「ノーコメントです。」
彼は電話を置いて、電話の上の戸棚を見つめて立っていた。
彼はカウンターからペンをとり出し、前後に回転させ始めた。
「何ですか?」と彼女は聞いた。
彼は振り返った。
「そうですね、こんなことが起こるだろうと分かっていました、」と彼が言った。
「何が?」
「これは最大24時間の賞味期限を持つことになるだろう。
そしてそのあと歴史になるだろう。」
「何が?」
彼は彼女をにらみ深く息をした。
「彼らはパイロットミスだと言っているんです。」と、彼は言った。
彼女は目をつぶった。
「それは単に推測にすぎません、」と彼は急いで言った。
「彼らは理解できない飛行記録を見つけたと思っています。
しかし、私を信じてください、彼らはきっと確信は持てなかったのです。」
「ああ。」
「それに、」と彼は静かに言った。
「彼らは数人の遺体も見つけました。」
彼女は、ゆっくり呼吸をし続ければ、自分は大丈夫だろうと考えた。
「遺体の身元は分かっていません、」と彼は言った。
「何人ですか?」
「8人です。」
彼女は想像しようとした。
8人の遺体。
丸ごと? バラバラ?
彼女は聞きたかったが聞かなかった。

「もっと発見されるでしょう、」と、彼は言った。
「彼らはもっと発見するでしょう。」
英国人、それともアメリカ人かしら、男性? 女性?
「電話は、誰からだったのですか?」
「ロイターからです。」

 彼女はテーブルから立ち上がって廊下を通って洗面所に歩いて行った。
一瞬、彼女は気分が悪くなるのではと心配になった。
それを受け入れられないこと、咳をしてそれを吐き出したいという気持ち、それは反射的な反応だと思った。
彼女は顔に水をバシャバシャかけてその後タオルで拭いた。
鏡を見ても、自分の顔がほとんど確認できないほどだった。

彼女が食堂に戻った時、ロバートはまた電話をしていた。
彼は片方の腕を胸に交差させてもう一つの手をその腕を下に入れていた。
彼は静かに、イエスやOKと答えてしゃべっていて、彼女が部屋に入ってきたのを見ていた。
「後で、」と言って電話を置いた。

 長い沈黙があった。
「どれくらいの割合でパイロットミスが起きるんですか?」と彼女が聞いた。
「70%です。」
「何のエラー? 何が起きるんですか?」
「それは最後の出来事につながる一連の出来事であり、その時点でパイロットが深く関与しているため、最後のイベントは通常パイロットエラーと呼ばれます。」
「わかりました。」
「聞いていいですか?」
「はい。」
「ジャックは・・・」と、彼は言いよどんだ。
「ジャックがどうだというんですか?」と、彼女が聞いた。
「ジャックは興奮したり落ち込んだりしていましたか?」
ロバートは言葉を切った。
「最近は、ということですか?」と、彼女が聞いた。
「ひどい質問なのは分かっています、」と、彼は言った。
「しかし、遅かれ早かれ答えなければならない質問です。
もし何か知っていたり思い出すことがあったら、まずあなたと私でそのことを話しておいた方がいいでしょう。」

 彼女はその質問について考えた。
奇妙なことに、人が恋をしている時に、愛にどっぷりとつかり、どれほど強烈にある人を知っていようと、思っていようと、後から想像したほどにはその人物の事を知らなかったということを発見するものだ。
それか、それは望んでいたほどよく知られていなかった。
最初に、恋人は全ての言葉とジェスチャーを飲み込んでしまって、その後でもできるだけその強烈さを維持しようとした。
しかしもし二人が十分長く一緒にいれば、その強烈さはしぼんでしまうことは避けられない。
それが人の営みである、愛に病んでいる状態から、いつか子供を産むことができるように、彼自身も変化していくような相手と人生を共にする必要があるのだと、キャサリンは考えていた。

そうしない恋人たちもいる、ということは彼女は自分の両親の例からわかっていた。
キャサリンは両親の間に欲求と緊張がなかった時期があったことを思い出せません。
いつも不誠実で確かにキャサリンの母が傷つく原因を与えていたのは彼女の父親だったが、早い時期に彼女の両親が持っていた小さな幸せのチャンスを壊したのは彼女の母自身だったとキャサリンは確信していた。
というのは、彼女が22歳でボビー・ハルに会って、彼が彼女と恋に落ちて、彼女を生き生きとさせた時を、完全に忘れることができなかったのは、彼女の母の運命だったのでした。
キャサリンの両親が結婚し、彼女を身ごもった、一年間にわたり、ボビー・ハルは彼の新しい妻から目を離さず、彼女のそばから離れなかったので、キャサリンの母は人生で初めて、二人が深く愛し合い非常に美しく、そのことはボビー・ハルが二人があったときに教えてくれたバーボンよりもさらに中毒性のあるドラッグであるということがわかった。
キャサリンが彼女の母が最も幸せだったと疑わなかったその年、キャサリンは子供としてそのことを彼女の両親が喧嘩するたびごとに聞いていたので、持つべき以上の事を知っていた。
時間がたつほどにその一年間はほとんど神聖なものになるぐらい重要性を帯びたのだった。
そしてキャサリンの父は優しくなり実際、彼の妻を喜ばせようと努力した時でさえその一年感を再現することはできなかった。
キャサリンは、彼女の母の悲劇はボビー・ハルが彼女への注意をだんだん失ったことだと思っていた。
それは充分自然に始まり、ある意味深く愛し合う二人が結果的に生活を続け、仕事に行き、子供の世話をし、彼女の母がその撤退を感じてそれに「一つの在り方」と名前を付けたものになったのだった。
キャサリンは母が二階の寝室から苦悶に満ちた声で何度も何度も「なぜ?」と呼ぶのを聞くことができた。
時には、キャサリンはそれを思い出すと嫌な気分になるのだが、彼女の母はボビー・ハルに彼女はきれいだよって言ってくれるように頼んだ。
そのために自動的にキャサリンの父は頑固になり、妻をとても愛していて、彼女が頼まなければそう言ったかもしれないのに、愛をケチってしまうのだ。

 彼女自身の結婚については、キャサリンはバランスについて考えていた。
そのバランスというのは、恋人であることから一つの夫婦になるという移り替わりをすることの方がジャックにとってより難しいということだった。
それは彼女とジャックには、他の夫婦と比べて彼女が思ったより遅くやってきたので、運がよかった。
マティーが11歳の頃だったかしら、12歳?。
ジャックが今までより少しだけキャサリンから距離を置いたように思えた。
彼女は、正確には、何も指摘したり、はっきり表現したりすることはできなかった。
どんな結婚ででも、夫婦は自分たちの性的なドラマを作り上げ、寝室で、公共の場で、静かに、電話においてさえ、同じようなセリフで繰り返されるドラマを、同じような演出で、想像の小道具としての体の部位で、何度も繰り返されるのだと彼女はいつも考えていた。
しかしもしパートナーの一方が彼の役割を少し変えたり、セリフの一部を取り除いたりしようとすれば、その劇は以前のようにうまくいかなくなる。
もう一人の演者は、その劇が変わってしまったのに気が付かず、時には彼のセリフを失くしたり、それを飲み込んでしまったり、異なる振付に混乱したりすることになった。

 そして、それがジャックと彼女の状態だと思っていた。
彼は今までの様にベッドで彼女の方を向かなくなり始めていた。
そして、かれがそうなった時は、縁が切れてしまったかのように思えた。
彼女とジャックが2週間愛し合っていないことが起きる日まで、それはほんの徐々に、ほとんど感知できないほどに進行した。
その時彼女は、彼を悩ませていた寝不足のせいだと考えていた。
彼のスケジュールは困難で、彼はいつも疲れているようだった。
しかし、ひょっとしたらこの新しいパターンが彼女のせいで、彼女があまりにも受け身の態度だからではないかと心配に思うこともあった。
そして、彼女は時々、より創造的で遊び心のあるものになろうと努めたが、その努力は全くの失敗に終わった。

 キャサリンは文句は言うまいと誓っていた。
彼女はパニックにはならなかった。
彼女はそのことを議論しようとさえしなかった。
しかしそんな何もしないことの代償にキャサリンはすぐに気が付いた。
それは彼女の周りに微妙なガーゼ、彼女とジャックとのほんの手の届く範囲内にヴェールを作り出すことだった。
そしてしばらくすると、そのガーゼが彼女を不安にさせるのだった。

その後、喧嘩があった。
彼らの結婚の中でたった一回の本当に恐ろしい喧嘩。

 しかし彼女は今はそのことについて考えようとなかった。

「何もありませんでした、」と、彼女はロバートに言った。
「ベッドに行こうと思います。」

 ロバートはその考えに同意して頷いた。
「それは良い結婚でした。」と、キャサリンは言った。
彼女はテーブルを掌でなぞった。
「それは良い・・・」と、彼女は繰り返した。
しかし、実際は彼女は、結婚というのはどんなものでもラジオの受信の様なものだと考えていた。
:聞こえたり聞こえなかったりする。
時には、結婚は、ジャックは、彼女に良く聞こえるだろう。
別の時には、干渉が生じて、間に雑音があるだろう。
そんな時には、まるで彼女には、彼のメッセージは成層圏を超えて間違った方向へ漂っていくようにジャックの言うことが全然聞こえなかった。

 「彼の家族の別の人々にも知らせる必要がありますか?」と、ロバートが聞いた。
キャサリンは首を振った。

 「彼は一人っ子でした。
彼の母は彼が9歳の時亡くなり、彼の父は彼が大学の時に亡くなりました。」と、彼女は言った。

 彼女は、ロバート・ハートはすでに知っているかしらと思った。

 「ジャックは自分の子供時代については決してしゃべりませんでした。」と、彼女は言った。
「実のところ、私は彼の子供時代について全然知らないんです。
それがそんなに幸せなものなものじゃなかったという印象はあります。」
ジャックの子供時代は、キャサリンがいつも彼と話す必要があると思っていた話題の一つだった。

「まじめな話、ここにいたいところですが・・・」と、ロバートは言った。
「いいえ、あなたは行くべきです。
もし誰かが必要なら、私にはジュリアがいます。
あなたの元奥さんは何の仕事をしていらっしゃるの?」
「彼女はバージニアの上院議員のハンソンのために働いています。」
「あなたが私にジャックの事を聞いたとき、ジャックが落ち込んでたかって、」とキャサリンは言った。
「はい。」
「そうですね、彼は落ち込んではいなかったが、正確に言うと全く不幸だったと言えるだろう時が一度ありましたが、」
「それについて話してください、」と、ロバートが言った。

 「それは彼の仕事についてでした、」と彼女は言った。
「それは5年ほど前でした。
彼は航空会社に飽きたんです。
ほとんど短期間ですが、ひどくうんざりしていました。
彼はやめることを夢想し始め、やめて他の仕事、曲技飛行をしようと、彼は言っていました。
ロシア製のYAK27で・・・私は覚えています。
それか彼自身の会社を興すとか。
わかるでしょう、飛行学校、チャータービジネス、飛行機を数機販売するとか。」

 「私もそのことを考えたものです、」と、ロバートは言った。
「パイロットは誰でも一度や二度考えるんだと思いますよ。」

 「会社はあまりに早く成長しすぎているとジャックは言っていました。
会社はあまりにも人間味のないものになってしまっていて、彼は一緒に飛ぶクルーをほとんど知らないと言っていました。
たくさんのパイロットが英国人でロンドンに住んでいました。
また、彼は彼が以前に知っていた手動式の飛行を恋しがっていました。
彼はもう一度飛行機を感じたがっていました。
しばらくの間、私たちは変な格好のスタント用の飛行機のパンフレットを郵送で受け取っていましたし、彼はある朝私にボルダーへ一緒に行ってくれとさえ頼みました、ボルダーには自分の飛行学校を売ろうとしている女性がいたのです。
そこで私はもちろん、いいわよ、って言いました、だってそのことは以前彼が私のためにやってくれたことなんですもの。
そして私は、彼がどんなに不幸であるのか心配し、彼が、多分、本当に変化を必要としていたか、考えていたのを覚えています。
でも、結局その話題が画面から消えたときは、ほっとしました。
その後、会社を辞めるという話はありませんでした。」

「それは5年前の事ですか?」

「ほぼそれくらいでした。
私は時間を覚えていることは苦手なんです。
ボストン―ヒースロー路線を手に入れたことが役に立ったことは知っています、」と、彼女は言った。
「私は単に危機が去ったことがうれしかったので、あえてその話題について聞くようにそれをを取り上げることをしなかったんだと思います。
今思えばそうしておけばよかったのですが。」

「その後は彼はもう落ち込んでいないように見えましたか?」と、ロバートは聞いた。
「はい、全然。」

 彼女はジャックが彼の内部でどんなふうに適応したのかを確信をもって言うことはできないと思っていた。
彼は、彼が子供の頃に置いたのと同じ場所、封印された貯蔵場所に自分の不満を置いたように思えた。

「疲れているように見えますよ」と、彼女はロバートに言った。
「そうです。」
「もう行った方がいいですね、」と、彼女は言った。

 彼は黙っていた。
彼は動かなかった。

 「彼女はどんな容貌ですか?」と、彼女は聞いた。
「あなたの奥さん、元奥さんの事です。」
「あなたと同い年です。背が高くて、黒い短髪です。とてもきれいです。」

 「私は彼が死なないと信じていました、」と、キャサリンは言った。
「私は騙されているような気がします。
ひどいと思いますか?
結局、彼が死んで私は死んでいない。
彼は苦しんだかもしれない。
ほんの数秒かもしれないけど彼は苦しんだと私にはわかります。」

「あなたは今苦しんでいる。」
「それは同じではありません。」
「あなた方は騙されたんです、」と、彼は言った。
「あなたもあなたの娘さんも。」
娘と聞いて、キャサリンの喉は締めつけられた。
彼女は両手を顔の前に出し、これ以上何も言わないでと言わんばかりにした。

 「あなたは自分でそのことを受け入れなければなりません、」と、彼は静かに言った。
「そのこと自体に勢いがあります。」

 「そのことはまるで私の上を列車が通っているようです、」と、彼女は言った。
「列車は止まりません。」

 「助けてあげたいけど、ただ見ている以外私にできることはありません、」と、ロバートは言った。
「悲しみは厄介なものです。その事に良いことは何もありません。」

 彼女は頭をテーブルに置き、目を閉じた。

「お葬式をしなければいけないでしょ?」と、彼女が聞いた。

 「それは明日考えてもいいです。」

「でも、もし遺体がなかったら?」

 「何宗ですか?」と、彼は聞いた。

「私は無宗教です。
もとはメソジストでした。
ジュリアはメソジストです。」
「ジャックは何宗でしたか?」

 「カトリックでした。
でも、彼も無宗教でした。
私たちは教会に所属していませんでした。
私たちは教会で結婚しませんでした。」

 彼女はロバートの指が彼女の髪に触れるのを感じた。
軽く、急いで。

 「もう行かなければ、」と、彼は言った。

ロバートがいなくなって、キャサリンはしばらく座って、それから立ち上がり、家の一階の部屋を通り、電気を消した。
彼女はパイロット・エラーとは正確にはどういう意味なんだろうと思った。
右折すべき時に左折したとか?
燃料を計算違いしたとか?
指示に従わなかった?
誤ってスイッチを入れてしまったのか?
ほかのどんな仕事で、ミスをして103人もの他人を殺すことができるだろうか?
鉄道員? バスの運転手? 化学物質や核廃棄物を扱う人?

 パイロット・エラーであるはずはないわ、と彼女は自分に言い聞かせた。
マティーのためにもそんなことはあり得ない。

 彼女は階段の最上段で長い間立ち尽くし、その後廊下を降りて行った。

 寝室は冷たかった。
ドアは終日しまっていた。
彼女は暗さに目を慣らそうとした。
ベッドは朝3時24分に出て行った時のまま片付いていなかった。

 彼女はベッドを回って、動物がするように、警戒するように、物思いにふけるように、それを見た。
彼女は掛布団とトップシーツ(掛布団の下に敷くシーツ)を引っ張って、月明かりの中でフィッティッドシーツ(マットレスをくるんでいるシーツ)をじっと見た。
それは冬用のクリーム色のネル地だった。
ジャックと彼女は、何度このベッドの上で愛し合った事だろう?と、彼女は思った。
16年間の結婚生活で。
彼女は、シーツを指で触ってみた。
それは擦り切れて、滑らかな感触がした。柔らかい。
彼女はためらいがちにベッドの隅に座り、それに耐えられるかどうか確かめた。
彼女はもはや自分自身が信じられなかった、もはや彼女の体が何らかのニュースにどう反応するのか確信が持てなかった。
しかしそこに座っている間、何も感じなくなった。
多分、長い一日の間に、彼女はついに無感覚になってしまったのだと、彼女は考えた。
感覚がマヒしてしまったのかもしれない。

 「パイロット・エラー」、彼女は自分で確かめるように声に出して言った。

 しかしそれはパイロット・エラーではありえなかった、と彼女は急いで思った。
結局、操縦ミスではないのだ。

 彼女は完全に服を着てベッドに横になった。
これは今や彼女のベッドなのだ、と考えていた。
彼女だけのベッド。
彼女だけのための部屋。

 彼女はベッドサイドの時計をちらっと見た・・・9時27分。

 慎重に、自分自身の急激な変化を監視しながら、彼女は手を伸ばしトップシーツを引き上げた。
彼女はネル布の中にジャックをかぐことができると想像した。
できるはず、彼女は彼が出て行った火曜日以来シーツを洗っていなかったから。
しかし彼女は自分の感覚を信用できなかった、何が現実で何が想像なのかわからなかった。
彼女は椅子に放り投げてあるジャックのシャツに目を通した。
キャサリンは結婚の早い段階で、ジャックが旅行から家に帰る直前まで家を片付けることを気にしないという習慣を身につけていた。
今、彼女は自分がそのシャツを椅子から取り外したくないと思っていると自分でもわかっていた。
彼女がそれに触ったり、顔に当てたり、その服の布の匂いを嗅いだりできるようになるには数日かかるかもしれなかった。
そしてジャックの跡形がすべてきれいになって片付けられたとき、その時彼女に何が残るのだろう?

 彼女は横向きになり、月明かりの中で部屋を眺めた。
窓の小さな隙間から、水が動く音が聞こえた。

 彼女は水の中で海の底の砂にぶつかっているジャックの鮮やかな映像を持っていた。

彼女はそのフランネル布を口と鼻のところに持ち上げゆっくりと呼吸をした。
そうすれば、そのパニックを止める手立てになるかも知れないと考えて。
彼女はマティーの部屋の入り込んでマティーとジュリアの横の床に寝ようかとも考えた。
彼女は自分がこの最初の夜を一人で結婚している時のベッドで過ごすことができるなんて本気で想像していたのだろうか?

 彼女は急いでベッドから起き上がり、洗面所に歩いて行った。
そこにはロバートがバリアムのビンを置いていっていた。
彼女は一錠飲んで、念のためもう一錠飲んだ。
三錠目を飲もうかと考えた。
彼女は意識がぼんやりし始めるまでバスタブの端に座っていた。

 彼女は、多分自分は予備の部屋の寝台兼用の長いすに寝ることになるだろうと考えた。
しかし彼女がジャックの事務室を通り過ぎたとき、明かりがついているのが見えた。
彼女はドアを開けた。

 事務室は明るすぎて色がなかった、白く、金属的で、プラスティックの様に白々しくて灰色だった。
部屋は彼女がめったに入らない、窓にはカーテンのない、金属のファイルが壁に並んでいる興味をひかない空間だった。
男性的な部屋。

 彼女はそれは、ジャックだけが分かっている、それ自体の秩序があると想像していた。
巨大な金属製の机の上には、コンピューターが2台、キーボード、ファックス、電話が2台、スキャナー、コーヒーカップ、埃まみれの飛行機の模型、赤いジュースが入ったマグカップ(それはマティーのだろうと想像した)、マティーがジャックのために小学2年生の時に作った青い粘土の鉛筆立てがあった。

 彼女はライトが点滅しているファックスを見た。

 彼女は机のところに歩いて行って座った。
ロバートが前にここにいて電話とファックスを使っていたのだ。
キャサリンは左側の引き出しを開けた。
中にはジャックの日誌が何個もあった、ビニールで綴じられた大きくて黒いのと、シャツのポケットに入る小さなものだ。
彼女は、小さな懐中電灯、彼が数年前にアフリカから持ち帰ってきたペーパーナイフ、彼がもう乗らなくなった種類の飛行機の手引書ハンドブック、気象レーダーの本を見た。
ウインドシェアーの訓練用ビデオ。サンタフェの肩章。飛行計器のように見えるコースター。

 彼女はその引き出しを閉めて、中央の長い引き出しを開けた。
彼女はサンタフェのアパートで使っていたカギだと思われる鍵束に手を触れた。
彼女はジャックがキャラバン(ダッジ社の車)で踏みつけて壊してしまった、古い鼈甲の老眼鏡を手に取った。
彼は、それはまだ使えると言い張っていた。
紙挟み、ペン、鉛筆、ゴムバンド、画鋲、電池2個、点火プラグの入った箱があった。
彼女はポストイットの束を持ち上げて、その下にあるマリオットホテルの裁縫キットを見た。
彼女はそれを見て、笑い、キスした。

 彼女は右側の大きなファイル用の引き出しを開けた。
それはリーガルサイズ(A4より少し大きい)のファイル用だったが、その中には30cmほどの高さに紙の束が入っていた。
彼女は紙束をとり出して膝の上に置いた。
それはバラバラで彼女に理解できない順序で重なっていた。
マティーからのお誕生カード、会社からのメモ、地域の電話帳、健康保険の書類、マティーが学校に提出するために書いた論文の下書き、飛行機のカタログ、一年前にキャサリンが手作りしたバレンタインカードがあった。
彼女はカードの表を見た。
バレンタイン 私はあなたが私の心のためにしてくれることが大好きです... . と、カードの表には書いてあった。
彼女はカードを開いた。
・・・そしてあなたが私の体のためにしてくれることが。
彼女は目をつぶった。

 しばらく、彼女はすでに目を通した書類を自分の胸において、残りの書類に目を通しつづけた。
彼女はジャックの銀行の取引明細書がまとめてクリップされている束を見つけた。
彼女とジャックは別々の口座を持っていた。
彼女はマティーと彼女自身の服と食べ物、その他の家庭用品の代金を払っていて、そのほかの全部をジャックが払っていた。
ジャックは、彼がためたお金は全部老後のためのに使うつもりだと言っていた。

 彼女は目を開けているのがつらくなり始めていた。
彼女は残った紙を膝の上で揃えて引き出しにしまおうとした。
引き出しの中でごみメール、ビザカード申し込みのお誘いの未開封の封筒の張り合わせ部分がちょっと引っ掛かっていた。
ベイバンク、9.9%。
これは古い、と彼女は思った。

 彼女はその封筒をつまみ上げて裏に書いてあるのを見たとき、ごみ箱に捨てようとしていた。
ジャックが書いたものだ。
もう一つの覚え書きだ。
:イーリーフォールズ薬局に電話、アレックスに電話、銀行預金、3月の出費、ラリー・ジョンソンに税金について電話、フィンにキャラバンについて電話。
フィンはイーリーフォールズのダッジ・プリマスのディーラーだと思い出した。
彼らは4年前にキャラバンを買って以来、彼女が知っている限り、トミー・フィンとは取引をしていない。

 彼女は封筒をひっくり返した。
封筒の反対側の空白はメモ書きだった、これもジャックの筆跡だ。
ムイレ3:30、読んだ。

 ムイレって誰?
キャサリンは訝しんだ。
銀行のランダル・ミュア?
ジャックは融資の交渉をしていたのだろうか?

 キャサリンはもう一度封筒の表を見た。
彼女は消印を調べた。
絶対、4年前だ、彼女は見た。

彼女は書類の束を引き出しに戻すと、足で引き出しを閉じた。

 彼女はもう横になりたかった。
ジャックの事務室を出て彼女の避難所である予備の部屋に歩いて入った。
彼女は花柄の長いすに横になり数分で眠りについた。

 彼女は、ほとんど狂乱に近い叫び声と、その声を静めるかのようなより静かな声に、起こされた、

 キャサリンが起きてドアを開けると声は大きくなった。
マティーとジュリアが階下の前室にいる声が聞こえた。

 キャサリンがそこに着いたとき、彼女たちは床に膝をついていた。
ジュリアはフランネルのナイトガウン、マティーはTシャツとボクサーパンツを着ていた。
彼らの周りには包装紙が散らばっていた。
ボールや赤や金色、格子縞、銀色の数千メートルとも思える色の付いたリボンでまとめられたしわくちゃのまとまり。

 ジュリアが入り口から顔を上げた。

 「マティーが目を覚まして下に降りてきたの、」と、ジュリアが説明した。
「彼女は自分のプレゼントを包装しようとしていたの。」

 マティーは床に胎児のように丸まった状態でカーペットに横になっていた。

 キャサリンは彼女の娘の隣に横になった。

 「私には我慢がならないの、ママ、」と、マティーが言った。
「私が見るとこにはどこにでも彼がいるの。
どの部屋にも彼がいる、全ての椅子に、窓に、壁紙に。
本当に耐えられないの、ママ。」

 「あなたは彼へのプレゼントを包装しようとしていたの?」とキャサリンは娘の髪をなでながら聞いた。

マティーは頷いて泣き始めた。

「彼女を私のところに連れて行くわ、」と、ジュリアが言った。
「今何時?」

 「夜中の12時ちょっとすぎよ。彼女を家に連れて帰って寝かしつけるつもりよ、」と、ジュリアが言った。

「私も行くわ、」と、キャサリンが言った。

 「いいえ、」とジュリアは言った。
「あなたは疲れている。
あなたはここに留まって眠りなさい。
マティーは私と一緒にいれば大丈夫だから。
彼女には気分転換が必要なのよ、中立の場所、中立の寝室が。」

 そしてキャサリンはその考えがとても適切だと思った。
というのは、彼女は彼らが戦争に巻き込まれ、彼ら全員が戦死者になる危険にさらされているているという明確な感覚を持っていたからだ。

 マティーがお泊り用のバッグをまとめている間、キャサリンは彼女の娘の横に寝て彼女の背中をさすった。
時々マティーは痙攣して震えた。
キャサリンはマティーが赤ん坊だった時に作った歌を歌った。
:エムはマティガンのエム・・・・、と、歌は始まった。

 ジュリアとマティーが去って、キャサリンは自分の寝室に上がっていった。
今度は、勇気を出して、フランネルのシーツの間に潜り込んだ。

 彼女は夢を見なかった。
その朝、彼女は犬が鳴いているのを聞いた。
その犬の鳴き声には何か違和感を覚えた。

 その後、彼女は自分を抱きしめて、信号待ちでふとバックミラーを見上げると、後続車のスピードが速すぎることに気づいたときのように、彼女は身構えた。

 ロバートの髪は新しく梳かされ濡れていた。
彼女は彼の富士額の近くに櫛の後を見ることができた。
彼は違うシャツ、ほとんどデニムでできた青いシャツを着て、赤いネクタイをしていた。
2日目のシャツだ、と彼女はぼんやりと思った。

 カウンターの上にコーヒーカップがあった。
彼は両手をズボンのポケットに突っ込んで歩き回っていた。

 彼女は掛け時計を見上げた。
:6時40分。
彼はなぜそんなに早くここにいるの、と彼女は訝った。

 彼は階段の下の彼女を見て、ポケットから手を出して彼女の方に歩いてきた。

 彼は彼女の両肩に手を置いた。

 「何ですか?」と、彼女は警戒して言った。

 「CVRとは何か知っていますか?」と彼は聞いた。
「はい、コックピットボイスレコーダーですよね。」と、彼女は言った。
「そう、彼らはそれを見つけたんです。」

 「で?」
彼は躊躇した。
一拍おいて、
「彼らは自殺だったと言っています、」と、彼は言った。

彼は彼女に自分の腕を回して飛行機に向かって歩いている。
飛行機はあまりに小さく、子供が乗り降りしたりするおもちゃにしか見えない。
舗装から焼けつくように熱い熱が放射している。
変な機械、ブリーフィングルーム、タワー、これは男の世界だ、と思う。
彼女の周りには、太陽の輝きの中に輝く、鈍く光る金属がある。

 彼は配慮が行き届いてはいるが、きびきびした足取りで歩く。
飛行機は赤と白の模様の可愛いものだ。
彼女は翼の上に上がるとき彼の手を取って、小さな空間を通りコックピットに潜り込んだ。
コックピットの狭さには驚かされる。
どうして飛行という重要なことがこんな魅力のない空間で起こるのだろうか?
飛行はキャサリンにとってありそうもないものに思われていたが、今やはっきりと不可能だと思え、自分に向かって、ひどい運転手やカーニバルでの車に乗った時の様に、「これはすぐに終わる、自分のやるべきことは生き延びることだけだ」と言い聞かせている。

 ジャックは横向きに体を持ち上げる。
彼は玉虫色の青いレンズのサングラスをかけている。
彼はシートベルトを締めるように言い、ヘッドフォンを手渡す。
エンジンの騒音の中でも二人が容易に会話できるようにするためだと説明する。

 彼らは小さなくぼみに沿ってエプロンを揺れながら進む。
飛行機はゆらゆらガタガタしている。
彼女は止めてくれ、気持ちが変わった、と言いたい。
飛行機は速度を上げ、跳ねるのをやめ、飛び上がる。

彼女は胸がいっぱいになる。
ジャックが彼女の方を向き、彼の笑顔は自信とたのしさに満ちている。
「きっと楽しいから、リラックスして」と言う笑顔だ。

 彼女の前には広大な青がある。
大地はどうなったのだろう。
彼女は飛行機がとんでもない高さに到達し、ちょっとだけ傾き、それから自然が飛行機にそうするように要求した通り、降下しているというイメージを持つ。
彼女の横でジャックが窓の方を身振りで指し示す。

 ― 見てごらん、と、彼が言う。

彼らは海岸線を超えていて、打ち寄せる波が止まって見えるほどの高さに上昇している。
海はさざ波を立てて濃い海に後退している。
海岸線の少し内陸には黒いもみの木の林が見え、ずっともみの木が続いているように見える。
彼女はボートとその波紋、海岸沿いの発電所に目をやる。
暗いしみの様なポートマス。
輝く岩はショールズ諸島だ。
彼女はエリーを探し、それを見つけようと思い、町からジュリアの家への道を辿る。

 彼は旋回のために機体を横に傾け、身を守ろうと両手を前に出す。
彼女は彼に、気を付けて、と言おうとしたが、すぐそれは無駄だと気が付いた。
勿論彼は気を付けているんだから、そうでしょ?

 彼はそれに応えるかのように、急角度で飛行機を上昇させる。
あまりの急角度だったので、彼女は彼がまさにその物理の法則を試しているに違いないとさえ思った。
彼女は彼らが空から落ちるのだろうと確信する。
彼女は彼の名前を叫ぶが、彼は計器に集中しており、返事はない。

 重力が彼女を座席の背持たせに押し付ける。
彼らは長い高いループを描いて上がっていき、その頂点で一瞬動きを失くし、上下逆さまで、一つの点が大西洋上の点になったようだ。
飛行機はその後もう一方のループの中に飛び込む。
彼女は叫び声をあげ手元にあるものをすべて掴む。
ジャックは一度彼女をちらっと見て、機体を地面にほぼ垂直に保つ。
彼女は操縦しているジャック、彼の静かな動き、集中した表情を凝視する。
彼女は一人の男が飛行機に重力、物理学、運命に関するトリックを仕掛けることができることにびっくりしている。

 その後、世界は静かになる。
飛行機は自分でも驚いたかの如く落ち始める。
石のようにではなく、むしろ木の葉のように、少しひらひらと、それから右のほうに降下する。
彼女は悲嘆にくれジャックを見る。
飛行機はその後、狂ったように回転し始め、その機種は大地の方を向いた。
彼女は背中を丸め、叫ぶことさえできない。

 彼が回転から機体を引き戻したとき、彼らは水面から30mもないところにいる。
彼女には、波頭が、少し攪拌された海の揺らめきが見える。
彼女は驚き、泣き始める。

 ― 大丈夫かい?
その涙を見て、彼は急いで聞く。
彼は彼女の腿に手を当てる。
彼は首を振る。
― こんな事やるんじゃなかった、と彼が言う。
― 悪かったね、楽しんでくれると思ったんだ。

 彼女は彼を見る。
彼女は彼の手を自分の手で覆い、深い震えるような息をする。

 ― スリル満点だったわ、と言い、実際その通りだった。

車の中はものすごく冷たかった。
キャサリンは手袋を忘れて急いで家を出たので、ハンドルを握っているのがやっとだった。
外はどれくらい寒いのかしら、と思った。
マイナス10℃? マイナス7℃? それくらい寒ければ大差ないわね、と思った。
彼女は、暖房が効き始めるまで、座席の後ろにも、何にもさらわないようにして、前屈みになり肩に力が入るのを感じた。

 ロバートの知らせで起こされて、彼はキャサリンにそれを絶対に信じないようにと強く言ったが、キャサリンはマティーと一緒にいたいと思っただけだった。
キャサリンは階段の下に立って、ロバートの顔を見て、娘に会いたいという気持ちが彼女を圧倒し、まるで水が瓶に流れ込むように素早く彼女を満たしてしまった。
まだ眠った時の服のままだったが、ロバートのそばを通り抜け、ほとんど同時にパーカーにそでを通し、ブーツをはき、裏口のカギを外した。
門に向かって走っている数人の男たちを追い越して、キャラバン(車)の中で、長いガタガタ道を、ほぼ1マイルの間、スピードを時速96km近くまで上げていた。
それから彼女はフォーチュンロックからエリーへの道の途中の砂の路肩で、ひどい曲がり方でスリップし、休むことにした。
彼女は自分の額を静かにハンドルに当てた。

 それは自殺ではありえないわ、と、キャサリンは思った。
自殺は絶対あり得ない。
想像できない。
考えられない。
問題外だわ。

 どれくらい長く彼女はそこにいたのだろうか、分からなかった、多分10分ぐらい。
それから彼女は再び走り出し、今度はもっとゆっくりと、奇妙な種類の落ち着きを伴って。
その落ち着きが彼女を襲っていた。
それは、多分骨の髄からの疲れ、それとも単に無感覚を装ったもの・・・
彼女はマティーのところに着くだろう、そしてジャックについて言われていることは本当の事ではないだろうと自分に言い聞かせた。

太陽が地平線を破り、雪の芝生をピンク色に変え、木々と車の青く長い影と交差していた。
時々、キャサリンは私道で車の所有者がフロントガラスの霜取りをし、シートに座れるように、エンジンをかけっぱなしにした車の下から排気ガスが立ちのぼているのを見る以外は、町は静かだった。
家々のひさしに沿って色とりどりのライトが並び窓の前にはたくさんのクリスマスツリーが見られた。
彼女は、見晴し窓に派手な色の電球で輪郭を描かれた青い石綿板で覆われた岬を通り抜けた。
ジャアックはここを車で通り過ぎるとき「自動車の部品の店」の様だと評したものだった。

 かつて評した。
評していたものだ。
もう二度と評することはないだろう。
彼女は、時間という包囲は本気で彼女を飲み込み始めたと思った。
しかし彼女は、自分がまだジャックの不在という考えに、ほんの少しずつでも、適応していないのではないかと思った。
そのほかの考えの最後に無作為にやってきた、彼の死という考え、彼の思い出やイメージ、は前日ほど激しく彼女を揺さぶることはなかった。
こんなにも小さなことでさえ、心はすぐに順応するのだと彼女は思った。
多分、何度かの衝撃の後には、まるで予防接種を受けたように、それぞれの衝撃がより少ない影響を及ぼすように、体がそれ自体順応するということなのだ。
それとも、おそらくこの一瞬に無感覚になる状態は一時的休止、停戦にすぎなかったのだ。
どうすれば彼女はそれが分かるのだろうか?
こんな事のリハーサルは今まで一切なかったのだから。

 彼女はエリーの中心部を運転していた。
今や店々の前に光が溢れ始め、地球はエリーの町を太陽に示すように東の方に動きを進めていた。
彼女は24号線の商店街で生き残った5-10セントの店、DIYとビークマンの店を通り過ぎた。。
しかしその店の棚はしばしば埃っぽく在庫も少なかった。
彼女はかつてエリー・フォール会社が営業していたころは、工場の最終生産物を売る、糸と織物の店の入っていた、今は空のビルを通り過ぎた。
彼女は町で飲み物とサンドイッチを買える唯一の場所、ロビンを通り過ぎた。
ロビンは開いていて、外に車が3台駐車していた。

彼女はダッシュボードの時計を見た。
7時5分。
10分で中学校の読書専門家のジャネット・ライリーとメットライフ生命保険の代理業者のジミー・ハーシュがそれぞれクリームチーズ付きのベーグルと卵サンドを食べながらそこにいるだろう。
人が、その街の人々の習慣で自分の時計をセットでき、一日中村人たちと彼らの絶対的な型にはまった行動によって自分の時計を確認できるというのは本当だとキャサリンは考えた。

 一応は、キャサリンは、ジュリアの家では混沌からの必要不可欠の保険になっている型にはまった行動を理解していた。
そして、もちろんジャックも型にはまった行動を理解していた。
特にある、演じるべき特別の環境が生じるたびに機械のようにふるまうことを求められる仕事をしているジャックだから。
しかし奇妙なことに、彼は飛行機から離れるや型にはまった行動にイラつきを覚えるのだった。
彼は可能性について考えそれを準備することが好きだった。
彼はいつも、二人の間で、「プリマスに昼食に行こうよ」とか、「マティーを学校から連れ出してスキーに行こうよ」と言いがちな方の側だった。

 キャサリンは町の中心部の端に位置する高校を通り過ぎた。
彼女は今やそこで7年間働いている。
彼女がエリーに帰ってきて彼女の学位を取った場所だ。
そこには大きな窓のある古いブロックづくりの建物で、建物はジュリアがその学校に通っていた時にすでに古い建物だった。
製粉所が繫栄していたジュリアの時代に比べ今は生徒の数は減っていた。

 数ブロックの間、小さな区画の中に黒いシャッターをつけた白い家々があり、多くの家は白いフェンスで区切られていて、ほとんどはケープコッド平屋やヴィクトリア様式、いくらかは初期のコロニアル様式の家でそれがエリーの魅力を引き立てていた。
しかしこの内側の輪を超えると、近所はまばらになりはじめ、短い森や塩性湿地の土地が家と家の間を分け、タフィーを引っ張るように細長くなり始め、3マイル先のその特殊な道の終点まで続くのだった。
終点には石の家があった。

彼女はいつものようにそこを曲がり丘を登って行った。
まだライトはついていなかった、彼女はマテイーとジュリアがまだベッドにいるのだろうと想像した。
彼女は車を降りて、少しの間静けさの中で立ち尽くした。
そこにはいつも、夜の静けさと今からやってくる日中の騒々しさの間の、朝の瞬間があった。
そしてその時間はキャサリンにとって時間が止まったように思えるのだ。
全ての世界が動きがなく期待して待っているのだ。
車の周りの大地は3日前から降ってまだ解けていない粉雪が積もっていた。
岩の上には薄いレースのように雪が凍り付いていた。

 ジュリアの家は丘の上に立っていた。
それは時には食料品などを運び込むときには大変だったが、気分が乗った時には西向きの素晴らしい景色を提供した。
家は19世紀の中ごろに建った古いものだった。
かつては一マイル離れた農場の離れ家だったこともあった。
家の一方は細い道で、もう片方は石の壁で仕切られていた。
石の壁の向こうは曲がったリンゴの木が整然と植わっている畑があり、夏の終わりまでには既に埃っぽいバラ色の果物をつけていた。

 彼女は車のドアを閉め、玄関の道を上がっていき、中に入った。
ジュリアはキャサリンが成長していたときも、他人がそうした時も、今でも、決してドアにカギをかけなかった。
キャサリンはもう一度ジュリアの家の独特の匂いを嗅いだ、オレンジ・スポンジケーキと玉ねぎの匂いだ。
キャサリンはパーカーを脱ぎ居間の椅子に掛けた。

 家は手狭ではあったが3階建てだった。
キャサリンの両親が死んだとき、ジュリアは最上階の彼らの寝室をキャサリンに譲ることで彼女を励ました。
いくらか躊躇した後、キャサリンは自分の本をその部屋に、一つだけある窓のところに机を置いた。
中層階には2つの小さな寝室があり、一つはジュリアのだった。
家の一階は居間と台所だった。
居間にはジュリアの婚礼家具、色あせた茶色のビロードのソファ、張替の必要な2脚のクッションのいい椅子、ラグマット、脇テーブル、それ以外の空間のすべてを閉めているグランドピアノがあった。

キャサリンは手すりをつかんで狭い階段を自分がかつて使っていた部屋で、今は時々娘のマティーが泊まりに来た時に使う部屋に上がっていった。
キャサリンは窓のところに行って、ベッドにいる娘が見えるようにカーテンを少しだけ開けた。
マティーはほとんどいつもそうしているように、身を縮めて眠っていた。
彼女のぬいぐるみの虎は床に落ちていた。
キャサリンにはほとんど娘の顔は見えなかった。
― それは布団の中にあった。
― しかし彼女の後ろに広がった髪は良く見え、毛布の下の繊細な体の形は充分見ることができた。

 キャサリンはマティーを見守ることができるよう、静かにベッドの反対側にある椅子の方に移動した。
キャサリンは今はちょっと彼女を起こしたくはなかった。
朝早くに彼女を襲ったのと同じように、前日キャサリンが知った事がマティーを新たに襲うやり方への準備ができていなかったのだ。
しかしそれが起こった時、キャサリンはその場にいたかった。

 マティーは枕から頭を上げ、寝返りを打った。
太陽は今や完全に昇っていて、その光はカーテンを通し差し込んでいてダブルベッドの左側に沿って明るい色の縞を作っていた。
それはキャサリンの両親が眠っていたのと同じマホガニーのベッドで、彼女は時々夫婦が単にベッドが狭いという理由だけで、今よりももっと頻繁に愛し合っていたのかしらと思ったものだ。
マティーは夢心地でもう一時間ほど寝ようとしているようだった。
キャサリンは椅子から立ち上がり、虎のぬいぐるみを拾い上げ、マティーの頭のそばに置いた。
少しの間キャサリンは自分の指に娘の温かい呼吸を感じることができた。
その後、多分お母さんの存在が分かってマティーは体を硬くした。
キャサリンは衝動的に両手で娘を抱き、彼女に寄り添って横になった。
彼女が娘を強く抱き、すっと鼻を鳴らすような呼吸を聞いた。

 「私はここにいるわよ」と、キャサリンは言った。

マティーは黙っていた。
キャサリンは握っている手を緩めて彼女の頭をなで始めた。
朝一番の髪は、いつも通り、ブラシをかけないカールで厚く巻いていた。
マティーは巻き毛をジャックから遺伝的に受け継いでいて、髪の色はキャサリンから受け継いでいた。
マティーは2色の青い目の色も父親から受け継いでいて、最近まで彼女をずっと喜ばせていた。
彼女は他人と異なる印を持つことはある意味、彼女を特別のものにしたと思っていた。
しかし深刻な思春期中期が始まり、ちょっとではあっても友達の物とう違う特徴は厳しい苦悩の原因となり、彼女は色合いを同じにするためコンタクトレンズを付け始めた。
勿論寝室ではそれを付けていなかった。

 誰かがシーツを引っ張るような動きがあった。
キャサリンはそっとマティーの顔からカバーを下した。
彼女の娘の口に布がつまり、白いシーツが歯の間で塊になっていた。

 「マティー、お願いよ。息が詰まってしまうわ。」

 マティーの顎は布をよりしっかりと嚙んだ。
キャサリンがその生地をそっと引っ張ったが、マティーはそれを緩めなかった。
キャサリンには彼女の娘の鼻息が聞こえた。
マティーの両瞼には小さな涙があり、彼女が瞬きをするとあふれ出しそうだった。
彼女は懇願と怒りの混じったまなざしでキャサリンを見た。
キャサリンは彼女の娘の顔の筋肉が縮んだり伸びたりするのを見ることができた。

キャサリンはもう一度ゆっくりとシーツを引っ張った。
マティーは突然口を開けてシーツを自分の方に引っ張った。

 「これは最悪だわ、」彼女は息ができるようになると言った。

マティーはシャワーの中にいた
カーター政権より以前のナイトガウンの上に赤い縞の短いバスローブを着たジュリアはストーブのところにいた。
一つの服に飽きたということは新しい服を買うのに十分な理由ではないというのがジュリアの信念だった。
もし一年間、あるドレスを着なければその服を寄付すべきであるという不文律もあった。

 彼女は疲れているように見え、彼女の肌は粉をふいていた。
キャサリンはジュリアの背骨の上部が太くなってそれが彼女の頭と肩をほんの少し前の方に曲げているのを知って、いや初めて気付いて、驚いた。

 「ロバートはまだ宿にいるの?」と、ジュリアは聞いた。
彼女の背中は柔らかい赤い格子縞の樽のようだった。

 「いいえ、」と、ロバートについて考えるでもなく、彼が何を言い何を言わなかったかを考えることもなくキャサリンは、慌てて言った。
「彼は昨夜宿に泊まったけど、、今家にいるわ。」

 彼女は自分のコーヒーのマグカップを木のテーブルに置いた。
テーブルには油布のカバーがぴったり貼られ、裏で折りたたまれ画鋲で止められていた。
数年にわたり油布は赤から青、緑へと色を変えたが、清潔でぴんと張った表面ではなく、彼女の指の下に波打った糸を感じた。

 ジュリアはスクランブルエッグとトーストをキャサリンの前に用意した。
「食べられないわ、」と、キャサリンは言った。
「食べなさい、食べなきゃだめよ。」
「お腹が・・・・」
「もしあなたが強さを保たなかったら、マティーのためにもよくないわ、キャサリン。
あなたが苦しんでいることは分かっているけど、あなたはあの子の親でそのことはあなたの義務なの、好むと好まざるにかかわらず。」

長い沈黙があった。
「すみません?」と、キャサリンは言った。
ジュリアは座った。
「ごめんなさい、」と彼女は言った。
「私の神経は高ぶっているの。」
「あなたが知っている必要があることがあるの、」と、キャサリンは急いで言った。
ジュリアはキャサリンを見た。
「噂があって、それは突飛で恐ろしいものなの。」
「なに?」
「CVRってなんだか知ってる?」
ジュリアの頭は急に入口の方にくるりと回った。
マティーが、次に何をしていいのか分からないというように、まるでやり方を忘れてしまったかのように、入り口に立っていた。
彼女の髪は、ちょうど彼女の腰の線で切り取られた青いスエットシャツの肩を濡らしていた。
彼女はアディダスを履き、裾がちょうどいい具合にすり切れたジーンズ(サイズ2、スリム)を腰のところで履いていた。
彼女の脚は自然に内側に曲がっていて、彼女の上半身が時には驚くほど逆のクールな印象を示すのに比べ、そのことは腰から下に向かって、彼女に子供の様な様子を与えていた。
彼女は指の先端を前ポケットの上の切れ込みに突っ込んで肩を引き上げた。
彼女の両眼は泣いたために赤くなっていた。
彼女は一瞬彼女の髪が一方によるように首を傾げた。
彼女の上唇が震えた。
彼女は神経質そうに髪に手を伸ばし急いで結び目を作りそれからまたとかした。

 「あら、どうしたの?」マティーは床に目をやりながら、勇敢にも尋ねた。
キャサリンは顔を背けなければならなかった。
彼女は自分の目に湧き出した涙を見せたくなかった。

 「マティー、」彼女はしゃべれるようになったときに言った。
「私のそばに来て座り、卵とトーストを食べなさい。
昨日はほとんど食べていないでしょ。」

「お腹がすいていないの。」

マティーは椅子を引き出し、その椅子はたまたま彼女の母から一番遠くにあった、その端に慎重に座った。
彼女の肩は少し丸くなり、手は膝の上に置かれ、足は床の上にVの字を書いた。

 「お願いよ、マティー、」と、彼女は言った。

「ママ、私お腹が空いていないの、いい、やめて。」

ジュリアはマティーと話そうとしたが、キャサリンは彼女の目をとらえ、首を横に振った。

「何でもいいから、」と、キャサリンはできるだけ努力して何気ない様子を装って言った。
「そうね、トーストでも」と、マティーは妥協した。

 ジュリアはマティーにトーストと一杯の紅茶を用意した。
マティはトーストの皮を細かくちぎり、聖体拝領の白いパンくらいの大きさにして、トーストの皮がなくなるまでゆっくりと気乗りしない様子で噛んでいた。

 「私は学校に行けるの?」と、マティーは尋ねた。
「休暇が終わるまでにはね」と、キャサリンは言った。

 マティーの顔は青白く、引きつったような、まるで半分の力で動いているように、粒のような白さになった肌だった。
彼女の両眼の間と鼻の端には赤みがかった小さなポツポツがあった。
彼女は縁のないトーストの横に腰を下ろし、プレートの上の食欲をそそらない冷たい四角いものをじっと見ていた。

 「散歩に行きましょう、」と、キャサリンは言った。

 マティーは肩をすくめた。
片方の肩をすくめる--両肩をすくめるよりもっと無愛想に。

台所のドアのところでは、マティーの後ろには数年前に教会のクリスマスフェアーで買ったキルトの布で飾ったクリスマスツリーがあり、それは毎年12月の初めに屋根裏部屋から取り出されるのだった。
ジュリアはそれほど多くの飾りつけはしなかったが硬い信仰心を持っていた。
:前の年に出したものを何でも出すのです。

 クリスマス。
キャサリンが考えたくなかったテーマが、まるで頭痛のように、彼女の頭の隅に去来した。

彼女は立ち上がった。

「ジャケットを着なさい」と、彼女はマティーに言った。

冷たさが彼女の頭をはっきりさせ、体をもっと早く動かそうという気にさせた。
石の家を超えて、道は土の道になりイーリー山に登って行っていた。
それは緩やかな傾斜で、暗い松の優雅な風景で、うち捨てられた林檎園で、ブルーベリーの茂みがあった。
1980年代の後半開発業者は頂上の近くに贅沢なコンドミニアムを建てようと考えて、土地の一部を平にしたり基礎を掘ったりさえした。
しかしその男のタイミングはひどいもので、ニューハンプシャー全体を覆い絞め殺した不況の6か月後に破産を申告せざるを得なかった。
今は低い灌木が空き地を覆ていたが、一階の床を備えた打ち捨てられた基礎部分は、西にイーリーやイーリーフォールズ、さらに谷全体の素晴らしい景色を見せてくれる。

 マティーは帽子をかぶっていなかった。
彼女は自分の光った黒いキルトのジャケットのポケットに手を強く突っ込んで歩いていた。
ジャケットのジッパーは空いていた。
キャサリンはずっと昔にマティーにジャケットのジッパーを閉めることと、帽子をかぶることを言うのをあきらめていた。
時々、キャサリンが仕事を終えて高校から歩き出したとき、少女たちが40℃の気候の中でT-シャツの上にボタンを留めないフランネルのシャツだけで敷石に立っているのを見て驚くのだった。

「ママ、クリスマスだよ」とマティーが言った。
「わかってるわ」
「何をしましょう?」
「何がしたいの?」
「何もしない、わからないわ。 やると思うけど、分からないわ。」
「数日様子を見ない?」
「ああ、お母さん!」
マティーは少し立ち止まり、手のひらの付け根部分を両目に強く押し当て制御できないぐらい震え出した。
キャサリンはマティーに腕を回したが、彼女は見をよじって母親から離れた。

 「ああ、お母さん。昨夜私が彼のプレゼントをとり出した時・・・」、マティーは今や激しく泣いていた。
キャサリンは彼女の娘があまりにもう二度と触れられないほど生々しく、皮を剥がされ、狂乱の渦に巻き込まれる寸前の状態であることを察知していた。

 キャサリンは目を閉じて待った。
彼女は皿洗い器を開けようとして、窓を閉めようとして、肌をすりむいたりした時のようにゆっくりと数を数えた。
1,2,3,4,  1,2,3,4,。
キャサリンが鳴き声が少し弱まったのを聞いて目を開けた。
彼女は娘を牧羊犬が羊や牝牛を軽くように、前に突いた。
マティはあまりに意識が朦朧としていたので、抵抗することができなかった。

 キャサリンはマティーにティッシュを渡し彼女が鼻をかむのを待った。

 「私彼にCDを買ったの」とマティーは言った。
「ストーン・テンプル・パイロッツ。彼はそれが欲しいと言っていたの。」

 葉と凍った雪が汚れた径の横で複雑な敷物を作っていた。
地面には轍(わだち)があり、硬くなっていた。

 「お母さん、家ではやらないことにしましょう、いい?
私、家でやればそれに耐えられないと思うわ。」

 「そうね、クリスマスをジュリアのところでやりましょう、」と、キャサリンが言った。

「お葬式はするの?」
 
キャサリンは早足で歩いているマティーの歩速に合わせようとしていて、彼女の口からは蒸気の流れのように質問が溢れ出していた。
キャサリンは、マティーは一晩中これらの質問を自分自身にしていて、今やっとそれを口にする勇気を持ったのだと思った。

 しかしキャサリンは最後の質問にどう答えればいいのか分からなかった。
遺体がないのに葬式ができるのか、それともそれは追悼式と呼ばれるべきものなのか?
そしてもし追悼式をする場合すぐにやった方がいいのか少し待った方がいいのか?
もし追悼式をした場合その後で、一週間後に、遺体が見つかった場合、何が起きるのか?

 「わからないわ、」キャサリンは正直に言った。
「言わなければいけないんだけど・・・」。
「ロバート」と彼女は言おうとしたが、ギリギリのところで口に出さなかった。

 「ジュリア、」と、キャサリンは言った。
しかし、驚いたことに、キャサリンが聞きたいと思った相手はロバートだった。
「私は行かなければいけないの?」とマティーが聞いた。

 キャサランはちょっとの間考えた。

「ええ、行くべきよ、」と、彼女は言った。
「つらいのは分かっているわ、ひどいことよ、マティー、でも愛する人の葬儀を経験するのはしないより良いとみんな言っているわ。
それは一種の区切りなの。
もうあなたはそれをやれるほどの年になっているわ。
もしあなたがもっと若ければ私は行くべきじゃないって言うわ。」

「私は何も区切りを付け、閉めてしまいたくない、ママ。
できないわ。
私はできるだけ長く開いたままにしておかないと。」

キャサリンは彼女の娘が意味することを正確にわかっていた。
しかしキャサリンはジュリアが彼女のためにやってくれたことを、マティーのためにやるべきだと感じていた。
キャサリンは人はいつになったら理性的な親であることをやめて、単に子供と同じように戸惑っていることを認めるのだろうかと思った。

「彼は帰ってこないのよ、マティー。」

 マティーはポケットから両手を出し、胸の前で腕を組んで、両手をこぶしに握った。

 「それがどうしてわかるの?ママ?絶対そうだとどうしてわかるの?」

 「ロバート・ハートは生存者はいないって言っていたわ。
それは、誰もその爆発から生き残れなかったってことよ。」
「彼に何が分かるっていうの?」
それは問題ではなかった。

彼女たちはしばらく黙って歩いた。
マティーは腕を激しく揺らし始めスピードを上げた。
キャサリンはしばらく彼女に遅れないようにしたが、その後そうすべきではなかったと気付いた。
それがその瞬間だった。

 キャサリンはマティーが、走り出してしまい、角を曲がり、もはや彼女が見えなくなるまでどんどん早く歩くのを見ていた。

 キャサリンはたった7日に迫っているクリスマスをどのように乗り切ればいいのか考えつかなかった。
彼女たちの宇宙を正常ではない状態に投げ込むような事故が起こって、今や彼女たちは ― 彼らの周りの他の軌道に隣接しているが、それとは異なる、―見知らぬ軌道の中を回っているのだ   

 キャサリンはマティーがフィールドホッケーの試合の後のように、息を切らして、低い基礎のセメントの壁に座っているのを見つけた。
彼女は母親を見上げた。

「おかあさん、ごめんね。」

キャサリンは外の景色を見ていた。
少なくとも、その景色は変わっていなかった。
彼女たちの後ろには東に向いて大西洋があった。
もし彼女たちがもっと丘を頂上まで登れば、海を見ることができるだろう。
ほぼ確実にその香りを嗅ぐことができるだろう。

 「しばらくの間、謝罪の猶予を宣言しましょう、いいわね?」と、キャサリンは言った。

「私たちは大丈夫なのよね、そうでしょ、お母さん。」

 キャサリンは娘の隣に座って、彼女に腕を回した。
マティーはキャサリンの肩に顔を埋めた。

「結局、」と、キャサリンは言った。

 マティーは雪を蹴った。
「ママにとってもつらいことだってわかっているわ。
あなたはほんとに彼を愛していたんでしょ?」
 「そうよ。」
「一度この記録映画を見たの、ペンギンについての。
ペンギンについて知ってる?」
「よくは知らないわ、」と、キャサリンは言った。

マティーは立ち上がった。
彼女の顔は突然生き生きとし、輝いた。
キャサリンは自分の手を娘の肩から離した。

 「そう、彼らがやることは、オスが他の全部のメスから一匹を選び出すことで、時には数百匹の中から一匹を選び出すの;
私はそのオスがどんな風にその一匹の違いが分かるのか知らないわ、それらはみんな同じように見えるの。
それから、彼は彼女を選んで、5つのすべすべした石を見つけに行くの、一つずつその石を彼女の足元に並べるの。
そしてもし彼女が彼を好きなら、彼女はそれらの石を受け取るの。
そして二匹は生涯の伴侶となるの。」

「素敵ね」と、キャサリンは言った。

「そのドキュメンタリーの後、クラスでボストンへ行ったとき、私たちは水族館に行ったの。
ペンギンは―ああ、ママ、それは素晴らしかったの―ペンギンたちは交尾?だった。
そしてオスはメスに毛布をかぶせるように自分の体で覆って、少し震えて、彼女の横にゴロンと横になって、疲れたように、でも幸せそうに?していたの。
二匹は愛し合っているようにお互いに鼻を押し付けあっていたの。
そして私の横にいたこの男、デニス・ロリンズは、ああお母さんは彼を知らないわね、彼は変なジョークを言い続けていたのよ。あれは最悪だったわ。」

 キャサリンは彼女の娘の髪をたたいた。
これは涙にとても近いめまいの様なものだった。

 「わかっていると思うけど、ママ、わたしやっちゃったのよ。」

 キャサリンの手はマティーの頭の優雅な曲線を描く途中で止まった。

 「私たちは私が話していると思っていることについて話しているのよね?」と、キャサリンは静かに聞いた。

 「怒っているの?」
「怒る?」
キャサリンは首を振って、呆然とした。
彼女はゆっくりと口を閉じた。

 彼女はマティのやったことを認めた事に驚いているのか、彼女がそのことを簡単に考えていることに驚いているのか自分でもわからなかった。

 「いつ?」と、キャサリンは聞いた。

「去年よ。」
「去年?」
キャサリンはびっくりした。
これは去年起こったことで自分は知らなかったのだ。

「トミーの事おぼえている?」とマティーは聞いた。

 キャサリンは瞬きをした。
トミー・アーセノーは、可愛い、茶色の髪をした、不機嫌な態度をした少年だったのを思い出した。

 「あなたはたった14歳だった、」と、キャサリンは信じられないという表情で言った。
「14歳でしかなかったの、」マティーはほとんど13歳で、それほど若くしてセックスすることが名誉の勲章であるかのように言った。

 「でも何故?」キャサリンはその質問がすでにばかげたものだと知りながら聞いた。
「動揺しているのね、分かるわ。」
「いいえ、動揺はしていないわ、ただ驚いているだけだと思うわ。」
「私はただそれをやってみたかっただけなの、」と、マティーは言った。

キャサリンはふらつきを感じた。
その情景は彼女を悩ませた。
彼女は目を閉じた。
マティーは去年の12月に生理が遅くなり、キャスリンの知る限り、それ以来、生理は3度しかありませんでした。
それが起きたとき、彼女は性的に成熟していなかったかもしれません。

 「一回だけよね?」キャサリンは希望の兆候を抑えることができず、聞いた。
マティーは躊躇した、まるで、回数というのは人が母親と話すにはあまりに親密すぎる話題でもあるかのように。

 「いいえ、数回よ。」
キャサリンは沈黙していた。

「もういいわ、ママ。
それはいいの、私は彼を愛していなかったし、そんな風だった。
でも、それがどんな風なものか知りたくて私はそれをしたの。」
「痛かった?」
「最初はね。でも私はそれが好きになったの。」
「そしてあなたは注意深かった?」

 「もちろんよ、お母さん。私がチャンスを逃すとでも?」
 まるでセックスそれ自体が十分なチャンスではないように。
「私は何を考えているのか分からないわ。」

 マティーは自分の襟首のところで髪を結ぼうとした。
「ジェイソンはどうなの?」と、キャサリンは娘の今の恋人について聞いた。
マティーのすべての友達の中で、バスケットボールに熱中している背の高い金髪の少年ジェイソンは、昨日、勇敢にもマティーが大丈夫かどうか電話で聞いてきた唯一のボーイフレンドだった。

 「いいえ、私たちはしていないの。
彼は信仰心があって、できないっていうの。
私はそれでいいの。
わたしは彼にどんなプレッシャーもかけていないわ。」

「良いわね」と、キャサリンはやっとのことで言った。
というのは、マティーのすべての少女時代において、この瞬間を、キャサリンは自分がそうであるように、自分の娘が愛との組み合わせでセックスを発見するだろうと期待していたのだと想像していたからだ。
そのことのために彼女はどんな対話を心に思い描いていたのだろうか?
確かにこんなのじゃない。

マティーは彼女を抱擁した。
「可愛そうな、ママ、」と、彼女は言った。
彼女の口調は嘲笑的であったが、愛情に満ちていた。

 「知ってた、」と、キャサリンは聞いた。
「1700年代のノルウエーでは、婚前セックスを発見された女性は誰でも首をはねられて、彼女の頭は槍で突き刺されて置かれて、体はその首の傍に埋められたの。」

マティーは、キャサリンがまるで脳卒中を起こしてしまった時にするとキャサリンが想像したように彼女を見た。

「ママ?」

「歴史的なことを一寸言ってみたの、」とキャサリンは言った。
「あなたが話してくれて嬉しかったわ。」

「もっと前に言いたかったんだけど、私は思ったの・・・・」
マティーは強く唇をかんだ。
「そう、あなたが動揺して、多分お父さんに話さなければならなくなるんじゃないかって分かっているので」

彼女の声は父の事に関して話すとき震えた。
「あなたは絶対怒ってないわよね」と、マティーはもう一度聞いた。
「怒っている?怒りはその事とは関係ないわ。
それはちょっと・・・・それは人生で大切な部分なの、マティー。
意味があることなの、特別な。私はそう信じているわ。」

キャサリンはお母さんがありふれた決まり文句を言っているように聞こえた。
セックスが特別ですって?
何か意味のある事?
それともそれは、世界中で一日に数十億回も、目もくらむようなやり方で行われる、自然の営みに過ぎないのか、その中には醜悪なものもあるのか分からなかった?
彼女はその問題をどう考えているのか分からなかった。
そして、彼女は両親たちがどれほど頻繁に実際には信じていない心情を言うことに囚われているのだろうかと不思議に思った。

 「今は、私はその事が分かっているわ、」と、マティーは言った。
「ただ、それをはっきりさせたかっただけだったのよ。」

彼女はキャサリンの手を取った。
マティーの指は凍えていた。
「ペンギンの事についてだけ考えて」と、キャサリンは力なく言った。

マティーは笑った。
「ママ、あなたは変よ。」
「それは分かっていたはずよ。」
彼女たちは立ち上がった。
「マティー、聞いて。」

キャサリンは娘の方を向いた。
彼女はマティーがきっと聞いただろう恐ろしい話について、噂について今話したかった。
しかしキャサリンがマティーの顔を自分に向けさせようとして引っ張って、そこに続いている痛みを見た時、そうすることはできなかった。
ロバートは絶対キャサリンがその噂を認めることを拒絶すべきだと言っていた。
だから何故マティーをそれらで煩わせるのだろうか?
彼女は理性的になった。
そうでさえ、彼女は、彼女が難しい問題から逃げ腰になるときにいつも感じる、親としてちょっとした罪の痛みを感じた。

 「私はあなたを愛しているわ、マティー、」と、キャサリンは言った。
「私がどれほどあなたを愛しているかあなたは分からない。」

「ああ、お母さん、最悪の部分・・・」

 「何?」キャサリンは娘から離れ、別の事実が明らかになるのを覚悟で尋ねた。

 「お父さんが出ていく前のあの朝、彼は私の部屋に入ってきて、私に彼が帰ってくる金曜日に彼と一緒にセルティックスの試合を見に行かないかと聞いたの。
そして私は気分が悪く、金曜日はまずジェイソンが何をするか知りたかったので、帰ってくるまで返事を保留することはできないの、と言ったのよ。
そして、そうだったわ・・・彼は傷ついていたのよ、お母さん。
彼の顔を見ればわかったはずよ。」

 マティーは口を歪め始めた。
彼女は泣くときはずっと幼く見える、とキャサリンは思った。
まだ子供なのだ。

キャサリンは彼女に、このような反抗はよくあることだと、どう説明すればいいのだろう。
親は傷つき、それを飲み込み、子供が自分から離れていくのを見た。
最初は少しずつ、そしてやがて、気が狂うような速さで。

 「彼は分かっていたのよ、」と、キャサリンはうそをついて言った。
「彼は出てゆく前に、それはそれは分かっている、って私に言っていたの。」
「そうだったの?」
「彼は今や彼は二番手になったって冗談を言っていて、それでも良いさって言っていたわ。
彼が何か冗談を言っても、それは彼は大丈夫って意味なのよ。」
 「本当に?」
「そうよ、本当よ。」

 キャサリンは彼女が言ったことを娘に信じさせようと、元気に頷いた。

 マティーは鼻をすすった。
彼女の上唇を手の甲で拭った。
「別のティッシュペーパー持ってる?」
キャサリンは彼女に一枚渡した。
「たくさん泣いてしまったわ、」と、マティーが言った。
「頭が飛んでしまうかと思っているわ。」
「その気持ち、分かるわ、」と、キャサリンは言った。

彼女たちが帰ってきたとき、ジュリアはテーブルに座っていた。
彼女は二人にホットココアを作ってくれていて、マティーはそれを喜んだようだ。
キャサリンはその熱い液体を慎重にすすったので、彼女はジュリアの目の下の瞼が赤くなっている事に気付いた。
そして彼女が突然、彼女の祖母がたった一人で台所で泣いていたのだと思って驚いていた。

「ロバートから電話があったわ、」と、ジュリアは言った。
キャサリンは見上げ、ジュリアは頷いた。
「彼にあなたの寝室からするわ、」と、キャサリンが言った。

奇妙なことに、ジュリアの部屋は家の中で一番小さな部屋だった。
彼女はいつもあまり大きな空間を必要としないと主張していた。
ベッドには彼女自身の体しかなく、彼女はいつも少なければ少ないほどいいという哲学で生きていた。
しかしその寝室には、キャサリンがその世代に関係があると思っている女性的な魅力がないというわけではなかった、
長いひだのあるインド更紗のカーテン、桃色の縞模様の布張りの椅子、
ピンク色のシェニール布のベッドカバー、キャサリンがもうほとんど見たことがないような品 ― テーブルスカート布の付いた化粧台。
キャサリンはジュリアがその化粧台で若い女性として、彼女の夫やこれからやってくる夜の事を考えながら長い黒髪を梳く姿を想像しようとしたものだった。

 電話は化粧台の上にあった。
最初の呼び出し音で出た相手の声はキャサリンが聞いたことのない声だった。

 「ロバート・ハートさんはいらっしゃいますか?」と彼女は聞いた。
「どちら様でしょうか?」
「キャサリン・ライオンズです。」
「ちょっとお待ちください、」と電話の相手は言った。

 電話の背後で他の声が聞こえた、男性の声だ。
彼女は彼女の台所がスーツ姿の男たちでいっぱいのところを思い描いた。
「キャサリンです。」
「どうしました?」
「あなたは大丈夫ですか?」
「大丈夫です。」
「貴方のお祖母さんににお話ししました。」
「そうかもしれないと思っていました。」
「お迎えに上がります。」
「それはばかげているわ、私は車を持っているもの。」
「その車はそこに置いておいてください。」
「何故?何が起きたの?」
「そこに行く道順を教えてください。」

「ロバート。」
「あなたに聞きたいことがある人たちがここにいるんです。
まず、私とあなたが話すべきだと思うんです。
それに、あなたはジュリアの家で彼らに会いたくないでしょう。
娘さんがいるところで。」
「ロバート、あなたは私を怖がらせているわ。」
「大丈夫です、私が付いています。」
キャサリンは彼に来る道筋を説明した。

「ロバート、何か質問は?」
電話の向こう側で短い沈黙があった。
彼女には、その沈黙は絶対的なもので、遠く離れた彼女の台所のすべての声が突然静かになったように思えた。
「5分でそっちに行きます。」と彼が言った。

キャサリンが台所に帰ってきたとき、マティーはホットココアを吹いていた。
「私、行かなくっちゃいけないわ、」と、キャサリンは言った。
「家に私が話さなければいけない人たちがいるの、航空会社の人よ。」
「分かった、」と、マティーは言った。
「あなたに電話するわ、」とキャサリンはかがんで娘にキスしながら言った。

キャサリンはパーカーを着て、私道の端に立っていた。
彼女は両手をポケットに突っ込んで、襟を立てていた。
風もなく、明るく、硬く、乾いた寒さがその日一日続いていた。
普通ならこれは彼女の好みの種類の天気だった。
 遠くに、町からこちらへの道に沿って高速で動いている灰色の影、車が見えた。
ロバートは急いで車を止め、身を乗り出してドアを開けた。

彼女はドアの取っ手に背を向けて彼と向かい合って座っていた。
厳しい太陽の光の中、彼女にはロバートの顔の些細なところまでよく見えた。
:彼が髭をそらなかったら髭が伸びたに違いない少し青みを帯びた輪郭、髪が古い日焼けした線よりも短く切られたもみあげの下の白い肌の影、顎の下の影。
彼は車を駐車させ彼女の方を向き、二つのシートの間に橋をかけるように腕を置いた。

「何?」と、彼女は聞いた。
「あなたと話したいと言っている安全委員会の捜査官が二人います。」
「私の家に?」
「はい。」
「私はその人たちの質問に答えなければいけないの?」

彼は石の家の方に目を向け、そしてもう一度目を戻した。
彼は親指で上唇を引っ搔いた。
 
 「はい、」と彼は注意深く言った。
「もしあなたが十分に元気ならね、僕はあなたはいつも十分元気だとは言えないと思うけど。」

 彼女はゆっくりと頷いた。
「私は墜落調査自体からあなたを守ることはできません。法的な告訴からも。」
「法的告訴?」
「万一の場合には・・・」
「ただの荒唐無稽な噂だと思ってたわ。」
「そうです。今のところ。」
「何故? あなたは何か知っているの?
録音テープには何かあったの?」

 彼は運転していない方の手の指ではハンドルをたたいた。
一定のリズムで、考えながら。

 「テープが最初に再生されたときに部屋にいた、わが国の安全委員会に相当する英国の委員会の技術者が、バーミンガムのBBC系列局で働く彼の関係者の女性に電話をかけたんだ。
かれはどうもそのテープについて声明を発表したようなんだ。
私はこれを公開した彼の、もしくは、彼女の動機が何かははっきりとは分からないが、推測することはできます。
CNNはBBCが報告したことをそのまま報道しています。
ということは、これはせいぜい4次情報にすぎないということです。」
「でも、それは本当かもしれない。」
「本当かもしれません。」

 キャサリンは腰を捻らなくていいように、自分の膝を上に向けて、彼女のシートを動かした。
彼女は胸のところで両腕を組んだ。

 ロバートはシャツのポケットから艶のある白い紙をとり出した。
彼はそのファックス紙を彼女に手渡した。

 これはCNNが報じた速報と全く同じ内容のものです。

 ファックスは読みにくかった。
四角い文字が、その中のいくつかは線が歪んでいた、彼女の前で泳いでいた。
彼女は文章に、冒頭の部分に集中しようとした。

 CNNはちょうど今、ヴィジョン航空384便の調査に近い情報源が、CVR(コックピット・ボイス・レコーダー)が、ジャック・ライアンズ(ヴィジョン航空での11年のベテラン)機長とT-900の爆発の数か月しかたっていない英国人のフライトエンジニア、トレバー・サリバンとの間に口論があったということを明らかにするかもしれない(我々はそれが可能性だということを強調するが、)と報告していると発表しているということを知った。
未確認の情報によると、飛行58分以内に、ヘッドセットが故障したことでサリバンがジャック・ライアンズ機長のフライトバッグに手を伸ばすことになったと言う。
サリバンがそのときフライトバッグからとり出したものがT-900を二つに引き裂き、104人の乗客とクルーを死に追いやる、爆発の原因になった(再び可能性として、と我々は強調するが)かもしれない。
それと、提出された情報元、ヴィジョン航空384便の最後の数分を文字に起したものは、ライアンズ機長とサリバン フライトエンジニアとの間である種のつかみ合いが起こり、サリバンが罵詈雑言を言ったということを示している。

 安全委員会のスポークスマンダニエル・ゴージックは今日、これらの主張を否定し、悪意を持って虚偽で無責任であると非難した。
この報告書は、CVRが再生されたときに立ち会った匿名の情報源からもたらされたものであると、繰り返しておく。
我々が以前から言及しているように、CVRは、昨夜アイルランド共和国のマリンヘッド沖の海中から発見されたもので・・・

  キャサリンは目を閉じて頭をシートにもたせ掛けた。

 「どういう意味なんですか?」と、彼女は聞いた。
ロバートは車の天井を一寸見た。

 「まず第一に、我々はそれが事実であるかどうかわからない事。
安全委員会はすでにすでに厳しい戒告を出しています。
引用をリークした情報源は既に解雇されています。
彼らは彼の名前を言おうとしないし、彼は名乗り出てきません。
それと、それは真実であるとしても、必ずしも証明されたわけではありません。
また、必ずしも、何かを意味するわけでもありません。」

「でも、そうです、」と、キャサリンは言った。
「何かが起こった。」
「何かは起こったんです、」と、ロバートは言った。
「何ということでしょう、」と彼女は言った。

彼女はカウンターを、脂のついた鍋やグラスやこびり付いたローストパン、流し台の中の気味が悪くなるほどの腐った野菜の山、彼女がカウンターをかたずけることができるようになる前でさえとり出さなければならないことになるだろう清潔な皿の入った、皿洗い器を見た。
二階では、キーボードをカタカタたたく音、そしてネットをつなぐ音が聞こえる。

 彼女は自分のウールのスカートを、黒いタイツ、センスの良いパンプスに目を落とした。
今日の午後は、彼女は放課後バンドの練習があり家に帰るのが遅くなった。
3人はほぼ無言で夕食をとった ― 疲労のためというより緊張のためだと、彼女は思った。
そしてジャックは自分の事務室に上がっていき、マティーはクラリネットの練習のために自分の部屋に行った。
キャサリンは台所にとどまった。

 彼女は階段を上がってジャックの事務室に行き、ワインのグラスを持ってドアの柱に寄りかかって黙って立っていた。
彼女にははっきりした話はなく、断片的な思考、未完成の文章しかありません。
欲求不満のフレーズ。

おそらく彼女は飲み過ぎたのだ。

ジャックははっきりしない困惑の表情を顔に浮かべて彼女を見上げている。
彼はネルのシャツを着てジーンズをはいている。
彼は最近5キロほど太ってきた。
彼は気を付けないと太る傾向がある。

 ― どうしたの? と彼女が聞く。
 ― 何が?
 ― あなたは5日間の旅行から帰ってきた、ってこと。
ずっとあなたと会わなかったのよ。
あなたは夕食の間一言もしゃべらない。
あなたはマティーとほとんど話さない。
そしてあなたは、そうよ、あなたはたくさんの皿を残して消えていくのよ。

彼はこの様な告発に驚いているようだ、実は彼女も同じなのだ。
彼は瞬きをする。
彼は間仕切りの上の自分が気になったものに顔を向ける。
― 今も、私の言っていることなんか気にしちゃいないわ。
 ところで、何がそんなにPCで面白いの?

 彼はキーボードから手を放して、椅子のアームに肘を載せている。
― 一体どういうことだい?
― あなたよ。と彼女が言う。
― それと私。
― で?
― 私たちは、違うわ、と彼女が言う。
― 私たちはちょっと違う。
彼女はワインを飲む。
― あなたはいなかった、と彼女が言う。
― あなたは以前はそうだった・・・・分からないけけど・・・・ロマンチック。
あなたはいつも私を満足させてくれたわ。
あなたが最後に私に「君は美しい」って言ってくれたのはいつだったか、思い出せないわ。

 彼女の唇は震えている。
彼女は目をそらす。
そのとき彼女はジュリアの家の二階の寝室で呻いている母の声が聞こえる。
そして彼女は心の中で吐き気を催す。
彼女の母親の懇願するような声、彼女の夫に「美しい」と言って、と懇願する声が。
このちょっとした会話が、彼女の待ち望んでいた会話だったのだろうか?
キャサリンは不思議に思う。
ある種のグロテスクな遺産?

 彼女は震える。
しかしそのままにしておくことはできない。
今や数か月の間ジャックはよそよそしく、まるで一緒にいないかのように、いつも何か別の物に夢中になっているかのように。
別の物に夢中になっているのは、それがずっと永遠にというのでなければ許容される、とキャサリンは考える。

― 何てこと、彼女は声を荒げて言う。
― 私たち、何か月も外で夕食を食べていないわ。
あなたがすることと言ったらここに上がってきてPCの前で仕事をすることだけよ。
それかコンピュータゲームをすること。
どちらをするにしてもね。

 彼は椅子の背にもたれかかった。
自分の妻が「あなたは美しい」って最近言ってくれないと言って非難するのに対して答えることのできる答えは何が有るのだろう?
と、彼女は自分で思った。
彼は単にそうするのを忘れてしまっているのかしら?
何時もそう思っているけれど言わないだけ?
彼は今その瞬間にどうしようもなく美しいと思っているのか?

それが争いに関する問題点だ、とキャサリンは決める。
人は言っている言葉が可能な限り最悪の発言だと分かっていても、常に引き返せないということがあるものだ。
彼女はすでにその状況にあり、ジャックは瞬く間にそこに到達する。

― 糞くらえだ、と彼が静かに言い、立ち上がる。

 キャサリンはたじろぐ。
彼女はすぐ、彼女が以前と違って、(彼女の正当な怒りのだった場合ではなかったので)マティーが廊下のすぐ下にいることに気が付く。

― 大声を出さないで、とキャサリンは言う。

 ジャックは両手を腰に当てる。
彼の顔は、めったにないことだが、彼が怒った時に時々なるように、真っ赤になる。
彼らは喧嘩をしたことはない。

― 糞くらえ、と彼はもう一度言う。
今回は制御されてはいてももう少し大きな声で言う。

― 僕は5日間休みなしでずっと働いている。
僕は安らかな夜の眠りを得るために家に帰ってくる。
僕はリラックスするためにPCで暇つぶしをしにここに上がってくる。
そして、瞬きもしないうちに君が文句を言いに上がってきている。

― 安らかな夜の眠りを得るために家に帰ってくるですって?と、彼女は、信じられない、とでもいうように聞いた。

― 僕が何を言っているのか理解しているよね。
― これは今夜はたまたま起きたことじゃないわ、と、彼女が言う。
― ここ数か月の間ずっと起こっている事よ。
― 数か月?
― そうよ。
― それこそ、ここ数か月何が起こっているというんだい?
― あなたはここにいないのよ。
あなたは私といるより、PCと一緒にいることの方に興味があるのよ。
― バカな、と彼女のところを通り抜けて階段に向かいながら、彼が言う。
彼女は彼が走って階段を降りる音を聞く。
冷蔵庫のドアが開けられ、続いてビールの缶が開けられる音が聞こえる。

 彼女が台所に入った時、彼はビールを一口で飲んでいる。
彼は缶をカウンターの上に大きな音を立てて置き、台所の窓の外を見る。

 彼女は彼の様子を彼女好みの彼の顔を、確かめる。
彼の首を攻撃的に突き出した様子は彼女を警戒させる。
彼女は屈服して、彼のところに行き、ごめんなさいと言い、彼に腕を回して、彼を愛していると言いたい。
しかし彼女が動こうとするより前に、もう一度無視された感覚について考える。
というのも、そのことが彼が表現しようと思った事で、良心の呵責はすぐに怒りにとって代わる。
どうして彼女が後退しなければいけないのか?

― もうあなたは私と話すことはないのね、と彼女が言う。
― もうあなたの事を理解できないような気がするわ。

彼の顎が少し前に動き、歯を食いしばる。
彼はビールの缶を汚れた皿がいっぱい散らばっている流し台に投げ込む。

― 君は僕に出て行ってほしいのか?と彼は彼女を見ながら言う。
― 出て行く?
― そうよ、この関係を終わらせたいとか?
― いいえ、終わらせたいというのではなくて、撤回したいのよ、と彼女は言う。
― あなたは何を言っているの? あなたは気が狂っているよ。
― 私が、気が狂っているだって?
― そうとも、あなたは気が狂っているよ。
私が言ったかったのは、あなたがパソコンに夢中になり過ぎていて、・・・・
― 僕が気が狂っているだって?
彼は今度は大きな声で繰り返した。

 彼が彼女の横を通り抜けて二階に上がろうとするとき、彼女は彼の腕をつかもうとするが、彼はそれを振り払う。
彼女は、彼の怒った足音がのぼってゆく音を聞きながら、石のようにじっと動かず台所に立っている。
彼の仕事部屋のドアがバタンと閉められ、机の上で物が乱暴に動かされるくぐもった音が聞こえ、電線がパチンと切られる音が聞こえた。

 彼は彼女を捨て、PCを選ぼうとしているのか?
 
 その後、彼女はPCのディスプレーが階段を落ちて来るのを、恐怖の顔つきで見つめる。

 ディスプレーは階段の足元の漆喰の壁をえぐりだす。
粉々になったスクリーンから灰色のプラスティックとスモークガラスの破片が空中に飛び交い、階段と台所の床に散らばる。
それは壮大な芝居がかった大音響だ。

 キャサリンは、それがあまりにもやり過ぎで、それが彼女がもとで起こったことで、それが彼を煽り立ててしまったのだと知って、低いうめき声をあげる。
その後、彼女はマティーの事を考える。
キャサリンが壊れたPCディスプレーを通り抜けて階段の上にたどり着くまでに、マティーはパジャマのままで廊下に降りてきている。

― 何が起きたの?
と、マティーは尋ねる。
キャサリンは彼女は知っていると分かっている。
全て聞いてしまったはずだ。

 ジャックはすぐさま自分の子供の前で正気とは思えない子供じみた行為をしたことの後悔の念に打ちひしがれているように見える。

― マティー、とキャサリンは言う。
― お父さんはじぶんのPCを階段から落としたのよ。
もうめちゃくちゃよ。
でも、何もかも大丈夫よ。

 マティは2人に、11歳でありながら、いつも的確で決して外さない視線を送る。
しかしキャサリンは娘の顔の表面で、優れた観察力が純粋な恐怖と戦っているのが分かる。

 ジャックはマティーの方を向いて、娘を腕に抱きしめる。
そのことがすべてを語っている、とキャサリンは思っている。
今やこれが起こらなかったふりはできない。
声に出して言わない方がいいかもしれない。

 そして、ジャックは腕を伸ばしてキャサリンを引き寄せて、三人は廊下に立ち尽くすことになり、揺れながら泣きながら「ごめんなさい」と言って、お互いにキスし、もう一度抱き合って、立ち、涙と鼻水の中でちょっと笑い、親切にもマティーがティシュペーパーを持ってきてくれるのだ。

その夜、数か月ぶりにキャサリンとジャックは愛し合う。
― 粗削りに、あたかも残ったシーンを、開いた口と小さな噛みあいで、手首と太腿を絡めて、演じきるかのように。
そしてその夜の飽くことを知らない勢いは、しばらくの間彼らの結婚生活の傾向を変え、廊下ですれ違う時もより頻繁にお互いを見つめあい、何か意味のあることを無言で言おうとしたり、会う時はいつも家でも外でも車でも、公共の場でも熱烈にキスしあったりして、キャサリンを喜ばせた。
しかし暫くすると、それも過ぎ去り、彼女とジャックは元のように通常に戻り、いわば、キャサリンが知っているようなほかの夫婦のように、彼らは穏やかな、以前よりも少ない傾向の状態で、しかし苦痛であるほどではなく、生活するのである。

どちらにせよ、全体としては、それは良い結婚なのだと彼女は考えるのだ。
彼女は今までこんな光景は見たことがなかった ― テレビでも映画でも。
テレビや映画では光景はその臨場感や派手な色彩やその脅威が欠けているのだ。
彼女とロバートが私道に着く前でさえ、海岸の道路に沿って砂っぽい路肩に車とバンが駐車していた。
キャサリンにはバンに書いてある放送局の名前、WBZ(Boston)WNBC(National Broadcasting Company)CNN(Cable News Network)と、肩に複雑な装具を付けて、カメラ持った男が走っているのが見えた。
人々は車を見、中に乗った人を覗き込み始めていた。
ロバートはまるで彼らが今にも襲ってくるのではないかとでもいうように、ハンドルの上に身をかがめていた。
キャサリンは顔を背けて、顔を手で覆いたいという衝動に抵抗していた。

 「私たちがこうした理由を思い出させてください?」と、彼女が聞いた。
彼女の声は引き締まり、唇はほとんど動いていなかった。

 レポーターとカメラマンたちは金網のフェンスで囲まれた木の門の傍に5人いた。
ジャックと彼女がその門を選んだわけではなかった。
:それは単に女子修道院時代からの物が残っていただけだ。

 キャサリンはその門がまだ用をなしていることが驚きだと思った。
:ジャックと彼女は今までに一度もその門を閉める必要性はなかったのだ。

「君のおばあさんのうちに誰かを送るよ、」とロバートが言った。
「ジュリアはそれを嫌がるわ。」
「残念ながらこの点に関しては選択の余地はないんだよ、」よ、ロバートが言った。
「それに結局、彼女は感謝するかもしれないよ。」

彼は車の外の群衆に向かって身振りで示した。
「彼女が瞬きをするよりも早く、彼らは芝生を埋め尽くすだろう。」
「彼らにはマティーの近くのどこにもいてほしくないわ。」と、キャサリンは言った。
「僕にはジュリアはかなり手ごわそうに見えたけど、」ロバートが言い返した。
「私は自分が彼女を追い越そうとしたいのかどうか確信が持てないわ。」

一人の男が客席側のドアを強くたたき、キャサリンはたじろいだ。
ロバートは車をできるだけ門に近づけようとして前に動かした。
彼はフロントガラス越しに警官を探して、ほとんどすぐに車はガラス越しに叫んでいる男女たちに飲み込まれた。

「ライオンズ夫人、テープをお聞きになりましたか?」
「あれは彼女なの、ウォーリー、彼女なの?」
「動け、彼女の顔を映すんだ。」
「コメントできますか?ライオンズ夫人、
それは自殺だったと思いますか?」
「彼女と一緒にいる奴は誰?、ジェリー、航空会社の人?」
「ライオンズ夫人、あなたはどう説明するんですか・・・?」

 キャサリンにとってそれらの声は犬が吠えているように聞こえた。
口は拡大され、水っぽく見え、彼女の周囲の色は濃くなったり薄くなったりしている。
彼女は自分が気絶しかけているのじゃないかしらと一瞬思った。
どうしてもっともふつうの環境でもっともふつうの生活を送ってきた彼女がそれほど多くの注目の焦点になりえたのだろうか?

「やれやれ、」と、カメラのレンズが彼の窓に鋭くぶつかった時ロバートが言った。
「あいつはカメラを壊したぞ。」

 キャサリンが人ごみの向こうを背伸びしてみていると、バート・シアーズというひょろっと背の高い男がゲートの後ろを歩いているのを見つけた。
彼は、あたかも急いで家を出るとき残り半分を見つけられなかったかのように、彼の制服の上半分しか着ていなかった。
キャサリンはフロントガラス越しに彼の注意を引こうと手を振ったが、バートはショックを受けているようで、彼の目は焦点が定まらず、彼らがこちら側で無力であるのと同様に門のむこう側で無力だった。
彼はまるで交通整理をしているかのように両手をゆっくりと自信なく円を描くように動かしていたが、それに特に慣れているようではなかった。

「バートよ、」と、彼女が言った。

「彼は門の向こう側にいるわ。
彼は退職したのに、このことのために呼び戻されたのよ。」
「君が運転してくれ、」と、ロバートは言った。
「僕が外に出たらドアを閉めてくれ。
彼の名前は何だって?」
「シアーズよ。」

 そう言うや否や、ロバートは流れるように迅速に車から出て、ドアを閉めた。
キャサリンはぎこちなくギアシフトを乗り越えて運転席に座りドアをロックした。
彼女はロバートがトップコートのポケットに両手を突っ込んで肩でレポーターやカメラマンたちをかき分けて道を作っていくのを見た。
彼は大きな声でバート・シアーズと叫んだので、みんなちょっとの間群衆をかき分けて進んでゆくロバートを見て立ち止まった。
キャサリンはロバートが歩いて作った隙間の中を車を前に進め始めた。

 もし彼女の前にいる人々が分かれることを拒否すると、何が起こるのだろう、と彼女は思った。

 彼女はロバートが門を開けるのを見た。
彼女はあらゆる場所にカメラマンやスーツを着た女性がいて、派手な色のウインドブレーカーを着た男たちがいるのを見、ロバートが執拗に手でゲートに向かうようにと促すことにより、さらに前方に進んで行った。
彼女は一瞬、その群衆が彼女について行き、車の中に閉じ込められた未亡人と一緒に奇怪な行列が家までついて行くかもしれないと心配した。
ガラスの下のコガネムシの様なものだ。
しかし、彼女の知らなかった、理解もできなかった不文律が、バートとロバートを簡単に押しつぶすかも知れないと思えた時、群衆を門の後ろに留めた。
門の内側で彼女が止まった。

 「行きなさい」と、ロバートが助手席に滑り込みながら言った。
彼女は震える手で車を運転し、少し前進させ始めた。

「ちがう、行け、という意味だ、」とロバートが不愛想に言った。

彼女は、最初に門の前の群衆を見たとき、ロバートと自分さえたどり着けば、自分の家が避難場所になると思っていた。
しかし、そうではないことにすぐに気づいた。
今まで見たこともない車が4台、私道に無造作に停まっていた。
1台はドアを開けたままで、中からベルが鳴っている。
4台ということは、少なくともそれだけ見知らぬ人がいるということだ。
彼女はエンジンを切った。
「君は今これをやる必要はないよ、」と、彼が言った。
「でも、いつかやらなくちゃいけないわ、」と、彼女が言った。
「たぶんね。」
「弁護士を雇わなくていいかしら?」
「それは組合が対応しているよ。」
彼は彼女の肩に手を置いた。
「こいつらに絶対に確実なことじゃない事を答えてはしてはいけないよ。」
「私には何も確実なことはないわ。」

彼らは居間と台所にいた。
黒い制服の男たちと、昨日からいる薄いグレーのリタ。
最初にキャサリンに挨拶をするために、楕円形の金縁眼鏡をかけ髪をテカテカにした背の高い男がやってきた。
彼の襟が首に食い込んでいて、顔が赤くなっているのに彼女は気が付いた。
彼は太った男によくあるように、お腹を出っ張らせて、幾分よたよたと歩いていた。

 「ライオンズ夫人、ディック・ソマーズです。」と、彼は手を差し出して言った。
彼女は彼に手を握らせた。
彼の握力は頼りなく湿り気を帯びていた。
電話が鳴り、彼女はロバートがそれに応えさせないことがうれしかった。
「どちらの?」キャサリンは聞いた。
「私は安全委員会の調査官です。
私は、私たち全員は、この度は大変なご不幸に見舞われ、心よりお悔やみ申し上げます。」

キャサリンは他の部屋のテレビから聞こえてくる低いしっかりした男の声を聞いていた。

「有難うございます、」と、彼女は言った。
「あなたとあなたのお嬢さんはさぞおつらいでしょうと存じ上げます、」と、彼は付け加えた。

 彼女の顔は「娘」という言葉に警戒心を示していたに違いない、というのは彼女は彼が彼女の様子をちらっと見ているのに気が付いたから。

「しかし、私はあなたにいくつかの質問をしなければなりません、」と、彼が言った。
台所のカウンターには発泡スチロールのコーヒーカップがあり、テーブルの上には2個の派手なピンク色のダンキンドーナッツの箱があった。
キャサリンは突然ひどくドーナッツを食べたいと思った。
プレーンなドーナッツを熱いコーヒーに浸ける、コーヒーの中に零れ落ちようとするドーナッツを口に頬張る。
彼女は36時間以上何も食べていなかったことを思い出した。

 「私の同僚のヘンリー・ボイドです。」と、ソマーズが金髪の口ひげを生やした若い男を紹介した。

 彼女はその同僚の手を握った。

 4人の他の男たちが紹介のために前に出てきた。
ヴィジョン航空の制服を着た男たちは、帽子を腕の下に押し込み、金色のボタンと編みひもの付いた見慣れた制服にキャサリンは息を詰まらせた。
彼らは航空会社の、機長室から来たと言い、キャサリンはこれらのあいさつが、これらの几帳面さが、これらのお悔やみの言葉が、これらの慎重なお悔やみの言葉が、そこに容易にわかる緊張が待っていると分かっているすべての事が、どれほど奇妙であるかについて考えた。

 こてこてにヘヤアイロンをかけた一人の髪の男が他の人より一歩前に進み出た。

 「ライオンズ夫人、私はチーフパイロットのティル・ティアニーです、」と、彼が言った。
「昨日短いお電話を差し上げました。」

「はい、」と彼女が言った。
「もう一度、あなたのご主人がお亡くなりになったことについて、あなたの個人的な損失について、私と航空会社の皆からの哀悼の表明をさせて下さい。
彼は私たちの中でも最も優れたパイロットでした。」
「有難うございます、」と、彼女は言った。
「どれほど深く哀悼の意を、という」その言葉が台所中に漂っているように思えた。
彼女は何故すべての同情の表現がそれほど退屈なものに思え、みんな同じようなものに思えるのだろうと思った。
人の悲しみを表す言葉って他にはないのだろうか?
それともその形式が要点なのだろうか?
彼女は、このチーフパイロットがどれほど何度も自分で彼のパイロットの妻の一人にこれらの言葉を言うところを想像しなければならなかったのだろう、そしてその言葉を口に出してさえ練習したことだろうと思った。
この新しい航空会社は今までに一度も致命的な事故は起こしたことはなかった。

「テープについてあなたは何か私に言うことができますか?」と、彼女はチーフパイロットに聞いた。
ティアニーは口をつぐんで首を振った。
「テープについては何の情報も公式には出ていません、」と、ソマーズが前に進み出て行った。
「分かりました、」と、キャサリンは調査官の方を向いて言った。
「でも、あなたは何か知っているでしょう?テープにあったことについて。」
「いいえ、残念ながら私は知らないんです、」と彼は言った。
しかし金縁の眼鏡の奥では、調査官の視線は巧妙で回避的だった。

 キャサリンはブーツをはき、ジーンズをはきジャケットを着、厳しい視線にさらされながら台所の真ん中に立っていた。
彼女は彼女がまるで重大な社会的な間違いを犯したかのように、漠然とした恥ずかしさを感じていた。

「あなた方のうちの一人が車のドアを開けっぱなしにしていましたよ、」と、彼女が私道の方を指して言った。
「居間に座りませんか?」と、ソマーズが提案した。

キャサリンは自分の家に慣れていないような気がして、居間に入り、窓から差し込む6つの長方形の拡散した光に目を細めた。
腰掛シートが一個だけ残されていて、それは彼女の椅子ではなくジャックの窓際に置かれた特大のウィングチェアだった。
彼女はその椅子の布張りの付属品に小人になったように感じた。
今気付いたのだが、テレビは消されていた。

 ソマーズが場を仕切っているようだった。
他の人たちが座っているのに、彼は立っていた。

 「一二点質問をしますが、」と、彼は両手をズボンのポケットに突っ込んだまま言った。
「お時間は取らせません。
ご主人の、日曜日に空港へ出発される直前の行動はどんな風だったのか私たちにお聞かせくださいませんか?」

 キャサリンは誰もテープレコーダーをとり出したりメモをとったりしていないのを見た。
ソマーズはほとんど極端にあっけらかんとしているように見えた。
これは公式のもののはずがない、そうよね?

 「お話しするほどの事はあまりありません、」と、彼女は言った。
「いつもどおりでした。
ジャックは午後4時ぐらいにシャワーを浴びて、制服を着て、一階に降りてきて、靴を磨きました。」
 「それで、奥さんはどこにいらっしゃったのですか?」
「私は台所で彼に会いました。さよならって言うために。」

 さよならという言葉が急に悲しみの衝動を引き起こし、彼女は唇をかみしめた。
彼女はジャックが最後に家にいた日曜日を思い出そうとした。
時折、暗闇の中で銀の輝きを放つような、断片的な夢の断片が見えた。
彼女にとってその日は普通の日で何ら特別の事はなかったようだった。
彼女には、台所を通って洗濯室に行く途中で、引っ張り出された引き出しの上のジャックの足が見え、両手に緑色の古いチェック柄のぼろ布が見えた。
彼が私道に向かって歩いて行くときの彼の両腕の長さはカバンの重さでより長くなっていた。
彼は肩越しに何か言った。
彼女はそのぼろ布を手に持っていた。
アルフレッドに電話するのを忘れるなよ、そして、金曜日だって彼に行ってくれ、と彼が言った。

 彼は自分の靴を磨いた。
彼は家を出た。
彼は火曜日に帰ると言っていた。
彼女は玄関で凍り付き、彼が自分でそれをやらないことに当惑していた。
アルフレッドに電話した。

 「あなたが知る限り、ジャックはその日誰かに電話しましたか?」と、ソマーズが聞いた。
「誰かと話したかですって?」
「分かりません、」と、彼女が言った。
彼女は、当惑した:あの日ジャックは誰かと話しただろうか?
勿論、話せたに違いない。
彼女が知る限り、彼は全部で20人の人と話すことができたはずだ。

 ロバートは腕組みをしていた。
彼はコーヒーテーブルに強い興味を持って見ているようだった。
テーブルの上には美術書とジャックと彼女がケニヤから持ち帰った石の皿、スペインから持ち帰った琺瑯塗りの箱があった。

 「ライオンズ夫人、」と、ソマーズは続けた。
「あなたのご主人はあの日かその前の夜、動揺したり落ち込んでいたりしているように思えましたか?」
 「いいえ、」と、彼女は言った。
「いつもと違ったことはありませんでした。
覚えているのですがシャワーが漏れていました。
つい最近修理したばかりなので、彼はそれに少し苛立っていました。
彼がアルフレッドに電話するように言ったのを覚えています。」
「アルフレッド?」
「アルフレッド・ザカリアン、 配管工です。」
「そして彼はいつあなたにアルフレッドに電話するよう頼んだんですか?」
「実は、2度です。一度は、彼が出てゆく10分ほど前に2階で。
彼が車に向かって歩いている時にもう一度。」
「ジャックさんは空港に出発する前に飲酒しましたか?」
「その事には答えないでください、」と、ソファーの前に座っていたロバートが言った。
キャサリンは脚を組んでジャックと彼女が日曜日の夜と続いて夕食の後に飲んだワインについて考え、急いで最後に飲んだ時間と彼のフライトの間の時間を計算した。
少なくとも18時間ある。
じゃあ大丈夫だ。
文章にはなんてあったかしら?
ボトルからスロットル(操縦桿)は12時間、だったかしら?

 「それは大丈夫です、」と、彼女はロバートに言った。
「何も、」と彼女はソマーズに言った。
「全然飲みませんでしたか?」
「全く飲みませんでした。」
「あなたは彼のスーツケースを詰めましたか?」と、彼が聞いた。
「いいえ、私がすることはありません。」
「彼の飛行カバンは?」
「絶対私が詰めることはありません。
私は実質上そこを見ませんでした。」
「あなたは通常彼のスーツケースを開くこともないんですか?」
「ないです、それはジャックの役です。彼は自分でバッグの世話をします。」
 彼女は「世話をする」と、現在形で言う言葉を聞いた。

 彼女は、熱心に彼女を観察している、全ての部屋の中の男たちを見まわした。
彼女は航空会社も彼女に質問したがっているのだろうかと思った。
多分、今すぐ弁護士を伴うべきだろうと考えた。
しかし、それがほんとなら、ロバートはそう言わなかったのだろうか?

「あなたのご主人にはイギリスに親しい友人がいましたか?」と、ソマーズが聞いた。
「彼は定期的にそこの誰かと話していましたか?」
「UKのですか?」
「イギリスです。」
「UKの意味は分かっています、」と、彼女が言った。
「私にはその質問との関連性が理解できません。彼はUKに多くの知り合いがいました。
彼は彼らと一緒に飛びました。」
「あなたの銀行口座からいつもと違った引き出しか振り込みがあったのに気付きはしませんでしたか」と、ソマーズが聞いた。

 彼女は、彼らがこれを何処に繋げようっとしているのか、それがどんな意味を持つのかしらと思った。
彼女は今にもうっかり隙間に足を踏み入れてしまいそうな、揺れ動く地面の上にいるように感じた。

 「私には理解できないのですが、」と、彼女は話し始めた。
「最近の数週間、あるいはいつでも、あなたは自分の銀行口座からの引き出しか口座への入金に気が付きましたか?」
「いいえ。」
「最近数週間にあなたのご主人の普通と違う行動に気が付きませんでしたか?」

 ジャックのために、彼女はこれに答えなければならなかった。
彼女はそれに答えたかった。
「いいえ、」と、彼女は言った。
「普通と違うことは何も?」
「何もありませんでした。」

 航空会社のリタが部屋に入ってきて、男たちが彼女を見上げた。
彼女はスーツの下に首元に宝石をちりばめた絹のブラウスを着ていた。
キャサリンは彼女が最後にスーツを着たのがいつだったのか思い出せなかった。
学校では彼女はいつもズボンとセーターを着ていた。
天気が悪い時には時々ジーンズとブーツたった。

 「ライオンズ夫人?」、と、リタが言った。
「お宅の娘さんから電話がありました。
彼女は今すぐあなたに話すことがあるそうです。」
驚いてキャサリンは椅子から飛び上がりリタについて台所へ行った。
彼女は台所の流し台の上の時計をちらっと見た、9時14分だった。

 「マティー、」と、彼女はカウンターの上の電話を持ち上げた。
「お母さん?」
「どうしたの?大丈夫?」
「お母さん、私テーラーに電話したの。一寸誰かと話したくて。
そして彼女は変な行動をしていた?」
 マティーの声はきつくて高く、差し迫ったヒステリーを激しくコントロールしている事を示していると、キャスリンは以前の経験から知っていた。
キャサリンは目を閉じて、戸棚キャビネットに額を押し付けた。

 「それで私、彼女にそれが何だったのか聞いたの、」と、マティーは言った。
「すると、テーラーがそれが自殺のニュースだって言ったの?」

 キャサリンは電話の向こう側に、目はうつろに大きく見開きパニックになっている、マティーの顔を思い浮かべることができた。
キャサリンはそのニュースがどれほどマティーを傷つけたか、娘がテーラーからその噂を聞くのが嫌だったか、想像できた。
普通の10代の女の子のテーラーはどれほどマティーにそのニュースを伝えるときちょっと得意顔をしただろう。
そしてテーラーはマティーの反応の詳細な様子を他の全ての友人たちに電話して話そうと感じたことだろう。

 「ああ、マティー、」と、キャサリンは言った。
「それは単に噂なの。
ニュースメディアは一つの考えを思いつくと、それを検証するよりも前にそれを流してしまうものなの。
恐ろしいことだわ。
無責任なのよ。
それは本当の事じゃないの。絶対違うわ。
私は航空会社の安全委員会の人たちと一緒にここにいて、彼らは知っていて、強くその噂をとても強く否定しているわ。」
沈黙があった。
「でもママ、」と、マティーが言った。
「もしそれが本当だとしたら?」
「本当じゃないわ。」
「どうしてそれが分かるの?」
キャサリンは娘の語調の中に怒りが含まれているように聞こえた。
疑い様もなく。
なぜ彼女はマティーにあの朝、散歩中にその事実を言わなかったのか?

 「ただ分かるのよ、」と、マティーは言った。
「それは多分ほんとだわ、」と、マティーは言った。
「マティー、あなたはお父さんを知っているわね。」
「多分。」
「それはどういう意味?」
「多分私は彼を知らなかったわ、」と、マティーは言った。
「多分彼は不幸だったのよ。」
「もしあなたのお父さんが不幸だったとすれば、私は分かっていたでしょう。」
「でも、あなたがその人が分かっているのをどうしてわかるの?」

 彼女たちの間の質問と答えの応答のやりとりが一瞬止まり、キャサリンの前で不安の波が押し寄せてきた。
しかし彼女はマティーがどれほど彼女の母に挑みかかってきたとしても、彼女が今不安を望んでいないことが分かっていた。
キャサリンはそのことを確信していた。

 「あなたはそれを感じている、」と、キャサリンは確信というより虚勢を張って言った。
「お母さんは自分が私をわかっていると感じる?」と、マティーは聞いた。
「勿論充分感じているわ、」と、キャサリンは言った。

その後、キャサリンが罠にかかってしまったと気が付いた。
マティーはずっと前からこの手のやり方がうまかった。

 「そう、あなたはそうじゃない、」と、マティーは満足と不安の混じった感情で言った。
「お母さんは私の考えていることの半分は分からないでしょう。」

「いいわ、」と、キャサリンは敗北を認め、譲歩して言った。
「でも、あの事は違うのよ。」
「いいえ、そうじゃないわ。」
キャサリンは手の甲を額に持っていきながら、額を撫ぜながら言った。

「お母さん、もしそれが本当ならお父さんがあの人たちみんなを殺したってことになるの?殺人罪になるの?」

「あなたはどこでその言葉を聞いたの?」と、キャサリンは、まるでマティーが学校や友達から学んできたひどく猥褻な言葉を口にした子供だった時のように、急いで聞いた。
しかし、その言葉は冒涜的だと思った。
ぞっとするような言葉だった。
15歳の娘の口から出たのだから、なおさらだ。
「私はそれをどこで聞いたわけじゃないわ、お母さん。
でも考えることはできるわ、そうでしょ?」
「いい、マティー。ちょっと待っていて、すぐそっちに行くから。」

 「いいえ、お母さん。こっちに来ないで。来てほしくないの。
来て状況を良くしようと私にたくさんの噓をつこうとしてほしくないの。
だって、今私は嘘は欲しくないもの。
それは情況を良くすることはできないし、そんなふりをしたくもないの。
ただ、そっとしておいてほしいだけ。」

どのようにして15歳の少女がそんな妥協することのない正直さを手に入れることができたのだろうか?
キャサリンは不思議に思った。
真実はほとんどの大人が許容できるものを超えていた。
多分、若者は、今まで虚構を作り上げる時間をあまり持ってこなかったぶん、現実にうまく対処できるのだろうと、彼女は考えることにした。

 キャサリンは娘の恐怖や疑念を打ち消す為だけに声を荒げてよう、という衝動を抑えた。
経験から、今はマティに迫ってはいけないとわかっていた。

「お母さん、ここに男たちがたくさんいるの、」と、マティーが言った。
「変な男たちが、そこら中に。」
「分かっているわ、マティー。彼らは報道陣や一般人を家に入れないようにするための警備員よ。」
「変な男たちは入りたがっていると思うの?」

 キャサリンはこれ以上必要以上に娘を怖がらせせたくなかった。

 「そうは思わないわ、」と、キャサリンは言った。
「でも、報道は不愉快なものよ。
ほら、じっと座っていて。私はすぐそっちに着くから。」
「分かった、」とマティーは一本調子に言った。

キャサリンは手に電話を持ったまま、電話が切れたことを悔やみながら、暫く立っていた。
キャサリンは気分を落ち着けようと、すぐマティーにかけなおそうかと思ったが、彼女はそのような努力が無駄なことは分かっていた。
15歳の子供を扱うには時には妥協することも必要なのだとキャサリンは既に学んでいた。
キャサリンは電話を置き居間の敷居の方に歩いて行った。
彼女はドアの枠にもたれかかった。
彼女は胸のところで腕を組んで捜査官とパイロットたちの集まりを観察した。

 ロバートの表情には疑問が浮かんでいた。
「大丈夫ですか、ライオンズ夫人?」安全委員会のソマーズが尋ねた。
「大丈夫です、」と、キャサリンは答えた。
「大丈夫です。私の娘が、彼女の父親が103人の人々を道連れに、自殺をしたかもしれないという事実を受け入れようと必死で苦労していることを別にすればね。」
「ライオンズ夫人・・・」
「ソマーズさん、一つ質問していいかしら?」
キャサリンは娘の言い方をまねた、自分の声に怒りを聞き取った。
多分、怒りは伝染するものなのだとキャサリンは思った。
「ええ、勿論、」と、捜査官は用心深く言った。
「CVRコックピットボイスレコーダーの資料から論理的に考えて、自殺以外にどんなシナリオをあなたは想像していますか?」

ソマーズは当惑しているように見えた。
「今のところ私はそれを議論する自由はないんです、ライオンズ夫人。」
 キャサリンは腕をほどいて、彼女の前で重ねた。
「ほんとうに、そうなんですか?」と、彼女は急いで尋ねた。

彼女は自分の足元を見つめて、居間にいる人々の顔を見上げた。
彼らは窓から入って来る光に照らされ逆光になっていた。

 「それなら私は今あなたの質問に答える自由はありません。」と、彼女が言った。

 ロバートが立ち上がった。
「インタビューは終わりです、」と、彼女が言った。

芝生の上をやみくもに横切って歩き、風に向かって頭を下げた彼女は、芝生の霜の上にうっすらと足跡をつけた。
数分後彼女は海からの波でぬれた花崗岩の岩の防波堤にいた。
彼女は滑りそうになりながら浴槽ぐらいの大きさの石の上に飛び乗り、まっすぐ立っているには、それぞれの岩の上にちょっとだけ降り立って次の岩に飛び移り、動き続けるしかないと感じていた。
このやり方で彼女はマティーが5愛の時に「平らな岩」とあだ名を付けた岩だらけの海の境界にたどり着いた。
その時以来、平らな岩は晴れた日のピクニックの二人のお気に入りのピクニックの場所になった。
キャサリンは岩の端から大きな石に囲まれた1.5m四方の砂浜に跳び下りた。
―そこは戸外の空間で、風をよけられる場所で、隠れ家的な場所だった。
彼女は家に背中を付け、湿った砂の上に座った。
彼女は両腕を袖から滑らせて、ジッパーを下したパーカーの下で自分の胸を抱きしめた。
「もういや、」と、彼女は自分の足に向かって言った。
彼女は頭全体を水の中に突っ込んで、強烈な野望の上に薄い同情のベールをかぶった、家にいる顔の声、鋭い目の下の厳粛な口をした顔を振り払おうとした。
キャサリンは引き波の中で小石が転がる柔らかい音を聞いた。
その小石の中に記憶があり、彼女を惑わせ、からかった。
彼女は目を閉じて集中しようとしたが、一瞬それを諦めた瞬間、それを見つけた。
彼女の父親と彼女が水着で小石の上に座っていて、彼らの下で海が波打ち、腿やふくらはぎの下で小さな石が揺れているところだ。
それは夏の暑い日で、たぶん彼女は9歳か10歳だった。
思い出したが、二人はフォーチュンズロックにいて、小石が彼女の肌をくすぐっていた。
しかし彼女は彼女の母親かジュリアと一緒ではなく彼女の父とビーチにいたのだろうか?
多分、この瞬間、彼女と彼女の父が一緒にいるめったにない出来事だったからだと思い出した。
彼女は思い出したのだが、彼は子供が楽しんでいるような、めったにない様子で、純粋な笑顔で、笑っていた。
そして彼女はこの笑いの中に加わって、単に羽目を外し、しかし―彼女がそこにいるという幸せ―彼女の父親の幸せの姿に圧倒されていたので、奔放というより敬虔な気持ちになり、その結果、混乱してしまったのだった。
そして何か間違っているかと聞こうと振り返った時、彼女は自分が彼を失望させてしまったという否定しようのない感覚を持ってしまったのだった。
そしてそこであまりにも大声で、熱心に、彼が失望を忘れてくれるのを願って笑ったのだった。
しかし、その瞬間は終わってしまい、既に彼は海の方を見ているのだった。
彼女は自分が笑いが空しくわざとらしく聞こえた様子、父親が彼女から目を離した様子、彼自身の空想に夢中になって、そうであればあるほどキャサリンは彼の注意を引くために彼に呼びかけなければならなかったことを思い出していた。

 キャサリンは湿った砂に渦巻き型を描いた。
それは彼女とジャックが共通してやっていたことだったと彼女は思った:
彼女たちは孤児だったのだ。
正確には本当の孤児ではなかったし、全子供時代に渡ってというわけではなかったが、彼らに何が起こっているのかが分からない程若い過ぎる時に二人とも捨てられたのだった。
ジャックの場合、孤児になり方はより一般的に起こった。
彼の母は彼が9歳の時に死に、彼の父は感情を表に出す人ではなかったが、彼の妻が死んだとき明らかに自分自身の中に引きこもりったので、ジャックはいつも独りぼっちだというはっきりした感情を持っていた。
キャサリンの場合、彼女の両親は物理的には存在していたが、感情的には存在していなかったし、簡単な基本的な子供の世話もすることができなかった。
というのは、彼女のほぼ全子供時代をキャサリンと彼女の両親は町の5km西南の狭いジュリアの石造りの家でジュリアと一緒に住んでいたからだった。
イーリーフォールズの工場が閉鎖され始めた時、解雇された彼女の両親二人を、支えていたのはジュリアだった。
キャサリンがたった3歳の時に夫が死んだジュリアは骨董品店の収益でこれを賄っていた。
この普通ではない状況はキャサリンの母とジュリアの関係を改善することはほとんどなく、キャサリンの父親でさえ時には受け入れることが耐え難いと分かるぐらい、ジュリアに家事を切り盛りする地位を与えた。
しかし、キャサリンが少女だった時には、彼女は彼女の家族がどんな点でも普通ではないとは思っていなかった。
彼女の学校では、一年生の時32人だったクラスが毎年減少して卒業の時には18人だけになり、ほとんどの子供たちが限界の生活をしているようだった。
キャサリンにはトレーラーに住んでいる友達がいたし、冬にセントラルヒーティングの無い友達や、彼らのお父さんや叔父さんたちが眠れるように家を暗くしたままの友達がいた。
キャサリンの両親はしばしば喧嘩をして毎日酒を飲み、この事さえ普通でない事ではなかった。
普通でないことは彼らが大人のように振舞わなかったことだった。

 数年の間、キャサリンを食べさせ、服を着せ、読み方を教え、ピアノの弾き方を教えて毎日学校に送り届けたのはジュリアだけだった。
午後にはキャサリンは店でジュリアを手伝ったり、外に遊びに言ったりしたものだった。
彼女たちは一緒に彼女の両親の繰り広げる昼メロを、いつも遠くからというわけではなかったが、ジュリアの背の高い変な形の家の安全な場所から見ていた。
キャサリンの子供時代のほぼ全期間、ジュリアと彼女は、両親にとっての親という不思議な役割をさせられていた。

 キャサリンが大学に行きボストンの寮に座っていた時、自分はイーリーに帰ることはできないだろうと、彼女の両親の終わりない酔っぱらったシーンの繰り返しを見たくはないと、時々確信していた。
しかしキャサリンの一年生の季節にはそぐわない1月の暖かい日の午後、彼女の両親が、どういうわけかそこを渡ろうとして、イーリー滝の径流に落ち、溺れたのだった。
キャサリンは驚いたことに、まるで子供たちが死んでしまったかのように、悲しみに圧倒され、2つの葬儀の後、ボストンに帰る時が来た時、イーリーとジュリアのところを去ることはできないということを発見したのだった。

 ジュリアは少なくとも二人の両親と同じぐらい良かったと今では考えていて、その限りでは彼女は運が良かったのだった。

彼女は彼女の上と後ろの岩の上の足音にびっくりした。
ロバートの髪が彼の頭から逆立っていて、彼は横目で見ていた。

 「君が逃げ出すことを望んでいたんだ、」と言いながら保護された空間に跳び下りた。

 彼女は腕を元のジャケットの袖に通して、彼の顔が見えるように風の中で彼女の髪を押さえようとした。
 
彼は岩に寄りかかって髪を手櫛で元の位置に戻した。
コートのポケットからライターと煙草の箱をとり出した。
彼は風から顔を背けたが、岩に囲まれた避難所なのにもかかわらず、ライターで火をつけるのに苦労していた。
ついに、煙草に火が付き、彼はライターをパチンと閉じながら深くタバコを吸った。
彼はそれをポケットの中に滑り込ませると、風がすぐに煙草の端から燃えさしを吹き飛ばし煙草を消してしまおうとした。

 ロバート・ハートは本当のことを言っているのだろうか?
彼女は思った。
彼は彼女が出て行ったのを喜んでいたのだろうか?
「彼らは行ってしまったの?」と、彼女は聞いた。
「いや。」
「それで?」
「彼らは大丈夫だろう。
彼らはこれをやらなきゃいけないんだ。
僕は、彼らがあなたが何か言うとは期待していなかったと思うよ。」

 彼女は両肘を、立てた膝に置き髪をポニーテールにまとめた。
 
 「お葬式をしなければなりません、」と、彼女が言った。
彼が頷いた。
「マティーと私はジャックを称える必要があります、」と、彼女が言った。
「マティーは彼女の父親を尊敬する必要があります。」

そして彼女は突然、これが真実なのだと思った。
ジャックは尊敬されなければならない。

 「それは自殺じゃなかった、」と、彼女は言った。
「私はそれを確信しています。」

 一羽のカモメが甲高い声を上げて彼らに向かって鳴き、二人は一緒に頭上で弧を描いているその鳥を見上げた。

 「私が小さかったころ、」と、彼女は言った、「よく次に生まれ変わったらカモメになりたいと考えたものです。
ジュリアがカモメがどれほど不潔なのか私に言うまではね。」

 ロバートは「海のネズミ、」と言いながら煙草を砂に突き刺して足で消した。
彼はポケットに両手を突っ込んで、コートの中にさらに深く潜り込んだようだった。
彼は寒かった、彼女にはそれが分かった。
目の周りの皮膚が紙のように白くなっていた。

 彼女は彼女の口に付いた一本の髪の毛を口から取り除いた。

 「イーリーの人たちは、」と、彼女は言った。
「彼らは決して海の上では住まないって言うの。冬は鬱陶しすぎるから。
でも私は一度も落ち込んだことはないの。」

 「君が羨ましいよ、」と、彼は言った。
「そう、私は落ち込んでいたことがあるけれど、それは海のせいじゃないの。」
彼女は、彼の目が茶色ではなくハシバミ色だということが強い光の中で分かった。

 「でも、窓は最悪なの、」と、彼女は家の方を見ながら言い添えた。
「塩のしぶきがね。」

 彼は砂の近くにうずくまった、そこはもっと暖かかった。
「マティーが小さかったころ、私は海に近すぎることを心配したわ。
私はずっと彼女を見ていなければいけなかったの。」

 キャサリンは海を見つめながら、そこにある危険について考えていた。
「二年前の夏、一人の女の子がここから遠くないところでおぼれたの。
5歳の女の子よ。彼女は両親とボートに乗っていて、波で船から外に投げ出されたのよ。
彼女の名前はウイルヘルミナだったわ。
私はその名前が子供に付けるには古風な名前だと思ったのを覚えているわ。」と、彼女は言った。
彼は頷いた。

 「それが起こった時、私が考えることができたことは、海がどれほど不安定かということで、どれほど早く海が人をひったくることができるかということでした。
それはとても早く起こったのよ、そうでしょ?
ある瞬間あなたの人生は正常ですが、次にはそうではない。」

 「あなた方はみんなそのことを知っているべきです。」
彼女はブーツのかかとを砂に突っ込んだ。
「あなたはそれがもっと酷かったかもしれないと思っている、そうでしょ?」と、キャサリンが言った。
「はい。」
「飛行機に乗っていたのがマティーだったかもしれない。」
「そうですね。」
「そのことは耐えられなかったでしょう。文字通り、たえられなかった。」
彼は濡れた砂を両手から払った。
「あなたは立ち去ることができた、そう、あなたとマティーは。」
「立ち去るって?」

 「バハマに。バーミューダに。一二週間、これが収まるまで。」

 キャサリンはたった今マティーとバーミューダにいることを想像しようとした、そして首を振った。

 「それはできなかったわ、」と、キャサリンは言った。
「彼らはジャックの事を本当だと受け取るでしょう。
彼らは私たちが逃げたと思うでしょう。
それにマティーは行かなかったでしょう。
彼女がいくとは思えないわ。」
 「親戚の何人かはアイルランドに行きました、」と、彼は言った。
 「それで?気が狂いそうになっている100人の他の家族たちと一緒にモーテルで泊まるって?
それとも墜落現場に行ってダイバーたちが遺体の一部を引き上げるのを待てって?
いいえ、私はそうじゃないと思うわ。」

 彼女はパーカーのポケットを探った。
使用済みのティッシュペーパー。コイン。
期限切れのクレジットカード。数枚のドル札。ライフセーバーズ・キャンディーの包み。
「一個食べたい?」と、ライフセーバーズ・キャンディーを差し出しながら彼女は聞いた。
「ありがとう」と、彼が言った。

 彼はうずくまっている事にうんざりして、砂の上に岩を背中を付けて立ち上がった。
彼はコートをだめにしてしまうだろうと彼女は思った。
「ここは美しいです、」と、彼が言った。
「世界中でも美しいほうだ。」
「そう。」

 彼女は彼女の両足を前に伸ばした。
砂は湿っていたが、奇妙に暖かかった。

「これがなくなるまで、メディアは容赦ないだろう、」と彼は言った。
「申し訳ありません。」
「あなたのせいじゃないわ。」
「門でのあの光景の様なのは今までに見たことがないよ。」
「怖かったわ。」
「あなたはここでとても静かな生活を送ってきたに違いない。」
「静かな、普通の生活よ、」と、彼女は言った。
彼は膝をひじのあたりに巻き付け、両手を体の前で組んでいた。

「このことの前はあなたの生活はどんな風だったのですか?」
「毎日決まって何をやっていたのですか?」
「日によって違っていたわ。どの日について聞きたいの?。」
「ああ、分からないけど、木曜日は?」
「木曜日?」
彼女はちょっと考えた。
「木曜日は、マティーはフィールドホッケーかラクロスをやっていたわ。
私はお昼にバンド。
カフェテリアでピザの日よ。
夕食にはローストチキンを食べたの。
「隣のサインフェルド」と「救急救命室」(どちらもTVドラマ)を見たわ。」
「それでジャックは?」
「ジャックがいるときは、そこにいたわ。
彼はそれを全部やったの、ゲームを。」

ローストチキン。「隣のサインフェルド」。
あなたはどうなの?
組合で働いていないときは何をしているの?」

「私は教官です、」と、彼は言った。
「空いた時間はバージニアの空港で飛行の訓練をさせています。
それは単に古いセスナでやる暇つぶしです。
生徒が降りてこないとき以外は、楽しいものさ。」
「何が降りてこないですって?」
「初めての単独飛行ソロフライトの生徒がね。」
 彼女は笑った。

 彼らは気楽に黙って岩にもたれかかって座っていた。
気持ちを落ち着けるような海の音は一瞬静かだった。

 暫くして彼女は「多分、私は葬儀の詳細を考えなければいけないわね、」と言った。

 「それをどこでやりたいのか今までに考えたことがありますか?」
「イーリーフォールズのセントジョセフじゃなくといけないと思うわ。」と、彼女が言った。
「あそこが一番近いカソリックの教会だから。」
彼女はそこで口をつぐんだ。
「彼らは私に会ってびっくりするでしょうね。」と彼女は言った。
「ああ、」ロバートは言った。
この反応に混乱して、彼女はロバートが彼女の袖を引っ張るのを感じて、立ち上がった。
彼女はロバートが見たものを見ようと振り返った。
ポニーテールの若い男がテレビほどもある大きなカメラで彼らを狙っていた。
キャサリンは自分とロバートが大きなレンズに映っているのが見えた。
 彼女は柔らかいカシャカシャカシャというプロの仕事の音を聞いた。

彼女が帰った時、彼らは台所にいた。
ソマーズは手でファックスを巻き取っていて、リタは顎の下に電話を抱えていた。
キャサリンは上着を脱ぐこともなく、短い声明を発表すると告げた。
ソマーズはファックスから目を上げた。

 「私の夫ジャックは私や他の誰にも不安定さ、薬物の使用、アルコールの乱用、うつ病、身体的病気の兆候を示したことは決してありません、」と、彼女は言った。
彼女はソマーズがファックスを四角く折りたたむのを見ていた。

 「私が知る限り、」と、彼女は続けた、「彼は心身ともに健康でした。
私たちは幸せに結婚しました。
私たちは幸せで、小さなコミュニティーの中で暮らしている普通の家族でした。
私は弁護士の同席以外では他のどんな質問にも答えないつもりですし、この家から法的に正当な文書を伴わず何も持ち去ることはでできません。
皆さんご存じのように、私の娘はこの町の私の祖母の家にいます。
いかなる方法ででも彼女たちがインタビューを受けることはありません。
以上です。」

 「ライオンズ夫人、」と、ソマーズが言った。
「あなたはジャックのお母さんに連絡されましたか?」
「彼の母は亡くなっています。」とキャサリンはすぐに答えた。

 それから、それに続く沈黙の中で、彼女は何かが間違っていることが分かった。。
多分、おそらく、ほんのわずかに眉を上げた瞬間、ソマーズの顔には微かに微笑みの様子が浮かんでいた。
いや、これらの信号を想像したのは多分そのちょっと後だった。
その沈黙は9人の人がその部屋にいたのにもかかわらず完璧なものだったので、彼女に聞こえたのは冷蔵庫のぶんぶんいう音だけだった。

 ソマーズは「そうじゃないと思いますよ、」と柔らかに言い、ツルツルの四角に降りたなんだものを胸ポケットに入れた。

 床は遊園地で乗り物に乗って急降下し水を被った様だった。
ソマーズはもう一つのポケットからメモの切れ端をとり出した。

「マティガン ライス」、と彼は読んだ。
「フォレストパーク老人ホーム、アダムストリート47 ミネソタ州ウエスリー。」

 乗り物はスピードを増し15mほど落下した。
キャサリンは頭がくらくらし、めまいを感じた。

「72歳、1924年10月22日生まれ、」と、彼が読み上げた。
「3度結婚。3度離婚。最初の結婚はジョン・フランシス・ライオンズ。子供一人、息子、ジョン・フィッツウィリアム・ライオンズ、ボストンのフォークナー病院にて、1947年4月18日誕生。」

 キャサリンの口はカラカラになり、彼女は上唇を舐めた。
恐らく彼女がちゃんと知らなかった何かがあったんだ。

 「ジャックのお母さんが生きているんですか?」と、彼女は聞いた。
「そうです。」
「ジャックはいつも言っていました・・・・」
彼女はそう言って言葉を留めた。
彼女はジャックが言っていたことについて考えた。
彼の母は彼が9歳の時に死んだ。
癌で。
キャサリンは急いでロバートの方を見て、彼の顔の表情から彼もまた面食らっているのが分かった。
彼女は、ほんの数秒前に自分が発言した傲慢さ、独りよがりの確信について考えていた。
「明らかにそうです、」ソマーズが言った。
調査官はこれを楽しんでいるんだとキャサリンは思った。
「どうやって彼女を見つけ出したのですか?」と、彼女は聞いた。
「彼女は彼の軍の記録に記載されていました。」
「それでジャックの父親は?」
「亡くなっています。」

 彼女は近くの椅子に座り、目を閉じた。
彼女はぼんやりと酔ったような感じがし、部屋が彼の瞼の内側で不快に回っていた。
彼女はずっと考えていたが全然知らなかったのだ。
ずっと、マティーが祖母だった。
彼女の名付け親に当たる祖母。

 しかし何故?
彼女は自分に聞いた。
ジャック、何故?
彼女は彼女の夫に無言で聞いた。

彼らは霧の中をビーチ沿いに歩いている。
マティーはレッドソックスの上着を着てカニを探すために前を走っている。
海岸は平らで奥行きがなく貝殻のように曲がっいて、砂は風化した木のような色をしていてその表面に沿って海藻でまるで書が書かれているようだ。
護岸の向こうには夏の家があり、今は無人だ。
キャサリンは、たった五歳のマティーに靴を脱ぐように言うべきだったと遅ればせながら気が付いた。

 ジャックの肩は寒さに逆らって前かがみになっている。
彼は最も寒い日でもいつも皮のジャケットを着ていて、パーカーを買おうとはせず、それとも多分見栄っ張りなのか、彼女には正確なところは分からない。
ジャケットの下には彼女自身のネルのシャツ着ていて、マフラーを首に二重に巻いている。
― 何か問題でも? と、彼女が尋ねる。
― 何も。と彼が言う。― 大丈夫だ。
― なんだか元気ないわね。
― 大丈夫だ。

 彼はまっすぐ前を向いて、両手をポケットに突っ込んで歩いている。
口を堅く結んで。
彼女は彼を動揺させた何かが起こったのだろうかと思う。
― 私が何かやった? と、彼女は聞く。
― いいや。 と、彼は言う。
― マティーは明日サッカーの試合があるのよ。と彼女が言う。
― いいね。 と彼が言う。
― あなたはそこにいられるの? と、彼女が聞く。
― いや、旅行がある。

一瞬の沈黙がある。
 ― ええと、と、彼女は言う。
― たまには、もっと自由な時間や、家にいる時間を増やすようなスケジュールを組むのもいいんじゃないかしら。

彼は黙っている。
― マティーが寂しがっているわ。
― いいかい、と、彼が言う。
― これ以上私を苦しめないでくれ。

 彼女は目の端ではマティーがビーチで円を描いて回るのを見ている。
キャサリンは気が散って、不自然と思われる重力によって彼女の横の男に引き付けられているように感じる。
彼女は彼が大丈夫と感じているのか分からない。
多分彼は単に疲れているのだろう。
彼女は統計の話を聞いていた。:ほとんどの航空会社のパイロットは60歳の定年になる前に死ぬ。
それはストレス、普通でない日程からです。
身体の消耗からだ。

彼女は彼の方を向いて、硬直した彼の腕に手を回す。
彼はまだ真っ直ぐに前を向いている。

― ジャック、教えて。何なの?
― 忘れてくれないか?
彼女はむっとして腕を放し歩き去る。

― 天気のせいさ、と、彼は彼女に追いつきながら言う。
― 分からないよ。
今や謝るかのように、なだめるかのように。
― 天気ですって?
彼女はそう簡単に慰められはしないわよとでもいうように冷たく聞いた。
― 灰色だ。 霧が。嫌いなんだよ。
― それが大好きだとはだれも思わないと私も思うわと、彼女は冷静に言う。
― キャサリン、君は分からないんだよ。

 彼はポケットから両手を出して寒さに抗するように襟を立てた。
彼は彼の皮のジャケットに体をより深く突っ込んでいるようだ。
― 今日は僕の母の誕生日なんだ、と、彼は静かに言った。
― それとも、誕生日だったかもしれない。
― ああ、ジャック、と彼女は彼の方に向かいながら言う。
― 言ってくれればよかったのに。
― 君は運がいいよ、と、彼は言う。
― 君にはジュリアがいて運がいいよ。
  君には両親がいなかったって言ったけど、いたんだ。

 これは彼女に聞こえてくる嫉妬の声ですか?

― そうね、私にはジュリアがいて運がいいわ、と、彼女は同意する。

ジャックの顔は頑なで赤みを帯びていた。
彼の目から寒さで涙が出ている。
― あなたのお母さんが死んだときはひどく悪かったの? と、彼女は聞いた。
― その事については話したくない。
― あなたがそうなのは分かるわ、彼女は優しく言う。
― でもそのことについて何か言うと、気分が良くなれるわよ。
― そうとは思えないね。
― 彼女は長いこと患っていらっしゃったの?
彼は言いよどむ。
― あまり長くじゃない、すぐだった。
― 何だったの?
― 言ったと思うけど、癌だったんだ。
― いいえ、それは分かっているけど、と、彼女は言う。
― どんな種類の癌だったのという意味よ。
彼はちょっとため息をつく。
― 乳癌、と、彼が言う。
― 当時はその種類の治療法は無かったんだ・・・・

 彼女は自分の手を彼の腕に置く。
― その年頃に母親がいないで残されるなんてひどい事だわ。と、彼女が言う。
マティーよりたったの4歳しか年長じゃない、と彼女は突然思って、その認識が彼女全体を凍り付かせる。
母親なしに残されるマティーのことをと思うと胸が痛む。

― 彼女はアイルランド人だったってあなたはおっしゃっていたわね。
― 彼女はそこで生まれた。
  彼女の声は美しく、きれいな発音だった。
― お父さんもいた。
 ジャックは短い嘲笑的な声を出した。
― お父さんは正確には正しい言葉じゃないね。
 親父はろくでなしだった。

ジャックがめったに使わないその言葉に彼女はショックを受けた。

 彼女は彼のジャケットのジッパーを開けて彼女の両腕を中に入れる。
 
― ジャック、と彼女が言う。

彼は少しだけ軟化して彼の頭を自分の方に引き寄せる。
彼女は海の香りの混じったレザーの匂いを嗅ぐ。

― それがなんだかは分からないけど、と彼が言う。
― 時々怖くなるんだ。
  時々、灰色の日々に自分の中心がないと思うことがあるんだ。
信念が無いんだ。
― いいえ、あなたは信念を持っているわ、と、彼女は急いで言う。
― これは本当よ。
― あなたにはマティーがいるわ、と、彼女が言う。
― もちろん、分かっているよ。
― 私たちには充分じゃない? と、彼女が聞く。
― マティーはどこだ? と、彼が突然体を放しながら聞く。
キャサリンは突然周りを見回し、海岸を見る。
ジャックが最初に灰色の中に短い赤い閃光、彼女を見つける。
キャサリンは不思議なことに麻痺してしまっていて、ジャックが砂を横切って急ぎ足で波の中に入っていくのを見つめていた。
彼女は終わりのない時間を待ち、その後でジャックが波の中から子犬の様にマティーを掴むのを見る。
彼は娘を逆さまに腰に抱きかかえ、彼女はしばらくの間彼がマティーを犬を乾かすように振るだろうと思っている。
しかしその後彼女は聞きなれた泣き声を聞く。
ジャックは海岸にひざまずいて皮のジャケットを急いで脱いで小さな体を包む。
キャサリンが二人のところに着いたとき、彼は自分のシャツの端で娘の顔から海水をふき取っている。
 マティーは驚いているように見える。
― 波が彼女を押し倒したんだ、と、ジャックが息を切らしながら言う。
― そして引き波が彼女を外に連れて行ったんだ。
キャサリンはマティーを引っ張り上げて両腕に抱きかかえる。
― さあ、行こう、と、ジャアックが静かに言う。
― すぐに彼女は凍えてしまうだろう。
彼らは急いで家に向かって歩き始める。
マティーは海水で咳をし、ゼイゼイ言っている。
キャサリンはなだめる言葉をつぶやく。
マティーの顔は寒さでほてっている。

 ジャックはまるで彼の娘がへその緒で繋がっているかのように、マティーの手をつないでいる。
彼のズボンはびしょ濡れで、シャツは袖を下した状態だ。
キャサリンは、彼も寒いはずだと考えている。
彼がマティーを見つけるのが間に合わなくて起こったかもしれないことを考えると、彼女の腕とひざは力が抜けてしまう。

 彼女は砂浜で急に立ち止まり、ジャックは自然な動作で、両腕で彼女とマティーを抱く。

 ― 私たちには充分よね?と、彼女はもう一度訊ねる。

ジャックが首をかしげてキャサリンの額にキスする。

― 何が足りないの? と、マティーが訊ねる。

               Ⅱ

時として、それは11日間の内に3,4年を生きた様だった。
別の時には、ロバート・ハートが彼女の家の前に立って「ライオンズ夫人ですか?」という一言をつぶやいたのがほんの数分前の様でもあった。
その言葉が彼女の人生を変えたのだった。
彼女は、彼女がジャック・ライオンズに初めて会って恋に落ちて、人生が時間ではなく分きざみに測られる様な崇高な2,3日を除いて、時間がそんな風に同じところをぐるぐる回っていた事を思い出すことはできなかった。

 彼女は、腕を伸ばし、赤く塗った椅子の向こうに海が見えるように頭を枕から少し上げて、予備の部屋の寝台兼用の長いすに横たわっていた。
彼女が車で家に送ってもらった時には晴れていたが、今は空は雲に覆われ始め、水の入ったグラスの中の牛乳の雫のように雲が渦巻いていた。
彼女は自分の後頭部から髪留め蝶型クリップを引っ張って外し床に投げた。
クリップは磨いた木の床を滑り幅木のところで止まった。
その日の朝、彼女は家に入って彼女と、ジュリアの家から帰ってきたマティーが、もう一度二人の生活を始める為に、過去11日の全ての痕跡をきれいに掃除して失くしておくつもりだった。
その行為は称賛に値するものだったが、台所に入り床に散らばりジャックと彼女とマティーの写真が一面に載っている新聞の積み重ねを見た時、彼女の勇気はしぼみ消えてなくなってしまった。
その新聞の1部が床に落ち、タイルの上に小さなテントを作っていた。
テーブルの上にはパラフィン紙に包まれた岩のように固くなったベーグルと、カウンターの隅には半ダースの半分開いたダイエットコーラの缶があった。
しかし誰かが親切にもゴミ箱からごみを持ち出したので、家は彼女が恐れていたほどひどくは臭わなかった。
階段を上がってジャックの事務室のドアを開けて、引き出された引き出しと床の上の散らかった書類と、パソコンのない奇妙な空の机の上をじっと見た。
彼女にはFBIが捜索令状と文書をもってやって来るだろうことは分かっていたが、それがいつなのかは正確には知らなかった。
彼女はクリスマスの2日前の葬儀の日以来帰っていなかった。
葬儀の後すぐワシントンに帰ったロバートもそうだった。
ジャックの事務室のドアを閉めて、キャサリンは長い廊下を歩き控えの間に入りベッドに横になった。

彼女はそんなに早く帰ってきてバカだったと思っていたが、家を永遠に無視することはできなかったのだ。
掃除はしなければならなかった。
キャサリンはジュリアが来てくれることは分かっていたが、それを自分に許す事はできなかった。
ジュリアは、葬儀やキャサリンとマティーの世話だけでなく、彼女自身の研ぎ澄まされた義務感からも、体を壊してしまうくらい疲れていた。
:ジュリアは、クリスマスに殺到するショップの注文に応えようと決心していた。
キャサリンは個人的にはこの見当違いの努力が彼女の祖母を殺してしまうかもしれないと思っていたが、ジュリアの義務感を説得して辞めさせることはできなかった。
そして彼女たち二人は、時々はマティーも手伝って、数日の長い夜を箱詰めと梱包と包装とリストから名前と住所を確認することに費やしていた。
そしてその仕事をやる中で、キャサリンはその仕事が穏やかな癒しになると思った。
ジュリアと彼女は、彼女たちが文字通りもう文字が見えなくなるくらい仕事をして眠ったので、彼女たちが運命的に持ち合わせている不眠症を避けることができた。

 しかし今朝、キャサリンはジュリアにベッドにいるように言って、たいして驚くことではないけれど、ジュリアは最終的にはいやいやそのことを承諾したのだった。
マティーも遅くまで寝ていて、午後の早い時間までベッドにいたかもしれない。
というのは、彼女はここ数日そうしていたからだ。
実際、キャサリンは彼女の娘が数か月の間平和な昏睡の中で眠りつづけ、その後に長く眠り続けた気怠さの中で目を覚ますことを望んでいた。
そうすれば、いつもとんでもなく新鮮な痛みに何度も襲われることはないだろう。
マティが長い間眠っていたのはその恐ろしい瞬間を先延ばしにするためだったのだとキャサリンは思った。

 キャサリンは彼女自身で昏睡状態に入ることを望んだ。
そのかわり、彼女は個人的な気候のシステムの中にいると感じていた。
その中で彼女はニュースと情報に絶え間なく揺らされ打ちのめされ、時にはすぐ前にあるものについての考えに身も凍る思いをし、他の人々(ジュリアとロバートと見も知らない他人)の親切さにその思いを溶かしてもらって、しばしば状況や場所を考慮していないように見える記憶に頻繁に浸され、その後記者、写真家、好奇心旺盛な見物人のほとんど耐え難いほどの熱にさらされた。
それは論理のない、パターンのない、前進のない、形のない気象システムだと彼女は決めていた。
彼女は時には眠れず、食事もとれず、最も奇妙なことには、たった一つの記事さえも最後まで読めなかった。
そしてその題材がジャックや爆発だったからではなく、彼女が必要な集中力を奮い起こすことができなかったためだ。
また別の時には、ジュリアやマティーと話している時、彼女は最初が何だったかを忘れないで一つの文の終わりに達することができなかったし、瞬間瞬間に、関わっている仕事が何だったのかを思い出すことができなかった。
時折彼女は電話に耳を当てて、番号して、誰に何のために電話したのか思い当たらない事に気が付くのだった。
彼女の心は混乱しているように思えた。まるで脳の周りで彼女をじらしている重大な事実があるかのように、彼女がそれについて考えていなければならない詳細が、覚え続けていなければならない記憶が、彼女の範囲を超えた問題に対する解決策がそこにあるかのように。

 しかし、もっと悪いことは、相対的に穏やかな瞬間に、突然怒りに負けてしまう瞬間だった。
その怒りを彼女が適切な人物や事柄に対していつも付与することができるわけではないためにより混乱してしまう。
それは醜いモザイクの小さな石の破片で構成されているように見えた。
:ジャックに対するイラつき、まるで彼が彼女の横に立っているかのように、彼が彼女に生命保険の代理人の名前を告げることを怠ったというような些細な事や、(そのことは簡単に自分で会社に電話すればわかるし、実際彼女はそうした)、彼が永遠に彼女のもとから去ってしまったという、より罪のないしかし完全に彼女を非常に怒らせる事のために。
又は数年来ジャックとテニスをしてきたアーサー・カーラーに対する怒り。
彼はある日インガーブレットストーンで彼女と会った時、彼女をまるでぼんやりした毒物のように扱ったのだ。
旅行者のカップルがジュリアの店の前で触れ合っているのを見た時でさえ(このカップルはジャックと彼女がいる前からいたカップルとは違うカップルなのに)彼女に彼らが店に入ってきたとき話しかけることもできないほどの怒りをキャサリンの中に引き起こしたのだった。

 キャサリンはもっと適切なもっとはっきりした怒りの対象がいることは知っていたが、どういうわけか、メディア、航空会社、頭字語で呼ばれる代理店、および文句ばかり言っている傍観者たちの前では、ほとんどの場合、自分が無口で無力であることに気づいたのだった。
電話で、路上で、葬儀場で、文句ばかり言っている傍観者にかき乱され、脅かされた。
一度などは、退屈なテレビ上でさえ、女性が路上の男に事故の調査についてのコメントを求めた時、男がカメラに向かってキャサリンが事故についての重大な情報を隠していると非難したのだった。

安全委員会の面談のすぐ後、ロバートはドライブに行こうと示唆した。
彼らは家を離れて、車の方に歩いて行った。
彼が彼女のためにドアを開けて、ドアが閉まった直後に彼女が何処に行こうとしているのか聞いた。
 「セントジョセフ教会です、」と、彼は急いで答えた。
「何故?」と、彼女が聞いた。
「私は、あなたが神父と話すべき時だと思うからです。」

 彼らはイーリーを通り抜け塩生湿地サルトマーシュを横断してイーリーフォールに続く道を横切って、廃工場や1960年代から更新されたことのない看板のある店先を通り過ぎた。
ロバートは汚れを落とす必要のある、キャサリンが今まで入ったことのない、暗いレンガの大建造物、教区司祭館の前に車を止めた。

子供の頃、キャサリンは毎土曜日の午後よくイーリーフォールへ友達とバスに乗りセントジョセフに懺悔に行ったものだった。
暗い信者のための長いすに一人で座って、一見したところ湿気のある石の壁やエビ茶色の厚手のカーテンの付いた複雑に湾曲した木の間仕切りにうっとりしたものだった。
その後ろでは彼女の友人たちが罪を告白し(それがどんな罪だったのか今となってはキャサリンは想像することもできないが)、ほれぼれするような十字架の道行きの絵の列(それは彼女の最も親友だったパティー・レーガンが以前一度キャサリンに説明しようとしたことがあったができなかったものだ)。
それにパティーが出てくるときに、お金を払って灯をともした蠟燭を入れるけばけばしい赤いガラスの球。

キャサリン自身の子供の頃の教会、イーリーのハイストリートにあるセントマシューメソディストはそれに比べてほとんど攻撃的というぐらい地味だった。
茶色の板張りの教会で、黄色い木できちんと整えられて、日曜の朝には太陽がさんさんと降り注ぐ長い輻輳した窓が付いていた。
それはあたかもその建築家が特にプロティスタントの教義の光と空気をデザインの中にっ取り入れようと特別に意識したかのようだった。
5年生になるまでだったが、その年頃には聖書の物語は昔ほど彼女を魅了することはなかったが、ジュリアはキャサリンを日曜学校に連れて行った。
そしてその時以降、クリスマスやイースターにジュリアと一緒に行くことを除き、キャサリンはそんなには教会に行かなくなってしまったのだった。
キャサリンは時々マティーを日曜学校に行かせない事に、自分の娘にキリスト教について学び、彼女自身でその正当性を決める機会を許さなかった事を親として小さな罪悪感を感じていた。
キャサリン自身はそうすることを許されていたのに。
キャサリンはマティーは神について考えたことはほとんどないのだろうと思っていたが、今回の事で彼女は間違っていたのかもしれないと知った。

 彼女たちが結婚してすぐの頃、ジャックはカソリックの教会を攻撃的に軽蔑していた。
彼はチェルシーの聖名学院に通っていたが、体罰を含む最悪の物を提供していたのだった。
それはキャサリンにとって彼女自身のよりももっと悪い学校生活を想像することは困難だった。
彼女の学校生活は大変酷くぼんやりしたものだったのでキャサリンがエリー小学校での年々について考えた時思い出したイメージは埃だらけの廊下のことだった。
しかし最近ジャックの教会への反感は弱まり、彼女は彼が心変わりをしたのかしらと思っていた。
彼はそのことについて語らなかったので彼女は話題にすることができなかった。

 彼らは車から出て、大きな木のドアをノックした。
黒い剛毛の頭髪の背の高い男がベルの音に応答した。

 「ひどい死がありまして、」と、ロバートが即座に言った。

 神父は静かに頷きロバートからキャサリンの方に目を移した。

「こちらはキャサリン ライオンズさんです、」と、ロバートが言った。
「昨日彼女のご主人が飛行機事故で亡くなったんです。」

キャサリンには神父の顔から一瞬血の気が無くなりそして戻ってきたように思えた。

「わたしはポール・ルフェーヴル神父と申します、」と彼は手を差し伸べながら二人に言った。
「どうぞおはいり下さい。」

彼らは神父に続いて鉛ガラスの開き窓と一目見て何千冊もの本がある様な大きな部屋に入った。
ポール神父は彼らに小さな黒い暖炉の格子の周りの椅子に座るように手で合図をした。
彼は40歳後半のように見え、彼の黒いシャツの下は普通ではないぐらい筋肉質で引き締まっているように見えた。
彼女は、神父は体型を維持するために何かしているのだろうか、ジムに行ってウエイトリフティングをするのを許されているのだろうかと、そこに座りながら、ぼんやりと考えていた。

 ポール神父が座った時、「夫に敬意を表したいのです、」と、キャサリンは言った。
彼は膝にメモ帳とペンを持っていた。

 キャサリンはもっとはっきりした言葉を探したが見つけることができなかった。
ポール神父はゆっくりと頷き、理解したように見えた。
実際、キャサリンはこの会見の間中、カソリックの神父は彼女が必要とするよりことと彼女の直前の未来について、彼女自身が知っているより、ずっと多くの事を知っているという、明確な印象を持っていた。

 「私はカソリックではありません、」と、彼女は説明した。
「しかし私の夫はカソリックでした。
彼はカソリックとして育ち、カソリックの学校教育を受けました。
彼がずいぶん長い間教会に行かなかったことは申しわけない事ですが。」

 神父がこれを受け入れた時、少し沈黙があった。
キャサリンはジャックの事でなぜ自分が謝る必要があるのか疑問に思った。

 「それで、あなた自身はどうなんですか?」と、ポール神父は聞いた。

 「私はメソジストとして育ちましたが、教会にはあまり行きませんでした。」

 いや、彼女とジャックは日曜日の朝教会に行ったことはなかったわ、と彼女は思った。
日曜日の朝は、ジャックが家にいる時は、二人とも眠りのはざまでベッドで目を覚まし、お互いの間には気怠い気安さがあり 、言葉を交わすこともなく、一日という感覚もなく、責任の代わりに夢を追いかけます—そしてその後、ジャックが眠っている間に腕の曲がりくねった部分に横たわっていました。 
 「知らせるべきご家族は他にもいらっしゃいますか?」と、神父が訊ねた。
キャサリンは躊躇して、ロバートを見た。

 「いいえ、」と、彼女はカソリックの神父館の中で神父に嘘をついていると気が付いて居心地悪く思いながら言った。

 「ご主人の事を教えてください、」と神父は静かに言った。

 「彼は昨日彼の飛行機が爆発して死にました、」と、彼女は言った。
「彼はパイロットでした。」

 ポール神父は頷いた。
「新聞で読みました、」と、彼は静かに言った。
 キャサリンはジャックの事をどんな風に説明したらいいか考えた。

「彼は善良な人でした、」と、彼女は言った。
「勤勉で.... 愛情深い。彼は娘と特別な関係を持っていた。. .」

キャサリンは両唇を強く結んで、すぐに目が涙でいっぱいになった。
ロバートが近寄って彼の手を彼女の手の上に置いた。
神父は彼女が落ち着くのを辛抱強く待った。

 「彼は一人っ子でした、」と、キャサリンは途切れ途切れに言った。
「彼の母は彼が9歳の時に死にました、そして彼の父は彼が大学にいる時に死にました。
彼はボストンで育ち、ホリークロスに行きました。
彼はベトナムで戦いました。
私は彼が貨物便のパイロットだった時に、後で会いました。
今は彼は・・・として働いて・・・」

 彼女は話すのをやめて、首を振った。

 「彼は釣りとコンピュータをいじるのが好きでした、」と、彼女は話を続ける事ができるようになったときに言った。

「彼はテニスをやりました。
彼は娘のマティーと多くの時間を過ごしました。」

 これらのことは事実だわ、と、彼女は考えたが、本当のジャック、彼女が知っていた、愛していたジャックはそれらの中にはいなかった。

 「彼は危険なことが好きでした、」と、彼女は突然言って神父を驚かせた。
「彼は雨の日が好きではありませんでした。
彼はピザをオイルをふき取ってから食べていました。
彼の好きな映画は「目撃者」でした。
私は彼が悲しい映画の終わりに泣いているのを見たことがあります。
彼は交通渋滞には耐えられませんでした。
彼は渋滞を避けるためだけに高速道路を降りて80kmも迂回することもありました。
彼は特に着こなしが良いというわけではありませんでした。
仕事では制服を着ていて、服の事は決して気にしませんでした。
彼は彼の好きだった皮の上着を持っていました。
彼は大変優しく愛情深い人だったかもしれません・・・」

 彼女は目をそらした。

 「そして、あなたは?」と、神父が聞いた。
「あなたはどうだったのですか?」
「私?」と、キャサリンが聞いた。
「私は打ちのめされたような気持ちです。」

 神父は心得顔で頷いた。
まるでセラピストの様だわ、と彼女は思った。

 「そして、あなた方の結婚は?」と、神父が聞いた。
「結婚はどんな風だったのですか?」

 キャサリンはロバートをちらっと見た。

「良い結婚でした、」と、彼女は言った。
「私たちは近しい関係でした。
ほとんどの夫婦以上に長く、長い期間愛し合っていたと言えるでしょう。」
そうですね、他の人の事はどうかは分かりませんけどね。
それはあなたが推測することでしかありませんが。」

 「そして、それらから何が起きたのですか?」と、神父が聞いた。

 「それから?」と、彼女が繰り返した。
「それから、私たちはお互いに愛し合ってきました。
私たちは愛し合っている状態から、ただ愛している状態へと移行したのです。」
 「ただ愛すことが神があなた方に求める全ての事なのです。」と、神父は言った。

 彼女の全結婚生活の中で彼女は一度でも神が何を求めているかなどと考えたことがあっただろうか、とキャサリンは考えていた。

 「私たちは16年間結婚していました、」と、彼女は言った。
神父は脚を組んだ。
「ライオンズ機長は戻ってきましたか?」
「帰ってきたですって?」と、彼女が最初はびっくりして聞いた。
「ご遺体の事です、」と、神父が言った。
「遺体はありません、」と、キャサリンは急いで言った。
「夫の遺体はまだ見つかっていないのです。」

「それでは、あなたは追悼式のことをおっしゃっているのですよね。」
キャサリンは助けを求めてロバートを見た。
「そうだと思います、」と、彼女は言った。
「それでは、」と、ポール神父は言った、「私たちは2つの事のうちのどちらかをやることができます。
私たちはライオンズ機長の追悼式をやることができますが、その場合クリスマスの前にやることをお勧めします。そうすれば、クリスマスが、あなたと娘さんにとって悲劇ではなく、癒しのプロセスの一部になるかもしれません。」

キャサリンはこのアイディアを考えたが、それには希望を感じなかった。

 「それとも、」と、神父が付け加えた、「ご主人が発見されるまで待つこともできますよ。」

 「いいえ、」キャサリンは激しく言った。
「娘のためにも、私のためにも、ジャックのためにも、私たちは、今ジャックを称える必要があるのです。
彼らは新聞やテレビで彼を十字架に張り付けにしているんです。」

 彼女は「十字架にはりつけにする」と言ってしまった自分の言葉を聞いて、神父の前でその言葉を使ってしまったことを恥ずかしく感じた。
しかし、起こっていることは事実ではないのでしょうか?と、彼女は考えた。
彼らはジャックの名誉を、彼の思い出を磔にしていたのだった。

 「彼らは彼は有罪で、103人の人々を殺した、と言っていました、」と、キャサリンは言った。
「もしマティーと私がジャックを称えないとしたら、誰がやるのか私にはわかりません。」

 神父は彼女をじっと見ていた。
彼女はそれ以上詳しく説明する事はできなかったが、「追悼式をおこなって彼を称えてください、」と、付け加えた。

 「それに、私は・・・」
彼女は咳払いをして真っ直ぐに座りなおそうとした。
「遺体があるだろうとはとても思えないのです。」

その夜、ジュリアとマティーが寝室に行ったずっと後、キャサリンはジュリアのうちの台所を歩き回りながら、彼女は結局ポール神父にジャックの生きている身内、ジャックの母親がいることを言わなかったことが正しかったのだろうかと考えていた。
彼女の息子が死んでしまったことをその女性に知らせないのはキャサリンにとって間違った事なのだろうか?
と、彼女は逡巡した。
彼女はそうではないと思ったが、ジャアックの母親が生きているという考えは、ジャックに似た老女が養老院に座っているという考えは、いなくなればいいのにと思っている蚊がすっと回りでぶんぶん鳴いているように、キャサリンを居心地の悪い気持ちにさせた。
キャサリンを困らせたのは、単にジャックが彼女に嘘をついていたと言う事を発見したと言う事ではなかった。
:それはその女性自身が、キャサリンがどう関係したらいいのか全く分からない女性が、存在し続けることだった。
キャサリンは衝動的に壁の電話に近づき、番号案内に電話を掛けた。

 正しい電話番号が分かり、彼女は老人ホームに電話を掛けた。

 「フォレストパークです、」と若い女性が答えた。

「ああ、こんにちは、」と、キャサリンは神経質に言った。
「マティガン・ライスさんとお話がしたいのですが。」

 「わあ、驚いたわ、」とその女性は言った。
彼女はチューインガムか何か食べているる、とキャサリンは思った。

 「こちらは、ライスです。今日三度目の電話です、」と女性は付け加えた、「そして、とにかく彼女には、えっと、6か月間電話はかかってこなかったのに。」

 女性はストローで飲み物を吸っているようなチューチューいう音を立てた。

 「それに、いずれにせよ、」と、女性は続けた。
「ライス夫人は電話に出られません。
彼女は自分の部屋から出られないのです、それ以外のすべての問題に加えて、彼女は耳もあまりよく聞こえないんです、だから電話に出るのは問題外なのです。」

 「彼女の具合はどうですか?」と、キャサリンは聞いた。
「ほぼ変わりません。」

 「ああ、」と、キャサリンは言った。
彼女は躊躇した。
「思い出そうとしているのですが・・・」と、彼女は付けくわえた。
「ライス夫人が老人ホームに入ったのは正確にはいつでしたっけ。」

 電話の向こう側で沈黙があった。

 「あなたは親戚ですか?」と、若い女性は用心深く聞いた。
キャサリンはその質問をじっくり考えた。
彼女は親戚だったのだろうか?
ジャックは、彼自身の理由で、彼の母が生きていることを認めないことを選んだので、どこからどう見ても、彼女は親戚ではなかった、確かにキャサリンにとってもマティーにとっても。
それにキャサリンは何の目的があってマティガン ライスを復活されられるべきのか全く確信が持てなかった。
ジャックが自分の母について嘘をついたのは恥ずべきことだったのだろうか?
彼と彼の母親との間には取り返しのつかない仲たがいがあったのだろうか?

 「いいえ、私は親戚ではありません、」と、キャサリンは言った。
「彼女のご子息の告別式が予定されているんです、それで彼女にお知らせしたいと思いまして。」
「彼女の息子さんが亡くなったですって?」
「そうです。」
「ご子息の名前は何ですか?」
「ジャックです。ジャック ライオンズ。」
「わかりました。」
「彼は航空機事故で殺されました、」と、キャサリンは付け加えた。
「本当ですか?
あのヴィジョン航空の墜落事故ってことですか?」
「はい。」
「まあ、なんてことでしょう、恐ろしいことですね?
どんな男が自殺をして無実の人々を彼と一緒に連れて行ったのでしょう?」

 キャサリンは沈黙していた。

 「そう、ライス夫人の息子さんがその飛行機に乗っていらっしゃったと聞いたのは初めてです、」と、その女性は言った。
「あなたは私に彼女に伝えてほしいですか?
彼女が理解できるとは確約はできませんが・・・」

 「はい、」キャサリンは冷静に言った。
「私はああなたが彼女に伝えてみるべきだと思います。」
「多分、まず私の上司に話した方がいいでしょう。
そうですね、聞いてください、ご連絡くださりありがとうございます、それと、あなた自身はそのフライトに親戚が載っていなかったことを望んでいます。」

 「実のところ、乗っていたのです。」
「まあ、なんてことでしょう、お気の毒に。」
「私の夫がパイロットだったんです。」と、キャサリンが言った。

神父との話し合いの後、ポール神父とキャサリンはしばしば話しをし、神父は2度ジュリアの家を車で訪れた。
教区司祭館での最初の話し合いでは、ロバートは警備の必要性を強調したが、実際にそれが起きた時には自信過剰ではあったが、ポール神父は彼のあずかり知らぬことだと思っているわけではなかったようだ。
ポール神父はそれ以上の事は要求しなかったが、キャサリン自身は繰り返し「名誉」という言葉以上の事は得ることができなかったし、そのことをありがたく思っていた。
今、彼女がポール神父の事を思った時、それは安堵の身震いとともにあった。
というのは、もし彼のしっかりした手がなかったなら、どんなに準備をしても大失態になってしまっていただろうからです。
そのため、彼女とジュリアとマティーは通りを確実に通りぬけられるように時間より1時間も早く教会に行かなければならなかった。
通りはその後救急車でさえも通れないぐらい渋滞してしまったのだから。
マティーは短い黒の上着と長い灰色の絹のスカートを着ていた。
ポール神父が、お父さんは今安全に着陸しましたよと言った時、彼女は激しく震えた。
ジュリアとキャサリンはスーツを着て手をつないでいた。
というか、ジュリアがキャサリンの手を持っていて、キャサリンがマティーの手を持っていて、この強さの受け渡し、一方から他方へまた他方へと力の意思表示がキャサリンを助け、マティーとジュリアもそうだっただろうと彼女は思ったのだが、礼拝を乗り切らせたのだと思った。
しかし後で、キャサリンが信者用のベンチから立ち上がって教会の後ろの方に顔を向け、ダークスーツを着たたくさんの航空会社から来た、そのほとんどがジャックに会ったことがない、パイロットたちの列を、また、彼女の教室から来た、そのうちの何人かは既に卒業していてこの行事のために帰ってきた、生徒たちの列を見た時、彼女はためらい、その後つまずいた。
そして突然、役割を逆転させたマティが彼女を支え、抱き起こしたのである。
マティーとキャサリンとそしてジュリアはその後長い通路を歩き、キャサリンは多分、今や彼女の人生で最も長い歩行になってしまったと思った。
というのは、彼女が歩いている時、彼女は教会のドアに着いて、外で彼女を待っている黒い車に滑り込んだとき、ジャックと一緒の彼女の人生は本当に終わってしまうだろうというはっきりした感覚を抱いたからだった。

 次の日、新聞に、キャサリンがセントジョセフから出て来る写真があり、彼女はインガーブレトソンの外のスタンドで、数誌の新聞の一面に彼女の画像が繰り返し掲載されていることに驚いただけではなく、その画像自体にも驚いた。
悲しみが顔を変えてしまっていて、そのためにその顔はほとんど分からないくらい、曲がったへこみとくっきりとした線と緩んだ筋肉が見られた。
写真では、娘の支えている腕に掴まってキャサリンは茫然自失の態で数歳年をとってしまっているように見えた。

 今、彼女はあれこれの写真を見て顔をしかめた。
最も不運なものは、ビーチの避難所にいる彼女とロバートの写真で、ロバートが彼女の袖を引っ張っているものだった。
二人は一瞬追い詰められて困っているように見えた。
それはロバートが実際写真家の恥を知らないご都合主義にひどく怒った、特別に痛々しい写真だと思っていて、今でもロバートが岩を登るときに、その写真家を芝生の上を横切って追いかけて行った時にその男に向かって怒鳴っている声が聞こえるようだった。
そしてその後、ロバートの怒りと、写真家を追いかけて行った行為はキャサリンを正当性のある信頼感で満たしたので、彼女は家に入るときにある宣言をしようかと心が動いた。
宣言はソマーズがジャックの母親について彼女に言った時にすぐに消えてしまった。

 インガーブレトソンでのその日の後、キャサリンは新聞を見ることやテレビを見ることをやめた。
告別式の次の夜だけにしようと思っていたジュリアの家への訪問は、クリスマスとその後も続けられた。
キャサリンは、マティーと同様、彼女自身の家にもう一度入ることはできず、マティをドアから回れ右をして出てゆかせる可能性のある人工物が取り除かれるまで、マティに家に帰るように頼むことは合理的ではなかった。
たった一度だけ、ジュリアの所で、テレビが不注意にもつけっぱなしになっていて、キャサリンが何が起こっているのかわかるよりも前に、ヴィジョン航空384便の爆発に続くコックピットの中で出来事のアニメを見ていることに気が付いた。
順を追って、二回目の爆発の間に、飛行機の機体からコックピットが壊れてはずれ、それ自体が小さな破片に分解された。
アニメーションは多くの部品が海中に落ちて行くときの軌道を示した。
レポーターによれば、その墜落はほぼ90秒かかっただろうという事だった。
キャサリンはその画面から目を離すことができなかった。
彼女は小さなアニメのコックピットが水の中に弧を描いて落ちてゆくのを目で追った。
それは小さなアニメーションの水しぶきとくぼみを作った。

 
乳白色の渦巻が徐々に厚くなり、雲の層は控室の窓から入り込む光を薄暗くした。
キャサリンは昼寝用の長いすに座り、今掃除を始めようと決めた。
彼女は廊下で足音を聞き両脚を長椅子の脇に置いた。
結局、手伝いに来るのはジュリアだろうと彼女は思っていた。
しかし、キャサリンが目を上げると、彼女は廊下に立ったいるジュリアではなくロバートハートを見た。

 「あなたのお祖母さんのところに行きました、」と、彼はいきなり言った。
「そして彼女があなたがここにいるって言ったので。」
彼は両手を彼の、はっきりしない、多分茶色がかった灰色の、スポーツコートに突っ込んでいた。
彼はジーンズをはいていて様子が違って見えた。
彼の髪は風に吹かれて、まるでちょうど今指で髪をすいて整えたかのようだった。

 「僕は仕事でここにきているわけじゃないんだ、」と、彼は言った。
「2,3日休みがあって。君がどうしているか知りたかったんだ。」
彼は部屋の中に足を踏み入れた。

 彼女は彼が後ろのドアをノックしたのだろうかと思い、もしそうだったら、どうしてその音が聞こえなかったのだろうと不思議に思った。

 「あなたに会えてうれしいわ、」と、彼女はそういっている自分に驚きながらも言った。

 そして、そのことは本当だった。
彼女は全ての重荷ではないが小さなゼラチンの様な何かが彼女の肩から滑り落ちるのを感じた。

 「マティーはどんな具合ですか?」と彼が部屋を横切って赤いラッカーで塗った椅子に座りながら聞いた。

 キャサリンは、薄緑ライムグリーンの壁を背にして赤い椅子に座る男、それは面白い写真になるだろうと、突然思った。
魅力的な男だ。
惹きつけられる顔。
富士額とほこり色の髪は、彼がポケットに手を入れて前かがみに座っている様子と相まって、漠然と英国人のように、第二次世界大戦の映画のキャラクターのように見せた。
映画の中によく登場する脇役の中にいる人物だ、と彼女は思った。

 「ひどいものだわ、」と、キャサリンは、マティーの事を尋ねてくれる人がいたことに安堵しながら言った。
ジュリアの疲労は、キャサリンが自分の個人的な心配事で彼女の母を心配させすぎようとするくらいほどひどいものではなかった。
ジュリアの疲れはどんな78歳の女性が耐えなければならないものよりも充分ひどいものだった。

 「マティーは混乱しているわ、」と、キャサリンはロバートに簡素に伝えた。
「彼女はびくびくしているのよ。神経質になっているのよ。
彼女は何に対しても集中できないのよ。
或る時はテレビを見ようとしてももはやそれも安全じゃない。
それがニュースの速報じゃないとしても、そこにはいつも何か彼女のお父さんを思い出させるものがあるの。
昨夜、友達と一緒にいるためにテーラーの家に行き、彼女は慰めようもないくらいの状態で帰ってきました。
家にいたテーラーのお父さんの友達がマティーに裁判はあるのか聞き、マティーはその場で気絶してしまいました。
テーラーのお父さんが彼女を家まで送らなければならなかったのよ。」

 キャサリンは知っていたのだが、ロバートは彼女をじっと観察していた。

 「分からないわ、」と、彼女は言った。
「心配なの、ロバート。本当に心配なの。マティーは傷つきやすいの。壊れやすいの。
彼女は食事をとらないの。時々彼女はヒステリックに笑うし。
彼女はもはや何に対してもちゃんと反応しないし。
だけど何が適切なのかを知りたいものだけどもね。
私はマティーに生活は崩壊しないし、私たちは全ての決まりを破ることはできないわ、と言ったの、するとマティーは、全く正しいことに、全ての規則は既にや敗られてしまっているわ、と言ったの。」
彼は男たちがするように足首を膝の上にのせて、脚を組んだ。

「クリスマスはどうだった?」と、彼が聞いた。
「悲しかった、」と、彼女は言った。
「惨めなものよ。一分一秒が哀れだったわ。
最悪なことには、マティがどれだけ一生懸命だったかということよ。
まるで彼女がその事をジュリアと私に借りがあるかのように。
まるで彼女が何か彼女の父親に借りがあるかのようだったわ。
私たちは全部の事をキャンセルしてしまえばよかったと思っているほどよ。
あなたのクリスマスはどうだったの?」

「悲しい物さ、」と、彼は言った。「惨めだったよ。」
キャサリンは笑った。
「ここで君は何をしているんだい?」と、かれは何か手がかりでそれが分かるかのように、部屋を見渡しながら聞いた。
「私は家を掃除する必要が無いようにしようとしているの。
私はいつもある種の隠れ家としてこの部屋を使っていたの。
私はここに隠れているの。
あなたはここで何をしているの?がより良い質問ね。」
「僕は数日休みがあるんだ、」と、彼は言った。
「だから?」
 彼は組んだ足をほどいて彼のズボンのポケットに手を突っ込んだ。

「ジャックは彼の最後の夜をクルーのアパートで過ごさなかったんだ、」と、彼が言った。
 部屋の中の空気が厚く重くなった。
 「彼はどこにいたの?」と、キャサリンは静かに訊いた。

 キャサリンは、人はどれほど早く答えを知りたくない質問をすることができるものだろうかと思い、それは初めてのことではないとも思った。
まるで精神の一部が他の部分が生き残るためにあえてそれをするかのように。

 「我々にはわかりません、」と、ロバートは言った。
「あなたが知っているように、彼はクルーのたった一人のアメリカ人でした。
飛行機が着陸した時、マーチンとサリバンは彼らの車で別々に家に帰りました。
私たちはジャックが、どんなに短い滞在でも、アパートに行ったことは知っています。
というのは、彼は2つの電話をしていたからです。
一つはあなたに、もう一つはレストランにその日の予約にです。
しかし、メイドによると、誰も月曜日の夜はアパートで寝なかったと言う事です。
安全委員会は明らかにだいぶ前からその事を知っていたようです。
今日のニュースで流れるでしょう。正午の。」

 キャサリンはベッドにあおむけに寝て天井を見つめた。
彼女はジャックが電話をかけた時家にいなかったので、彼は留守電にメッセージを残していた。
「ハイ、ハニー、着いたところだ。何か食べに降りて行くところだ。アルフレッドに電話したかい?
すぐ電話しなさい。」と、彼は言っていた。

「私はあなたを驚かせたくはなかった、」と、彼は言った。
「私はあなたを一人にしておきたくはなかった。」

 「マティーが・・・、」と彼女は言った。
「僕はジュリアと話したんだけど、」と、彼は言った。
彼は立ち上がって、部屋を横切って、その端の方にほとんど座っていない状態で、仮眠用の長いすに座った。
彼のシャツは暗い色の綿で、キャサリンがそれもトープ色(モグラの茶色がかった灰色)と呼べるのかしらと思えるぐらいの、考えようによれば灰色だった。

 彼女の心は押しつぶされ、圧縮されたように感じた。
もしジャックがクルーのアパートで寝なかったとすれば、彼はどこにいたのだろうか?
彼女はそれを考えたくないと思い、目を閉じた。
もし誰かが彼女に聞いたら、彼女は彼の夫は絶対不誠実ではないと確信していると言っただろう。
ジャックらしくなかった、と、彼女はロバートに言いたかった。
絶対彼じゃなかったわ。

 「これで終わりだ、」と、ロバートが言った。
「それは自殺ではなかったわ。」彼女は少なくともそう言わなければいけない気がした。
彼女は絶対それを感じた。

 彼は手を伸ばし、自分の手を彼女の両手に重ねた。
彼女は本能的に手を引き離そうとしたが彼はそれを押しとどめた。
 彼女は尋ねたくなかったが、訊ねなければならなかったし、彼が彼女の質問を待っていることが分かっていた。
彼女は彼女の手を引っ張りながら、ゆっくり立ち上がり、今度はロバートは手を放した。

 「予約は何人分だったの?」と、彼女はできるだけ何気なく聞いた。
「二人分だった。」
彼女は唇を引き締めた。
それは必ずしも何か意味するわけではない、と彼女は思った。
ジャックと彼のクルーのメンバーの一人のためだったことは容易にあり得ますね、そうでしょう?
彼女はロバートの視線が窓の方に行き戻ってくるのを見た。
メンバーのうちの誰だろうか?彼女は思った。

 「ジャックが家にいないときはどうやって連絡を取り合っていたんですか?」と、ロバートが聞いた。
「彼が電話をかけてきていたの。」と、彼女は言った。
「その方が簡単だったの、私の予定はいつも同じだったから。
彼はクルーのアパートに着くとすぐ私に電話していたわ。
私から連絡しなければならないときは彼のボイスメールにメッセージを残しておいたの。
私は彼が何時眠るか分からなかったのでそんな風に決めたんです。」

 彼女はそのやり方について考えてみた。
それは彼女の考えだったのか、ジャックのだったのか?
彼らはずっとそれをやって来ていて、それがいつ始まったのかさえ思い出せなかった。
そしてそれが何時も論理的なシステムで疑問をさしはさむにはあまりにも実用的だと思われたのだった。
奇妙なことに、一つの方向から見ると、ある事実が、一つのことである。
そして、別の角度から見ると、まったく別のものである。
そう奇妙でもないような気もする。
 「明らかに、私たちはクルーに聞くことはできないわ、だめよ。」と言った。

 彼女は自殺のうわさを知った日にマティーが聞いた質問を考えていた。
:どうやってその人のことを知ることができるの?
 
 キャサリンは立ち上がって窓の方へ歩いて行った。
彼女は古いスエットシャツを着、ずっと履きっぱなしの膝のすり切れたジーンズをはいていた。
靴下さえも清潔ではなかった。
今日、誰かに会うなんて思ってもいなかった。
悲しみは、まず外見から入るものだと彼女は思った。
それともそれは威厳だったのか?

 「私はもう泣けないの、」と、彼女は言った。
「その部分は終わったの。」
「キャサリン・・・」

「それは前例のない事なのよ、」と、彼女は言った。
「それは絶対に前例のない事なの。
定期便で、自殺の罪で追及されたパイロットはいないわ。」

 「実は、」と、ロバートが言った。
「前例のない事じゃないんだ。一件ある。」

 キャサリンは窓の方から振り向いた。
「モロッコで。
ロイヤルエアモロッコの定期便が19994年の8月にアガディールの近くで墜落した。
モロッコ政府はCVRテープに基づいて墜落は機長の自殺が原因だと言った。
明らかにその男は意図的にオートパイロットを外し、航空機を地面に向けたんだ。
飛行機は衝突前に分解し始め、44人が死亡したんだ。」
 「何という事でしょう、」と、彼女は言った。
 彼女は両手を目の上に置いた。
一瞬だとしても、機長自身が自殺しようとしているのを見た時の副機長の恐怖を、客室内の乗客たちの恐怖におののく困惑を、理解しないことは不可能だった。

「彼らは何時そのテープを公開するの?」と、彼女が聞いた。
「ジャックのテープを。」
ロバートは首を振った。
「公開するとは思えないね、」と、彼は言った。
「彼らにはそうする義務はないんだ。
記録テープは情報公開法から除外されているから。
テープが公開されたとしても、それらの内容は機密情報ではないか、あるいは厳しく検閲されたものだ。」
「じゃあ、私は永遠にそれを聞けないってことね。」
「そうだと思うよ。」
「でも、それじゃあ・・・私たちは何が起こったのかどうやって分かるというの?」
「3か国の30の別々の機関がこの墜落に取り組んでいる、」と、ロバートが言った。
「私を信じてください、組合は誰よりも自殺と非難される事を嫌っています、自殺の気配さえもです。
ワシントンの下院議員はみな、パイロットの心理テストを厳しくするよう求めています。組合の見解からすれば悪夢だ。この事件の解決は早ければ早いほど良いのです。」

キャサリンは血行を良くしようと腕を擦った。
「それって全部政治的なことでしょう?」と彼女は言った。
「通常はね。」
「それがあなたがここにいる理由なのよね。」
彼はベッドに黙って座っていた。
彼はベッドシーツを掌で伸ばした。
「いや、」と彼は言った。
「今のところそうではありません。」

 「じゃあ、あなたがここにいるのは・・・?」
「私がここにいるのは、」と、彼は彼女を見上げながら、言った。
「私は単にここにいる。」

 彼女はゆっくりと頷いた。
彼女は微笑みたかった。
彼女はロバートハートに、彼がそこにいてくれてどれほど嬉しいか、一人ですべてを耐えるのがどれほど辛い事か、彼女が必要とする一人の人物、ジャックが一緒にいなくてどれほど辛かったか伝えたかった。

 「それは良いシャツなの?」と、彼女は急いで聞いた。
「それほどいい物じゃないけど、」と、彼は言った。

 「家事をしたい気分でしょ?」

雨が講堂の大きなガラスをはめた窓の外を激しくたたいていた。
部屋は古く、傾いていて、1920年に建てられて、いまだに改装されていない。
壁は木の羽目板で、そこここに愛の宣言とイニシャルが彫られている。
決してちゃんと機能しないと思われる重厚なエビ茶色のカーテンがステージの両側に掛かっている。
容赦なく長年にわたってペンやポケットナイフで突いたり引き裂いたりされた座席だけが取り換えらえていた。
今や、観客はイーリー・フォールズ映画館の建物が銀行を立てるために取り壊された時、映画館から取り外された座席に座っている。

 講堂は、バンドが「威風堂々」の演奏と勇敢に格闘している間に、両親たちでいっぱいになっている。
キャサリンはステージのすぐ下の場所で指揮をして、23人の高校生の音楽家たちを説得して、卒業生の行進曲をなんとか演奏できるようにしていた。
クラリネットのスーザン・インガルは酷く調子外れに演奏していて、バスドラムのスペンス・クロッソンは今夜は特に緊張しているようで、1小節ごとにほんの少し遅れている。

 残業だわ、キャサリンは思った。
他の仕事だったらこれは残業と呼ばれるものだわ。

 運が良いことに、これは卒業式ではなくただの授賞式の夜です。
キャサリンはバンドに5人の上級生を抱えていて、そのうちの二人が学業賞を受賞するでしょう。
彼女は、それは小さな学校では数少ない利点だと思っている。
授賞式の夜は普通は短い。

 彼女の指揮棒はまだ彼女の手にあり、彼女はジミー・デマルティーノ(チューバ)の隣に座っている。
彼女は、スーザン・インガルスを舞台裏に連れて行き、クラリネットを調律しようとするメリットについて議論します。
校長が挨拶し始め、副校長と上級クラスの卒業生総代の話に続くだろう。
キャサリンは集中しようとしたが、彼女の気持ちは家に帰って今夜やらなければならない成績表について気が掛かっていた。
学年の最後の数週間はいつも忙しく感情に支配されやすい。
ここ5日は毎日、卒業生彼ら28人全員が、卒業式のために「威風堂々」で行進を練習できるように、昼食時間に彼女はバンドの練習を指揮していた。
この1週間、この曲が下手な演奏でも、涙を誘わないことは一度もなかった。
しかし卒業式の日までには、全ての涙が使い切ってしまわれ、切ない心の痛みは充分演奏され、卒業生たちは来るべき夜通しのパーティーの事だけを考えることになるだろうとキャサリンは思っている。
毎年それは同じだ。

 スピーチが終わり、校長が表彰を発表し始める。
キャサリンは腕時計を見る。
外で30分、と、彼女は計算する。
その後、バンドは「トランペット・ヴォランタリー」を演奏するだろう、みんな家に帰り、彼女は二年生の歴史のクラスの成績表を計算し始めることができる。
マティーは明日数学の期末試験がある。 彼女は拍手、名前が読み上げられるときの期待の静けさ、別の拍手、時には群衆からの口笛を聞く。
最前列の最上級生が壇上に上がり手にリボンのかかった巻物や、時にはトロフィーを抱えて戻って来る。
彼女の横でジミー・デマルティーノが傑出した物理学の学術的達成の賞を受ける。
彼女は彼のチューバを彼がステージに上がっている間持っていた。

 30分が経って、キャサリンは式進行の中で、その夕べが終わりに近づいている合図の静寂に耳を傾ける。
準備のため彼女は立ち上がって指揮者席に向かって歩き、音楽家たちに彼らの楽器を取るように気付かせるために手でちょっとした合図をする。
彼女はスタンドの楽譜を変え、始められるよう両手を彼女の前に組んで待機する。

 しかし彼女は間違っている。
校長は終わらない。
与えるべき賞がもう一つあるのだ。
 
 キャサリンは「可能な限り最高のスコア」と 「2 年生」という言葉を聞く。
一つの名前が呼ばれる。
少女が立ち上がりキャサリンにクラリネットを手渡す。
白いTシャツ、短い黒のスカートとワークブーツと言う格好で少女はステージに上がる。
観客は、その達成したことへの称賛と、集会が終わることへの安堵の気持ちの入り混じった中で、拍手を送る。
キャサリンはマティーのクラリネットを自分の腕の下に抱えて、誰よりも大きな拍手をする。
ジャックがここにいれば、とキャサリンは思う。
後で、キャサリンはバンドの部屋でマティーを強く抱きしめる。
― 私はとても誇らしい気持ちよ、と、彼女は言う。
― お母さん、と、マティーは息を切らせて言う、
― お父さんに電話して言っていい?本当にそうしたいのよ。

 キャサリンは一瞬考えた。
ジャックはロンドンにいて、次の飛行に備えて眠っているだろう、しかし彼女は彼がこの事で起こされることを気にはしないだろうとは分かっている。
― 勿論よ、とキャサリンはマティーに言う。
― いいんじゃない?校長室の電話が使えるわ。

 彼女が持っていた名刺の番号を使って彼女はクルーのアパートに電話をするが返事が無い。
彼女は電話を置きもう一度やってみる。
窓を通し、風が通りに一陣の雨を運んでいるのが見える。
キャサリンは、呼び出しを繰り返すだけでも彼女が彼に連絡しようとしているというメッセージになると考えながら三度目をやってみる。
ロンドンでは今朝の1時半だ。
彼はどこにいるのだろう?

― 家から電話しましょう、と彼女は笑顔でマティーに言う。

 しかし家で彼女がロンドンの番号に電話した時も、まだ返事はない。
キャサリンはマティーが見ていないところで2回、三度電話する。
彼女は留守電にメッセージを残す。
あの夕方の熱中と誇り高い気持ちが消え始めるのを感じながら、キャサリンはジャックに連絡を取る努力を止め、ブラウニーを作る。
マティーも興奮しすぎて数学の試験に身が入らず、彼女の母親がバターを混ぜている間、台所のテーブルに座っている。
今までで初めて、彼女たちは大学について議論し、キャサリンは彼女が今まで考えもしなかった学校について考えている。
彼女は自分の娘を少し新しいやり方で見る。

 マティーが眠る頃には、キャサリンは無理をしていた元気がしぼみ始める。
彼女は遅くまで起きていて、成績表を計算する。
彼女は真夜中にロンドンの番号に電話する、ロンドンでは朝の5時だ、そしてクルーのアパートで誰も電話を取らず電話が鳴り続けるのを聞き、苛立ちを覚える。
一時間後には、ジャックはアムステルダムとナイロビへの飛行のため空港へ出発しなければならないだろう。
その時彼女は彼に何か重大なことが起こったのではないかと心配になる。
彼女はしばらくの間、怒りと心配の間を揺れ動き、その後カウチで膝の上に成績表と電卓を載せて眠り込んだ。

 彼は1時15分前に電話をした。
彼の時間で6時15分前だ。
彼の途切れとぎれの大声が彼女の目を覚ます。
― キャサリン、何なんだ?何が起きたんだ?大丈夫か?
― あなたはどこにいたの?
  彼女は意識朦朧として立ち上がって尋ねる。
― ここだよ、と彼が言う。
― 僕はここにいたよ。僕はちょうど留守電をチェックしていた。
― 何故電話に出なかったの?
― 僕は電話の呼び出し音を切っていたんだ。
  僕は疲れ切っていて、眠らなきゃいけなかったんだ。
  僕はインフルエンザにかかっているかもしれないと思うんだ。

 彼女は彼の声が詰まっているのが聞こえる。
定期便は悪名高い風邪の温床だ。
― 緊急事態でなくてよかったわ、と彼女は声に不快感を顕わに、答えた。
― ほら、本当にごめん。
  でも、僕は疲れていたんだ、眠ることの方が大事だと思ったんだ。
それで、何なんだい?と、彼は聞いた。
― 何のニュースかだって?
― 言えないわ。マティーが自分で言いたがっているわ。
― 悪い事じゃないよね?
― いいえ、素晴らしい事よ。
― ヒントをくれよ。
― いいえ、言えないわ。約束したんですもの。
― あなたが今すぐ彼女を起こしたくはないと思っているのはわかるわ。
― 飛行中に彼女に電話するよ、と彼が言う。
― 彼女が起きる時に時間を合わせて電話するよ。

 キャサリンは目を擦る。
電話越しに小さな沈黙がある。
彼女は今直ぐ夫の顔を見たいと思っている。
彼女はクルーのアパートに這って行って、彼と一緒にベッドに潜り込みたいと思っている。
彼女は一度もクルーのアパートを見たことはなかった。
無菌室だと彼はそれを表現していた。
ホテルのスイートのようだと。
― それじゃあ、と、彼女が言う。
― キャサリン、本当に悪かった。
 会社に緊急の場合に留守電を迂回して受信できるシステムを付けてもらうよ。
ポケベルを付けるよ。

彼女は電話口でため息を付く。
― ジャックあなたはまだ私を愛している?
彼はちょっとの間黙り込んだ。
― 何故、君は聞くんだい?
― 分からないわ、と彼女が言う。
― あなたがしばらくそう言ったのを聞いていないからだと思うわ。
― 勿論愛しているよ、と、彼が言う。
彼は咳払いをする。
― 本当に愛しているよ。もう寝なさい。7時に電話するよ。

 しかし彼は電話を切らない、彼女も切らない。
― キャサリン?
― 聞いているわ。
― 何か問題でもあるのか?

 彼女は何が悪いのか正確には分からない。
彼女は何となく無防備感、あまりにも長い間一人置き去りにされた高揚感、を感じるだけだ。
それは自分が疲れているだけかもしれない。

― 私は冷静よ、と彼女はマティのその時の表情を借りて言う。
― 君は冷静だよ、と、ジャックが言う。
― そうよ、とりあえず。
彼女は夫が笑っているのが見えるようだ。
― 後で、と彼は言い電話を切る。
― 後で、と繋がっていない電話を持ったまま、彼女は言う。

彼らは部屋から部屋へと動き回り、塵を払い、掃除機をかけ、タイルを洗い、ごみを運び、ベッドを作り、洗濯ものをかごに入れた。
ロバートはこれらの仕事を男らしくやり、彼女は、彼がベッドメークはずさんだが、台所は上手で、彼は台所でまるでその床にお仕置きをしているかのようにごしごし洗っているのに、気が付いた。
彼女の寝室とマティーの寝室でロバートと一緒にいる事で、潜在的に危険なものは取り除かれた:
椅子の上に放り投げられたシャツはロバートが他の洗濯物の束と一緒に床の上に投げたシャツにすぎなかった。
寝具は寝具で、他の全ての物の様に洗濯が必要だった。
彼はジャックの仕事部屋から捨てられた書類を引っ張り出して、キャサリンがしなければならなかったように、それらをいちいち調べることなく、全部引き出しに入れ引き出しを閉めた。
マティーの部屋では、キャサリンは、ロバートが、彼女がためらうのはその部屋なのではないかと恐れ、彼が詮索しているのを感じたが、彼女は彼も自分自身も驚くぐらい、特に迅速に効果的であった。
むしろより平然と、ロバートがクリスマスツリーを下すのを手伝い、二人で台所を通り枯れたツリーを後ろの廊下まで引っ張り出した。
ツリーはそのとげとげを床板とタイルの上に落とした。
掃除を終える時までには、乳色の空の渦は低い鉛色に汚れた塊に取って代えられていた。

 「雪が降るらしいよ、」と、彼がホースで台所のシンクを流しながら言った。
 彼女は流し台の下の食器棚を開け浴室用洗剤、パインソル、コメット(商品名、どちらもマジックリンみたいなもの)を仕舞った。
彼女は両手にスプレーをかけてホースで洗いお皿を拭くための布巾で拭いた。

 「お腹が空いたわ、」と、彼女が家を掃除し終わった時にいつも感じる穏やかな満足感を感じながら言った。
お風呂に入った後のような。

 「いいね、」と、彼が振り返って言った。
「車の中にロブスターを買って来てあるんだ。」
彼女が眉をひそめた。
「インガーブレッツォンで買ったんだ、」と、彼が説明した。
「ここに来る途中でそれらを買ったんだ。我慢できなかった」
「私がエビが好きじゃないかもしれないじゃないの、」と、彼女が言った。
「僕は食器棚の引き出しの中にエビカニ用のクラッシャーとピックを見たんだ。」
「洞察力があるのね」と、彼女が言う。
「時にはね。」

 しかしそこに立っていて、彼女は突然ロバート・ハートがいつも観察者であることを嗅ぎ取っていた。
いつも注意深く見ているのだ。

キャサリンが前室で食器を用意している間にロバートはエビを料理した。
乾いた雪が降り始め雪片が静かに窓ガラスに降っていた。
キャサリンは冷蔵庫を開けビールを2本とり出した。
一本を開けてもう一本を開けようとしてロバートが飲まないことを思い出した。
彼女はロバートに気付かれないように2本のビンを冷蔵庫に戻そうとした。
「どうか、ビールを飲んでください。かまわないよ。実際、君が飲まない方が気になるから。」と、ストーブの所からロバートが言った。

キャサリンは時計を見た。:12:20分だ。
時間切れだ。
封筒が再び開き始めた。
今日は金曜日だった。
普通、彼女は学校にいて、5時間目です。
普通、ビールは飲まないでしょう。
しかし、今はクリスマス休暇中で、彼女は論理的には1月の2日まで仕事に戻ることはありませんでした。
彼女は教室でどうやればいいのか想像できなかった。
生徒たちが廊下を動いているイメージが沸き上がってきたがそれを追い払った。

 12時5分前にロバートは電話の全ての呼び出し音を切った。
1、 2時間待てないほど緊急なものは何もない、と彼は言って、彼女はそれに同意した。

 その勢いで、彼女は前室の窓の近くのテーブルに赤い花の付いた布を掛けた、その布の華やかさは外の空の陰気さとは不釣り合いだった。
ロバートはBBキングの音楽をかけた。
キャサリンは花があればいいのにと思った。
しかし、本当のところ彼女は何をお祝いしているのだろうか?
彼女は何となく後ろめたい気持ちがした。
この11日間を、生き残ったからだろうか?
家の掃除をしたからだろうか?
彼女はエビを食べる道具と、殻を入れるボウル、パン、溶かしバター、厚手のペーパータオルをテーブルに置いた。
ロバートが台所からロブスターの乗った濡れて滑りやすい皿を持って前室に入ってきた。
彼のシャツの前の部分には水が付いていた。

 「お腹がペコペコだよ、」と、彼は皿を置いて彼女の前に座りながら言った。
 彼女は彼女の前のロブスターを吟味した。
そして素早い強烈な記憶の衝撃がもう一度彼女を襲ったのはその後だった。
彼女は急いで顔をあげそれから窓の方を見た。
彼女は手を口の所に持って行った。
「どうかしたかい?」と、ロバートが聞いた。
彼女は首を横に振った。
彼女はじっと立ち、イメージの中に閉じ込められ、裂けめに落ちるのではないかと恐れ、敢えて前後に動くことをしなかった。
彼女は深く息を吸い込み、息を吐き出し、テーブルに手を置いた。

 「思い出していたの、」と、彼女は言った。
「何を?」
「ジャックと私の事。」
「ここでの?」 
彼女は頷いた。
「こんなことをしていた事を?」
こんな風だった、と、彼女は言いたかったが、そうではなかった。
初夏の事で、カーテンは開いていた。
マティは友達の家に行っていて、一日の遅い時間、4時か5時近くだった。
光線は独特で、海藻のようにゆらゆらと緑色に揺れていたことを覚えている。
彼らはシャンペンを飲んでいた。
彼女たちは何を祝っていたのだろうか?
思い出せなかった。
多分何も祝っていなかったのだ、多分自分たち自身を祝っていたのだ。
思い出したのだが、彼女も彼も愛し合いたかったのだが、二人とも熱く茹でたロブスターをだめにしたくはなかったので、彼女たちの間のある種のおいしい緊張感をもって待っていたのだった。
彼女は自分のロブスターの脚を極端なキスをするようにしゃぶり、ジャックは笑い、彼女が誘惑していると言い、彼女はそれを楽しんでいた。
誘う事、彼女はめったにそういうことをしなかった。

 「お気の毒に、」と、ロバートが言い、「知っているべきだった。台所に持っていくよ。」

 「いいえ、」と、彼女は慌てて言い、彼女の皿に手をかけようとしている彼の手を止めた。
「いいえ、あなたは知ることはできなかったのですもの。それに、どちらにしても、私の人生はこんなことがいっぱいあるのだわ。
何百もの小さな思い出が私を不意打ちする。
それは地面に埋まっている地雷のようなものよ、爆発しようと待ち構えているの。
正直な話、私はロボトミー手術を受けたいぐらいよ。」

彼は彼女の手の下から手を動かして彼女の指の上に置いた。
彼は男性が女性の友達の手を握るように、小さな危機が吹き飛ばされてしまうのを待っているかのように、彼女の手を握った。
彼の手は、キャサリンの手が急に冷たくなってしまったので、温かく感じられた。
彼女の全ての記憶がそうさせたのだった; 記憶は彼女の手足から血液を失わせたのだった。
恐怖がそうするように。

 「あなたは私に良くしてくれているわ、」と、彼女は言った。
時間がたった。
どれほど?
彼女はもはや分も秒も測ることはできなかった。
彼女は目を閉じた。
ビールは少しだけ彼女の眠気を誘った。
彼女は自分で自分の手をひっくり返して、彼に自分の手のひらに触れてほしいと思った。
そして掌に沿って手を動かして上の方の彼女の腰まで。
彼女は、彼女の肘を通り腕の下を通り動いて行く彼の手の暖かさを感じることができることを想像した。

 ロバートの手の下にある彼女の指は緩み、体から緊張が抜けていくのを感じていた。
それは性欲を起こさせるものだが、そうではなく力が抜けてゆくもので、あきらめ感のようなものだった。
彼女の眼は焦点が定まっていないように見え、ロバートもそれ以外の物もきちんと見ることはできず、窓からの光の感覚だけが感じられていた。
その光は拡散し希薄になりぼんやりした安らぎを作り出していた。
そして彼女はロバートと彼女自身の事をそんな風に考えるのは不安にさせられると考えるだろうと思たが、ある種の寛大さが彼らにそのぼんやりしたものとともに降りてきて、彼女は単に曖昧さと浮遊感を感じただけだった。
そんな風なのでロバートが、たぶん彼女を元に戻そうとしたのだろうが、彼女の手に圧力をかけた時、彼女はその瞬間に揺すぶられたように感じた。

 「あなたは一種の聖職者の様だわ。」と、彼女が言った。
彼は笑った。
「いや僕はそうじゃないよ。」
「僕はそんな風にして君に会いに来たんだと思う。」
「ロバート神父、」と、彼は笑いながら言った。

 その後、彼女は考えた。
:もしこの男の手が彼女の腕の内側に動いて行ったとしても誰が知るだろうか?
誰が気にするだろうか?
全ての規則は破られたのではなったのか?
マティーはそう言ったのではなかったか?

 しんしんと降る雪の静けさが彼女たちを包んだ。
彼女は、彼が彼女どこにいるのか、何故いるのか、を正確に理解しようと奮闘していることが分かったが、彼を手助けすることはできなかった、何故なら・・・彼女自身にも分からなかったからだ。
前室は冬は何時も寒すぎると彼女は思っていて、暖房が放熱器のなかでシューシュー言っているのが聞こえても、彼女は震えていた。
外では、空は夕暮れと見間違う程に暗くなっていた。

 彼は手を引っ込め、彼女の手が何もない状態で残された。
彼女は露出しているように感じた。

 彼女はもう一本ビールを飲んだ。
二人の間にある全てのパンとロブスターを食べた。
食事の途中、ロバートは立ち上がってCDを替えた。
BBキングからブラームスへ。

 「君は素晴らしい音楽を持っているね、」と、彼は戻って来るときに言った。
「音楽に興味があるの?」
「ええ。」
「どんな種類?」
「特にピアノに。
音楽はジャックの、それとも君の?」と、彼は座りながら聞いた。

彼女は首を傾げた、彼の意味していることが理解できているのかはっきりしなかった。

 「普通CDと音楽は、夫か妻のどちらかの好みで、両行の好みの物じゃないんだ、」と、彼は説明した。
「少なくとも僕の経験では。」

 彼女はその事を考えた。
「私の好みよ、」と、彼女が言った。
「ジャックは音痴なの。
でも彼はロックンロールが好きだった。
それとマティーの音楽 ― ビートが効いているからだと思うけど。
あなたはどうなの?」
「僕もだよ、」と、彼は言った。
「元妻は音響システムとほとんどのCDを持っていたけどね。
息子の一人は耳の良さを受け継いでいる。
彼は学校でサキソフォンを吹いている。
もう一人の息子は興味なさそうだ。」

 「マティーはクラリネットを吹いているわ。
私は彼女にピアノ演奏を身に付けさせようとしたけどそれは苦痛でしかなかったわ。」と、キャサリンが言った。

 キャサリンはマティーとピアノの前で過ごした全ての時間について考えていた、マティーは明らかにそこにいることを欲していなかった、マティーは自分の手の届かない背中の部分を執拗に掻いたり、椅子を調整したり、指の位置を確かめるのに極端に長い時間をかけたりすることで、彼女の病的に近い気が進まないことを誇張していた。
マティーにたった一曲でも弾かせるのは大変な努力で、実際に何度も練習することは考えられなかった。
しばしばキャサリンは怒りをほとんど抑えきれず部屋を出なければならない事でピアノの練習を終わったが、そんなときマティーは泣き始めたものだった。
最初の一年が終わる前に、キャサリンはもし彼女がそのレッスンを続けると言い張れば彼女たちの関係性がズタズタになるだろうと言う事が分かった。

 勿論、今は、マティーは決して音楽なしでは過ごさず ― 自分の部屋でも、車の中でも、まるでヘッドフォンで耳に酸素を届けているかのように、彼女の耳のヘッドフォンを差し込んでいるのだった。

「あなたは何か楽器を演奏するの?」と、キャサリンは聞いた。
「昔はね。」
 彼女は彼を注意深く観察し、彼が彼女の家に入ってきた日以来ずっと形作ってきた人物像に小さな細部を付け加えた。
キャスリンの考えでは、それが人々に対して行うことであり、肖像画を形成し、欠けている絵筆の一筆を埋め、形と色が具体化するのを待つのだ。

 彼はエビの端をバターに浸しそれを自分の口に持って行った。

 「ジャックが自分の旅行に出かける前の日の夜、」と、キャサリンは言った、「彼はマティーの部屋に行き彼女が金曜日の夜、カルティックスの試合に一緒に行きたいかどうかと聞きました。
友達が彼に本当にいい席をくれたのよ。
私が知りたいことはこんな事なの:
いったい一人の男が旅行から帰ってくる前に自殺しようと計画しているとすれば、自分の娘に一緒にセルティックスの試合に行くかどうか尋ねるだろうかということなの。」

 ロバートは自分の顎を拭き、少し考えた。

 「セルティックスの試合の本当にいい席を持っていた男がその試合を見る前に自殺するだろうか?」

 彼女は大きく目を見開いた。

「すみません、」と彼は急いで言い、「いいえ、私が今までに聞いた人間の本性のいかなる分野でも、そんなことはナンセンスです。」

 「そして、ジャックは私にアルフレッドに電話するように言ったの、」と、キャサリンは言った。
「彼は私に、金曜日にアルフレッドに洩れたシャワーを修理に来させてるように、って、言ったの。
もし、ジャックが帰ってくるように計画を立てていなければ、彼はそうしなかったでしょう。
私の話しで思いついて言ったのではなく、ほとんど車に向かって歩いて行きながら思いついて言ったのです。
そして、彼は私に対して違った態度をとったでしょう。
彼の私への別れの言葉も違っていたでしょう。
彼がそうしただろうとは私にはわかっています。
多分、そこには、あの時は気付かなかっただろう小さな事ですが、事故が起こった後では何かがあります。」

 ロバートは自分の水のコップに手を伸ばして、それをテーブルのちょっと端に押しやった。

 「覚えているかしら、」と、彼女は聞いた、「安全委員会が私にジャックには英国人の親しい友達がいるか聞いたときのことを?」
「はい。」

 彼女は捨てたエビの殻の入ったボウルを見つめた。
 「私はちょっと考えることがあるの。」と、彼女は言った。
「すぐに戻るわ。」

 階段をのぼりながら、彼女があの特別の洗濯をしたのかどうか思い出そうとしていた。
彼女は2日間そのジーンズを着てそれからそれを洗濯ものかごに投げ込んだ。
しかし彼女のかごではなくマティーのかごに・・・彼女は思い出しました。
そしてキャサリンはマティーがずっとそこにいなかったのでマティーの洗濯を全然しませんでした。
マティーの必要な洗濯は全てジュリアの所でやっていたからです。

 彼女は土の付いた洗濯物の山の底に、ロバートと彼女がほんの数時間前に投げ込んだ服に埋もれている、そのジーンズを見つけた。
彼女は長い時間タオルの中から少し湿っていた一抱えの書類と領収書をとり出した。

 彼女が前室に戻った時、ロバートは降る雪に思いを馳せていた。
彼は彼女が皿を押しのけて書類を広げる彼女を見つめていた。

「これを見て、」と、彼女が宝くじの券を手渡しながら言った。
「私はこれらの紙を、彼が死んだ日にお風呂場の後ろで、ジャックのジーンズのポケットに丸められているのを見つけたの。
その時はあまり考えないで私のジーンズのポケットにそれを突っ込んでおいたの。
でも、メモが書いてあるの、分かる?M@A‘sと番号が続いているの。
あなたにはどう見える?」

 ロバートはその数字をじっくり見て、彼女は彼の目の輝きから彼が彼女の考えていることを理解したと分かった。

 「イギリスの電話番号だと思うんですね、」と、彼は言った。
「ロンドンの交換機、そうでしょう?181?」
「私はそう思います。」
「桁数はあってますか?」
「確信は持てませんが。」
「私に見せて、」と、彼女が言った。
彼女が手を差し出し、ロバートは渋々彼女にそのその券を返した。

 「興味があるの、」と彼女は自分自身を守りながら言った。
「もしそれが電話番号なら、なぜそれがこの券に書かれているのか?
それにこれは最近の物だ。彼はこの券を彼が出発する前日に買ったに違いない。」
「はい、彼はそうしました、12月14日に買ったって彼は言っていました。」と、彼女が言った。

 これは完全に理にかなった事だ、と彼女はソファの横の電話の方に歩きながら考えた。
彼女は受話器を取り上げて電話番号を押した。
ほとんど直ぐに、彼女は、彼女がいつも細長い黒い電話台の付いた古風なパリの電話を思い出させるような、はっきりした外国の呼び出し音を聞くことができた。

 一つの声がもう一方の側から応え、キャサリンはその声に驚いた、予期しなかったことだったので、急いでロバートを見上げた。
彼女は何を言いたいのか全く考えていなかったのだ。
女性はもう一度、今回は少しイライラした声で、もしもし、と言った。
老女でもなく少女でもない声で。

 キャサリンは名前を探した。
彼女は聞きたかった:
ジャックと言う名前をご存じですか?
しかし、その質問は突然ばかげたもののように思われた。

 「電話番号を間違えた様です、」と、キャサリンは急いで言った。
「ご迷惑をおかけいたしました。」
「どちら様でしょうか?」と、その女性は今度は用心深く言った。

 キャサリンは自分の名前を告げることができなかった。
いらいらしてガチャンと電話を置く音が聞こえた。
そして静かになった。

 彼女の手は酷く震えていた。
キャサリンは受話器を置いて座った。
彼女は中学生の少女の頃、好きな男の子に電話をかけ、自分の名前を言ってもらえなかった時と同じようにひどく動揺を感じた。

 「これ以上はやめておきなさい。」と、ロバートがテーブルの方から静かに言った。

 キャサリンは手の震えを止めるために、自分の両手をジーンズの太腿に沿って動かした。

 「聞いて下さい、」と、彼女は言った。
「私のためにあることを調査してくださいますか?」
「何をでしょう?」
「ジャックが一緒に飛んだクルー全員の名前を調べることができますか?」

 「どうして?」と、彼が聞いた。
「もし私が名前のリストを見れば、分かる名前があるかもしれません。
それか、私があったことの有る顔と名前が一致するかもしれません。」

 「それがあなたのお望みなら、」と、彼は言った。
「私が何を望んでいるかを知ることは、難しいわ。」と、彼女が言った。

ロバートがクルーのリストを取りにジャックの仕事場に上がって行っている間に、キャサリンは丸められた束から他の全ての書類を広げ、詳しく調べていた。
彼女は特に郵便局で22ドルの買い物をした領収書があるのに気が付いた。
領収書をもっと詳しく見て、多分それは切手を買ったのではなないと考えた。
彼女は何か数行書かれた白い紙きれを広げジャックが書き写した詩の数行を見た。

 この狭い通路と無情な北の大地で、絶え間ない裏切り、容赦ない結果のない戦いがある。
暗闇の中の暗黒者の無差別な怒り:子宮の中の生命の飢えた盲目の細胞の生存のための闘い。

 詩は何を意味していたのだろうか?
彼女は窓の向こうの猛吹雪を見つめた。
芝生の上には既にはっきりと雪が積もっていて、彼女は多分ジュリアに彼女とマティーが大丈夫かどうか電話しなければならないだろうと考えていた。
彼女はマティーがまだ起きていないかもしれないとも思った。

 彼女は二番目の何か書かれた紙、多分覚え書きのメモだろう、を開けた。
フェデックスでバーグドルフのローブが20日に到着する。

 変だわ、フェデックスの小包は20日に来なかったわ、と思った。
彼女はその事ははっきり覚えていた。

テーブルから立ち上がりながら、彼女はもう一度詩の行を意味を考えた。
それは今は彼女には意味のないものだが、多分彼女はその詩の全文見つけることができ、それが彼女に考えを示唆するだろう。
彼女は本棚の方に歩いて言った。
それはほぼ天井まで伸びる、木の階段板よりも小さなものにすぎなかった。
ジャックは飛行機に関する本や人々の経歴や、時には巧妙な筋書きの小説を読んでいた。
彼女の方は、キャサリンはほぼ女性が書いた小説、通常現代の小説、しかしエディス・ウォートンとウィラ・キャザーが特に好きだった。
彼女は古い詩集を探しそれを本棚の一番下で見つけた。

 彼女はソファーの端に座った。
彼女はその本を膝の上に置き、ページをめくり始めた。
何もすぐには明らかにならなかった時には、彼女は自分の探している行が見つかるまでページを1ページずつ、めくるつもりで最初から始めようと決めた。
しかしすぐにそうしなくていいことが明らかになった。
:最初の詩は古代の物だった。
詩の行に使われている言葉を指針に使って、彼女は本の真ん中程を開けた。
ここだ、その詩は、彼女が手に持っていた行に似た構文で書いた詩人による詩があった。
ロバートがジャックの仕事部屋から電話をかけた時、彼女はページを几帳面にめくり始めていた。

 外では雪がずんずん積もり始め、滝のように窓に吹き付けていた。
天気予報感は15~20㎝と予想していたとロバートは言っていた。
少なくともキャサリンはマティの居場所を知っていたし、車で出かけることもないだろうと知っていた。

 彼女は本を下に降ろして、ロバートが机に座っているだろうジャックの仕事場に上がって行った。
彼は両手にファックスのツルツルの紙を抱えていた。
そして彼女は突然、ロバートがジャックの椅子に座っているのを見た時、彼がテープの内容を知ったと言う事が分かった。― 勿論、彼は知ったのだった。

 「テープについて話してください、」と、彼女は言った。

 「これはヴィジョン航空でジャックが飛んだ時の全員のリストです、」と彼は彼女にファックス用紙を渡しながら言った。

 「ありがとう、」と彼女は彼からリストを受け取って言ったが、リストは見ていなかった。
彼女は、彼が彼女が質問しないだろうと考えていたことが分かった。
「お願い、」と、彼女は言った。
「あなたが知っていることを教えて。」

 彼は腕を組んで机から椅子を遠ざけ、彼らの間に少し距離を取った。
「私はテープそのものは聞いていません、」と、彼は言った。
「私たちの誰も聞いていません。」

 「その事は知っているわ。」
「私があなたに言えるのは、私が組合で一緒に働いている友人が言った事だけです。」
「わかっています。」
「あなたは本当にこれが聞きたいのですか?」
彼女は分からなかったし確信は持てなかったが「そうです、」と、言った。
どうしてその内容を聞く前に、確信を持って聞きたいと言えるだろうか?

 彼は急に立ち上がって窓の方に歩いていき、キャサリンに背を向けた。
彼はまるであらゆる感情的な内容の言葉をはぎ取ったかのような事務的な言い方できびきびとしゃべった。

 「飛行は56分後まで正常です、」と彼は言った。
「ジャックは、明らかに突然トイレに行きたくなります。」
「トイレに?」
「彼は飛行中に56分14秒にコックピットを離れます。
彼は何が悪いのか言いません、すぐ戻るとだけ言います。
彼ら、テープを聞いた人たち、は彼がトイレに行ったのだと考えています。」
彼は彼女の方に振り返ったが、彼女を見ていない。

 彼女は頷いた。

 「2分後、副操縦士のロジャー・マーチンはヘッドセットに問題があると報告しているます。
彼は機関士トレバー・サリバンにヘッドセットを貸してくれと頼んでいます。
サリバンはマーチンに彼自身のヘッドセットを手渡して、これを試してみて、と言っている。
マーチンは機関誌のヘッドセットを使ってみて、サリバンの物がうまく作動していると分かり、彼に、そうだなあ、プラグじゃないな、僕のヘッドセットが悪いに違いない、と言っています。」
 「ロジャー・マーチンのヘッドフォンが悪い、」と、キャサリンが言った。

「そうです、それで、マーチンはサリバンにヘッドセットを返して、サリバンは、待てよ、多分ライオンズがスペアを持っているよ、と言っています。
明らかに、サリバンは自分のシートベルトを外してジャックのフライトカバンの近づいたんです。
あなたはフライト鞄が何処に収容されているか知っていますか?」
「パイロットの横ですか?」
「それぞれのパイロットの外側の隔壁側です。
そうです。そして、サリバンはジャックのフライトバッグから何かは知らず、何かをとり出しました。
と言うのは、彼は、これは一体何だ?、言っているからです。」
「それは彼が考えていないものだった。」
「その様です。」
「ヘッドフォンではなく。」
「私たちにはわかりません。」
「それから?」
「それから、ジャックが操縦室に入って来る。
サリバンが、ライオンズ、これは冗談かい?と言っています。」

 ロバートは、話すのを止めた。
彼は窓台に半分座って、もたれかかった。
「ここで取っ組み合いのけんかがあったかもしれない、」と、ロバートが言った。
「私は矛盾する報告を聞きました。
しかし、もしあったとすれば、それはすぐに終わった。
というのも、サリバンがほとんどすぐに、「なんてこった」と言っているから。」
「それで?」
「そのあと、彼は、おやおや、と言っている。」
「おやおや、って、誰が言ったの?」
「サリバンです。」
「それで?」
「それで全部です。」
「誰もその他に何も言わなかったの?」
「テープが終わっているんです。」

 彼女は顔を天井に向けて、テープの終わりが何を意味するのかを考えた。
「彼はフライト鞄に爆弾を入れていた、」と、彼女は静かに言った。
「武装爆弾。その事が彼らが自殺だって思う理由です。」

 ロバートは立ち上がった。
彼はポケットに両手を突っ込んでいた。
「一つのフレーズが違ってさえ、テープ全体は他の意味を持ってしまう。
わたしが正確にそれらを言った言い方でさえも、テープが必ずしも何かを意味しているわけではありません。
あなたはそのことが分かっているはずです。
私たちはそんなことを話したんです。」と、ロバートは言った。

 「彼らは確実にジャックがその時間にコックピットにいたと知っているのですか?」
「彼らはコックピットのドアの留め金が開きそして閉じるのを聞いています。
その後で、サリバンが彼に向かって話をしています。」
 
「私が理解できないことは、」と、彼女が言った。
「ジャックがどんな風にして彼の飛行鞄の中にそんな危険なものを持ち込むことができたかと言う事です。」

 「現実的には、」と、ロバートが言った、「その部分は簡単なんです。」
彼は外の雪の方に振り返った。
「それは無害なんです。絶対に無害なんです。
誰もがやっている事ですよ。」
 「何をやっているんですか?」
「たくさんの国際線のパイロットがやっています、私が知っている客室乗務員のほぼ全員も、」と、ロバートは言った。
「通常、それは宝石類です。金や銀、ときには宝石。」

 彼女は自分が理解できたか確信が持てなかった。
彼女は数年にわたってジャックから受け取っていた宝石の事を考えていた。
:記念日にもらった細い金のブレスレット、誕生日のS型の金の鎖、一度クリスマスにもらったダイヤをちりばめたイヤリング。

 「空港を百回も出入りする、あなたは保安係の事を本当に知るようになります、」と、ロバートが言った。
「彼らは彼らの家族についておしゃべりして、手を振ってくれる。
それが礼儀だ。
私が飛行していた時も、私は多分50回に一回しかパスポートを提示する必要が無かった。
そして、税関は私のフライト鞄の中を見ることはほとんどなかったのです。」

キャサリンは首を振った。
「知らなかったわ、ジャックは決して言ってくれなかったもの。」

 「パイロットの中には自分たちのためにそれを秘密にしている者もいます。
もしあなたが持ち込んでいるものがプレゼントで、あなたが通関を密輸して持ち込んだと妻が知ったら、贈り物としての価値がなくなると思いますよ。」

 「あなたはそれをやったの?」と、彼女が聞いた。
「クリスマスには何時もやりました、」と、彼は言った。
「その事はあなたが空港へ行くバンに乗るためにロビーで会った時に聞かれる質問です。:奥さんには何を持ち込んだの?って。」

 彼女は両手をジーンズのポケットに突っ込んで、肩をすくめて立っていた。

 「何故ジャックはテープで何も言わないの?」と、キャサリンが聞いた。
「もし彼がそれが爆弾だと知らないのなら、彼はトレバー・サリバンと同じように驚いたでしょう。
彼は、何のことを言っているんだ?、と言ったでしょう。
彼は大声で叫んだはずです。」

「そうとも限りませんよ。」
「ジャックは自分の母について嘘をついていました、」と、キャサリンが言った。
「だから?」
「彼はクルーのアパートで眠りませんでした、」と、彼女は言った。
「それは十分な根拠ではありません。」
「誰かが飛行機に爆弾を持ち込んだ、」と、彼女は言った。

 「もしそれが爆弾なら、誰かがそれをそこに置いたと言う事よ。その事は認めるわ。」
「そしてジャックはその事を知っていたに違いない、それは彼の飛行鞄だった。」と、彼女が言った。
「僕はそれは認めないね。」
「モロッコ人のパイロットは自殺したんでしょ、」と、彼女が言った。
「その事は全く別の事だよ。」
「あなたはそれが別のことだってどうしてわかるの?」
「わざと本心と反対の意見を述べているだけでしょ、」と、ロバートは彼女に熱っぽく言った。
「あなたはジャックがこれをやったとは本当は信じていません。」と、ロバートは不満げにため息をつき、彼女に背を向けた。
「あなたはテープについて知りたかった、それでわたしはあなたに言った。」彼は言った。

彼女は彼女のわきの下に挟んでいたファックス用紙を開いた。
そこにはたくさんの名前があった、9から10ページの名前、ジャックの最近のクルーに始まり1986年彼が定期便のパイロットを始めた年に至るまで。
彼女はそのリストを見た。
:クリストファー・ハヴァーストロー、ポール・ケネディ、マイケル・ディサンティス、リチャード・ゴールドスウェイト・・・ 時折、彼女とジャックが一緒に食事をしたことがある男性または女性、または彼女がパーティーで会った誰かの顔が現れたが、ほとんどの名前を彼女は知らなかったし、彼らの半分は英国に住んでいた。
そんなわけで、ビジョン航空のパイロットの生活は奇妙でほとんど非社会的な職業だと彼女は思った。
ジャックが一緒に飛んだクルーのメンバーは80kmも海を超えたところに住んでいた可能性もあるのだ。
 それから、1992年の日付の所で彼女は自分が探しているとさえ気が付かなかった名前を見た、紙から浮かび上がった他の名前とは違うその名前は電撃とともに彼女の骨を巡った。
  ミュア・ボーランド。

客室乗務員。

キャサリンはその名前を声に出して言った。

ミュア・ボーランド。

彼女はそれは女性の名前だと確信した。
彼女はそれがフランス語なのか自分がその名前をちゃんと発音しているのか疑問に思った。
キャサリンは彼女の前に手を伸ばしジャックの机の大きな引き出しを開けた。
ゴミメールの隅に鉛筆で走り書きをした封筒はそこにはなかったが、彼女は彼女が手に持ったリストにある印刷された名前を見たのと同じくらい、はっきりと見ることができた。
ミュア、3時30分、と急いで走り書きしたメモが読めた。
ベイ銀行からの勧誘の封筒の表面に。

 もし自分が躊躇すれば優柔不断さで身動きが取れなくなると直感したキャサリンはポケットから宝くじのチケットをとり出してジャックの机に置いた。
彼女は電話を持ち上げてもう一度それに書かれた番号を押した。
声が答えた、前に出た声と同じだった。
「もしもし、」と、キャサリンは急いで言った。
「ミュアさんはいらっしゃいますか?」
「だれ?」
「キャサリンはその名前を繰り返した。
「ああ、ミューラーってことね、」と、電話の向こうで声が言い、キャサリンはrの部分で少しドラムロールのようになる、正しい発音「ミューラー」を聞いた。
「いいえ、」と、その女性は答えた。
 「ああ、すみません、」と、キャサリンは大いにほっとして言った。
彼女は電話から逃げたいとだけ思っていた。

 「ミューラーはここにいたんですが、」と、その英語の声は言って、「でも、彼女は自分自身の場所に帰ったんです。
あなたは彼女のお友達なの?」
キャサリンは彼女に答えることができなかった。
彼女は重たげに椅子に座った。
「どちら様でしょうか?」ロンドンにいる女性は聞いた。

 キャサリンは口を開いたが自分の名前を言うことはできなかった。
彼女は受話器を自分の胸に押し付けた。

 宝くじのチケットはM at A’s と読めた。
ごみメールの封筒はMuire 3:30 と読めた。
4年間離れて書かれた、一つの電話で繋がった、ジャックの持っていた2つのメモ。
 ロバートが彼女の手から受話器を取って、受け台クレードルに戻した。
「どうしてミューラーに電話をしたんですか?」と、彼は静かに訊いた。
「顔色が真っ白になってしまっていますよ。」
「ただそう推測しただけです。」と、彼女は言った。
ミューラーと呼ばれる女性は誰だったのか?
そしてジャックとの関係は何だったのか?
彼は最後の夜を彼女と過ごしたかもしれないのか?
ジャックは関係を持ったのか?
質問が彼女の胸を押して彼女は窒息しそうだった。
彼女は人々が定期便パイロットと客室乗務員とに関しいつも言うジョークについて考えていた。
彼女はいつもそのジョークを否定していた、まるでそんなことをする本物のパイロットがいないことは明らかだと言わんばかりに。

 「ロバート、ある特定の名前についてもっと何か探すことはできるの?」と、彼女が聞いた。
「どこに住んでいるか?」
「もしあなたが望んでいる事だと言う事を確信しているのなら、」と、彼が言った。
「これは地獄だわ、」と、彼女が言った。
「じゃあ、放っておけば。」
彼女はそれを放っておく可能性について考えた。
「そうしていただけるかしら?」と彼女は聞いた。

「彼女はテレビを見たがっていたの、」と、ジュリアは言っていた。
「私はそれに代わる何かを考えなきゃいけなかったの。
誰かがクリスマス用に「Witness」をくれたの。

 ロバートは仕事部屋から出て行っていた。
キャサリンは彼はお皿を洗っているかもしれないと思った。
「ジャックがあげたのよ。」
「そうね、彼女は熱中したようです。
彼女は2時に目を覚ましたの。
彼女は食事を済ませたわ。」
「彼女にテレビを見せないで、」と、キャサリンは言った。
「冗談じゃなく、必要ならケーブルを切って。」
キャサリンは仕事場の椅子でクルっと回転し、窓枠の外に降り積もっている雪のをじっと見つめた。
それは水槽の中の水のように見えた。
ミューラーはここにいた、とある声が言った。

 「ロバートは一緒なの?」と、ジュリアが聞いた。
「はい。」
「彼はここに来たの、あなた知ってるでしょ。」
「知っているわ。」
「じゃあ、あなたは・・・」
「クルーのアパートについて?知っているわ。」
キャサリンは片足をあげて膝に腕を回した。
4年間離れた2つのメモ一つのイニシャルで繋がった。
キャサリンは不安に押しつぶされるように感じ、すぐに額に汗がにじんできた。
 「信仰を失わないで、」と、ジュリアが言った。
「それはどんな信仰なの、実のところ?」
「言っている意味、分かるわよね。」
「分かろうとしないつもりよ。」
「天気予報が変わったみたいよ、」と、ジュリアが言った。
「10時から12時の分の。」
「すぐあっちに行った方がいいかしら、」と、キャサリンは袖で額を拭きながら言った。
「バカなこと言わないで。必要が無ければ外出はしないで。
食べ物はあるの?」
食べ物のことを考えるなんてジュリアらしいわ。
「私は食べたところよ、」と、キャサリンは言った。
「マティーと話せる?」
電話のもう一方の側で沈黙があった。
「分かるでしょ、」と、ジュリアは慎重に言った、「マティーは忙しいのよ。彼女は元気よ。
もしあなたが彼女と話せば、彼女は悲しくなって、離れて行ってしまうでしょう。
彼女にはビデオを見たりポップコーンを食べたりするだけの、数日間の休養が必要なの。
それは薬のようなもので、彼女にはできるだけ長くそれが必要なんです。
彼女には癒しが必要なの、キャサリン。」

 「でも、私は彼女と一緒にいたいのよ、」と、キャサリンは抗議した。
「キャサリン、あなたは10日間ずっと毎日毎時間一緒にいたわ。
あなたがいることだけで、お互いが引き裂かれていることを理解しているはずよ。
あなたは彼女の悲しみに耐えられないし、彼女はあなたがどれほど傷ついているか考えることには耐えられないの。
あなた、普通はこんな風に彼女と一緒に過ごさないでしょ。」
「これは普通の時じゃないの。」
「そう、多分私たちは正に今、すこし普通を使えるかもしれませんね、」と、ジュリアが言った。

 キャサリンは窓の所に歩いて行って窓枠についた結露をふき取った。
雪は本当に深く、私道は除雪されていなかった。
車の上には既に20cmほど雪が積もっていた。

 彼女はため息をついた。
いつもジュリアの賢さに反論することは難しかった、特にしばしば彼女が正しいと分かっているので。
「家から出ないでね、」と、ジュリアは繰り返した。

長い午後の間ずっと雪はずんずん降り続き、厚みを増した。
ときどき風が音を立てて吹いたが、嵐がブリザードになるのをあきらめたかのように、その後、ほぼすぐに弱まった様だ。
ロバートがジャックの仕事場から電話をしている間、キャサリンは壁を見て窓の外を見て腕を組み、腕をほどき、別の部屋に動き回り、その部屋に立ってまた壁を見て窓の外を見て、部屋を行ったり来たりしていた。
最後には、ただ立って考えているだけで精一杯の時もあった。

 しばらくして、彼女は気が付くと浴室にいた。
彼女は服を脱いでシャワーを付け、ほとんどやけどするまでお湯を熱くした。
彼女がシャワーに踏み込んだ時、彼女はシャワー口の方に首を曲げて長い間その姿勢で立っていた。
熱いお湯が空になり水が冷たくなるまでそこに立っているのは心地いい感覚だった。
彼女がお湯を止めたとき、音楽が聞こえてきた。
CDではなくピアノの音楽だった。
 彼女は足首まであるコットンの起毛の長い灰色のバスローブの襟を整えた。
鏡の中から落ちくぼんだ眼をした白髪の老婆が彼女を覗き込んでいた。
 歩きながら髪を梳き、音楽に伴われ階段を降りロバートがピアノを弾いている居間に入った。
 彼女はその曲を知っていた。:ショパンだ。
ソファに横になって、膝と脚の上にバスローブをたたんだ。

 彼女は目を閉じた。
幻想即興曲は贅沢な曲で、音符の数も多く、臆することなく可愛らしいものだった。
ロバートはそれを聞いたことのないやり方で、感傷的にではなく演奏したが、感動的な記憶と忘れられた秘密のおいしい重みを伴っていた。
彼女はその滑奏グリッサンドを聞いたとき、散らばったダイヤモンドの事を思った。

 ピアノは窓に横向きに部屋の隅に置いてあった。
ロバートは両袖をめくりあげていて、彼女はまず彼の手を見て、次に前腕に目をやった。
部屋の中には音響効果を高める雪による静けさに関する何かがあり、それとも多分それは他の比較する騒音が何もなかったのか;ピアノの音は数か月間調律されていなかったにもかかわらず、彼女が思っていたよりもよかった。

 何年も前にはこんな音だったに違いない、とロバートが演奏するのを聞きながら、彼女は思った。
テレビもラジオもヴィデオもなく、自分自身の時間を作る長い白い午後の空間だけが、その音だけがあった。
そしてそれは安全だった。
彼女は自分の心をどこか別の所に置くことができた、事故の事やジャックやマティーの事を考えることもなく。
ピアノは彼女とジャックが共有するものではなかった。
それはキャサリンだけのものだった、孤独な追及、ジュリアとは繋がりはあったが、ジュリアも安全だった。

 「分からなかったわ、」と、彼女は、彼が弾き終えたときに言った。
「しばらくぶりだよ、」と、彼は彼女の方に振り返りながら言った。
「あなたはロマンティックです、」と彼女は笑いながら言った。
「ロマンスを引き出しにしまい込んだ(ロマンティックでないふりをした)ロマンチックな人ね。あなたは素晴らしい演奏をするわ。」
「ありがとう。」
「何か別の物は弾くの?」
 彼女はその時、以前そうでは全くなかった方法でロバートが一つの過去の有る男であることが分かった、勿論そうなのだが。
彼は彼女がほとんど知らない全ての人生を持っていた、その人生で彼はピアノを習得し、飛び方を学び、結婚し、子供を持ち、妻と離婚し、その後彼の特別の仕事に就くことになったのだった。
 彼女はその音楽に気付いた:「『いそしぎ』の愛のテーマ」だ、即座に曲調を変える。

 彼は弾き終わった時、首の後ろを搔き、外の雪を眺めた。
「外は少なくとも30㎝は積もっているに違いない、」と、彼が言った。
「私道は除雪されていないわ、」と、彼女が言った。
「何時かしら?」
 彼は自分の腕時計を見た。
「3時だ、」と、彼が言った。
「散歩に行こうと思うんだ。」
「この雪の中を?」
「私道の端まで行って帰って来るだけだよ。
空気が必要なんだ。」
「私はあなたが今夜、宿に行く必要が無いと分かっていてほしいものだわ。
この家にはたくさんベッドがあるもの。
部屋も。
あなたは私の客間にある寝台兼用の長いすデイベッドで眠れるわ、」といい、「そこは快適よ、そのためにあるのですから。」と、彼女は付けくわえた。
「隠れるために、と言いましたよね。」
「そうです。」
「あなたが私に求めていた情報は、ジャックの机の上にあります、」と、彼が言った。
彼女がしゃべり出したが彼は首を振った。

「全ての人のうちでも、あなたには起きてほしくなかった。」と、彼は言った。

キャサリンは数分間カウチでい眠りをし、その後意識朦朧としてベッドに潜り込もうと、長い眠りにつくため寝室に向かった。
彼女は詩の本を手に取った。

 彼女はベッドにうつ伏せになりページをめくり、何気なく例の詩の行を探し始めた。
彼女はジェラード・マンリ・ホプキンスとワーズワースとキーツの詩を読んだ。
本の半分を過ぎたあたりで、突然「裏切り」と言う言葉が目に留まり、彼女は正しい詩を見つけたと分かった。
しかしそのほとんどすぐ後に、彼女がその行を読み終わる前に、中の余白に微かなメモを見た。
M!
と、感嘆符付きで、鉛筆で軽く書かれていた。
そしてそこに。間違えようもなくそこに。

 彼女は慌てて立ち上がりその詩をじっくりと見、それを読み通した。
その詩は「アントリム」と呼ばれ、ロビンソン・ジェファーズによって書かれていた。
それは小さな土地、恐らくアントリムに起きた古代の戦いについての物だった。
色々の原因で血が流され、多くの待ち伏せ、裏切り、愛国心それ自体と犠牲になった死体、全ては今は塵となりその塵は復活を待っているのだ。
 それは何を意味したのか?
本はベッドの横を通り、床に落ちて行った。
彼女は再び横になり顔を枕に埋めた。
彼女はまるで千マイルも旅をしたかのような感じだった。

彼女が目を覚ました時、本能的にテーブルの横の目覚まし時計を見た。
朝の3:30分だった。
彼女は9時間眠ったのだった。
ところで今日は何日?
28日?29日?

 彼女は体を捻ってベッドから出て、半分よろめきながら廊下に入って行った。
客間のドアは閉まっていた。
ロバートは散歩から帰って来て、眠るためにそこに入ったに違いない、と彼女は思った。
それとも食事を食べたかしら?
テレビを見た?
本を読んだ?
 台所には誰かが食事を作った形跡はなかった。
キャサリンはポットでコーヒーを沸かし自分用にカップに注いだ。
流し台の上の窓を通し、雪は降りやんでいるのが分かった。
彼女は勝手口の方に歩いて行きドアを開けると、すぐに庇の上から降って来る細かい粉末状の冷たい水しぶきがたたきつけた。
彼女は瞬きをし、頭を振った。
暗闇に目を慣らし、世界が厚い白い、蝋燭のように白い、布状の物で覆われているのを見ると、それにより木々や低木と車は単にこぶのように盛り上がっているだけだった。
実際、あまりに多くの雪があるため彼女は30㎝と言う予報は酷く楽観的なものじゃなかったかしらと思った。
ドアを閉めてそのドアに寄りかかった。
A‘sでM
3:30 ミューラー
M!
自分のバスローブをよりしっかりと引っ張って、キャサリンはジャックの仕事部屋への階段を昇って行った。
その埃っぽい空虚さは未だに驚きだった。
彼女はロバートがジャックの机の上に置いたという書類を見た。

 ミューラー・ボーランド、1993年1月航空会社を去った、と書いてあった。
ロンドンのヴィジョン航空で訓練を受け、3年、その航空会社に客室乗務員として勤務。
そこには住所と電話番号生年月日が書いてあった。
ミューラー・ボーランドは現在31歳だった。

 ロバートはその電話番号の横にメモ書きしていた。
この番号はかけてみた、その時は誰も彼女の事を知らなかった、と書いてあった。
この情報の下に電話番号のリストがあった。
7つあった。

 ロンドン区域ではM・ボーランドがあった。
キャサリンは一つの質問をしようとした、妥当な要求だ。

 電話に出たその人はジャック・ライオンズを知っていましたか?
もしそうなら、キャサリンは1、2の質問ができましたか?
質問することはそんなに変なことでしたか?

キャサリンは仕事部屋を、その金属的な無機質さ、その男性的な美しさを見回した。
彼女はジャックが不倫をしていたと自分に信じさせることはできなかった。
どうしてそんなことができようか、CVRテープが漏洩された時、報道で起こったように、彼女がほんの少しの事実のまわりに煽情的な話が作られた時、何が起こったかを直接見て知っているのに?

彼女は電話を取り上げて最初の番号に電話した。
男が答えたが、まるで彼女の電話で起こされたかのようだった。
彼女は急いでロンドンの時間を計算した ― 朝の9時40分だった。
彼女は、ミューラーさんはいらっしゃいますかと聞いた。

 男はヘビースモーカーのように咳をした。
「誰を呼んでほしいですって?」と、彼は質問がよく聞き取れなかったかのように聞いた。
「ミューラー・ボーランドさんです、」と、彼女が言った。
「ミューラー・ボーランドはここにいません、」とその男は自信たっぷりに言った。
「すみません、」キャサリンは言い、電話を置いた。

 彼女は最初の番号を斜線で消して二番目の番号にをかけた。
返事はなかった。
3番目をやってみた。
さわやかで事務的な声で男が答えた。

 「マイケル・ボーランドです、」と、彼はまるで特定の電話を待っていたかのように答えた。
「すみません、番号違いでした。」と、キャサリンは言った。

 彼女は三番目の電話を斜線で消した。
4番目の番号にかけた。
女性が電話に出た。
「もしもし?」と、女性が言った。
「もしもし、」と、キャサリンが言った。
「ミューラー・ボーランド探しているんです。」
電話の向こうは完全な沈黙だったので、キャサリンは大西洋を越えた誰かの会話のかすかな響きを聞き取ることができた。
「もしもし?」キャサリンはもう一度言ってみた。
女性は電話を切った。
キャサリンは切れた受話器を耳に当てたまま座り込んだ。
彼女は4番目の電話番号を斜線で消そうと鉛筆をとり出したが、思いとどまった。

 彼女はその代りに5番目の番号に電話をかけた。
次に6番目に。次に7番目に。
彼女がかけ終わって、リストを見た。
そこには、ミューラーを知らないという男が一人、電話に答えない電話番号が一つ、ビジネスマンのミカエル・ボーランドが一人、しゃべらない女性が一人、もう一つの電話に出ない番号が一つ、留守番電話にほとんど知性的ではない言い方で、ケイトとミューレイは電話番号を残してほしい、というメッセージを入れているもの、ミューラーは知らないが自分のお母さんの名前はメアリーだと言ったティーンエージャーの女の子が一人。
 彼女は4番目の電話番号にもう一度かけてみた。
「もしもし?」と、同じ女性が言った。
その女性が電話を切る前に、「お手数をおかけいたします、」と、キャサリンは急いで言った。
「が、わたしはミューラー・ボーランドの居場所を探しているんです。」
最初の時と同じ不気味な沈黙があった。
何かの音が背景音として聞こえていた、音楽?食洗器の音?
そしてキャサリンは女性の喉の奥から、しゃべり始めの音のような、小さな音を聞いた。
今度はやや短い沈黙が続いた。
「ミューラーはここにいないんです、」とその声はついに言った。

 キャサリンは自分の考えと自分の声には時間のずれがあったのかもしれないと思った、というのは彼女が口を開く時までには回線が切れてしまったのだから。

 ロバートが朝彼女を見つけた時は、彼女は居間のテーブルに座っていた。
太陽が昇って来、窓の外の雪はロバートが彼女を見るのに目を細めなければならないくらいひどく明るく輝いていた。
その輝きの中で彼女は彼の顔のあらゆるしわと毛穴を見ることだ出来た。
「ここは明るいですね、」と彼が言って顔をそむけた。
「部屋の中でもサングラスがいることもあるのよ、」と、彼女が言った。
「ジャックはサングラスをかけていたものよ。」
彼女はロバートがシャツをめくりあげるのを見ていた。
「眠りはどんな風でしたか?」と、彼が聞いた。
「上々よ、あなたは?」と、彼女が言った。
「最高でした。」
彼女には彼が服を着たまま寝たことが分かった。
恐らく彼は服を脱ぐには疲れすぎていたのだろう、と彼女は思った。
光線に目を慣らすと、ロバートは彼女の顔がよりはっきりと見えたように見えた。
「なにかあったの?」と、彼が開きた。
キャサリンは前のめりに椅子に座った。
 「私ロンドンへ行くわ、」と、彼女が言った。

 彼は躊躇しなかった。
全く躊躇しなかった。
「君と一緒に行くよ」と、彼が言った。

大きなキルトのパッチワークのように、複数のテーブルかけ布が原っぱに広げられている。
数家族の集まりは紙皿や本物の銀食器や、プラスティックの保温容器に入れたアイスティーなどを持って座っている。
小さな子供たちが草に覆われた小道に沿って走っていて、時々他の家族の昼食の間を通り抜ける。
キャサリンはジュリアの古いパイ用のバスケット、ピクニックバスケットを開き、ブドウとテラ・チップス(ポテト等のチップスの製品名)、ピタパンとフムス(ひよこ豆のペースト)、楔形のブリーチーズと臭みのある小さな四角形の匂いの強いもの、をとり出す。
スティルトン・ブルーチーズだわ、とそのチーズを嗅ぎながら彼女は決めつける。
彼女から遠くないところでジャックは他の2人の父親たちと立ち話をしている。
日差しは曇っていて、少し蒸し暑く、既に黒バエがうるさい。
キャサリンはジャックが彼より背の低い男の話しに頭を傾けて聞いている。
彼は片手にソーダのカップを持って、もう一方の手をポケットに突っ込んでいる。
彼は笑い、頭を持ち上げてキャサリンの目を引く。
彼女はその笑いの後ろに、ちょっとした社会性の緊張感、彼の眼の中にある温厚な質問、「これはいつ終わるんだい」と言っているのが分かった。

 丘を越えたところに、キャサリンはマティーが友達と一緒に立っているのを見つけた、彼女はまるで寒いかのように腕を組み両脇に置いているが、寒いからではない。
それは単に15歳でどこに手を置いたらいいのか分からないだけだ。
キャサリンには見慣れていてもそうでない、マティーの顔は変遷の芸術のなせるもの様で、その形は新しく長く伸び、もはや歯の強制具のために口を尖らせてはいない。

 ― 随分な人出だわね、とバーバラ・マッケロイが隣の敷物の上から言う。

 キャサリンはマッケロイの品ぞろえをちらっと見る:
フライドチキン、スーパーで買ったポテトサラダ、コールスロー、フリートスのコーンチップス、ブラウニーケーキ。

 ― 去年よりは良いわね、とキャサリンが言う。
 ― ソフトボールの試合をするんでしょう?
 ― 雨が降らなければね。
 ― マティーは背が高くなったわね、とバーバラがマティーの方を見ながら言う。

キャサリンは頷く。
― ロクサーヌはここにいないの?、と、彼女が聞く。
その後、彼女は唇にリングをを付けた15歳のやせぎすのロクサーヌが、ほぼ確実に毎年恒例の学校のピクニックに姿を見せなければいいのにと思った。
キャサリンは時々学校の廊下でその少女に声をかける。
彼女は酷く不登校で生活態度の悪い少女だ。
バーバラは7歳のウイルのためにここにいるここにいるつもりなのだ、とキャサリンは決めつける。
バーバラの夫、鱈漁をしているルイは、時には長い間漁に出て、いない。
 ジャックと同じだわ、とキャサリンは思う。
― あなたのお祖母さんは窓に素晴らしい古いパイ置き場を持っているわね、とジョイス・キーズがバーバラの隣の敷布から声をかける。
キャサリンはさっきと同じようにキーズのピクニックの品を覗き込む。
:カレー味のライスサラダ、冷製サーモン、ペリエ、マーサ・インゲルブレトソンのコンフェチケーキなどです。
ジョイスと彼女の夫は建築家でポーツマスに事務所を構えている。
ケイズ・アンド・ケイズだ。
ピクニックの中にここの社会の全ての歴史がある、とキャサリンは思っている。

― 私はそれを見たことはないわ、と、キャサリンは言う。
― ジャックはソフトボールをやるんでしょう?と、バーバラが聞いた。
― ええ、そう思うわ、と、キャサリンが言う。
彼女は彼女の夫がガソリンスタンドの経営者で、時にはテニスの相手でもあるアーサー・ケーラーと話すのに頭をかしげているのを見ている。
それが彼の背中がしばしば彼を悩ませる理由なのだと思った;
彼はいつも他人の話を聞くために体を曲げるのだ。
彼は白いポロシャツを着、ボート用の靴を履いている。
もう一つの制服のようなものだ。
彼は彼の耳の後ろをたたき、手を見、指から黒バエを振り落とす。
彼は彼女が彼を見ているのを見る。

 ― お腹がペコペコだよ、と彼が彼女の方にやって来ながら言い、敷物の上に身をかがめる。
― マティーを連れて来るべきだった?
― いいえ。彼女は準備ができたら自分で来るわ。
― あなたはソフトボールをやるつもり?
― そのつもりだよ、とソーダ水をもう一杯つぎながら、彼が言う。
― あなたは何時もやる前は嫌がっているけど、やるとそれを好きになるわね、と彼女がからかう。

  彼は彼女の背中に指を走らせる。
そのタッチは予期せぬもので彼女を心地よくさせる。
彼女は首を前に曲げて目を閉じたくなる。
彼はここ数日彼女に触れていなかった。

― 実は今だったら冷たいビールが飲めるんだ、と彼が手を下す。
― 学校のピクニックで?
― ケーラーは気にしていないようだ。
 キャサリンはアーサー・ケーラーの方をちらりと見て、今は彼の手に大きな赤いプラスチックのカップがあることに気が付く。

 キャサリンはジャックにフムスの入った半月形のピタバンを手渡す。
― マーサは、来週は給油所を占めるつもりだ、と言った。
新しい給油機を一つ入れるのだ。
私たちはイーリー・フォールズまでガソリンを入れに行かなければならない。
ジャックが黙って頷く。
― だけど勿論あなたはここにいないでしょう、とジャックが彼の年二回の訓練でロンドンに行って、いないと言う事を思い出しながらキャサリンが言う。
― そうだね、いないよ。
― あのね、私はこの件に関してはあなたと一緒にいられると思うの。
学校は次の水曜日に終わるの。
私はロンドンに飛んで行って、そこであなたに会えるわ。
私たちはほぼ一週間一緒にいられるでしょう。
そうできれば楽しいでしょうね。

 ジャックは目をそらす。
招待状は湿った日の煙草の煙のようにテーブルクロスの上に浮かんだままだ。
― 私たちはジュリアの所にマティーを残しておくこともできるわ、とキャサリンが付け加える。
― マティーは私たちが一週間いない解放感に興奮するでしょうね。
― 僕にはわからないよ、と彼は彼女の方を振り返りながらゆっくり言った。
― 私はもう何年もロンドンに行っていないのよ、と彼女が不満を言う。
― どんなに短い時間の旅行でさえ行っていないわ。

 彼は首を振る。
― いやになると思うよ。
この訓練は終わりなく続くんだ。
僕達は一日中シュミレーターの中で過ごすんだ。
夜に座学がある。
僕達はイギリス人のクルーと一緒に食事をする。
僕は君と全然会わないだろう。
僕達は何もできないだろう。
― 私は充分一人で楽しめるわ、と彼女が言う。
そしてそれから彼女は突然、いったいなぜ彼女がこの問題について言い争いをしなければならないのだろうと思う。

 ― それなら、僕が向こうにいる間に君が来る意味はあるの?と、彼が幾分、来てもらいたくなさそうに尋ねる。
― 一人で行っても同じなんじゃないか。

指摘され、彼女は頬の内側を嚙む。
― 聞いてくれよ、と彼が申し訳なさそうに言う。
― 僕は君がホテルに帰っていると知ると、ロンドンで一緒にやれると知って、ずっとイライラしているだろう。
この訓練セッションは充分ひどいものだ。
僕はそれに加えて余計なプレッシャーを受けることがいい考えだとは思わないよ。
 彼女は彼の顔を観察する。
人が彼のそばを通り過ぎる時に振り返るほどのハンサムな顔。
 ― いいかい、と、彼が言う。
― セッションが終わってから来るって言うのはどうだろう、そうすれば僕たちはスペインへ行ける。
僕は休みを取るよ、そうすれば僕たちはマドリッドへ行ける
いや、むしろ、マドリッドで会っても良いね。

 彼は今、より生き生きしているように見え、この妥協点を解決できたことに安堵している。
― バルセロナだって行けるよ、と、彼が言う。
― バルセロナは素晴らしいわね。
― あなたはそこに行ったことはあるの?と、彼女が聞く。
― ないよ、と彼が急いで言う。
― 聞いたことがあるだけだよ。

 彼女はジャックと一緒のスペインへの旅行について考えた。
それは楽しいことは分かっていたがスペインは彼女が考えていたようなところではない。
ジャックとはまだ2週間は離れ離れだし、マティーとはもっとだ。
彼女はロンドンへ行きたかった。

 キャサリンは、ジャックの肩越しにバーバラ・マッケルロイが自分をじっと見ているのが見えた。
バーバラは長い時間離れ離れでいることがどういうことかを知っているのだ。

 ― デートみたいね、とキャサリンは、バーバラにはやし立てる。
― やあ、ライオンズ、と敷物の上から声がする。
キャサリンは見上げて、全面に雲がかかったまぶしい空に目を細める。
ニューイングランド・ペイトリオッツ(アメフト)のシャツをきた太鼓腹のソニー・フィルブリックがジャックの脚をふざけて突く。
― やあ、ソニー、とジャックが言う。
― で、航空業界はどうだい?と、ソニーが聞く。
― ああ、順調さ、とジャックが言う。
― ビデオの業界はどんな風だい?
― どうにか頑張ってるよ。で、君はこれからどこに行くんだい?
 キャサリンはピクニックで忙しい。
ジャックはテーブルかけの端から脚を引き寄せている。
彼は立ち上がらない。
というのは、フィブリックを力づけたくないからだと言う事を、彼女は知っている。
フィブリックの息子は、マティーと同じ年だが、可愛い顔をした華奢な少年だが、チェスの天才なのだ、おそらく神童だ。
― ロンドンだよ、と、ジャックが言う。
― ロンドンだって?
― ロンドンだ、と、ジャックが繰り返す。
キャサリンは彼の夫の声に礼儀正しくあろうとする努力を聞き取ることができる。
彼らはどちらもこの会話が何処に行こうとしているかを知っている。
フィブリックのような男との全てのジャックの会話は同じ場所に行着つくのだ。
― どれくらいの期間行くんだい?と、フィブリックはキャサリンを真っ直ぐ見つめて尋ねる。
― 2週間だ、と、ジャックが言う。
― 2週間!フィブリックはあざ笑うかのような驚きを込めて後ろに反り返る。
― あれらのスチュワーデスたちと2週間も、なんと、お行儀良くした方がいいぜ。

 フィブリックはキャサリンに向かって茶目っ気たっぷりにウインクする。
フィブリックは学校では、いじめっ子だったんだろうなあと、彼女は決めつける。
― 客室乗務員だよ、とジャックが言う。
― そんなことどっちでもいいさ。
― 実のところ、と、ジャックはゆっくりと、冷静に言った。
― 僕はできるだけたくさん浮気をするつもりさ。
 一瞬、フィブリックの顔が理解不能に緩んだ。
その後、彼はにやりと笑って自分の紙コップで中空を突き上げる。
彼は近くの敷物の上の他の人たちが見上げるほど大声で笑う。
― ライオンズ、君は他の人とは違うよ、分かっているだろう?
 その時そこには気まずい沈黙がある。
ジャックは何も答えない。
― じゃあ、試合で会おう、とフィブリックが言う。
― やるんだろう?
 ジャックはまるでピクニックバスケットの中になにか探しているかのようにバスケットに目を向けながら、頷く。
キャサリンはフィブリックが歩き去るのを見ている。
― なんてこった、とジャックが小声で言う。

ゲートの前で彼らは他の人たちと離れて立っていた。
板ガラスの向こうではまだ真っ白い大きな雪の塊が駐機場の間を遮っていた。
ロバートは彼のオーバーを2つに折って、型にはめて作ったプラスティックの椅子の上に置いていた。
彼はそのコートの上に1,2泊用の旅行鞄を置いて、ウォールストリートジャーナルを読んでいた。
(女性であればそんなことは絶対にしないだろうと、キャサリンは思った。)
キャサリンはコートを腕にかけて、彼女の前のボーディングブリッジでゲートと繋がれた飛行機をじっと見ていた。
その飛行機は美しい、と彼女は思った。
白地に真っ赤なマーキングでしゃれた文字でヴィジョン航空と書かれている。
そのT-900航空機は彼女の所からコックピットが覗き込める位置にあって、半そでシャツを着た男たちが、顔は影になっていたが、チェックリストに沿ってずっと計器盤の間を手を動かしているのが見えた。
彼女は自分が今までにクルーの誰かと会ったことがあったのだろうかと思った。
彼らはジャックの告別式に来た人たちなのかしら?

 彼女は脚が痛くて座りたかった。
しかしそうすることは、2人の荷物をいっぱい持った人の間に挟まれることを意味するだろう。
どっちみち搭乗するまで数分しかないのだ。
キャサリンは彼女の喪服の黒いウールの縮みのスーツを着ていて、学校の先生と言うよりビジネスウーマンに似ているように見えるだろうなあと思った。
多分、宣誓証言のためにロンドンに向かっている弁護士のように見えるだろう。
彼女は髪を緩く巻き、真珠のイアリングをしていた。
片手には皮の手袋をし、首には黒のシェニール織のスカーフをしていた。
彼女は、この状況では、彼女がこの一週間身に付けていたものの中ではまあまあ良い方に見えるだろうと思った。
しかし彼女の顔はやせ細り、12日前よりも老けて見えると言う事は分かっていた。

 彼女がロバートにロンドンへの旅行の提案を告げたその日、彼女は自分の計画をマティーに告げるためにジュリアの家に車で行った。
マティーはキャサリンの計画に痛々しいくらい無関心だった。
彼女の唯一のはっきりした意見はくぐもった怒りのため息とうめき声も混じった否定的な「どっちにろやりたいのならばやれば」というものだった。
 「たった2日行くだけよ」と、キャサリンは言った。
「イカスわね、私は寝てもいいかしら?」と、マティーは言った。
台所ではジュリアがマティーが無関心に見える理由を説明しようとしていた。
「彼女は15歳なのよ、」と、数時間前から起きていたジュリアが言った。
彼女はその日、ウエストにゴムの入ったジーンズと緑色のトレーナーを着ていた。
「彼女は誰かを責めなければならないのよ、だからあなたを非難しているの。
それが訳の分からないことだって私は分かっているわ。
あなたは覚えていないでしょうけど、あなたの両親が死んだすぐ後で、あなたは私を非難したわ。」
 「私はそんなことしなかったわ。」と、キャサリンは熱を込めて言った。
 「いいえ、あなたは非難したの。
表立って言いはしなかったけど私にはわかっていたわ。
でもその事も過去の事よ。
こんな風に、過去の事になって行くでしょう。
ちょうど今、マティーは彼女の父親を非難したいと思っているの。
彼女は父親がいなくなったことに、こんなにも急に彼女の人生を変えてしまった事に狼狽して、怒っている。
でも、彼を責める事なんて問題外でしょ。
彼女は実質的に彼の唯一の擁護者だったんだもの。
結局、マティーの怒りはあなたから離れてちゃんとした目標を見つけるわ。
あなたがやるべきことは、その怒りが一周して父親の死を自分自身の責任だと言って自分を責め始めないように注意することなのよ。」
 「じゃあ、私は留まるべき、」と、キャサリンは弱弱しく言った。
 しかしジュリアはきっぱりキャサリンは行くべきだと言った。
キャサリンは個人的にはジュリアが自分を家から追い出したいのは、自分のためではなく、マティのためだと理解していた。

キャサリンはパイロットの未亡人としてヴィジョン航空が飛んでいるところはどこへでもファーストクラスの座席が空いていれば乗る権利があった。
彼女はロバートに窓際の席を取るように身振りで示すと、自分の荷物を彼女の前の席の下にしまい込んだ。
突然彼女は飛行機の中の独特の人工的な臭いを含んだ、すえた空気に気が付いた。
コックピットのドアが開き、キャサリンはクルーを見ることができた。
コックピットの大きさは彼女を決してびっくりさせなかった。;
それらの多くは自動車の前部座席よりも小さいのだった。
彼女はジャックの飛行機のCVR(コックピットボイスレコーダー)により示唆された筋書きがどうすれば起こりえるのだろうかと不思議に思った。
そこには三人の男が座れるほどの空間は無さそうで、動き回って乱闘をするなんて言うまでもないことのように思えた。

 彼女の所からは半そでのパイロットたちの一部、コックピットの内部の3分の1しか見えなかった。
太い両腕、自信に満ちた動作、その情景を見ると、左側に座った男のイメージはジャックが座っていると想像しないわけにはいけなかった。
彼女は彼の肩、手首の内側の白さを思い描いた。
彼女はジャックが飛ぶ航空の乗客になったことはなかった。

 機長が立ち上がって客室の方を向いた。
彼の目がキャサリンを見つけ、彼女は彼が自分の哀悼の意を表そうとしているのが分かった。
彼は前髪が白い高齢の男で明るい茶色の目をしていた。
彼は機長としての責任を負うには優しすぎるように思えた。
彼は絶望的なくらいお悔やみを言うのが下手だったが、彼女はその口下手さに好意を持った。
彼女は彼に感謝を言い、少し微笑みさえ表そうとした。
彼女はこの状況で期待されるだけのことはやっていると言い、その事がみんなが聞きたいことだった。
彼は彼女に彼女が他の家族とマリンヘッドに旅行するのか尋ね、彼女は即座に、恐らく強調して、「いいえ」と答えた。
彼は質問したことを恥じているようだった。
彼女は振り返って機長をロバートハートに紹介した。
機長は前にロバートにあったことがあるかもしれないかのように彼を観察した。
その後、男は退席しコックピットに戻っていき、後ろ手にドアを閉めた。
彼の安全のために。
彼らの安全のために。

 客室乗務員が前に持ってきたシャンペングラスを集め、キャサリンは自分のシャンペンを飲んでしまった事に気付いてびっくりした。
彼女はそれを自分の口で味わったのに、飲んだことを思い出せなかった。
彼女は自分の腕時計を見た。
:夜の8時14分だ。
ロンドンでは午前1時14分だろう。

 飛行機は滑走路の上を動いた。
パイロット、疲れ切った目の機長?は離陸のためにエンジンの回転数を上げた。
彼女の心臓は長引いた心拍の間止まり、その後胸の内側を蹴った。
彼女の視界はテレビが消える時の画面ように細く点になった。
キャサリンはひじ掛けを握り目を閉じた。
彼女は自分の下唇を噛んだ。
霧状の物のベールが剝がれ、彼女は可能な限りの物を見た。
:客室から剥がれて漂う隔壁の破片。
;人、シートに固定された、多分子供だ、外気の中で回転している。
;貨物室から出火した火は留まり、客室に広がる。

 飛行機は不自然な推進力でスピードを上げた。
T-900のずっしりとした重量は持ち上がろうとしない。
彼女は目を閉じて、彼女が覚えている唯一の祈りの言葉を唱え始めた。
:天にましますわれらが神よ・・・

 彼女は今まで一度も定期便に乗って恐怖を感じたことはなかった。
たとえ揺れの多い大西洋横断の飛行の時でさえ。
ジャックはいつも飛行機の中ではリラックスしていた、パイロットの時も乗客の時も、そして彼の冷静さが一種の夫婦の浸透圧によってキャサリンに伝わったのだった。
しかしその保護は今や無いのだった。
もしジャックが飛行機の中でも安全だと信じていたから彼女が飛行機の中でも安全だ、と信じていたのだとしたら、もしジャックが死んでしまったら、彼女は飛行機の中で死ぬかもしれないということにならないだろうか。
彼女はその後恥ずかしさと、自分が気分が悪くなろうとしている事を知る事の嫌悪感を感じた。
ロバートは彼女の背中に手を置いた。
 飛行機が離陸したとき、ロバートは冷たい水と冷たいタオルとエチケット袋(ゲロ袋)をもっくるように、客室乗務員に合図した。
キャサリンの体は空中に浮かんだ安堵感を受け入れることができず、反抗した。
悔しいことに、彼女はシャンペンを吐いてしまった。
彼女は自分自身の死への恐怖がどれほど強く心の底からの物であるかを知り驚いた。
:彼女はジャックが死んでしまったと分かった時でさえ、これほどまで気分が悪くはならなかった。

 シートベルトサインが消えるとすぐ、キャサリンはトイレを使うためにふらふらと立ち上がった。
客室乗務員が歯ブラシと歯磨き、お手拭き、石鹸、櫛の入ったビニールの袋を手渡し、キャサリンはそんなキットが具合の悪い乗客のために用意してあると言う事を知った。
それらはファーストクラス用だけなのか、それともみんなもらえるのだろうか?

 小さな洗面室でキャサリンは自分の顔を洗った。
彼女のスリップとブラウスは汗が染みていて、彼女は肩と首の皮膚をペーパータオルで乾かそうとした。
飛行機が揺れて、頭をキャビネットにぶつけてしまった。
彼女はできるだけしっかりと歯を磨き、いつも飛ぶのを怖がっている人たちを見下すように感じていた事を思った。

 彼女が帰ってきたとき、ロバートが自分の席から立ち上がって彼女の腕を取った。

 「私は説明できないんだけど、」と、彼女は座り、彼にも座るように示しながら言った。
「それは恐怖だったと思うの。
飛行機は地面を離れないだろうし、私たちはそんなに早く動けないし、墜落するって確信していたわ。」

 彼は優しく彼女の腕を抱きしめた。
 彼女は椅子を倒して、ロバートは自分のシートを彼女のシートに合わせて調節した。
ほとんど不本意だっただろうと思えるが、彼は自分の手提げカバンから雑誌をとり出した。
 彼女は自分の結婚指輪に指を通した。
機長がインターフォン越しに安心させるような朗々とした声で話した。
しかし飛行自体はまだ悪いように感じられていた。
難しいのは航空機がその重量に逆らって空中にとどまり続けるという考えに、考えを適合させると言う事にあるのだ。
彼女は飛行の空力学、飛行を可能にする物理法則、は理解していたが、現時点では、そんなことは一つも心に留めなかったのだろう。
彼女の心は飛行機は空から落ちるかもしれないと知っていた。

彼女が目を覚ました時、飛行機の中も外も暗かった。
頭上のスクリーンには、くたびれた映画が静かに流れている。。
彼らは朝に向かって飛んでいた。
ジャックが死んだとき、彼はまるで太陽を振り切って逃げるように、闇の中を飛んでいた。

 窓越しに彼女には雲が見えた。
何処の上空?
ニューファウンドランド? 大西洋? マリンヘッド?

 彼女はもし心臓が爆弾の振動で止まってしまったら、それとも、もし人が死ぬことが分かった瞬間にとまってしまったら、それとも暗闇の中を落ちてゆく恐怖に反応して止まってしまったら、それとも体が水にあたるまで心臓が止まらなかったら、どんな風だったのだろうと想像した。

 操縦席が客室から離れるのを見、シートに自分自身が固定されたまま、夜の中を落ち、死に至る速度で水面に打ち付けられると知るのはどんな風だったのか、ジャックは意識があったとすればきっとその事を知っていたのだから。
彼はキャサリンの名前を絶叫したのだろうか?
他の女性の名前を?
最後に呼んだのはマティーの名前だったのか?
それともジャックもまた、人生最後の絶望的な泣き声で、母親を呼んだのだろうか?
 彼女は、彼が死ぬと分かるまでの時間が無く、誰の名前も呼ぶこともなかったことを願った。
タクシーの中の彼女の横では、ロバートが脚を延ばしていた。
彼のブレザーの金のボタンが空港のセキュリティーアラームを鳴らしていた。
彼は灰色のズボンをはいて、白いシャツを着て、黒と金色のペイズリー柄のネクタイをしていた。
彼は昨日より痩せて見えた。

 彼女は手を髪にやり髪を束ねなおそうとした。
彼らの間には2つの一泊用の鞄がありどちらも目立って小さかった。
彼女はあまり考えずに急いで鞄をつめたのだった。
彼女のスーツケースには下着とストッキングの替え、違うブラウスが入っていた。
彼らはロンドン市内に入り快適な住宅街を通り抜けた。
タクシーは急に縁石に乗り上げた。
 
 雨を通してキャサリンには、ほとんど同じような正面玄関の汚れのない列が連なる、白い漆喰のタウンハウスの通りが見えた。
家々は4階建てで、弓型の張り出し窓で優雅に飾り立てられていた。
繊細な錬鉄製のフェンスが歩道を縁取り、各家に円柱の有るポーチからはランタンが吊り下げられていた。
玄関のドアだけが個性を主張していた。
厚い木製のドアあり、ガラスの枠付きドアあり、また別のドアは濃い緑色に塗られていた。
タクシーから一番近い家々は小さな真鍮の飾り額の上に書かれた目立たない番号で識別できるようになっていた。
彼らが止まったのは、前に21番と書いてあるあるのが読める家だった。

 キャサリンは布張りのシートに腰を下ろした。
 「まだよ、」と、彼女が言う。
 「代わりに僕が行こうか?」と、彼が訊ねる。

 彼女はその申し出を考え、スカートのたるみを伸ばした。
ドライバーは、エンジンの安定した音のように、待っているあいだ、平然としているように見えた。

 「そこに着いたらあなたはどうするつもりだったの?」と、彼女が聞いた。
 彼は、まるでその事を何も考えていなかったかのように首を振った。
それとも、彼は彼女が求めるままに行動するつもりだった。

「君はどうするるつもりなの?」と、彼が聞いた。
キャサリンは頭が軽く感じ、もはや正確に自分の体がどう反応するかが予測できないと思えた。
近い将来の事を考えられないとういうことは、人がその現実に対して準備しないままにしておくことだと考えた。

 ホテルまでの道のりは短く、そのホテルが建っているブロックは、先ほどまでいたブロックと不気味なくらい似ていた。
ホテルは7,8件以上のタウンハウスで、目立たない入り口があった。
上の階は新品同様の白い手すりが取り巻いていた。

 ロバートは隣り合ってはいるが繋がってはいない2つの部屋を予約した。
彼は彼女の鞄をドアのところまで運んだ。

 「階下のパブで昼食を取りましょう、」と、彼が言った。
彼は腕時計をチェックした。
「正午に」
「分かったわ。」と、彼女が答えた。
「君はこんなことをする必要はないよ、」と、彼が言った。

彼女の部屋は小さかったが、十分な広さだった。
壁には無害な壁紙が貼ってあり、壁に取り付けられた真鍮製の燭台があった。
机とベッド、ズボンプレッサー、コーヒーかお茶が作れる壁のくぼみアルコーブがあった。
彼女はシャワーを浴び下着とブラウスを着替え、髪にブラシをかけた。
鏡を覗き込み、両手を顔に置いた。
彼女はもはやここ、この町で彼女を何かが待っていると言う事を否定することはできなかった。

 時々、彼女は、勇気とは単に足をもう片方の足の前に踏み出し、それを止めない事だと、思った。

パブは暗く、木のパネルのアルコーブがあった。
天井からアイルランドの音楽が鳴っていた。
金色で縁取りされた、濃い緑色の塊の馬の版画が壁に掛かっていた。
6人ほどの人々がバーに座って大きなグラスでビールを飲んでいて、アルコーブには2人組のビジネスマンたちが座っていた。
彼女は部屋の向こうで長椅子のクッションに心地よさげに座っているロバートを見つけた。
彼は満足そうに見えた、多分それ以上に見えた。
 
 彼女は部屋を横切って、自分の手提げを長椅子の上に置いた。
 「あなたが飲み物を注文する自由を奪ってしまいました、」と、彼が言った。
 彼女はエールビールをちらりとみた。
ロバートの前にはミネラルウォーターのグラスがあった。
彼女は彼の隣に滑り込んだ。
彼女の脚が彼の脚に触れたが、引き離すのは失礼なような気がした。

 「あなたに何が起きたのですか?」と、彼女が彼の水のグラスを指さして突然尋ねた。
「一緒に飲まないのですか?すみません。聞いてもいいかしら?」
「呑まないのです、」と彼が首を振った。
「僕の両親はどちらもトロントの大学の教授だったんです。
彼らは毎晩生徒たちのためにコート、ある種のサロンを開いたのです。
ボトルを置いたお盆が集まりの中心でした。
勿論生徒たちはそれが大好きでした。
僕は15歳の時から彼らに加わり始めました。
実際、今考えてみると、多分私の両親はたくさんのアルコール依存症を作ったんだと思います。」
「あなたはカナダ人なの?」
「元はそうでいたが、今は違います。」

 キャサリンは隣にいる男を注意深く見つめた。
彼が彼女に親切だということ以外に、彼の事を彼女は何をわかっているのだろうか?
仕事はできるようだし、魅力的なことは間違いない。
彼女に同行することが彼の仕事の一部なのかどうか疑いを持った。

 「私たちは正当な理由もなくここに来たのかもしれません、」と彼女が言い、彼女の声に希望の響きが聞こえた。
あなたの胸に疑わしい塊を見つけて、医者に、それは何でもないよ、まったく何でもない、と言わせているようなものだと、彼女は思った。
「ロバート、ごめんなさいね、」と、彼女は言った。
「これはばかげているわ。
私は気が狂っているとあなたが思っているにちがいないというのは分かっているわ。
こんなことにあなたを引き込んでしまって本当にごめんなさい。」

 「僕はロンドンが大好きなんだ、」と、彼は急いで、彼らの共同事業をそんなに早くは、やめてしまいたくないかのように、言った。
「君は何か食べたほうがいいよ、」と、彼が言った。
「僕はアイルランドの音楽が大嫌いだ。
何だって、それはいつもそんなに悲しそうなんだろうか?」

 彼女は微笑んだ。
「あなたは前にここに来たことがあるの?このホテルに?」と、話題を変えたくないが渋々、彼女が聞いた。

「僕はしょっちゅうここに来るよ、」と、彼が言った。
「私たちは、私たちの英国側の担当者と、言葉通り連絡リエーズを取り合っているよ。」

 彼女はメニューを検討し、それを磨かれてはいるが少しベタベタしたテーブルのべニア板の上に置いた。
 「君は美しい顔をしているね、」と、彼が突然言った。
 彼女は赤面した。
誰も長い間ずっと彼女にそんなことを言った事はなかった。
彼女は顔を赤らめたことが恥ずかしかったし、彼にその事を悟られたことも恥ずかしかった。
彼女はもう一度メニューを取り上げて、再検討し始めた。
「私、食べられないわ、ロバート。ちょっと無理よ。」

 「君に言いたいことがあるんだ、」と、彼は話し始めた。
 彼女は手を挙げた。
彼女は彼女に返事を要求するようなことを何も言ってほしくなかった。

 「すみません、」と、彼は目をそらしながら言った。
「これはあなたには必要のないことだ。」
 「私はただこれがどんなに楽しいことだか考えていたの、」と、彼女が静かに言った。

 そして彼女は彼がその生ぬるい申し出(夕食を食べたくないと言った事)に失望を隠せない事を驚きの目で見た。

「私はもう行くわ、」と、彼女が言った。
「僕も行くよ。」
「いいえ、」彼女は言った。
「私はこれを一人でやらなきゃいけないの。」
彼は身を乗り出して彼女の頬にキスした。
「気を付けてね、」と、彼が言った。

彼女は今、彼女はあえて疑問も抱かない勢いで動いて、やみくもに通りに出た。
タクシーは一時間ちょっと前に見た狭いタウンハウスの前で止まった。
彼女は通りを見まわし、一階の窓の小さなピンク色のランプを見た。
彼女は運転手に金を払い、縁石に足をかけた時、小銭を多く払い過ぎたと確信した。

 雨は彼女の傘から溢れ、彼女の脚の後ろに斑点を付け、彼女のストッキングを濡らした。
彼女が開けようとしている木製のドアの前で立ち止まった時、一瞬の時間があった。
その時彼女は思った。:
私はこんな事したくないのよ。しかし、同時に必ずこうするとわかっていたからこそ、決断しないという贅沢が許されていたのだと理解した。

 彼女は思い真鍮のドアノッカーを持ち上げ、ドアを叩いた。
彼女は中の階段の足音と、子供の短いイライラした叫び声を聞いた。
まるで配達を待っていたかのように、急にドアが開いた。

背の高い、下あごの輪郭にって落ちる黒い髪の、痩せた女性だった。
女性は30,多分35歳だった。
彼女は腰に子供を抱えていたが、子供が驚いたので、キャサリンは叫ばないようにするのがやっとだった。

 キャサリンはコートの中で震えた。
彼女は不自然な角度で傘を持っていた。

 子供を抱えた女性は驚いて見つめ、一瞬訝しげだった。
そして、その後、全然驚いていないようだった。
「私はここ数年この瞬間をずっと想像していました、」と、女性が言った。

その女性の特徴は、まるで写真立てを酸で侵食するように、キャサリンの意識に強く刻み込まれた。
茶色の目、濃いまつげ。細いジーンズ、長い脚。
アイボリーのフラットシューズは、スリッパのように履きつぶしてある。
袖をまくったピンクのシャツ。
千の疑問がキャサリンの注意を惹いた。
いつ?いつからいつまで?どうやって?なぜ?

 女性の腕の中の赤ん坊は男の子だった。
青い目の男の子。
その色合いは、その違いは彼の父親ほどはっきりと主張するほどではないが、少し違っていた。

 時間の封筒が引きちぎって開けられて、キャサリンは崩れ落ちた。
彼女はその女性と男の顔のショックによりドアに寄りかからなければならないような事と戦った。

 「お入りください。」

 その招待が2人の女性の間に横たわる長い沈黙の雰囲気を破った。
しかし、それはそんな申し出が普通されるような、笑顔で入ることを許可する、玄関に後ずさるやり方ではなく、全然招待なんかじゃなかった。
それはむしろ、その女性が「私たちは、今どちらも一つの選択肢しかないの」と言っているような、単調で抑揚のない宣言だった。

 本能は勿論、濡れたところから出て、家に入ることだった。
座ることだ。

 キャサリンは傘を低くして、敷居を跨ぐ時それを畳んだ。
家の中の女性は片手でドアを押さえ、もう一方の腕に赤ちゃんを抱いていた。
赤ちゃんは静けさに気が付いて、好奇心いっぱいに見知らぬ人を見ていた。
玄関にいた女の子は遊ぶのを止めて注目していた。

 キャサリンは傘を磨き上げられた寄木細工の上に滴らせるままにしていた。
数秒の間、2人の女性は通路に立ち、キャサリンはその女性の髪が彼女の顎の線に沿って揺れているのに気が付いた。
キャサリンの髪と違って、上手にカットしてある。
彼女は自分自身の髪を触って、そうしたことを後悔した。

 玄関は極端に暖かく空気が少なかった。
キャサリンは汗がブラウスの下に滴り落ちているのが感じられ、そのブラウスはスーツコートの下で、スーツコートは毛糸のコートの内側にあった。

 「あなたはミューラー・ボーランド、」と、キャサリンが言った。

 ミューラー・ボーランドの腕の中の赤ちゃんは性別は違っているが、髪の毛の色は少し黒いが、正確にマティーがその月齢、5ヶ月だった時だ、とキャサリンは思った。
そのことに気づくと、まるで会ったこともないこの女性がキャサリンの子供を抱いているかのような不協和音が、彼女の耳に響いてきた。

 ジャックには息子がいた。
 黒い髪の女性は、振り返りキャサリンを残し玄関を出て居間の方へ去って行った。
玄関にいた大きな瞳で天使のような口をした女の子は手に一杯の積み木を抱え、それを胸に抱いて、ずっとキャサリンを目で追いながら壁に沿って居間に入って彼女の母親の脚の所に動いて行った。
少年、息子は父親に似ているのに対し、その少女はお母さん似だった。

 キャサリンは傘を隅に置き、通路から居間に歩いて行った。
ミューラー・ボーランドが暖炉を背にして立ち、彼女を待っていたが、座ってくださいと催促する様子はなかった。

 部屋は天井が高く、レモンイエローに塗られていた。
装飾的な彫刻が施された整形物モールディングは光沢のある白い塗料でピカピカに輝いている。
前面には湾曲した窓にフランス製のロッドに取り付けられた長いゴージャスなカーテンがかかっていた。
木彫りのカクテルテーブルを囲むように、錬鉄製の低い椅子がいくつか置かれ、特大の白い枕がクッションになって、キャサリンをアラブの部屋にいるような気分にさせた。
女性の頭の後ろの炉棚には重厚な金の鏡があり、入口にいるキャサリンの姿が写っていた、つまり、煎じ詰めると、キャサリンとミューラー・ボーランドが同じ枠の中に立っていたと言う事だ。
暖炉の上には寄せ木細工に入った写真、ピンク色の金の花瓶、ブロンズの像があった。
弓型の窓の両側には背の高い本棚があった。
足元には落ち着いた灰色と緑色の絨毯が敷かれていた。
壮大な建築物にもかかわらず、また暗い天候にもかかわらず、その効果は光と風であった。

 キャサリンは座らなければならなかった。
彼女は入口のすぐ近くの木の椅子に手を置いた。
彼女はまるで彼女の両足が突然すくんでしまったかのように、深く腰を下ろした。

 彼女は、彼女は自分とほぼ同じ年齢なはずなのに、前にいる女性よりずっと年をとっているように感じた。
キャサリンは愛の新しさを、確実にセックスの相対的近さを、なんとなく宣言しているのはその赤ん坊なのだと思った。
それとも、キャサリンのダークスーツと対照的なジーンズ・・・。
あるいは、キャサリンの膝の上に手帳を載せて取りすまして座っているその様子。

 まるで今山登りをしたかのように、彼女のコートの下で彼女の右脚が痙攣した。

 赤ん坊がぐずり始め小さな不機嫌な鳴き声を上げた。
ミューラー・ボーランドは屈み込んでカクテルテーブルからゴムのおしゃぶりをとり出して、彼女自身の口にゴムの乳首の端を入れて数回吸い、その後それを赤ん坊の口に入れた。
男の子は濃紺のコーデュロイのオーバーオールと縞模様のTシャツを着ていた。
黒髪の女性はふくよかで平らな唇に口紅は差していなかった。

 キャサリンは赤ん坊を抱えた女性から目を放し暖炉の上の写真を見た。
写真に焦点があった時、彼女は思わず席を立ち上がりそうになった。
写真はジャックで、部屋を横切ってさえよく見えた。
間違えようもなく、今や彼女の座っているところからでさえ。
生まれたばかりの赤ん坊を抱いている。
彼のもう一方の手はもう一人の子供、彼らと一緒に部屋にいる女の子の深い巻き毛を撫ぜていた。
写真では、少女は厳粛な顔をしていた。
3人は海辺にいるようだった。
ジャックは満面の笑みを浮かべていた。

 もうひとつの人生の、目に見える証拠。
しかしキャサリンには何の証拠も必要ではなかった。

 「指輪をしているわね、」キャサリンはほとんど無意識に言った。
ミューラーは親指で指輪をなでた。

 「結婚しているの?」と、信じられないというようにキャサリンが聞いた。
 「そうよ。」
 キャサリンはさっきの文章の意味を理解するまで、しばらくの間混乱した。
  ミューラーは赤ん坊を反対側の腰に抱き替えた。
 「何時いつ?」」と、キャサリンが聞いた。
 「4年半前です。」
 女性はしゃべる時ほとんど口を動かさなかった。
母音と子音が彼女の舌から独特の旋律の動きで転がり出る、じゃあアイルランド人だ。
 「私たちはカソリックの教会で結婚したの、」と、ミューラーは問わず語りに答えた。
キャサリンは自分がこの情報を聞いて後ずさりする思いがした、まるで打撃を受けたように。
 「そしてあなたは知っていたの・・・?」と、彼女は聞いた。
「あなたについて? ええ、勿論。」
 まるで分っていたかのように。
黒髪の女性は全てを知っていたのだった。
キャサリンは知らなかったのに。

 キャサリンは手帳を置き、腕を振ってコートから離した。
アパートの中は暖房が効きすぎていて、キャサリンはひどく汗をかいていた。
彼女は首の後ろの髪の下に汗をかいているのを感じた。

 「彼の名前は何て言うの?」と、キャサリンは赤ん坊の事を聞いた。
彼女は質問をしながらも自分自身の礼儀正しさに驚いていた。

 「ダーモットです、」と、ミューラーが言った。
「私の兄の名前に由来するんです。」

 女性は突然首を曲げて赤ん坊の頭にキスした。
「赤ちゃんはいくつなの?」と、キャサリンが聞いた。
 「今日で5ヶ月です。」
 そしてキャサリンは、直ぐにジャックがそこにいて、このアパートにいて、その小さな記念日を分かち合ったに違いないと、他の誰もそうは思わないかもしれなくとも、思ったのだった。

 赤ん坊はなだめられて今は眠っているようだった。
最近数分間で見たことににもかかわらず、彼女自身とその赤ん坊(赤ちゃんが存在するという正にその事実にもかかわらず)その不自然な関係にもかかわらず、キャサリンはその子を、常に小さな子供を抱きたがる満たされない空間、自分の胸に抱きたいという、性的な感情に近い、思いを感じた。
5ヶ月のマティに似ている事は、異常なほどなのだ。
実際、マティーかもしれない。
キャサリンは目をつぶった。

 「大丈夫ですか?」と、ミューラーが部屋の反対側から聞いた。
キャサリンは目を開けて、ジャケットの袖で額を拭いた。

 「考えていたんだけど・・・、」と、ミューラーが話し始めた。
「あなたは来るかしら、と思っていたの。
あなたが電話をかけてきたとき、私はあなたが分かったって確信したの。
彼が死んだときそれが明らかになると確信したの。」

 「私は知らなかったわ、」と、キャサリンが言った。
「いいえ、ほんとには。まさに今、赤ん坊を見るまでは。」

 それとも彼女は知っていたのだろうか?
疑わしいと思った。
彼女はあの大西洋横断の沈黙を聞いた瞬間から知っていたのだろうか?

 黒髪の女性の目の周りにはわずかな小皴があり、数年すると彼女の口の両側には深い皴がきざまれるであろうことを容易に想像させた。
赤ん坊が突然目を覚まし、キャサリンにとって、かつて馴染みのある元気な遠慮ない声で泣き始めた。
ミューラーがあやそうとして赤ちゃんの背中を軽く叩いた。
しかしそれは功を奏しないようだった。

「この子を降ろさせて、」ミューラーは泣き声の中でそう言った。

 彼女が部屋を出て行った時、女の子は知らない人と残されたくないのか、お母さんの後を追った。

 ジャックはカソリックの教会で結婚していた。
黒い髪の女性は、彼がすでに結婚していたことを知っていた。

 キャサリンは立ち上がろうとした、それから立ち上がれないと感じた。
彼女は震えがそれほど目立たないように努力して両脚を組んだ。
それほど平静を装っているわけでもない。
彼女は部屋全体を見ようとして、ゆっくりと顔を横に振った。
壁には電球のはまった真鍮製の燭台。
カクテルテーブルには雑誌、労働者階級の街並みを描いた油絵。
彼女はなぜそれに怒りを感じることができないのはなぜだろうかと思った。
それはあたかも彼女がナイフで怪我をしたがその傷が深すぎて傷がまだ痛くないような感じだった。
;それは単にショックを生み出しただけだった。
そしてそのショックが礼儀正しさを生み出していたようだ。

 ミューラーは知っていた、この日を想像していた。
キャサリンはそうではなかった。
一つの壁に沿って、テレビと音響設備が入っているだろうとキャサんが想像した、キャビネットがあった。
彼女は突然、ピンクパンサーの映画のことを思い出した。
ジャックとマティが借りてきた映画で、ジャックとマティがどうしようもなく苦笑することが保証されているものだった。
彼らは長い台詞を引用できることを誇りにしていた。

 キャサリンは声のする方に顔を向けた。
ミューラー・ボーランドがドアの所に立っていて、横から見ていた。
彼女は部屋に足を踏み入れ、白い椅子の一つを横切って、座った。
突然、彼女はカクテルテーブルの上の木の箱を開けて煙草をとり出した、そして彼女は箱の横にあるプラスティックのライターで火をつけた。

ジャックは煙草を吸う人と一緒に同じ部屋にいるのは耐えられない、と言っていた。
 「それがどんな風にして起きたのか知りたいでしょう、」と、ミューラーが言った。
 彼女は痩せてはいたが官能的だと表現されるかもしれない。
それは赤ん坊のせいだ、とキャサリンは考えた。
赤ちゃんを育てているからだ。
多分お腹にその後がちょっとだけ残っているが、それも赤ちゃんを産んだせいだ。

 キャサリンはその時、別の思いがけない記憶を持った、一枚の写真だ、ジャックが撮った。
キャサリンはキルトのバスローブを着て、まだベッドメイキングの終わっていないベッドに彼女の両腕を下にして、うつ伏せに寝ていてた。
ジャックは5か月令のマティーを抱えて、その眠った赤ん坊を、キャサリンのお尻と腰の間にできた隆起の上にうつ伏せに置いていた。
キャサリンとマティーは一緒に仮眠をとっていて、ジャックは母親と彼女の幼児の様子に感動してスナップ写真を撮ったのだった。

 ミューラーはクッションに寄りかかり、その背中に片方の腕をまわした。
彼女は両足を組んだ。
彼女は1m80cmはあるかもしれない、ほとんどジャックと同じ高さだ、とキャサリンは思った。
キャサリンは彼女の服を着ていないときの体つきはどんな風だろう、彼女とジャックが一緒にいる時はどんな風に見えるだろうか、と想像しようとした。
 
 しかし彼女の心は強く異議を唱え、反抗し、思い描くことを拒否した。
後でその映像が最も出てきて惜しくない時に、それらがいずれ表れるだろうものだとキャサリンは知った。
 
 「はい、」と、キャサリンは言った。
ミューラーは自分の煙草を一本吸い、屈み込んで、灰を飛ばした。
「私は5年半前彼と一緒に飛んだの。
私はビジョン航空で客室乗務員をしていたの。」
 「知っているわ。」
「そう、恋に落ちたの、」と、その女性はあっさりと言った。
「私はその詳細を話そうとは思いません。
私たちはお互いに自分たちの足元(基盤)を払いのけていたんだとは言えます。
私たちはその最初の時に、一か月間一緒にいました。
私たちは・・・」
その女性は、多分デリカシーのゆえに、多分もっといい言い回しを探そうとして、躊躇していたのだ。
「私たちは、浮気をしていたの、」と、彼女はついに言った。
「ジャックは苦しんでいたわ。
彼はマティーと離れるつもりはないと言っていたわ。
彼の娘のために決してそんなことはできなかったのよ。」

 マティーと言う名前は二人の女性の間に震えるほどの緊張の雰囲気を生み出した。
ミューラー・ボーランドはその女の子の名前を、まるで知っていたかのように簡単に言った。

 キャサリンは思った。
:彼は彼の娘を捨てることはできないけれど、彼の妻は裏切るんだ。

 「それは正確には何時のことだったの?その不倫は。」と、キャサリンが聞いた。
「1991年の6月よ。」
「まあ。」
 1991年の6月には彼女自身は何をしていたのだろうか?
キャサリンは思った。
 
 その女性は繊細な白い肌で、容姿もほぼ欠点が無かった。
ほとんど戸外で過ごすことのない顔色。
しかし、彼女はランナーだったかもしれない。

 「あなたは私の事を知っていた、」と、キャサリンが繰り返した。
彼女の声は自分の声のようではなかった。
それはまるで薬でも飲んだようにゆっくりと不確かなものだった。

「私はあなたのことを一番最初から知っていました、」と、ミューラーが言った。
「ジャックと私との間には秘密は無かったのです。」

 じゃあ、もっと親しいってことね、とキャサリンは思った。
意図的なナイフの傷。

 雨は弓型の窓に沿って滑って、雲は早い夜のような誤ったを醸し出していた。
二階の部屋からはテレビの漫画のはっきりした喚き声が聞こえていた。
汗をかいたまま、上着を脱いで立ち上がり、立ち上がった拍子にブラウスがほどけたことに気がついた。
彼女はブラウスをスカートの中の戻そうとした。
キャサリンは、彼女よりもジャックのことをよく知っていたかもしれない向かい側の女性の厳しい精査に気づき、彼女の脚が彼女を裏切らないように祈った。
彼女は部屋を横切って暖炉の方に歩いて行った。

 彼女は寄せ木細工の額に入った写真を手に取った。
ジャックはキャサリンが今まで見たこともないような、色あせた黒のポロシャツを着ていた。
彼は小さな新生児を抱いていた。
キャサリンがついさっき積み木で遊んでいるのを見た女の子で、ジャックの髪の縮れ方と眉を持っていたが目は違っていた。

 「彼女の名前は何というの?」と、キャサリンは聞いた。
「ディアドラよ。」
 ジャアックの指はその少女の髪に深く入っていた。
その様子はディアドラのときもマティーの時と同じだったんだろうか?

 キャサリンはちょっとの間目を閉じた。
自分自身への傷はほとんど耐えられないものだ、と彼女は思った。
しかし、マティーへの傷は並外れてひどいものだった。
人は写真の少女が並外れて美しいことが分かる、分からない人がいるだろうか?
濃い色の目と長いまつげ、赤い唇の魅力的な顔。
正真正銘の白雪姫だ。
マティーが保っていた神聖な思い出が、別の子供と一緒に繰り返され、よみがえったのだろうか?

 「どうしてそんなことができたの?」と、キャサリンは叫び、眩暈がして、同時にジャックにも話しかけていたのかもしれない。
 
 彼女の指は汗でぬるぬるだったので額縁を落としてしまった。
それは彼女の両手から滑り落ちてサイドテーブルにぶつかった。
彼女はそんなことが起こるなんて思っていなかったので、ちょっと傷がついたのを感じた。
その女性は一寸たじろいだが、その損傷を見るために振り向くことはしなかった。
それは答えることのできない質問だった。
女性はそれに答えたがっていたのだが。

 「私は彼を愛していたの、」と、ミューラーが言った。
「私たちは愛し合っていたの。」

 まるでその事だけで充分であるかのように。

 キャサリンはミューラーがたばこを消すのを見ていた。
彼女は何てかっこいいのだろう、と、キャサリンは思った。
むしろ冷静でさえある。

 「あなたに言えないことがいくつかあるの、」と、ミューラーが言った。

 このくそ女、とキャサリンは思い、怒りの泡が沸き上がってきた。
彼女は自分自身を落ち着かせようとした。
椅子に座っているその女が襟に小さな翼のバッジをつけた制服を着た客室乗務員だと想像することは難しかった。
乗客たちが飛行機に入ってくるときに笑顔を浮かべているところを。

 ミューラー・ボーランドが言えない事とは何だったのか?

 彼女は両手を暖炉にかざして、顔を前に傾けていた。
彼女は自分を落ち着かせるために息を深く吸い込んだ。
遠くから聞こえてくる怒りが、彼女の耳にホワイトノイズのように響いた。

 彼女は暖炉から離れ部屋を横切った。
彼女は木の椅子の端の所に腰を下ろした、まるで彼女は今にも立ち上がってそこを去らなければならないかのように。

 「私はやれることは何でも喜んでやるつもりだったの、」と、ミューラー・ボーランドが言った。
彼女は自分の指で額から髪をかき上げた。
「一度、彼を捨てようとしたの。でもできなかったわ。」

 キャサリンはこの自白した性格の過ちを考慮して、膝の上で手を組んだ。両手で自分の膝を抱えた。
授乳時の豊満な胸、わずかにほっそりしたお腹、そして背の高さ、角張った肩、長い腕が相まって、紛れもなく魅力的だった。

 「それをどんな風にやったの?」と、キャサリンが聞いた。
「つまり、それはどうやったうまく機能したの?」

 ミューラー・ボーランドは彼女の顎をあげた。
「私たちには一緒にいた時間は、それほど多くはなかったわ、」と、彼女が言った。
「私たちにできることは何でもやったわ。
私はクルーのアパートの近くの前もって約束した場所で彼を拾ってここに連れて来るの。
時にはその晩だけのこともあったわ。別の時には・・・」
彼女は又、言い淀んだ。
「ジャックは時にはスケジュールを逆にして入れることもあったの、」と、ミューラーは言った。

 キャサリンはパイロットの妻の用語が聞こえていた。
キャサリンは「私には理解できないわ、」と急いで言った。
しかし、彼女には気分が悪くなるくらいその意味が分かっていたのだ。

 「時々、彼の本拠地がロンドンになるように手配することができたの。
でも、勿論、その事は危険のあることだったけど。」

 キャサリンはジャックが恐ろしくひどい予定を持っていたような月を思い出すことができた。
5日仕事で2日休み、家では一晩だけ。

 「あなたが知っているように、彼は何時もロンドンに来られるわけではありませんでした、」と、ミューラーが続けて言った。
「彼は時にはアムステルダム ― ナイロビ路線を飛んだわ。
その間は私はアムステルダムにアパートを借りたわ。」

 「彼がそのお金を払ったの?」と、キャサリンが慌てて尋ねた。
:彼は私からお金を奪った、マティーからも。

「これは私のよ、」と、部屋を指さしながらミューラーが言った。
「私はこれを叔母さんから相続したの。
私はこれを売って郊外に引っ越すこともできたけど、郊外に引っ越すという考えは、何だかぞっとするわね。」

 勿論、キャサリンは郊外と記述されるようなところに住んでいるのに違いない。

 「彼があなたにお金を渡したの?」とキャサリンはしつこく聞いた。

 ミューラーは、一瞬、まるで一つの家族からもう一つの家族への特別な裏切りをキャサリンと共有するかのように目を背けた。

 「たまにはね、」と彼女は言った。
「私はいくらか自分のお金を持っています。」
キャサリンは何時も離れている事で生まれるかもしれない愛の強さに思いを馳せた。
人目を避けた秘密の強烈さは自然に出来上がるものだろう。
彼女は自分の手を口に持って行き、握りこぶしを自分の唇に押し付けた。
彼女自身のジャックに対する愛は充分に強くはなかったのだろうか?
彼が死んだときにもずっと愛していると言う事ができるだろうか?
彼がいるのが当然のことだと考えてはいなかったのか?
もっと悪い事には、ジャックはミューラー・ボーランドにキャサリンは彼の事を充分愛してはいないとほのめかしていたのではないだろうか?
彼女はその可能性について考え、秘かにたじろいだ。
彼女は長い息を吸い、よりしっかりと、座っていようとした。

 「あなたはどこの出身なの?」と、キャサリンは自分の声を取り戻し尋ねた。
「(北アイルランドの」アントリムです。」

 キャサリンは目をそらした。
その詩だわ、と彼女は思った。
勿論、ここ、狭い通路と無情な北の大地、永遠の裏切り......。

「でも、あなたはここで会った、」と、キャサリンが言った。
「あなたはジャックとロンドンで会った。」
「私たちは、空中で会ったの。」
キャサリンはカーペットに視線を落とし、その空での出会いを想像した。

「あなたは何処に泊まっているの?」と、ミューラーが聞いた。
キャサリンは女性を見て瞬きをした。
彼女はホテルの名前が思い出せなかった。
ミューラーは前屈みになってもう一本の煙草を箱から取った。

 「ケンジントン・エクセターよ、」と、キャサリンは思い出しながら言った。
「もしあなたの気が晴れるなら、」と、ミューラーは言った、「そこにはほかの人は誰もいなかったのよ。」

 それは彼女を少しもいい気分にはさせなかった。

 「どうしてそう分かるの?」キャサリンは聞いた。

 アパートの中では外がより薄暗くなった。
ミューラーが灯りを付け、手を首の後ろに回した。

 「どうやってあなたは見つけ出したの?わたしたちを。」と、ミューラーが聞いた。

 「私たち」と、キャサリンには聞こえた。

 彼女はその質問に答えたくなかった。
今となってはその手掛かりを探すことが悪趣味だと思えたからだった。

 答える代わりに、キャサリンは、「ジャックの飛行機で何が起きたのですか?」とキャサリンは聞いた。

 ミューラーは首を振り、サラサラの髪が揺れた。
「分からないわ、」と、彼女が言った。
しかし彼女の声にはおそらく何かをごまかしているような様子があり、彼女の顔色は見てわかるほど青ざめた。
「自殺かもしれないなんてとんでもないわ、」と、彼女が前屈みになり膝に肘を置きながら、両手を頭に置くながら言った。
煙が彼女の髪を巻いていた。
「ジャックは絶対、絶対・・・」

 キャサリンはその女性の、自分だけがそれを感じ取ったと思うくらいに微妙な変化、突然の感情の変化に驚いた。
それは単にキャサリンがアパートに入ってきて以来その女性が醸し出していた感情にすぎなかったのだが。

 「私はあなたが礼拝を受けたのが羨ましいわ、」と、ミューラーが目をあげて言った。
「司祭の。私もそこにいたかったわ。」

 何という事だ、と、キャサリンは思った。
 「私はあなたの写真を見たの、新聞で、」とミューラーは言った。
「FBIはこの事件を調べているの?」
「そう聞いたわ。」
「彼らがあなたに言ったの?」
「いいえ、あなたに言ったの?」
「いいえ、」と、ミューラーが言った。
「あなたはジャックがこんな事しないって分かっているわ。」
「勿論、それは分かっているわ、」と、キャサリンが言った。

 結局のところ、キャサリンは第一の妻、最初の妻なのだ、そうじゃないだろうか?
しかし、それでは:男の心の中で、誰がより重要な妻だったのだろうか ― 他人からより隠しておこうと努力していた女性、だったのか?
それとも彼が自分の秘密を話した人だったのか?

 「あなたが最後に彼に会ったのは・・・」キャサリンがもう一度言った。

 「あの日の朝です。午前4時ごろ。
彼が仕事に行くちょっと前。
私は目が覚めたの・・・」と言って彼女は言葉を切った。
 「夕食は外食した、」と、キャサリンが言った。
「はい、」と、ミューラーはキャサリンがその事を知っていることに少し驚きながら言った。
彼女はどうして知ったのかは聞かなかった。

 キャサリンは今までにジャックが不倫していると真剣に疑ったことがあっただろうかと思った。
彼女はそうは考えなかった。
どれほど彼女の彼への信頼は壊滅的だっただろう。

 「あなたはこの事だけにここに来たの?」と、ミューラーは彼女の下唇に付いたた煙草の吸いさしをつまみながら言った。
彼女は落ち着きを取り戻したようだった。

 「それだけじゃあ十分じゃないとでもいうの?」と、キャサリンが聞いた。

 ミューラーは煙草の煙を大きく吐き出した。
「マリンヘッドに旅行に来たのか、っていう意味よ。」と、彼女が聞いた。
「いいえ、」と、キャサリンが言った。
「あなたは行ったことがあるの?」
「私はいけなかったわ、」と、彼女が言った。

 そこには何かもっと言外の何かがあった。
キャサリンはその事を感じることができた。

 「それは何ですか?」と、キャサリンが聞いた。

 その女性は自分の額を擦った。
「別に、」と、彼女が言い、軽く頭を振った。
「私たちは不倫していたの、」と、彼女はまるで彼女が考えていることを説明するように、付けくわえた。
「私は妊娠して航空会社から休暇を取ったの。
ジャックは結婚したがったわ。それは私にはどうでもいい事だったけど。
結婚しているかどうかなんて。
彼はカトリックの教会で結婚したがったの。」

 「彼はけっして教会には行かなかったわ。」
「彼は敬虔なクリスチャンだったわ、」と、ミューラーが言い、キャサリンをじっと見た。
「じゃあ、彼は2人の違う人物だった、」と、キャサリンは信じられない、とでもいうように言った。
愛人が望むからカトリックの教会で結婚する事と敬虔なクリスチャンであることは全く別のことなのに。
キャサリンは指を組んで、安定させようとした。

 「彼はできる限りいつでもミサに言ったわ、」と、キューラーが言った。

 エリーではジャックは決して教会には入らなかった。
どうやれば一人の男がそんなにも異なった人でいられるのか?
しかしその時新しい考えがキャサリンの心に浮かんできた、歓迎されざる考え・・・
:ジャックは常に異なった2つの人格ではなかったのかの知れない、そうじゃないのか?
例えば恋人として。
キャサリンと共有した親密さのある部分はキャサリンと共有した親密さのある部分だったのかもしれない。
もしキャサリンが訊ねることができれば彼女の向こう側に座っている女性の側にも何らかの認識があったのだろうか?
それともそこには全く違った演劇があったのだろうか?
他の筋書き?
それとは分からない小道具?
キャサリンは指をほどいて、手のひらを膝に押し付けた。
ミューラーは彼女をじっと見ていた。
たぶん彼女もまた考えていたのだった。

 キャサリンが急に立ち上がって「トイレに行きたいの、」と、言った。
まるで酔っ払いがするように。

 ミューラーが彼女と一緒に立ち上がった。
「それは二階よ、」と彼女が言った。

 彼女はキャサリンを居間から廊下を通って案内した。
彼女は階段の下に立って、手で合図した。
キャサリンは彼女の前を通らなければならなかった、そして彼女たちの体はほとんど触れそうになった。
キャサリンはその女性の背の高さに自分が小さくなったような気がした。

 トイレは閉所恐怖症になるくらい狭く、キャサリンの心臓はバクバクした。
彼女は鏡を覗き込み、彼女の顔が慌ただしく紅潮し、まだらになっているのがわかった。
彼女は髪からピンを抜いて髪を下した。
彼女は便器の蓋に腰を下ろした。
彼女は壁の花柄のプリントに眩暈を覚えた。

 4年半。
ミューラー・ボーランドは4年半前に教会で結婚していたのだった。
多分ゲストたちは結婚式に行ったのだろう。
そのうちの何人かはその事実を知っていたのだろうか?
ジャックは結婚の誓を立てる時、躊躇しなかったのだろうか?

 彼女は乱暴に首を振った。
それに伴って、全ての考えがキャサリンが見たくないし視覚的イメージを生み出した。
それが難しいのだ。質問を許しながら、イメージを押しとどめる事が。
スーツを着たジャックが神父の前にひざまずいている。
ジャックが車のドアを開け運転席に乗り込む。
カールした濃い色の髪の小さな女の子がジャックの両膝を抱きしめている。

 遠くで電話が鳴った。

 キャサリンはジャックがどんな風にそれをうまく処理したのだろうかと、不思議に思った。
その嘘、そのごまかし、睡眠不足を?
ある日キャサリンの所を出発しその数時間後に彼自身の結婚で教会に立っていた。
キャサリンとマティーはその日、まさにその時間に、何をしていたのだろうか。
彼は帰ってきたときどんな顔で彼女たちと向き合うことができたのだろうか。
その晩、キャサリンと愛の営みをしたのだろうか、次の日の晩は、その週は?
彼女はその事を考えると身震いがした。

 その質問は小さな音を立てて壁から壁へと跳ね返り、終わることなくそれら自身を繰り返した。
そして彼女は自分の胃袋が飛び出すくらい、年に二回のロンドンでの訓練の事を思い出した。
それぞれ2週間。

 人はもし誰かを疑わなければ、疑おうとさえ考えないものだと分かった。

 彼女は突然立ち上がって、小さな化粧室を見渡した。
彼女は顔を音を立てて洗い、刺繍の付いたタオルで拭いた。
彼女はトイレのドアを開けて廊下の向こうのクイーンサイズのベッドを見た。
ミューラーが電話で話しているのが階下から聞こえてきた。
話声は彼女の聞き覚えのない抑揚で上がったり下がったりしていた。
もしジャックが死んでいなかったら、多分彼女にはその寝室に入る権利はなかっただろうが、今や問題になることは何もなかった。
この家は見ても構わないものだった。
この家について知られる事は彼女に属していた。
結局ミューラー・ボーランドは彼女の全てを知ったのだから、そうじゃないだろうか?

 キャサリンはその現実を知ることで胸が痛くなった。
どれくらい詳細をミューラーは話してもらったのだろうか?
そしてそれらの詳細はどれほど親密なものだったのだろうか?

 彼女は廊下を通り、彼女がジャックを喜ばせるために行った努力や彼女が彼のために用意した、もてなしについて考えた。
彼女が性的親密さの減少の完全な理論を作成した方法について。
彼の撤退の事実を持つジャックに直面し、彼がそれを否定し、それが彼にとっても彼女にとってもたいしたことではないと思わせた。
この全ての事を彼女は正常だと考え、正常な結婚生活の範囲内だと考えていた。
実際彼女は彼らが良い結婚をしていると考えていた。
彼女はロバートにも彼らが良い結婚をしていると言った。
彼女はばかばかしく感じ、愚かさをさらけ出し、これらほとんどの事を気にならなかったのを不思議に思った。

 これが主寝室になるのだろう。
長くて狭く、変に散らかっていて、実際下の階の部屋の整頓された様子を考えても異常に散らかっていた。
積み重なった衣類と雑誌は床中にばらまかれていた。
整理箪笥の上にはティーカップとヨーグルトが半分入った容器があり、灰皿からは吸いさしが溢れだしていた。
ファンデーションのシミの付いた化粧台の上には化粧瓶。
木の枠のベッドの片方の側は整えられていなかった。
キャサリンは刺繍で縁取りされた高価なリネンのシーツに注目した。
掛布団の上には数枚のレースの下着があった。
ベッドのもう一方の側、ジャックの側でまだそのままになっていて、ホワイトノイズマシン(換気扇やテレビの砂嵐のような音を出すマシン、 不眠や集中力向上に効果があると言われている)、ハロゲンランプ、ベトナム戦争に関する本。
ジャックは家で読んだ本以外の本をここで読んでいたのか?
彼は違う服を着ていたのか?
実際、彼はこの家では、この国では、家にいる時とは違って見えていたのだろうか?

 家、彼女は思った。
今やそこには興味深い考えがある。
彼女はベッドのジャックの側に歩いて行ってベッドカバーをめくった。
彼女は頭をシーツに付けて深く息を吸い込んだ。
そこに彼はいなかった:彼女は彼の匂いを感じなかった。

 彼女はベッドの反対側、ミューラーの側に行った。
ベッドサイドのテーブルには小さな金の時計とランプがあった。
あたかも何か探るかのように、彼女はテーブルの引き出しを開けた。
中には、紙くずとレシート、口紅、スキンクリームのビン、小銭、ペンが数本、テレビのリモコン、ビロードの袋に入ったもの。
何も考えることなくキャサリンは袋を取りだすと、青いビロードのポーチが出てきた。
彼女はそれがまるで熱いかのように落としてしまった。
彼女は単純にその形から見当をつけるべきだった。
彼女の手からバイブレーターが音を立てて引き出しの中にこぼれ落ちた。

 彼女は床にひざまずき、ベッドに顔を付けた。
彼女は両腕を頭の上に置いた。
彼女は疑問が止むのを望み、心を空白にしようと努めたが無駄だった。
彼女は自分の顔をシーツに前後にこすりつけた。
彼女が顔をあげると、布にマスカラのシミが付いているのが分かった。

 彼女は立ち上がって鏡張りの衣装箪笥の方に歩いて行き扉を開けた。
衣服はジャックのではなくミューラーのものだった。
黒の長ズボンと毛糸のスカート。
綿シャツ、麻地のブラウス。
毛皮のコート。
彼女の手は、探しているうちにシルクのブラウスと思われるものに触れた。
ハンガーを片寄せてみて、ブラウスではなくバスローブを見つけた。
くるぶしまでの長さの、房のある帯の付いた、絹のバスローブだ。
深いサファイア色の高価な衣類だ。
彼女は少し震えながらローブの首の所を持ってハンガーから外し、ラベルを見た。

 バーグドルフ・グッドマン(ニューヨーク・マンハッタン・五番街の超高級百貨店)。
彼女はそれがそうであると言う事は分かっていた。

 まるでこれが彼女が何時の日か買う家であるかのように、彼女は全て知りたがり、寝室を通って浴室に移動した。

 バスタブの横のフックにはエビ茶色の男性用のフランネルのバスローブが掛かっている。
ジャックは家ではバスローブは着なかった。
薬棚の中には、彼女は剃刀とヘアブラシを見つけた。
彼女には見慣れない英国製のコロンの瓶があった。
ブラシをよく見て、キャサリンは短い黒い髪を見つけた。

 彼女はヘアブラシを長い間見つめていた。
彼女は充分わかった。
彼女は今すぐにでも家から出たいと思った。
彼女は主寝室へのドアを閉めた。
彼女はミューラー・ボーランドが階下ではまだ電話しているのが聞こえてきて、今はその声が幾分大きく、議論しているようだった。
キャサリンは女の子の部屋の開いたドアの横を通った。
ディアドラは俯けで肘をついて、相変わらず厳粛な表情で、ベッドに横になっていた。
彼女は青いくるぶし迄のソックスをはき、長そでの青いTシャツとオーバーオールを着ていた。
その子供は彼女のテレビ番組にとても夢中になっていたので、最初は戸口に見知らぬ人がいることに気づかなかった。

 「こんにちは、」と、キャサリンが言った。
少女は彼女の方を見て、その後この新しい人物を思い出そうと横を向いた。

「何を見ているの?」と、キャサリンが聞いた。
「デンジャー・マウス (1981 TV series)」
「見たことがあるわ。
アメリカでもそれをやっていたものよ。
私の娘はロードランナーが好きだったのよ。
でも彼女は今は大きくなったの。
彼女は今は私と同じくらいの背の高さよ。」
「彼女の名前は何て言うの?」
少女はその見知らぬ人により興味を抱き立ち上がった。
「マティーよ。」

 ディアドラはその名前について思いを馳せた。
キャサリンは一歩踏み込んで部屋を見渡した。
彼女はマティーがかつて持っていたのとうり二つのパディントン・ベアーに気付いた。
野球帽をかぶり白いTシャツを着たジャックの写真。
最近描かれたらしい、大人の男と黒っぽいカールした髪の小さな子供の絵。
マジックで殴り書きされた小さな白い机、ページからはみ出した青空。
少女は何を話してもらっていたのだろうか?
彼女は彼女のお父さんが死んでしまった事を知っているのだろうか?

 キャサリンはマティーの9歳の時の、野球の日の夕食を思い出していた。
その時キャサリンとジャックはどちらもちっぽけなトロフィーに中に入り切れないほどの娘の誇らしさを見て涙ぐんでいたのだった。

 「変な話し方ね、」と、ディアドラが言った。
「わたしの?」

 少女は英国なまりだった。
― アイルランド訛りでもないし米国訛りでもない。
「あなたは私のお父さんみたいに話すわ、」と、少女が言った。

 キャサリンはゆっくりと頷いた。
 「私のサマンサ人形、見たい?」とディアドラが聞いた。
「ええ、」と、キャサリンが咳ばらいをしながら言った。
「ぜひ見たいわ。」
「こっちに来て、」と、ディアドラが身振りで言った。
彼女はベッドから飛び降りて部屋の隅に歩いて行った。
キャサリンはその人形の衣装入れと鞄がアメリカで人気のある少女シリーズの物であることが分かった。
「私のお父さんがクリスマスに私にくれたの、」と、ディアドラがその人形をキャサリンに手渡しながら言った。

 「人形の眼鏡が良いわね、」と、キャサリンが言った。
「衣装も見たい?」
「ぜひ」
「いいわよ、ベッドに座りましょうよ、私の全部の人形の衣装を見ても良いわ。」
ディアドラはドレス、学校の机、赤いプラスティックの手帳、青と赤のセーターを出してきた。
極めて小さい鉛筆。インディアンの柄の1セント銅貨。
 「これ、みんな、あなたのお父さんがクリスマスにくれたの?」
少女は唇をすぼめて考えた。
「いくつかサンタさんが置いて行ってくれたのもあるわ、」と、彼女が言った。

 「人形の髪が良いわね、」と、キャサリンが言った。
「マティーもこんな人形を持っていたことがあったけど、マティーは人形の髪を切ってしまったの。
あなたは人形の髪は生えてこないことは知っているわね、だから髪を切ってはだめよ。
マティーはいつも髪を切ったことを悲しく思っていたの。」

 キャサリンには別の思い出もあった。
マティーが6歳だった時、新しい自転車で丘を下っていた時、ジャックとキャサリンが絶望してみているところで、自転車が彼女の下でまるでゼリーで出来てでもいるかのようにぐにゃりと曲がった。
マティは帰ってきて、「これで大丈夫」と誇らしげに両親に言った。

 もう一つ:マティーがある夜、変な鼻の付いた眼鏡をかけたまま眠っていた事。
 またもう一つ:わずか 4 歳のマティーが父親に、ママがトルコの悦びターキッシュ デライト(ロクムと呼ばれるトルコのお菓子)の調理を終えたことを発表した感謝祭の日。

キャサリンは今、これらの思い出をどこに置けばいいのだろうか?
彼女はまるで、離婚した後、女性がウエディングドレスを見ているようなものだと、考えた。
もし、その結婚自体がだめになってしまえば、そのドレスはもはや大切にしまっておかれることは無いのだろうか?

 「私は髪は切らないわ、」と、ディアドラが約束した。

 「よかった。クリスマスにお父さんはここにいたの?
時にはお父さんはクリスマスに仕事しなければいけなかった。」

「お父さんはここにいたわ、」と、ディアドラが言った。
「私は彼にしおりを作ったの。
それには私とお父さんの写真が貼ってあるの。
私はそれを返してほしかったの、だから彼は私たちがそれを共有しても良いと言った。
あなたはそれを見たい?」
「ええ。」

 ディアドラはベッドの下の共有の宝物を探した。
彼女はキャサリンには見覚えのない写真帳を持ち出してきた。
中にある栞は色紙をラミネート加工したものだった。
その写真はジャックがディアドラを膝に乗せたものだった。
彼は彼女の顔を見るために首を伸ばしていた。

 キャサリンは階段に足音を聞いた。

 フォーチュンズロックの屋根裏部屋にはアメリカの少女の人形の洋服の箱があった。
一瞬だが、正気ではないのかもしれないが、その箱をディアドラに送ってあげようという考えを心の中でもてあそんだ。

 ミューラーが胸の所に両腕を組んで、何かを守るように廊下に立っていた。

 「私はあなたの人形がとても好きよ、」と、キャサリンは立ったままで言った。
 「あなたは行かなきゃいけないの?」と、ディアドラが言った。
 「残念だけどそうよ、」と、キャサリンは言った。
 ディアドラは彼女が出て行くのをじっと見ていた。
ミューラーはキャサリンが通れるように片側に寄った。
キャサリンはもう一人の女性を背後に感じながら、急いで階段を下りた。
キャサリンは自分のスーツジャケットに手を伸ばした。
「ディアドラはジャックがクリスマスにここにいたって言っていたわ、」と、彼女はジャケットに手を通しながら言った。

 「私たちは早くお祝いをしたの、」と、ミューラーが言った。
「そうしなきゃいけなかったの。」

 キャサリンは祭日を早くお祝いしなければならないことは充分よく分かっていた。

 こんどは好奇心旺盛に、彼女は本棚を横切っていき、そこにある本の題に目を通した。
ブライアン・ムーア著「沈黙の嘘」、バーナード・マクラバティ著「カル」、ケビン・トゥリス著「反乱の心」、セシル・ウッドハム=スミス著、「大飢餓」。
読めないタイトルが少しあった。
彼女は本棚から、その本を取り出した。

 「これはゲール語?」と、キャサリンが聞いた。
「そうよ。」
「あなたは何処の学校に行ったの?」
「ベルファストのクイーンズよ。」
「ほんと、そしてあなたは・・・」
「客室乗務員になった。
ええ、私は知っているわ。
ヨーロッパの職業で最も教育程度の高い職業、アイルランドでも。」

 「あなたの娘さんはジャックの事を知っているの?」と、キャサリンが本棚の本の方から振り返り、コートを取りながら聞いた。

 「彼女は知っているわ、」と、ミューラーが廊下から言った、
「でも、私には彼女が理解しているかどうかは分からないわ。
彼女のお父さんはよくいなくなる。
彼女にとっては単にまた別の旅行のようなものだと思いますよ。」

 彼女のお父さん。
「そしてジャックのお母さん、」と、キャサリンは冷静に言った。
「ディアドラは彼女のお祖母さんマティガンの事も知っていたの?」

「はい、勿論。」

キャサリンは沈黙した。
その答えと一緒に彼女自身がした質問にも動揺した。

「でも、あなたもご存じのように、彼の母親はアルツハイマーです、」と、ミューラーは付け加え、「だから、ディアドラは実際、彼女と話すことはできなかったの。」
「ええ知っているわ、」と、キャサリンは嘘をついた。

もしジャックが死んでいなかったら、正に今、彼はこの家にいただろうか、と彼女は思った。
キャサリンは別の家族を発見していただろうか?
この不倫、この結婚が何年続いていただろうか?

 2人の女性は寄せ木細工の床の上に立っていた。
キャサリンは壁を、天井を、彼女の前の女性をちらっと見た。
彼女はその家の全てを取り込み、自分が見たすべての事を記憶したいと思った。
彼女は二度と帰ってこないと分かっていたから。

 彼女は他人を知ることの不可能さについて考えた。
人の作り出したもののもろさについて。
例えば、結婚、家族。

 「あることを・・・」ミューラーは語り始めた。「望んでいる事が」
彼女は話すのを止めた。
キャサリンは待った。

 ミューラーは諦めたように両方の掌を上に向けた。
「私にできないことがあるの」、彼女は深くため息をつき、両手をジーンズをポケットに突っ込んだ。
最後に彼女は「私は彼を所有したことはすまないとは思わないわ。」と言った。
「私はあなたを傷つけたことはすまないと思っているわ。」

 キャサリンはさようならは言わないだろう;それが必要だとは思えなかった。
キャサリンは、彼女のプライドにもかかわらず、知りたいことがあったとはいえ、訊ねなければならなかった。

「ローブ、」と、彼女は言った。
「青いシルクのローブ。あなたのクローゼットの中の。」
キャサリンは慌てて息を吸いこむ音が聞こえたが、表情は何も変えなかった。

「それは彼が死んだ後で来たの、」と、ミューラーが言った。
「それは私へのクリスマスプレゼントだったの。」
「多分そうだと思ったわ、」と、キャサリンが言った。

 彼女は、まるで救命用の浮き輪に手を伸ばすように、手を伸ばしてドアノブに手をかけた。

「あなたは家に帰るべきよ、」と、ミューラーはキャサリンが雨の中に外に出ようと足を踏み出そうとする時に言った。
キャサリンはそれは変でおこがましい命令だと思った。

「それは私にとってもっと悪い事だったの、」とミューラーは言い、キャサリンは、少し物憂げな様子に引き寄せられて、かっこいい玄関の隙間から振り返った。

 「私はあなたの事を知っていたの、」と、ミューラー・ボーランドが言った。
「あなたは決して私の事を知るべきではなかったの。」

彼女は泣いていたのかもしれない。
それがいつ始まったのかも言えなかった。
彼女は傘を忘れてきたので、雨が彼女の髪に沁み込み、頭にへばりついた。
雨は首に落ち、背中に行き、彼女のブラウスの前の部分に降りて行った。
彼女は疲れすぎていて、襟を立て首にマフラーを巻くことができなかった。
通りすがりの人々が傘をあげて彼女をちらりと見てそれからお互いを見た。
彼女は口を開けて呼吸していた。

 彼女には目的地は無かった、どこを歩いているのかさえ分からなかった。
はっきりとした考えが形成し、形を成すことを拒否した。
彼女はホテルの名前は憶えていたがそこに行きたくはなかった、他の人々と一緒にホテルの中にいたくはなかった。
部屋の中で一人でいたくはなかった。

 彼女は、避難場所として映画館を、と言う考えが一瞬、頭をよぎった。

 彼女は敷石を踏み外し、習慣的にあらぬ方向を見た。
タクシーがキーッという音を出した。
キャサリンはそのドライバーが窓を開けて彼女に罵声を浴びせるのではないかと思い、立ち尽くした。
しかし、彼は呶鳴る代わりに、彼女が通りを渡るのを待った。

 彼女は自分の体調が良くなく、神経質になっていることが分かり、うっかり工事流の穴に落ちてしまうのじゃないか、また敷石を踏みはずすんじゃないか、赤いバスに轢かれてしまうんじゃないかと恐れた。
彼女は自分を安全な箱の中に一時的に閉じ込めるために、電話ボックスに滑り込んだ。
彼女は電話ボックスが乾燥していて、濡れなくていいことに感謝した。
彼女はコートを脱いでその裏地で顔を拭いたが、その動作は彼女に考えたくないことを思い起こさせた。
頭痛を覚え、首の後ろが曲がり、ハンドバッグの中にアドヴィル(イブプロフェン系鎮痛剤)は無かったかしら、と思った。

 男が電話ボックスの外でイライラして待っていて、そのガラスをたたいた。
彼は、電話を使う必要がある、と口の形で伝えていた。
キャサリンはもう一度コートを着て雨の中に出て行った。
彼女は永遠に続くかと思えるような人ごみの多い通りを歩いて行った。
車の通りは歩道に水をはね、通りに沿ってシャーという音を立てていた。
人々は、雨に向かって頭を向けて彼女の横を通り過ぎた。
帽子と傘を持っていなかったので、彼女ははっきり見えなかった。
彼女はデパートを見つけて傘を、できればレインコートを買うことも考えた。

 角の所で、オーバーを着た2人の男が笑っているのが見えた。
彼らは黒い雨傘を差し茶色の鞄を持っていた。
彼らは出入り口を入って行った。
ドアの後ろには輝き、すりガラス、共同の笑い声があった。
既に暗く、今は夜で、中に入った方が安全かもしれなかった。

 パブの中は湿った毛織物の臭いが鼻を突いた。
彼女はこの中の空間の暖かさが好きだった。
彼女のすぐ前に入った男の眼鏡が曇って、彼は彼の仲間に笑いかけた。
バーの後ろにいる男が彼女にタオルを手渡した。
彼女より前に別の誰かがそれを使っていて、閉めっぽくて、ぐにゃっとしていてアフタアーシェーブ・ローションの匂いがした。
シャワーを浴びた後のように彼女がタオルで髪を拭くと、男たちが彼女の事をじろじろ見ているのが分かった。
彼らは500ccのビールを前に置いていたので、彼女は喉の渇きを覚えた。
男たちは彼女が歩けるようにゆっくりと道を開けた。
ほとんど双子のような格好の2人の女性が生き生きとおしゃべりをしていた。
誰もが誰かとしゃべっていた。
普通のパーティーよりも人々が幸せそうな事以外は、それはパーティーだったのかもしれない。

 バーテンダーが彼女からタオルを受け取った時、彼女はビールの注ぎ口タップを指さした。
やってきた時にはそのビールはブロンズ色だった。
磨かれた表面から光を放ち、男たちは煙草を吸っていた。
天井には煙の青いもやがかかっていた。

 彼女は喉が渇いていたので麦酒エールを水のように飲んだ。
彼女の胃が焼けるように感じ、それは心地よかった。
湿気でぐちゃぐちゃになった靴を脱いで、床に置いた。
彼女は下を向いて自分のブラウスが濡れてスケスケに近くなっているのが分かり、慎み深さのためにコートを搔き合わせた。
バーテンダーが彼女の方を振り返り眉をひそめた。
彼女はそれに答え頷き、彼は彼女にエールビールをもう一杯提供した。
彼女が必要だと決めていた暖かさは既に彼女の腕と脚を通り指先とつま先まで広がっていた。

 時々、彼女の周りで、言葉やちょっとした会話が聞き取れた。
ビジネスが行われ、媚びを売っている。

 彼女の頭痛はひどくなり、こめかみの方に移動していた。
彼女はバーテンダーにアスピリンを求めた。
髭の男が横から彼女をちらっと見た。
バーの向こうにはギネスの看板があり、バーのグラスに入った黒い飲み物に気が付いた。
ジャックは時々それを家に持ち帰っていた。
その事は彼女が考えたくないもう一つの事だった。
バーはビールの輪で湿っていて、木はその匂いで満ちていた。

 暫くすると、彼女はトイレに行く必要があったが、自分の椅子を明け渡したくはなかった。
彼女は万一自分の場所を失くしてしまい、他の席に着くことができなくなってしまわないように、3杯目のビールのグラスを注文すべきだと考えた。
バーテンダーは彼女が手を挙げたのを無視したがバーの向こうの女性たちが気が付いた。
彼女らは彼女を見ながらお互いに話した。

 バーテンダーがついに気が付いたが、前よりも少し親しみの少ない感じに思えた。
そこには恐らく彼女が守らなかったパブのエチケットのルールがあったのだ。
彼がついに彼女に3杯目の飲み物を飲みたいか尋ねた時、彼女は首を振り立ち上がって椅子の上のコートに手をかけた。
彼女はビニールのシートからその毛糸のコートを持ち上げた。
彼女は飲み物を持って立っている男女の群衆の中を、しっかりした足取りで歩こうとした。
それは仕事の直後に違いない、と彼女は決めつけた。
そして、ロンドンでは仕事終わりは正確なところ何時なんだろうかと思った。
彼女は足の裏がべとべとするのを感じ、バーに靴を置いてきたことに気付いた。
彼女は振り返ったが帰り道を見つけることはできなかった。
彼女は、今は急いでおしっこをしなければならないし、彼女の今来た道を探す余裕はなかった。
彼女はトイレのサインに従った。
その標識は必要以上に直接的な表現で書かれているような気がした。

 トイレの中に一人でいられるだけでも、ほっとするものだった。

 その後、ストッキングを履くのに苦労した。
彼女は子供の頃ぬれた水着を付ける時のことを思い出した。
小さなパーティションの中で悪戦苦闘した。
ストッキングの足底は汚れていた。
彼女は、履くよりも脱ぐ方が簡単なので、全部脱いでしまおうかと思ったが、その後賢明にも、そうすると寒いに違いないと考えた。
一瞬胃がむかむかしたがその吐き気をこらえた。

 埃だらけの流し台で両手を洗い、鏡を覗き込んだ。
そこに映っていたのは彼女のはずはない、と彼女は思った。
髪は黒すぎるし頭にペタンとくっついている。
半月形のマスカラが目の下にくっつき、おぞましい化粧だ。
両目自体がピンク色に縁どられ眼球には欠陥が浮き出していた。
顔は火照っているのに、唇は血の気が無かった。

 ホームレスの女の様だ、と思った。

 彼女は両手をタオルで拭き、ドアを開けた。
彼女は壁に掛かった電話の所を通った。
彼女はマティーと話したいと強烈に思った。
その衝動は物理的なものだった。
;彼女はそれを、女性が赤ん坊を宿す場所、体の中心で感じた。

 彼女は電話の横の張り紙の指示に従って電話をかけようとしたが、数回やってみて諦めた。
彼女は男性用トイレに行こうとしていたワックスのかかったジャケットを着た老人に助けを求めた。
彼女はその番号を覚えている事を喜びながら、彼に番号を告げた。
電話がつながり、電話を彼女に手渡し彼女のブラウスを見た。
彼は男性用トイレに入っていき、遅まきながら、彼女が彼にお礼を言わなかったことを思い出した。

 電話は、6,7回鳴った。
ドアが閉まり、ガラスが割れ、女性が高い音域で歌い、甲高い声がとりわけ他の人々の間で響き渡った。
キャサリンは死ぬほどマティーの声を聞きたかった。
電話は鳴り続けた。
彼女は電話を切ることを拒否した。

 「もしもし?」

 その声は、まるでレスリングをしていたかのように、ランニングをしていたかのように、息を切らしていた。

 「マティー!」と、キャサリンは、海を越えて安堵の声を漏らしながら、叫んだ。
「神様ありがとう、あなたは家にいたんだ。」

「お母さん、どうしたの?大丈夫?」

 キャサリンは自分を落ち着かせた。
彼女は娘を怖がらせたくはなかった。
「あなたはどうなの?」と、彼女は静かな声で聞いた。

 「ええと、私は大丈夫よ。」と、マティーの声はまだ心配そうだった。
躊躇いがちだ。
キャサリンはより明るい調子を心掛けた。
「私はロンドンにいるの、」と、彼女は言った。
「ここは素晴らしいわ。」

 背後には音楽があった。
マティーのCDの一つだ。
サブライム、とキャサリンは思った。
そうだ、絶対サブライムの曲だ。
 「CDの音を少し小さくしてくれる?」と、キャサリンはパブの騒音の聞こえる側の耳に指を突っ込みながら頼んだ。
「聞こえないのよ。」

 キャサリンはマティーが電話に戻ってくるのを待った。
バーの周りの酒飲みたちはテーブルの端に群がっていた。
彼女の横では男と女がビールを片手に、お互いの耳に向かって怒鳴りあっていた。

 「それで、」と、彼女の娘が電話口に帰って来て言った。
「雨が降っているのよ、」と、キャサリンは言った。
「私はパブにいるの。私はちょっと歩き回っているの、見物よ。」
「あの男の人は一緒なの?」
「彼の名前はロバートよ。」
「どっちでもいいけど。」
「今は一緒じゃないわ。」
「お母さん、あなた、本当に大丈夫?」
「ええ、私は大丈夫よ。あなたは何をしているの?」
「なにも。」
「あなたは息を切らしているようだけど、」と、キャサリンは言った。
「わたしが?」
少し沈黙があった。
「お母さん、今は言えないわ。」
「ジュリアはそこにいるの?」と、キャサリンが聞いた。
「彼女は店にいるわ。」
「あなたはなぜ話せないの?」

 背後でくぐもった声が聞こえた。
男らしい声だ。

「マティー?」

 彼女は彼女の娘が囁くのが聞こえた。
笑いをこらえる様な声だ。
また別の言葉。
明らかに男の声だ。
 「マティー?」
 娘が囁くのが聞こえた。
「マティー?何が起こっているの?誰かそこにいるの?」
「だれもいないわ。お母さん、もう電話を切るね。」

電話の上の壁にはペンとカラーマーカーで書かれた名前と番号があった。
メモの一つはローランドとマーガレットと読めた。

 「マティー、そこに誰がいるの?誰かの声が聞こえるわ。」
「ああ、それはちょっと、トミーがいるだけよ。」
「トミー・アーセノー?」
「ええ。」
「マティー・・・」
「ジェイソンと私は別れたの。」

彼女の横の男が彼女にぶつかってキャサリンの袖にビールをこぼした。
彼は申し訳なさそうに微笑み、手でこぼれたビールを拭こうとしたが無駄だった。

 「それはいつ起こったことなの?」と、キャサリンが聞いた。
「昨日の夜よ。そっちは今何時なの?」

 キャサリンは自分の時計を見た、彼女はその時計をまだロンドンに時刻に合わせていなかった。
彼女は計算した。
「5時45分よ、」と、彼女は言った。
「5時間、」と、マティーが言った。
「どうしてジェイソンとだめになっちゃったの?」と、キャサリンはマティーが話題を変えたことには応じずに聞いた。
「私はこれ以上彼と共通の話題があるとは思えなかったからよ。」
「ああ、マティー・・・」

 「それは良いのよ、お母さん。本当に、大丈夫だから。」
「あなたとトミーは何をしているの?」
「ぶらぶらしているだけよ。お母さん、私行かなくちゃ。」

 キャサリンはもう一度落ち着こうとした。
「あなたは今日何をする予定なの?」と、キャサリンは聞いた。

「分からないわ、お母さん。
外は晴れているけど、湿った雪がいっぱいなの。
お母さんは、自分が大丈夫って自分で確信を持って言えるの?」

 キャサリンはマティーとの電話を切らないようにするために、いいえと言おうかという考えをもてあそんだが、それは親としての最悪の種類の脅しの言葉だと言う事を知っていた。

 「私は大丈夫よ、ほんとうに。」と、キャサリンは言った。
「じゃあ切るから、お母さん。」
「明日の夜には帰っているから。」
「いいわね、ほんと、じゃあ切るわ。」
「愛してるわ、」と、キャサリンは娘の声を抱きしめるように言った。
「愛してるわ、」と、マティーは急いで言った。
 
 今はもう自由だ。

 キャサリンは大西洋を越えて電話を切る音を聞いた。

 彼女は壁に頭を持たせかけた。
ピンストライプのスーツを着た一人の若者が彼女の横で辛抱強く待っていたが、ついに彼女の手から受話器をひったくった。

彼女はバーで自分の靴を取り戻すために脚の海をはい回り、雨の中を外に出た。
新聞売り場で、傘を買い、お金を払う時に、イギリスでそれらの傘を作っている会社はつぶれることはないだろうと思った。
彼女は一寸の間自分に気の毒だと思い、何にもまして、風を引くに違いないと思った。
人がもし公衆の面前で泣けば、その人は風邪をひくだろう、というのはジュリアの持論だった。
それは感情を表すからではなく、未知の細菌の存在が粘液性の被膜を刺激するからなのである。
キャサリンは一瞬バスローブを着て、お茶を飲んでいる、ジュリアを見たいと感じ、ジュリアを恋しく思った。

 キャサリンは傘の素晴らしい保護機能(素晴らしいデザインだわ、と思った)に感嘆し、それにより匿名性が保たれることに深く感謝した。
もし彼女が、通り過ぎる時、彼女の周りの足元を注意深く見るなら、自分の顔を人々から隠すことができた。
;傘がベールの役をするのだ。
イーリーが太陽の光に焼かれている間にも、ロンドンは全部雨の中なのだと彼女は思った。

 彼女は公園を見つけるまで歩いた。
彼女は、たぶん夜に公園に入るべきではないが、ベンチの近くには光のプールを作る灯火があるだろうと思った。
雨はいくらかやみ始め、今はほとんど霧雨のようだった。
草は灯火の光の下で灰色に姿を変えていた。
彼女は黒いベンチの方に歩いて行き、座った。

 彼女は円形のバラ園のように見えるところの横に座っていた。
灯火は剪定された茎の棘を照らし、とても中に入っていけそうではなかった。
キャサリンは思った。
;私は自分を裏切っているだけではなく、マティーとジュリアを裏切っているのだ。
家族の輪に対する違反。

 雨はほとんど止み、彼女は傘をベンチに置いた。
彼女のシェニール織のマフラーは、旅行中に端の所がほつれはじめていた。
彼女はほつれた編み目を指でつまみちょっと引っ張った。
もし家にいるのであれば彼女は別のシェニール糸で修理し、端をやり直すことができるだろう。
彼女は糸をもう少し強く引っ張り、6から7網目がほどけ、奇妙に満足した様子だ。
彼女はもう一度引っ張り、小さな網目がパラパラとほどけるのを感じた。

 彼女は一列、また一列とほどいた。
もう一列、またもう一列。
糸は彼女の膝の上や足のくるぶしにゆるやかに心地よく絡みついた。
そのマフラーはジャックが彼女の誕生日に買ってくれたものだった。

 キャサリンは小さなかき集めた落ち葉の山ほどの大きさになるまでシェニールの撚り糸をほどいた。
彼女は最後の糸を草の上に捨てた。
彼女は自分の凍った両手をコートのポケットに突っ込んだ。

 今や彼女は自分の全ての記憶を作り替えなければならないのだろう。

 茶色のレインコートを着た老人が彼女の前で立ち止まった。
多分、彼は濡れたベンチに座って足元にもつれた毛糸を置いた女性を見て困ってしまったのだろう。
彼は既婚者で自分の妻の事を考えていたのだろう。
彼がキャサリンに様子を尋ねようとする直前に、挨拶をして糸を回収するために腰をかがめた。
彼女は慣れた手つきで糸の端を見つけ、急いで黒いシェニール糸をボール状に巻き取り始めた。

 彼女は微笑んだ。
「ひどい天気ですね、」と、彼が言った。
「そうですわ、」と彼女が明るく言った。

 見るからにキャサリンの勤勉な態度に満足したように、その男は立ち去って行った。

 彼がいなくなると、彼女はその糸をベンチの下に押し込んだ。
彼女は思った。
:私は自分の娘の生活について知らなかったし、自分の夫の性生活についても知らなかった。

 離れたところには通りの明かりの集まり、ブレーキランプの反復、が見え、一組のカップルが道を渡っていた。
また雨が降り始めた。
二人は長いレインコートを着、若い女性はハイヒールを履いていた。
彼らは雨を避けて顎を引いている。
男が、信号が変わる前に前に進むのを促すかのように、片手で女性の肩を抱きもう一方の手でレインコートの前のジッパーを閉めた。

ミューラー・ボーランドとジャックは街でこんな風なことをしていたに違いない、と彼女は思った。
光に負けないように走る。
夕食に行く途中で、パブに行くときに。
劇場に行くときに。
他の人々と合流するためにパーティーへ行く途中。
ベッドへ行く途中。

 ミューラー・ボーランドの結婚には重みがあった。
一人の子供に比べて2人。二人の小さな子供たち。

 そしてその後、彼女は思った。
:どうしてあんなに美しい子供たちを生み出したものが法的に効力が無いと考えられるだろうか。

彼女は遠くから目立たない庇ひさし、彼女が玄関だと分かるところまで歩いた。
彼女が入ってゆくときにはホテルは静かで、受付の机の後ろの円錐形の光の中に立っている受付係だけが迎えてくれた。
彼女がエレベーターの方へ歩いてゆくと、彼女の衣服は濡れて重たく感じられた。

 彼女は自分の部屋番号を思い出すことができてほっと安堵した。
彼女がカギを差し込もうとすると、ロバートが隣の部屋のドアから姿を現した。

 「ああ、神様、」と、彼は言った。
彼の額にはしわが寄り、ネクタイは胸の真ん中に垂れ下がっていた。
「私はあなたに何が起こったのか気が気ではありませんでした、」と、彼が言った。

 彼女はお世辞にもきれいに映るとは言えない廊下のライトの中で瞬きをし、顔に掛かった髪を払いのけた。

 「あなたは何時だか分かっていますか?」と、彼が聞いた。
放蕩娘を持った親のように、彼の心からの関心で言った言い方のようだった。

 彼女は分かっていなかった。
「朝の1時です、」と、彼は彼女に知らせた。

 彼女は鍵を引き抜いてドアを開けたままにしているロバートの方に動いて行った。
四角い隙間を通し、事実上触れられてもいない食べ物がベッドの足元の皿に乗っているのが見えた。
部屋は玄関の所からでさえ濃い煙草の匂いがしていた。

 「お入りなさい、」と、彼が言った。
「ひどい格好だ。」

 ドアの内側に入ると、彼女はコートを肩から脱いだ。
「君は実に汚れている、」と、ロバートが言った。

 彼女は色も形も無くなってしまった靴を脱いだ。
彼は机から椅子を引き出した。

 「座りなさい、」と、彼が言った。

 彼女が言われた通りにした。
彼は彼女と向かい合ってベッドに座り、彼らの膝は触れ合っていた。
― 彼女の濡れたストッキングと、彼の灰色のウール。
彼は昼食の時に来ていたのとは違う白いシャツを着ていた。
彼は、違う男のように見えた。
疲れて目じりにしわが寄って、昼食の時よりもずっと老けた男に見えた。
彼女は自分も相当年取って見えているだろうと想像した。

 彼は彼女の両手を自分の方に引き寄せた。
彼女の手は彼の指で包み込まれている感じだった。

 「何が起こったのか私に言ってください、」と、彼が言った。

 「私は歩いていただけよ、それだけ。
私は何処に行ったのか分からないわ。
そうよ、私は、パブに行ってビールを飲んだわ。
私はバラ園へ行って、マフラーをほどいたわ。」
「マフラーをほどいた。」
「私の人生をほどいた、っていう事なの。」
「それは酷い事だったと思うよ、」と、彼が言った。
「そう言えるかもしれない。」
「私はあなたに35分猶予を与え、その後その住所まで追いかけて行ったんだ。
君は既に行ってしまってそこにいなかったに違いない。
私は1時間半も通りを行ったり来たりして、その後そのビルを去ろうとしているあなたじゃない女性を見たんだ。
彼女は2人の子供を連れていたよ。」

 キャサリンは皿の上の食べられていないサンドイッチを見た。
それは七面鳥のサンドイッチだったかもしれなかった。

 「私はお腹が空いたみたい、」と彼女が言った。

 ロバートは手を後ろに回し取り皿トレイからサンドイッチを取り彼女に手渡した。
彼女は掌で皿のバランスを取り、少し震えた。

 「いくらか食べて、その後で熱いお湯に入りなさい。
飲み物を頼もうか?」

 「いいえ、充分食べたみたい。あなたはお父さんみたいになっているわ。」
「ああ、キャサリン。」

 サンドイッチの中の肉はぺちゃんこになっていたので、彼女の舌には、まるですべすべしたビニールのように感じられた。
彼女はサンドイッチを置いた。

 「私は警察に電話する準備が整っていた、」と彼が言った。
「私は君が行った所に何度も電話したんだ。誰も出なかった。」

 「彼らはジャックの子供たちだったの。」
彼は驚いている様子ではではなかった。
「あなたは予想していたの、」と、彼女は言った。
「それは一つの可能性でした。
しかし、子供については考えなかった。
あれは彼女だったの? ミューラー・ボーランド?そのビルを出て行っていたのは?
彼の・・・・?」

「奥さんよ、」と、彼女が言った。
「二人は結婚していたのよ。教会で。」

 彼は椅子に深く座った。
彼女にはその疑惑が不本意ながら確信に変わったのが分かった。

「カトリックの教会で。」
「いつですか?」
「4年半前よ。」

 ベッドの上には上のチャックが開いた一泊用の鞄があった。
昼食の時に着ていたシャツが鞄の外からちらっと見えていた。
新聞紙の一部がベッドから床に落ちていた。
机の上には半分空になったミネラルウォーターのボトルがあった。

 彼女は彼がまるで医者が患者を見るように自分を見ているのが分かった。
病気の兆候を探している。

 「私は最悪の事態は乗り切ったわ、」と、彼女が言った。
「あなたの服はだめになってしまっている。」
「乾くわ。」
彼は彼女の膝を抱えた。
「本当にかわいそうに、キャサリン。」
「私は家に帰りたいわ。」
「そうしよう、」と、彼が言った。
「明日、朝一で。航空券を変更しよう。」
「来なければよかったわ、」と、彼女は皿を彼に返しながら言った。
「いや。」
「あなたは私に警告しようとしたわ。」
彼は目を背けた。
「お腹が空いた、」と、彼女が言った。
「でも私はこれは食べられないわ。」
「果物とチーズと、何かスープを注文するよ。」
「それは良さそうね。」

 彼女は立ち上がり、よろめいた。
彼女は頭が軽くなったように感じた。
彼は彼女と一緒に立ち上がり、彼女は自分の額を彼のシャツに押し付けた。

「この数年ずっと、」と、彼女が言った。
「それは全て偽りだったのよ。」
「しっ・・・」
「彼には息子がいたの、ロバート。もう一人の娘も。」
彼は彼女を慰めようと近くに引き寄せた。
「その間ずっと、私たちは愛の営みをしていたの、」と、彼女が言った。
「4年半の間、私は別の女がいる男と愛の営みをしていたの。
もう一人の妻。
私はしたの。私はその事を思い出すことができるわ・・・」
「大丈夫だ。」
「大丈夫じゃないわ。
私は彼に愛のメモを送ったの。
私は彼にその営みについてカードに書いたの。
彼はそれらのカードを受け取ったわ。」
ロバートは彼女の背中をさすった。
「私が知っていると言う事は良いことだわ、」と、彼女が言った。
「多分ね。」
「嘘をついて生きない方がいいよ。」

 彼女は彼の息遣いが急に変わったのに気が付いた、しゃっくりのようだ。
彼女は体を離して彼が疲れているのが分かった。
彼は目をこすった。

 「私は今お風呂に入るわ、」と、彼女が言った。
「心配をかけてごめんなさい。
電話をすればよかった。」

 彼は謝ることはないよとでもいうように手を挙げた。
「大事なのは君が帰ってきたっていうことだ、」と、彼は言い、彼女は自分が今まで知らなかったその彼の緊張を理解することとなった。
「あなたはほとんど耐えられない、」と、彼が言った。
「私はここでシャワーを浴びたいわ。
一人で自分の部屋にいたくはないの。
シャワーを浴びたら、大丈夫になると思うの。」
元気にならないのではないかと、思っているのだろう。

彼女がお湯を出してシャワージェルを浴槽の中に入れると泡が立ってきた。
彼女は服を脱いで自分の服がひどく汚れているのを知り、自分のスカートの裾が一部分ほどけているのを知り、驚いた。
彼女は裸で部屋の真ん中に立った。
白いタイルの上には彼女の汚い足跡が付いた。
ガラスの棚の上にはタオルと洗面道具の入った小さなかごがあった。
彼女はお湯に脚を浸けちょっと顔をしかめその後、湯船につかった。
彼女はシャンプーを使うには疲れすぎていたので湯船の泡だったお湯で髪と顔を洗った。
彼女は棚からタオルを取って、それを丸め、風呂桶の縁に置いた。
彼女はタオルの上に首を休ませてもたれかかった。

 革製の洗面道具が、小さな磁器製のシンクの上に不安定に置かれていた。
ドアの背に金のボタンの付いたブレザーが掛かっていた。
ドアの向こうで、ノックの音が聞こえ、ドアが開き、短い会話があり、沈黙があり、その後ドアがもう一度閉まった。
ルームサービスだ、と、彼女は思った。
紅茶を頼めばよかった、と思った。
お茶が一杯あれば完ぺきだったのに。

観音開きの窓はひびが入っていて、下の通りの音や車の騒音、遠くの声が聞こえてきた。
朝の1時なのに。
彼女は眠気を覚え目を閉じた。
水に浮力があるにもかかわらず、彼女にとって体を動かして湯船から出るのには努力が必要だった。
彼女は努力して心を空にして、お湯と石鹸と、他に何も考えないようにした。

 ドアが開いたとき、お湯の泡は少し消え、彼女の胸は露出していたかもしれないのにもかかわらず、彼女は動かず自分を隠そうとしなかった。

 彼女の両ひざは石鹸水のお湯から突き出した火山島のように突き出して見えた。
彼女のつま先がお湯の栓の鎖を弄んだ。

 彼は紅茶を注文した。
ブランディーも一杯。

 彼は浴槽の端にカップとグラスを置いた。
彼は立ち上がって流し台に寄りかかり、両手をズボンのポケットに突っ込んだ。
彼はくるぶしの所で脚を組んでいた。
彼女には彼が彼女の体を見ていることが分かった。

「僕ならそれを混ぜて飲むけどね、」と、彼が言った。
彼女は彼が言ったようにしようと立ち上がった。
「一人にしてあげるよ、」と、彼が言った。
「行かないで。」

彼の後ろの流し台の鏡は湯気で曇っていた。
窓の近く、熱でかき混ぜられた外の空気が雲の塊を作っていた。
彼女はブランディーを紅茶に注ぎ、かき混ぜ、ゆっくりと飲み込んだ。
程なく彼女は体の中心に熱を感じた。
ブランディーの薬用効果は素晴らしいわ、と彼女は思った。

 彼女は泡の付いた指でティーカップを持っていた。
彼の顎が動いた。
彼はため息をついたのかもしれない。
彼ポケットから手を出して、親指で流し台の端の水蒸気で出来た水滴をこすった。
「バスローブが必要になるわね。」

結局、彼女は彼にすべて話した。
暗闇の中でベッドに横になり、白いタウンハウスであった覚えている限りの事を全て話した。
彼は多くを話さず、所々でぶつぶつとつぶやくように、一つ二つ質問をした。
彼女はホテルのテリー織のバスローブを着ていて、彼は服を着たままだった。
彼は彼女が話している間、彼女の腕を指で上下にさすっていた。
彼らが寒くなった時、彼はベッドの掛布団を引っ張って二人に掛けた。
彼女は頭を彼の胸と腕の間に潜り込ませた。
暗闇の中で、体に馴染みのない暖かさを感じ、自分の隣の息使いを聞いていた。
彼女は彼女が言いたかった事とは何か違うかもしれないとは思ったが、それを言葉にする前に、知らない間に夢を見ることもない眠りに落ちていた。

次の日の朝、彼女は白いバスローブを着てベッドの端に座り、お風呂用品セットのバスケットの中に見つけた裁縫キットでスカートのすそを繕っていた。
ロバートは電話をかけて航空会社と話して、航空券を変更していたが、今は彼女の靴を磨いていた。
白いネットのカーテンの後ろから長方形の太陽の光が照り付けていた。
彼女は寝ている間、全く動かなかったのだろうと思った。
彼女が目を覚ました時には、ロバートは既にシャワーを浴び服を着ていた。
「それはもう直しようがないよ、」と、ロバートが言った。
「家に持って帰ってやるしかないわね。」
「じゃあ、朝食を食べに下に降りよう、」と、彼が言った。
「本当の朝食をね。」
「それが良いわ。」
「急ぐことはないから。」

彼女は辛抱強く均一に、ジュリアがずっと昔教えてくれたように、その小さな糸目がほつれないようにと思いながら、縫った。
彼女はロバートが彼女を熱心に見ているのに気が付いていた。
昨晩以来何かが変わった、と彼女は思った。
;しっかりと見られているので彼女の動作が特別に正確になっているのだ。

 「あなたはほとんど幸福そうに見えますね、」と、彼女が彼を見上げながら言った。
それは今までも、灯りに照らされた中の暗い場所に、あったのだろうが、昨日の狂気が影に潜んでいるのだと彼女にはわかった。
それは彼女を悩ませ、彼女がそれを手放すと彼女を引っ張り出すのだ。
だから彼女は最悪の事態を乗り越えることができたと言う事ができるはずだと思った。
どん底に達した事を知ることはある種の恩恵でもあるだろう。
彼女はその事の自由を感じることができた、自分の人生を生きる、恐れずに生きるということの。

 しかし彼女は既にそんな自由は幻想であり、まだまだ起こることを知っていた。
彼女がやらなければならないことは、マティーが墜落した飛行機に乗っていたことを想像する事だけで良かった。
それは将来の飛行機でのマティーの事かもしれない。
人生はキャサリンが経験してきたことよりもっと悪いことを配分するかもしれないのだ、その事はもっと悪いのだ。
実際、そこにあるものを知ることでかえってもっと悲惨なものになるかもしれないのだと思った。

 彼女は縫物を下に置き、ロバートが彼女の靴を磨くのを見つめた。
その手つきで、彼女は引っ張り出されたパンを入れるための引き出しに腰かけた、ジャックの事を思い出した。
正確にはそれはどれくらい過去の事だったのか?

 彼女は椅子から立ち上がって、ロバートの唇の端にキスした。
彼女の手には縫物があり、彼の手には彼女の靴があった。
彼女は彼の驚きを感じることができた。
彼女は彼の両肩に手を置いて彼を見つめた。

 「一緒にロンドンに来てくれてありがとう、」と、彼女が言った。
「あなたがいなかったらどうやって昨夜を乗り切っていたのか分からないわ。」

彼は彼女を見、彼女は彼が何か言いたがっているのが分かった。
「食べましょう、」と、彼女が急いで言った。
「お腹がペコペコよ。」

食堂は渋い青色の壁紙が貼られ、木目調の羽目板が付いていた。
床にはレッドオリエンタルラグが敷いてあった。
彼らは重いカーテンで囲まれた出窓ボウ・ウインドウのあるテーブルに案内された。
ロバートは窓側の席に座るように彼女に身振りで合図した。
テーブルはその厚みで平らになった、厚い白い麻布がかけられていて、彼女が名前も分からないないような銀食器や陶製食器が置かれていた。
彼女は座り、膝にナプキンを置いた。
壁には装飾的なプリントがしてあり、上にはシャンデリアがあった。
彼女は今やほとんどの夕食を食べている人がビジネスマンであることが分かった。

 彼女は自分の側の窓の外をちらりと見た。
太陽が雨に洗われた道の上に輝いていた。
その部屋は彼女に古い英国の映画の中の応接間を思い出させた、そして彼女はその部屋はかつてはそうだったに違いないと思った、暖かさを運ぶ公的な空間。
アメリカのホテルで行われる様な消毒を行おうという努力はなされなかったので、誰もそこに住めるとも住んでいたとも思えなかった。
暖炉には火が燃えていた。
彼らは卵とソーセージ、銀の台に入ったトーストを注文した。
珈琲は温かく、彼女はカップの縁に息を吹きかけた。

 彼女が目をあげ、入口にその女性が立っているのが見えた。
コーヒーが白いテーブルクロスの上にこぼれた。
ロバートが自分のナフキンを出してその汚れを拭こうとしたが、キャサリンは彼の手を押しとどめた。
彼は彼女が見たものを見ようと振り向いた。

 その女性は早足に彼らのテーブルに向かって歩いてきた。
彼女は短いウールのスカートとセーターの上に長いコートを着ていた。
キャサリンは言葉にできない気分の悪さと混乱の印象を持った。
女性は髪をポニーテールに結い上げていて、怖がっているようだった。
 彼女がテーブルに近づくと、ロバートが驚いて立ち上がった。

 「私は昨日は許されないぐらいあなたに対し残酷でした、」と、その女性はキャサリンを真っ直ぐ見つめながら言った。

「こちらはロバート・ハートさんです、」と、キャサリンが言った。
彼は手を差し出した。
「ミューラー・ボーランドです、」とその女性が紹介のために言ったがそれは彼には必要のない事だった。
「私はあなたに言う必要があるのです、」と、彼女はキャサリンに言い、その後言い淀んだ。
キャサリンはロバートがいるから彼女が躊躇しているというのが分かった。

「大丈夫よ、」と、キャサリンが言った。
ロバートはその女性に座るように合図した。

 「私は怒っていました、」と、ミューラー・ボーランドが話し始めた。
彼女は時間が無いかのように早口でしゃべっていた。
昨日よりももっとその女性の近くに座って、キャサリンは自分の娘と同じく大きいがもっと大きく瞳が大きい事が分かった、そしてそれは瞳が黒い事が原因だった。
「あの事故以来の怒り、」と、ミューラー・ボーランドが続けた。
「実際、ここ数年怒っていました。彼をほんの少ししか所有していないことを。」

 キャサリンは驚いていた。
わたしはこの女性を許そうとしているのだろうか?
こここの部屋で? 今?

「それは自殺ではなかったのです、」と、ミューラー・ボーランドが言った。
キャサリンは自分の口が乾燥するのを感じた。
ロバートが、その女性が放棄してしまった世界の中で未だに機能しながら、ミューラーに珈琲は飲むか、と尋ねた。
彼女は緊張しながら首を横に振った。

 「私は急がなければならないのです、」と、ミューラーが言った。
「私は家を出てきました。
あなたは私と連絡できなくなるでしょう。」

女性の顔が引きつった。
自責の念ではそんな様子にはならない、とキャサリンは知っていた。
しかし恐怖なら。

 「私にはダーモットという兄弟がいます、」と、ミューラーが言った。
「私にはほかに2人の兄弟がいました。
そのうちの一人は、夕食を食べている時に彼の妻と3人の子供たちの目の前で民兵組織に殺されました。
もう一人は爆死しました。」

 キャサリンはその情報を処理しようとした。
彼女は自分が理解できたと思った。
彼女はまるで誰かに殴られたかのように、打ちのめされたと感じた。

 「私は航空会社に勤めてから運び屋をやっていました、」と、ミューラーは話を続けた。
「それが私がボルトン、ヒースロー間のルートでヴィジョン航空に行った理由です。
私はアメリカから英国へ現金を運んでいたのです。
その後、誰か別の人がそれをベルファストまで運ぶと言う事を確認するのです。」

 その後、キャサリンは時間が止まりそれ自身が輪を描いてここでぐるぐる回り、やがてゆっくりと解けていくように感じられた。
彼女の周りの世界は、― 食事をしている客たち、ウエイターたち、通りの自動車、通行人の話声さえ ― ある種の水を張ったプールの中にあるように感じた。
彼女の直近の、周りにある物 ― 彼女自身、ミューラー・ボーランド、ロバート、コーヒーのシミの付いた白い布 ― がはっきりと輪郭を保っていた。

 ウエイターがコーヒーをふき取るためにテーブルにやって来て、ナフキンを取り換えた。
彼はミューラーに朝食を注文するか尋ねたが彼女は首を振った。
3人は不自然な沈黙の中でウエイターが去っていくまで座っていた。

 「私はそれぞれの空港で人に会う、ボストンやヒースローで、そこに行き来しながら。
私は一泊用の鞄を持っていた。
私はそのバッグを空港の乗務員用のラウンジに置いて立ち去る。
数分後、私はそれをもう一度拾い上げる。
実に簡単なことでした。」

黒髪の女性はロバートの水の入ったグラスに手を伸ばして一口飲んだ。
「その後私はジャックに会ったのです、そして私は妊娠したんです。」と、彼女が言った。
キャサリンは自分の足が冷たくなるのを感じた。
「私が航空会社を辞めた時、ダーモットが家にやってきました、」と、ミューラーが言った。
「彼はジャックに私の運び屋の仕事を引き継ぐかどうか尋ねたの。」
彼女は話すのを中断して額をぬぐった。
「私の兄弟はとても、説得力のある情熱的な人なんです。」
最初はジャックは、私が彼に前もって話さなかったため困惑していました。
私は彼を巻き込みたくなかったのです。
でも、その後、徐々に運び屋をやり始めたの。
彼は確かにその危険に引き付けられたのだけど、それだけじゃなかったの。
彼は自分自身でその理念を引き受けその一部になり始めたの。
時が経つに従い、彼は私の兄弟と同じくらい情熱的になったわ。」

 「改宗者だね、」と、ロバートが言った。
キャサリンは目をつぶり体を揺らした。
 
 「私はあなたにその事を言う事であなたを傷つけようとしているわけじゃないのよ、」と、ミューラーがキャサリンに言った。
「私は説明しようとしているのよ。」

 キャサリンは目を開けた。
「私はもはや、あなたが今までに傷つけてきた以上に私を傷つけることができるとは思わないわ、」と、彼女は言った。

昨日と違って、彼女の前に座っているその女性は、服を着たまま寝たかのように、身なりがちゃんとしているようには見えなかった。
ウエイターがコーヒーポットを抱えてやってきて、ロバートが急いでその男を手まねで追いやった。

 「私はジャックにはそれが手に負えないことは分かっていました、」と、ミューラーが言った。
「でも、彼は手に負えないことを恐れない男の様でした。」と言って、言葉を打ち切った。
「その事が私が彼を愛していた理由です。」

 その言葉は彼女の心に突き刺さった。
その後、キャサリンは、自分でも驚いたことに、次のように思った。
;それが、彼があなたを愛した理由なのよ。
あなたが彼にそこの事を申し出たのだから。

 「関係者は他にもいたの、」と、ミューラーが言った。
「ヒースローにも、ロンドンにも、ベルファストにも。」

 ミューラーはフォークを取ってテーブルクロスをフォークの端でひっかいた。

 「ジャックの旅の前の晩、」と、彼女は話を続けた、「ある女性が電話してきて、彼が別の方法で何かを運ぶ予定だと言ったのです。
ヒースローからボストンへ。
手順は同じです。
それは絶対に前例がないというわけではありませんでした。
今までにも1,2回起こりました。
しかし私はそれが好きではありませんでした。
それはよりリスクが高かったのです。
保安体制セキュリティーはヒースロー到着の時よりも出発の時の方がより厳しいのです。
どちらもロンドンよりも厳しいのですが。
しかし、本質的には、その仕事はそれほど難しくはありませんでした。」

 ミューラーはフォークを置いた。
彼女は腕時計を見て、より早口でしゃべった。

 「私が事故の事を聞いたとき、私は兄弟と連絡を取ろうとしました。
私は半狂乱でした。
彼らはジャックに何をしたんだ?
彼らは気が狂ってしまったのか?
それに、政治的にも非常識なことだった。
アメリカの飛行機を爆破するなんて?
何の目的で?
全世界を敵に回すことは確実だった。」

 彼女は額に指をあててため息をついた。
「勿論そのことが、要点だったのです。」
彼女は黙り込んだ。
キャサリンは重要な暗号のメッセージを受け取っているような不安な感覚を持った、その暗号をすぐにでも解かなければいけないような。

 「というのは、それは彼らではなかったから、」と、ロバートがゆっくりと理解したように言った。
「爆弾を仕掛けたのはIRAじゃなかったのだから。」

 「そうなんです、勿論彼らがやったんじゃなかったの、」と、ミューラーが言った。
「それはIRAを陥れるために行われたものだった、」と、ロバートがゆっくりと頷きながら言った。

 「私が私の兄弟と接触することができなかった時、私も彼らが彼を殺したと思っていたので、その後、もう彼らと接触することができませんでした。」と、ミューラーが付け加えた。

 キャサリンは、まさに今この瞬間ミューラーの子供たちは何処にいるのだろうかと不思議に思った。Aと一緒?

 「ついに私の兄弟が昨夜電話をして来ました。
彼は隠れていたのです。
彼は私の電話を考えて・・・」
彼女は手で合図をした。

 彼女の周りで、キャサリンはトーストを食べコーヒーを飲んでいる他のお客に漠然と気が付いていた、多分ビジネスのはなしをしているのだろう。

 「ジャックは自分が何を運んでいるか知らなかった、」と、ロバートがほとんど独り言のように、初めて話をまとめて、言った。

 ミューラーは首を振った。
「ジャックは決して爆発物は運びませんでした。
その事は彼ははっきりしていました。
それは分かってもらえていました。」

キャサリンは自分の心の中で、飛行機の中での取っ組み合いを想像した。
「だからジャックはテープの中で何も言っていないんだ、」と、ロバートが突然口をはさんだ。
「彼は機関士と同様にびっくりしていたんだ。」
 そしてキャサリンは:じゃあ、ジャックも裏切られたんだったと、思った。

 「みんなバラバラになっています、」と、ミューラーが言い立ち上がった。
「あなたはできるだけ早く家に帰るべきです。」

 彼女は片手をテーブルの上において、キャサリンの方に身を乗り出し、キャサリンには饐えた息と、洗っていない髪の臭いが匂った。
 
 「私はここに来たのです、」と、ミューラーが言った。
「何故なら、あなたの娘さんと私の子供たちは親戚だからです。彼らには同じ血が流れているのです。」

 ミューラー・ボーランドは2人の女性の間に本質的な理解の橋をかけようと意図していたのだろうか?
キャサリンは訝った。
しかし、ほとんど同時に、そうであれば、勿論2人の女性は繋がっているのだと気付いた、どれほどキャサリンがそうでないことを願おうと。
確かに子供達によって半兄弟、半姉妹、しかしジャックによっても。
ジャックを通じて。

 ミューラーは背筋を伸ばし、明らかに立ち去ろうとしていた。
キャサリンはパニックになりその女性には決して会えないかもしれないと気が付いた。

 「ジャックのお母さんについて教えて下さい、」と、キャサリンは慌てて口走った。
認めてしまったのだ。

「じゃあ、彼はあなたに言わなかったの?」と、ミューラーが聞いた。
 キャサリンは頷いた。
「そうだと思ったわ、」と、ミューラーは思いやり深く言った。
「昨日、あなたが来た時・・・」
ミューラーはしゃべるのを中止した。
 「彼のお母さんは、彼が9歳の時に他の男と逃げたの、」と、彼女が言った。
「ジャックはずっとお母さんは死んだと言い続けていたわ、」と、キャサリンが言った。
 「彼は自分が捨てられたことを恥じていたのです。
でも、不思議なことに、彼はお母さんのことを責めなかったの。
彼は自分の父親を、父親の残酷さを、非難したの。
実際ジャックが彼の母親の事をすべて認める事ができたのは最近の事なの。」

 キャサリンは質問したことを恥ずかしく思いながら目を背けた。

 「私はどうしても、今行かなければいけません、」と、ミューラーが言った。
「私はここにいるだけであなた方を危険にさらしているんです。」

 そのアクセントがそうしたのかもしれない、と、キャサリンは思った。
引き金として作用したのだった。
それとも彼女は単に説明できない事の理由を探しているだけなのだろうか:
男が恋に落ちた理由を?

 ロバートが急いでミューラーからキャサリンへ視線を向けて、もう一度ミューラーを見た。
彼は今までにキャサリンが見たことのないような苦悶の表情を浮かべた。

 「何なの?」と、キャサリンが彼に聞いた。
彼は、まるで彼が何か言おうとして、言わない方がいいだろうと考えるたように、口を開き、そして閉じた。
彼は、彼女が彼が今までにペンでやったのを見たのと同じしぐさで、ナイフを取って彼の指の間で前後に振った。
 「何なの?」と、キャサリンが繰り返した。
「さようなら、」と、ミューラーがキャサリンに言った。
「ごめんなさい。」

 ミャサリンは眩暈を感じた。
ミューラー・ボーランドが出入り口を歩いてどれくらいが経ったのだろうか?
3分?4分?

ロバートがキャサリンを見、それから注意深くナイフを自分の皿の横に置いた。
「待ってくれ、」と、彼はミューラーに、彼女が歩き去ろうとしている時に言った。

 キャサリンはその女性が立ち止まるり、ゆっくりと振り返り、ロバートを見つめ、いぶかしげに首をかしげるのを見つめていた。

 「他のパイロットたちは誰だったのですか?」と、彼は急いで聞いた。
「その名前が必要なんです。」

 キャサリンは硬直した。
彼女はロバートを、その後ミューラーをちらりと見た。
彼女は自分が震えるのを感じた。

 「あなたはその事について知っているのですか?」と彼女がこわばった囁くような声で尋ねた。
ロバートはテーブルを見つめ目を落とした。
キャサリンは彼の顔が色めき立つのが分かった。

 「あなたは全てわかっていたの?」と、キャサリンが聞いた。
「あなたはジャックがこの事に関係しているかもしれないと知っていて私の家に来たの?」

 「私たちは密輸の組織がある事だけは知っていました。」と、ロバートが言った。
「私たちはそれが誰であるかは知りませんでしたが、ジャックを疑ってはいました。」

 「あなたはこれが何処へ行き着くのかを知っていたのですか?
私が何を見つけるのかを?」
ロバートは顔をあげて彼女を見つめ、その時彼女は彼の顔から全てが通り過ぎるのが、即座に分かった:愛、責任感、喪失感。
特に、喪失感。

 キャサリンは立ち上がり、彼女のナプキンが床に落ちた。
彼女の動きは他の食事客を驚かせ、彼らは少し警告を含む眼差しで彼女をちらっと見た。
 「私はあなたを信頼していたのに、」と、彼女が言った。

彼女は食堂から真っ直ぐホテルのドアに向かって歩き、待っているタクシーに乗り込んだ。
彼女は自分のコートとスーツケースを部屋に残してきた。
彼女はその中に何が入っているのかさえどうでもよかった。
彼女は空港で航空券を変更するつもりだった。
 タクシーに乗っている間ずっと自分の膝の上にある両手をずっと見ていた、強く握った拳が白くなってしまっていた。
彼女には何も見えず何も聞こえなかった。
しかし彼女は自分の血液の中に怒りを感じることはできた、実際、それが彼女の中で沸き上がり攪拌されてゆくのを感じた。
彼女は今までに一度もそのような怒りを知ったことはなかった。
彼女はただ家に帰りたかった。

 ヒースローで、彼女は回転ドアを通り抜け、あらゆる方向に動き回る、まるで共同体として迷子にでもなっているような、国際的な群衆の中に入り込んだ。
彼女は英国航空のカウンターを見つけ列に並んだ。
彼女は航空会社自体も便も変えるつもりだった。
それがいくらかかろうとかまわなかった。

 彼女は列で立っている時、自分が曝されている感じがした、もはやまるで緩衝物が無いかのような。
ロバートは彼女の意図を察して探しに来るかもしれない。
彼女はもし必要なら、自分の決めた航空便をトイレの中で待つつもりだった。

 列は余りにもゆっくりと進んでいった。
彼女の怒りは航空券売り場の非効率性にも及び始めた。

 彼女は、もし彼女がジャックが飛んだのと同じ経路を飛べばマリンヘッドの上を飛ぶのだろうかと考えた。
 その後、彼女はその考えに引き付けられ始めた。
その純粋な力に彼女は驚いていた。
彼は手を胸に当てた。

 その考えの引力は行列の先頭に近づくに連れ強くなっていった。

 それはキャサリンの番になった時、彼女は自分の航空券をカウンターに置いた。
係りの人が彼女を見、彼女がしゃべるのを待った。

 「マリンヘッドに一番近い空港は何処ですか?」と、キャサリンが聞いた。

彼女の両腕は汚い洗濯ものでいっぱいだ。
― 湿ったタオル、しわくちゃなシーツ、両手から床に滑り落ちる弾力のある靴下。
彼女は散らばった洗濯物を掴もうと腰を曲げ、最初に洗濯籠を持って上がっていれば洗濯物はそんなにバラバラにならなかったのだろうと思った。
彼女は湿った塊をよりきつく抱え階段に向かって歩く。
彼女が寝室へ向けて玄関を通っている時、ちょっと覗き込む。

 それは一瞬の光景でほとんど記憶に留まらない。
脳に入っては来るが意識に留まることもない数千の潜在意識下のサブリミナルな映像と何の変りもない。
スーパーでラクダ色のジャケットを着た女性がオレンジを選んでいるところを見るような、生徒の首に掛かっているペンダントを見ても気づかないような。

 ジャックは機持ち込み用の鞄の上に屈み込み旅行の荷造りをしている。
彼の手は素早く動いていて、何か物を見えない様にしまい込んでいる。
シャツだ、と彼女は思う、黄色い縞模様の付いた青いシャツ。
彼女が今まで見たことのないシャツだ。
恐らく困った時のために空港の売店で買った物だ。

 彼女は彼を驚かすつもりはなかったと言う事を示すために笑顔で笑った。
彼は背筋を伸ばし小さなスーツケースの蓋を閉めた。

    ― 助けが必要かい? 彼が聞く。

 彼女は少し立ったままで、午後の太陽の光が家の古い床板に、かがやく黄色のシミを作っている様子に見とれている。

  ― いつ出発するの? 彼女が訊ねる。
  ― 10分後だよ。
  ― いつ帰ってくるの?
  ― 木曜日。お昼ごろだ。
多分アルフレッド・ザッカリアンに電話して、水漏れを見せた方がいいな。
今日はよりひどくなっている。

 彼女は彼の髪がまだシャワーでぬれているのに気が付く。
彼は少しやせていると彼女は観察する。
;お腹の出っ張りもほとんどない。
彼女は彼がクローゼットの方に横断して行き、ハンガーから制服のジャケットを取って着るのを見ている。
彼女はジョンが制服を彼の肩に掛ける姿を見て、彼が3つの金のボタンをとめる時に、それ自身がはっきり示す直接的な権威を見て、感動しなかったことは一度もない。

 ― 寂しくなるわ、と彼女は情動的に言う。

 彼は振り返り、日差しの中に踏み込む。
彼は目のあたりが疲れているように見える。
 ― それはどうしたの? と、彼女が聞く。
 ― 何が?
 ― あなたは何か心配事があるように見えるわ。
 ― ただの頭痛さ、と、彼が首を振り目をこすりながら言う。

 彼女は彼が表情をリラックスさせ、眉毛の筋肉を滑らかにするのを見る。

 ― アドヴィル鎮痛解熱剤がいる? と、彼女が聞く。

 ― いや、大丈夫だ、 と、彼が言う。

 彼はスーツケースのジッパーを閉め、取っ手を持ち、立ち止まる。
彼は彼女に何か言おうとするように見えたが、やめた様だった。
彼はカバンをベッドから掴んで降ろした。

 ― 僕が帰ってくるまでドライクリーニングを置いておいてくれ、 と、彼は彼女ほうに歩いて行きながら言う。
彼はいつもより少しだけ長く彼女を見つめる。
汚い洗濯物の山を越えて、彼は彼女にキスした。
キスは彼女に口の横を滑り落ちてゆく。
 ― それは火曜日には僕が何とかするから、と、彼が言う。

彼女は左側通行を思い出しながら、地図を読もうと努力していた。
これは彼女の集中力のすべてに負担をかける挑戦だった。
だから時には自分がベルファストスト空港から西に向かうアントリム・ロード上にいるという皮肉に気付いくには若干の時間が必要だった。
飛行は平穏無事で、車を借りるのも簡単だった。
彼女は、目的地に着かなければならないという、ほとんど物理的な衝動に駆られていた。

 ベルファストの西に着陸したことで、彼女は完全にその街を失念し、彼女が依然聞いていた爆撃されたビルや銃弾の痕の有る建物の正面を見ることはなかった。
実際、彼女の前に広がる田園風景と、非常に多くの生命を奪った解決不能な矛盾を調和させることは難しかった。
― ごく最近では、大西洋上の飛行機の中の104人の人々が奪われた。
簡素な白いあずまやと牧草地は、金網のフェンスと電話線、時々ある衛星放送用のアンテナで損なわれるだけだった。
太陽の光が好天の雲の動きに合わせて変化するのに従い、遠くの方の丘が、その色を変え、形さえも変えていた。
土地は古そうで、不法侵入され、丘は多くの足で踏みつけられたように、すり減り、苔むしたような表情をしている。
道に一番近い丘の尾根には、数百の羊の白い点が散らばり、耕されて畝を作られたパッチワーク、子供が描いた線のような工作物の境界線をなす背の低い生け垣が見えた。

 これは血みどろの戦いの結果ではないだろうと、彼女は車を運転しながら思った。
それは彼女が観察できない、理解できない何か別のものだった。
しかしジャックは傲慢のためなのか愛のためなのか敢えてそうしたのだった、自分自身を北アイルランドの複雑な紛争に巻き込む事を、そしてキャサリンとマティーでさえもその周辺にいる、無意識だとしてもその参加者になることになったのだ。

 彼女はそのトラブルについての事実をほとんど知らず、他の人々と同様、アメリカでニュースになるほどの悲惨な事件が起こった時に、見出しやテレビから吸収したことぐらいしか知らなかった。
彼女は70年代の派閥間の暴力沙汰、ハンガーストライキ、1994年の停戦とその停戦の崩壊、については読んだり聞いたりしたことはあったが、その理由についてはほとんど知らなかった。
彼女は脚の狙い撃ち、自動車の爆破、スキーマスクをかぶった男が市民の家に侵入したことについては聞いたことがあったが、これらのテロリストたちを行動に駆り立てる愛国心については感じたことはなかった。
時には彼女はこの闘争の参加者を、あらゆる時代に存在する理想主義をまとった残忍な宗教の狂信者のような、勘違いをした凶悪犯とだと思おうとすることもあった。
また別な時には、英国のその残忍性とまったくの愚かさが、あらゆる人々の集団を凶暴な行為に導くかもしれないという失望と苦しみを確実に招くように思えるのだった。

 しかし今彼女を当惑させているのは、そんな闘争の理由ではなくジャックがそれに参加したと言う事、ほとんど受容できない現実だった。
彼はその原因を信じていたのだろうか、それともそのもっともらしい信憑性に引き付けられていたのだろうか?
彼女は、人生に即座に意味を与えるということ、その事の魅力が理解できた。
恋に落ちる事自体、ロマンチックな理想主義、正義の組織に所属していると言う事、そして宗教でさえ全体の一部でありえたのだ。
それは、自分自身を人や理想に完全に明け渡すことを意味し、この場合、両者は表裏一体だっただろう。
その原因がちょうど愛の営みの一部であったように、愛の営みがその原因であったので、一方だけを取ることはできないのだろう。
もう一方無しで一方を残すことはできなかったのだ。
ここに光を当てると、何故ジャックがマリーボーランドを取り、彼女とカソリックの教会で結婚をしたのかはそれほど重要ではなく、むしろなぜ彼がマティーとキャサリンのもとを去らなかったのかのほうが問題なのだと、彼女は考えた。

 それは彼がマティーをとても愛していたからだ、と彼女はすぐに自分に答えた。

その後、ジャックとミューラーは実際に法的に結婚していたのだろうかと考えた。
教会での結婚は自動的に法的な地位を授与されるんだろうか?
彼女はそれがどのように機能するのか、ミューラーとジャックがそれを特例的に機能させたのかは分からなかった。
そして彼女は決してわかるようにはならないだろう。
彼女が知ることができない事はたくさんあった。

 ロンドンデリーのちょっと外の検問所で彼女はパスポートを見せ、アイルランド共和国に入り、同時にドネゴールに入った。
彼女は先に行けば行くほど目に見えて田舎らしくなる、羊の数が人々の数よりもずっと多くなり始める、小屋はより少なくなる、田舎を北に西に車を運転した。
彼女はピートのきつい香りの中を、アイルランド語でシオンマハランナ、マリンヘッドの標識に従った。
土地は、長い断崖とごつごつの岩、緑とヒースで覆われた背の高い砂丘の眺めを伴って、険しく、荒れ果てたものになった。
道は狭くほぼ一車線になり、彼女は鋭いカーブに差し掛かり溝にはまりそうになった時、スピードを出し過ぎている事に気が付いた。

 勿論、それは母親かもしれない、とキャサリンは思った。
彼が拒否されてきた母親を取り戻したいという願望。
確かにこれがミューラー・ボーランドと恋に落ちた真相かもしれなかったし、ミューラーでさえその事を知っていたのだろう。
しかし、この推測を超えてもキャサリンはその境界線を見通すことが難しいと考えた。
:男の動機が何であるか誰が分かるだろうか?
ジャックが生きていて、彼女と一緒に乗っていたとしても、彼は自分自身の「何故」をはっきりと説明できるだろうか?
誰か説明できるのだろうか?
またもや、彼女には決してわからなかった。
彼女は真実だと想像したことをわかるだけだった。
彼女が自分で決めたことは本当だろう。

 彼女が運転していると、ある思い出が彼女をチクチクと突き刺し、彼女を苦しめ、それはそれらが止むまで数か月か数年かかるかもしれないと知った。
:例えば、その考えとは、ジャックが他の家族に与えるために彼女とマティーからお金を取ったことは耐えられない事で、車の中で自分の血圧が上がるのを感じた。
あるいは喧嘩の事、彼女はあの恐ろしい喧嘩のせいで、自分を責めていたことを突然思い出した。
彼の図々しさ、と彼女は今は考えていた、彼が他の女性と不倫していた間ずっと、彼女自身の不適切さがその原因だと信じ込ませていた。
ジャックがコンピュータでやっていたのはそういう事だったのか。
恋人に書いていた?
彼が彼女に「自分に出て行ってほしいのか」と尋ね、あんなにも急に敵意を増大させようとしたのはそういう事だったのか。
彼はその考えを弄んでいたのだろうか?

あの詩の行だって、と、彼女は思った。
ジャックは警戒を解いてミューラー・ボーランドとの関係性の一部をキャサリンとの結婚の中にしみ出すことを許してしまったのだろうか?
キャサリンの生活は彼が決して気が付かないやり方で侵略されていたのだろうか?
ミューラーが提案した、どれほどたくさんの本を読んだり映画を観たりしたのだろうか?
どれほど多くのあのアイルランド人の女性の人生が彼女自身の人生に滲みだしていたのだろうか?

 またしてもキャサリンは決してわからないだろう。

 彼女は道路標識の指示に従って、主要道路を外れてアイルランドの最北西端に行った。
驚いたことに、道はより細くなり、彼女の家の私道よりも広くなくなった。
運転中、なぜ彼女はその不倫について今までに考えたことが無かったのか不思議に思った。
どうすれば女性は男性とずっと一緒に生活し、疑わないでいることができたのか?
少なくとも、それは素朴で忘却の記念碑的な行為のように見えた。
しかしその後、彼女はその質問をした時でさえその答えを知っていたのだと思った。
:献身的な姦通者は、疑われることしないからだ、と気が付いた。
何故なら彼は本当に掴まりたくなかったのだから。

 キャサリンは疑おうとさえ考えなかった。
;彼女は他の女性の匂いを嗅ぐことも決してなかったしシャツの肩に唇のシミを見つけることもなかった。
性的にさえ、彼女は決して疑う事はなかった。
彼女は彼女とジャックが経験した倦怠は、単に結婚して十年になるカップルにある正常な道筋だと思っていた。

 彼女は 奇妙に眩暈を起こさせるような海の塩と葉緑素クロロフィルの混合の ― 空気を吸うために車の窓を下げた。
彼女の周りの大地は普通じゃない、と彼女は突然気が付いた。
景色の特性(豊かな緑色の色相、その濃度)が彼女にロンドンでは感じることのなかったしっかりした感覚を与えたのだった。
海と陸の重なった状態、彼女自身のニューイングランドの海岸よりも野性的なのに心を打つ和音を奏でている。
彼女はミューラー・ボーランドがホテルの食堂の戸口に現れて以来初めて、ゆったりと深い呼吸をした。

  彼女は村に入って、通り過ぎたがそこには以前見た光景があった。
:老漁師だけがいなかった。
彼女はスピードを緩めて車を止めた。
彼女は店や家に囲まれた共有地に車を止めて座っていた。
彼女はカメラマンが立っていただろう、傘を差した黒髪のレポーターがホテルの前でインタビューしていた場所を見ることができた。
その建物は白くすべすべしていて清潔だった。
彼女はドアの上にある看板を見た。:マリンホテル。

 彼女はその夜のために部屋を確保すべきだと考えた。
彼女のロンドンへ帰る飛行機は朝まで出なかった。
また、たぶん彼女は何か食べる必要もあった。

 彼女の目がその伝統的なバーのすり減ったマホガニーを認識できるまでに慣れるには数分がかかった。
彼女は緋色のカーテン、ベージュ色のビニール張りのスツール、隅っこにある焚火で少しくすんだ部屋のわびしさに気が付いた。
壁に沿って長いすと低いテーブルがあり、恐らく6人ほどの人々がトランプをしたり本を読んだりビールを飲んだりしていた。

 キャサリンはバーに座って紅茶を一杯注文した。
ブロンドの彫刻のような髪をした女性が彼女の隣の席を要求した。
キャサリンは顔を背けてレジの上の看板をじっと見た。
遅すぎた、バーにいる人々がレポーターたちであることを理解した。

 その女性の顔がボトルの後ろにある鏡に映っていた。
彼女はそつなく化粧していて明らかにアメリカ人に見えた。
目が会った。

 「一杯奢らせていただけるかしら?」と彼女が小声で聞いた。
キャサリンは直ぐにその小声はそのブロンドの女性がバーにいる誰にもキャサリンがそこにいることを知られたくないためだと分かった。

 「いいえ、結構です。」と、キャサリンが言った。

 その女性は自分の名前と所属放送局のコールサインを告げた。
「私たちはバーのここに座っています、」と、彼女が説明した。
「関係者はラウンジに座っています。
たまに夫や父親がふらっとやってきて飲み物を注文することもありますが、会話という点では、お互いにほとんど使い果たしてしまっています。
みんな退屈しているんです。
不躾に聞こえたらごめんなさいね。」

 「飛行機の墜落だって退屈な話題になるんだと想像するわ、」と、キャサリンが言った。
バーテンダーはキャサリンの紅茶を置いて、ジャーナリストはスミスウィック・アイリッシュビールを半ポイント注文した
「写真で見たのであなただってわかったの、」と、レポーターが言った。
「大変なことを経験なさってお気の毒です。」
「有難うございます、」と、キャサリンが言った。
「大きなネットワークとニュース機関のほとんどは引き揚げ作業が諦められるまでは、誰かをここに留まらせ続けています、」と、女性が言った。

 キャサリンは紅茶を濃く甘くして熱を逃がすためにそれをかき混ぜた。

 「なぜあなたがここに来たのか聞いてもいいかしら?」と、ジャーナリストが訊ねた。

 キャサリンは躊躇いがちに紅茶をすすった。
「かまいませんよ、」と、彼女は言った。
「でも、私はあなたの質問には答えられないの。
自分でもなぜ私がここにいるのか分からないの。」

 彼女はその朝、新しく知った知識について、彼女の怒りとその引力について考えていた。
彼女が学んだ全ての事をそのブロンドの女性に提供することがどれほど簡単なことかを。
疑いなく、それが全体の調査の話しの中で、テープの漏洩よりももっと、最も大きな物語であるだろう物になるものを手に入れて、どれほどそのレポーターが興奮するかを。
そして一度それが印刷されると、当局はミューラー・ボーランドを見つけ出すだろうか?
彼女を逮捕して監獄に送るのだろうか?

 しかしその後、キャサリンは、マティーに似たモリー人形を持っていた赤ん坊、ディアドルについて考えた。

「それは自殺ではありませんでした、」と、彼女が言った。
「私があなたに言えるのはその事だけです。」
ロバートは全てを知っていたのだろう、と、キャサリンは思った。
彼は、家に来る前にブリーフィングを受けていたのだった。
組合はジャックを疑っていて、ロバートに彼女を監視させていたのだった。
ロバートは注視して、彼女の夫の活動を、他のパイロットの名前を、知るという兆しを待っていたのだろう
ロバートは彼女を利用したのだった。

 彼女はもやや自分の紅茶には何の興味もなかった。
目的地に急いで着きたいという気持ちが戻ってきた。
彼女は立ち上がってスツールを離れた。

 「ねえ、せめて話だけでも?」と、レポーターが聞いた。
 「そうじゃないと思うわ、」と、キャサリンが答えた。
「マリンヘッドに行くつもりなんですか?」

 キャサリンは何も言わなかった。
「あなたは現場にはいけないでしょう、これを持って行って。」

 ブロンドの髪の女性は彼女の財布から一枚のカードをとり出して、ひっくり返して、そこに一人の名前を書いた。
彼女はそれをキャサリンに手渡した。
「そこに着いたらダニー・ムーアを訪ねなさい、」と、彼女が言った。
「彼がそこに連れて行ってくれるわ。
これは私の名刺です。
終わって、もし気が変わったら電話してね。
私はここに泊まっていますから。
夕食をごちそうするわ。」

キャサリンはそのカードを取ってそれを見た。
「早く家に帰れるといいですね、」と、彼女が言った。

ホテルを出る途中、ラウンジを通る時、キャサリンはアームチェアーに座って膝に新聞を置いている一人の女性をちらっと見た。
新聞は開かれておらず、女性は新聞を見ていなかった。
キャサリンは彼女の前では何も見えないのだろうと思った、彼女のまなざしはそれほど空虚だった。
部屋のずっと隅の暖炉の傍では、同じような様子の一人の男がポケットに手を突っ込んで立っていた。

 彼女はもう一度、共有地を横切って自分の車に入った。
彼女は自分の手に持っているカードをもう一度見た。

 彼女は既に自分のやるべきことが分かっていた。
彼女にはロバート・ハートが最終的に、いや直後にさえ、取るかもしれない行動を制御することはできなかった。
しかし、彼女自身がやるであろうことは制御できた。
実際、ここ数年で最も自分を制御できていると、静かに、感じていた。

 飛行機の爆発の原因について彼女が知った事を明らかにすることはマティーがジャックのもう一つの家族を発見することを意味するだろう。
そしてマティーはその事を決して乗り越えることはないだろう。
この事で、キャサリンは確信していた。
彼女はカードをバラバラに引きちぎって床に撒いた。

 目的地が遠くないことを知りキャサリンはもう一度マリンヘッドへの標識に従った。
彼女は荒れ果てた小屋を通り過ぎ、それはもはや倒れた石でしかなく、藁ぶきの屋根は長い間崩れ落ちたままで腐っていた。
彼女は断崖に沿って真冬なのに鮮緑の、ビロード状の草の束を見た。
ポールとポールの間に張られたロープには太陽で硬くなった衣服があり、線上の洗濯物の抽象画のようだった。
絶好の洗濯日和だわ、と彼女は思った。

角を曲がると北大西洋の水平線が彼女を驚かせた。
水平線の中央には暗灰色形、一艘の船があった。
上空をヘリコプターが旋回していた。
鮮やかな色の漁船が大きな船の周りを旋回していた、母アザラシの周りの子アザラシのように。
引き揚げ船だ、と彼女は思った。

 じゃあ、これが飛行機が沈んだ場所なんだ。
彼女は車を止めて外に出てできるだけ崖の端まで歩いて行った。
彼女の下には垂直に100mの岩と頁岩が海まで続いていた。
そんな高さから水面は静止しているように見え、遠く離れたギザギザの海岸線が見えた。
水しぶきが星屑のように岩に当たっている。
赤い漁船は岸の方に向かっていた。
キャサリンに見える限りでは、水は単色で暗灰色のがかった青い色だった。

 彼女は今までにこれ以上の劇的な海岸線を見たことがあっただろうかと訝った ― これほど生々しく、致命的で、野生的な。
この海岸線は、災害があったとしても、そのことを遠近法で相対化して景色の中に映し出したと彼女は思った。
今までにも多くの災害が起きたことだろう。

 彼女は、漁船が突き出した半島、それがマリンヘッドそのものなのだが、の後ろに消えてしまうのを、目で追った。
彼女は車をもう一度始動させて、狭い道を運転し、その船が視界に入った時、それを見続けた。
それは長いコンクリートの桟橋で出来た小さな港に引き込まれて行った。
彼女は車を止め外に出た。

 桟橋に繋がれた船はオレンジ色、青、緑、黄色の原色に輝いていて、アイルランドの船というよりポルトガルの船のようだと思わせた。
彼女が見ていた船は桟橋を迂回した後その係留索を投げ出した。
キャサリンは桟橋の方に歩いて行った。
一方の端に制服を着た守衛がいて、彼らの向こうには私服を着た男たちの集団がいた。
彼女が歩いてゆくと、赤い船に乗っている漁師が椅子ほどの大きさの銀色の金属一片を下ろして桟橋の上に置いた。
そこではそれがすぐに私服の男たちの注意を引き、その周りに人の群れを作った。
男の一人が立ち上がって、桟橋で控えていたトラックの運転手に合図をした。
金属片は、恐らくジャックの飛行機の一部であろうが、トラックに積み込まれた。

桟橋の入り口では守衛が彼女を制止した。
「この地点を超えて中に入ることはできませんよ。」

 多分彼は兵士だったのだろう。
警察官かも。
彼はマシンガンを持っていた。
「私は親戚です、」と、彼女は銃を見つめながら言った。

 「お悔やみ申し上げます、奥様、」と、守衛は言った。
「関係者の予定された旅行があります。
それについてあなたはホテルに問い合わせることができます。」

 ホエールウォッチングみたいに、それともクルージングみたいにね、とキャサリンは思った。

 「私はダニー・ムーアとちょっと話したいだけなんです、」と、キャサリンが言った。

「ああ、それだったら。かれはそこにいます、」と、守衛が言って指さした。
「その青い船です。」

 キャサリンはありがとうとつぶやき、元気よく男の前を通り過ぎた。

 彼女に気付き始めた私服の役人たちと目を合わせないようにして、キャサリンは青いボートの漁師に声をかけた。
彼女には彼が艀はしけを離れようと準備しているのが分かった。
「待って、」と、彼女が叫んだ。

 彼は若く髪を短く切っていた。
左の耳に金のイアリングをしていた。
彼はかつては象牙色だっただろうセーターを着ていた。
 「あなたがダニー・ムーアなの?」と、彼女が聞いた。
彼は頷いた。
 「私を現場に連れて行って下さる?」
 彼は躊躇しているようだった、恐らく彼女に親戚のための予定された旅行について言おうとしていたのかもしれない。
「私はそのパイロットの妻なんです、」と、キャサリンは急いで言った。
「私は私の夫が沈んでいる場所を見る必要があるんです。
時間があまりないんです。」
 漁師は近寄って来て、彼女の手を取った。
 彼は彼女に操舵室のスツールに座るように身振りで示した。
キャサリンは私服の男の一人がボートに近づいて来るのを見た。
漁師は最相を舫もやいを解いて、操舵室に入って来て、エンジンをかけた。

 彼は彼女には理解できない言葉を言った。
彼女は前屈みになったが、エンジンの音と風の音で会話することはできなかった。

 船はきれいに磨き上げられ釣りをした形跡はなかった。
何故、そこにやるべき仕事、十分なお金を払うかもしれない責任者のためにするこの仕事があるのに、釣りをするのか?
「お金は払いますわ、」と、キャサリンは思い出したように言った。

 「あ、いや、」と、男は恥ずかしそうに眼をそらしながら言った。
「ご家族の方からはお金は頂かないんです。」

 ボートが埠頭を曲がるとすぐ、風が強くなった。
彼女が目を合わせると、漁師は少し笑った。
 「こちらの御出身なの、」と、キャサリンが言った。
 「はい、」と、彼は答え、彼は又キャサリンが理解できない言葉をつぶやいた。
彼女はそれは彼が住んでいる街に違いないと思った。

 「あなたは最初からこの仕事をしているの?」と、彼女は大きな声で言った。
「最初からです、」と彼は言い、目を背けた。
「それは今はそれほど悪くはないが、最初は・・・」

 彼女は最初はどうだったのか考えたくなかった。
「きれいなボートね、」と、彼女は話題を変えるために言った。
「立派です。」
彼女は彼の方言の中にミューラー・ボーランドを思い出させる不愉快なものを聞いた。
「それはあなたの物なの?」と、彼女が聞いた。
 「あ、いや。
兄貴のもんなんです。
でも、私たちは一緒に漁をします。」
「何を獲っているの?」
 エンジンは水中で安定した音を発していた。
「エビとカニです、」と彼が言った。

 彼女は立ち上がって舳先の方に顔を向けた。
彼女の横で操舵輪を握っている若い男が体重を移動した。
彼女は形の崩れたヒールの靴を履いていたので少しよろめいた。
「あなたはこんな寒い時でも漁をするの?」と、彼女は自分のスーツジャケットの見ごろをかき寄せながら聞いた。
 「はい、」と、彼が言った。
「どんな天気ででもです。」
 「毎日漁に出るの?」
 「とんでもない。日曜の夕方出発し金曜日には帰ってきます。」
「厳しい生活だわ、」と、彼女が言った。
彼は肩をすぼめた。
「今は天気がいいです、」と、彼が言った。
「マリンヘッドではいつも霧があるんです。」

 彼らが引き揚げ船に近づいた時、キャサリンは他の漁船たちが作業に従事しているのを観察した ― 彼女が乗っているような、それらの酷い作業にしては陽気過ぎる、派手な色の船だ。
引き揚げ船の甲板の上ではダイバー達がウエットスーツを着て立っていた。
ヘリコプターが上空をホバリングし続けていた。
残骸は、勿論、広範囲に落下したのだろう。

 漁師の後ろから、キャサリンは地質学的に|頁岩≪けつがん≫の露出した崖の海岸線を見ていた。
その風景は良い天気であるのに奇怪な暗い形をしていて、彼女は霧の中の恐ろしい風景を容易に想像することができた。
自然が一見して穏やかな、フォーチュンロックとあまりに違っていた。
しかし、大西洋のどちらの側であれ、レポーターが立ち、海を跨いで向かい合っていた。
「ここにロランで表示されている地点がコックピットが引き揚げられた場所です。」と、彼が言った。

 「これが?」と、彼女が聞いた。
そして震え始めた。
一寸の間。死が間近にあることを感じて。

 彼女は操舵室を出て左舷の手すりの方に歩いて行った。
彼女は縁の向こうの海を見つめた、その表面は見たところじっとしているようでも何時も変化していた。
昨日の人は前日までのその人ではないのだ、と、キャサリンは思った。
それとも、あの事が起こった日の前日。

 水はくすんでいるようだった。
上空をカモメが旋回した。
彼女はなぜカモメたちがそのにいるのかも考えたくなかった。

 何が現実だったのだろうか?と、水面をじっと見つめながら思った、彼女は焦点を合わせようとしたができなかった。
彼女はパイロットの妻だったのだろうか、それともミューラー・ボーランドがそうだったのか?
カソリック教会で結婚式を挙げ、ジャックの母親と彼の子供の頃の事を知っていたミューラー・ボーランドが。
キャサリンは彼女の事を知らなかったのに、キャサリンの事を知っていたミューラー・ボーランドが。

 それともキャサリンが本当の妻だったのか?
最初の妻、真実から守った唯一、彼が彼女のもとを去ろうと考えなかった妻。

 キャサリンがジャックの事を学べば学ぶほど ― そして彼女は疑うことなく今やもっと、ジャックの持ち物が彼女に返ってきたとき、その持ち物の中から、Mに関係する他の事を学ぶことになるだろうが、 ― 彼女は過去について考え直さなければならなくなるだろう。
まるで一つの話を、そのたびごとに事実が変わってしまい、少しだけ違うように、詳細が変わってしまうように、繰り返し繰り返し話さなければならないかのように。
そして、もし十分な事実が更新された場合、もしくはその事実が充分重要であれば、その話は最初の話しからは、とても違った方向で語られるのだった。

 船が別の波で揺れ、彼女は手すりにしっかり掴まった。
ジャックは単に他の女性の夫にすぎなかったのだ、と彼女は考えた。

 彼女は旋回しているヘリコプターをチラッと見上げた。
かつて彼女はフォーチュンロックのすぐ外側で大きな機体がホバリングしているのを見たことがあった。
その日は晴れてほしかったのだが、朝早い霧がちょうど消え始めていた。
機体は水面の上を低く飛んでいたし、その太った銀色のナメクジは上空に留まるには重すぎるように思えた。
キャサリンは飛行機を怖がっていた、そのような飛行が可能であることに畏怖の念を抱いていた。

 ジャックは彼の運命を知っていたのだろう、と、彼女は思った。
彼は最後の数秒で知ることになったのだろう。

 彼は最後にマティーの名前を呼んだのだろう、と彼女は確信した。
彼女はそう信じるだろうし、それが真実だろう。

 彼女はもう一度水面を注視した。
漁師はどれくらいの時間旋回していたのだろう?
彼女は時間の経過を実際に展開するものとして認識する能力を失ってしまっていた。
例えば、将来がいつ始まったのか?
それとも過去がいつ終わったのか?

 彼女は水中に焦点を絞ろうとしたができなかった。
変化は前に起こった全ての事を無効にしてしまったのか。

 もうすぐ彼女はここを離れ家へと飛び、車でジュリアの所へ行くだろう。
彼女は彼女の娘に、さあおうちに帰りましょう、と言うだろう。
キャサリンの人生はマティーと共にあった。
それ以外の人生はあり得ないだろう。

 彼女は指から結婚指輪を外し海中に落とした。

 潜水夫たちはジャックを見つけることはできないと彼女にはわかっていた、ということは彼はもはや存在しないのだ。

 「大丈夫ですか?」
若い漁師は片手で艘舵輪を握ったまま操舵室から体を乗り出した。
彼の額は皴がよっていて、心配しているように見えた。
 彼女はちょっと笑い、彼に向かって頷いた。
 愛から解放されることはひどい重荷を諦めることだ、と彼女は思った。

彼は彼女の指に指輪をはめ、しばらくそこにはめたままにする。
治安判事が簡素なな儀式の文章を読み上げる。
キャサリンはジャックの指とそこにはめられた銀の輝きを見つめる。
彼はその機会のためにスーツを買っていた、その灰色のスーツを着て、彼はハンサムに見えてはいるが彼女には、普通スーツを着ない男の様子が、変な感じだ。
彼女はお腹の赤ちゃんが目立たない、腰が隠れる花柄のレーヨンのドレスを着ている。
それは袖が短く、肩パットも小さく、膝のちょっと下までの長さだ。
彼女は店にあった時のその衣類の匂いを、まだ嗅ぐことができる。
彼女は又、帽子もかぶっている ― ドレスと同様桃色で、つばの所にくすんだ青色の絹製の花が付いていて、その青色はドレスの花柄に合っている。
隅の方で、もう一組のカップルが静かに小声で話している。
キャサリンは奇妙に貞節で長くかかる公式のキスのために顔をあげる。
つばの広い帽子が彼女の頭から滑り落ちる。
 ― 私は いかなる時もあなたを愛します、と、ジャックが言う。

彼らは山の牧場へドライブする。
気温は4℃近くに下がっている。
桃色のドレスの上に皮のジャケットを着ている。
彼女はまだ顔にずっと消えないでいる、まるで写真に撮られた時のままのような、結婚の笑顔を、感じることができる。
彼女の頭は彼がギアチェンジするたびに少し前後する。
彼女は2人が既に一緒に住んでいる場合、新婚初夜を迎えるとはどんな意味を持つのだろうか、ベッドでお互いに違う感じを持つと感じるのだろうか、と考える。
彼女は2人のどちらも今までにあったこともない、彼女たちを今後も覚えてもいないだろう男の前で結婚式を挙げるのはどんな意味があるのだろう、と思う。
西部の乾燥した空気はエリーの湿度よりも彼女の髪をより薄く感じさせる。
それは彼女の顔の皮膚を引き締めている。

彼女たちはより高く登る。
今は暗く澄んだ夜の空は低木と岩の上に白い線を描き、小さな礫岩の影を作る。
遠くの方には一つの光が見える。

 |小屋≪キャビン≫に灯がともった。
彼女は丸太を組んだ薪は本物なのかしら、見せかけなのかしらと思う。
浴室には金属のシャワーとピンク色の湯舟がある。
ジャックは別の物を計画していたのに質素な家具だったのでバツが悪そうだ。
― 私はここが大好きよ、と、キャサリンが彼を安心させるように言う。

彼女はベッドの上に座る、ベッドはギ~っという大きく金属的な音を出す。
彼女が目を見開き、彼が笑う。
 ― ここが山小屋で良かったよ、と、彼が言う。

 彼らは暖炉の光の中で服を脱ぐ。
彼女は彼がネクタイを横に引っ張り、シャツのボタンを外すのを見ている。
彼がベルトのバックルを少し引っ張るとベルトは直ぐ外れる。
彼は両足を滑らせて自分のスーツのズボンを脱ぐ。
メンズソックスというものか、と彼女が思う。
もし彼らがそれがどんな風に見えるのかを知っていたら彼らはそれを履かなかっただろう。

 裸になって、彼は冷えていて、ベッドに飛び込む。
彼らはお互いに絹のようにすべすべしている。
彼は掛布団を肩まで引っ張る、それらは高くずっしりと積み重ねられたその部屋で唯一の贅沢品だ。

 ベッドはちょっとした体重の移動でギ~ギ~と音を立てる。
彼ら裸で並んで横になり、お互いの顔は10cmと離れていないし、今までにないくらい接触している。
: ゆっくりと、無駄のない動きで、まるで太古のダンスを踊るように、儀式的で集中している。
彼が彼女の中に入って来る時、彼は細心の注意と忍耐を持って動く。
彼女は一度素早くため息をつく。
 ― 私たち3人、と彼が言う。

                 3

マティーの腕はしなり、リールの糸の張力で緊張した。
 「あれ、見た?」と、マティーが叫んだ。
 「超大きそうね、」とキャサリンが答えた。
 「絶対吊り上げられると思うわ。」
 「釣り糸を岩から離しておかないと切ってしまうわよ。」
キャサリンには黒と銀色の縞模様が水の表面近くをのたうち回っているのが見えた。
もう40分の間、彼女はマティーが父親の大きすぎる釣り竿で、釣り糸を伸ばし、引っ張りを調整し、その後魚のいるところまで引っ張り、竿を彼女のわきの下にじっと置き、魚と格闘していた。
キャサリンは網をもって水中を歩き回り、魚を|掬≪すく≫おうとしては失敗し、もう一度試みていた。
彼女は、やっとマティーに見えるようにシマアジを空中に持ち上げた。
 
 ジャックはここにいるに違いない、とキャサリンは自動的に思った。

 マティーは竿を置き、魚を彼女の母から受け取り、砂の上に置いた。
運命のシマアジは尻尾を振った。
マティーは巻き尺をとり出して、キャサリンはよく見ようと彼女に上から屈み込んだ。

 「91㎝、」とマティーが誇らしげに言った。

 「そうね!」と、キャサリンはマティーの頭のてっぺんを撫ぜながら言った。
彼女の娘の髪の毛は夏の間に愛らしい赤銅色になっていた。
彼女はそれを自然に任せて波打たせるままにしていた。
彼女はほとんど裸だったが、ブルーアイス色のビキニの水着は付けていた。

 「それを食べるつもり、逃がしてやるの?」と、キャサリンが聞いた。
「そうすればいいと思う?」

 「あなたのが最初に釣ったんじゃなかったら、リリースすべきというでしょうね。
お父さんはあなたに魚のさばき方を教えてくれたかしら?」

 マティーは立ち上がり、残った全力で魚を持ち上げた。

 「カメラを持ってくるわ、」と、キャサリンが言った。
「ママ、愛してるわ、」と、マティーがはにかみながら言った。

キャサリンは芝生を横切り、旗を揚げるためのロープが中空で不規則な音を立てるのに耳を傾けていた。
この夏一度もなかったような快晴で、既に豊かな色どりで満たされた一連の天気の良い一日は始まっていた。
ちょうどこの朝、彼女は、水平線に沿って、夜明けの低い雲が、ラベンダー色の煙のように見える水蒸気の塊を伴った、鮮やかなピンク色の雲に道を譲る、素晴らしい日の出を見たところだった。
そしてその後、海面で爆発したように太陽がポンと出てきて、壮大な数分間の間、水面は平らで鮮やかなピンク色縞模様を反射する波打つトルコ石の青さに変わっていた。
それは核爆弾の逆説的な美しさか、船の上の火災なのだ、と彼女は思った。
大地と海と空気が一緒になった大きな火事なのだ。

 それは彼女の唯一の不満だった、未婚女性や未亡人の様に早く起きる事、勿論彼女はそうなのだが。
早起きは眠りを得られるほどの夜の興奮が欠けていることを示唆しているのだった。
こんな風なぼんやりした朝には、これまでに本を読むことができたことを喜びながら、キャサリンは本を読んだ。
彼女は新聞の全紙面を読むことができた、ベランダでその一つを読む間に、特に一面の記事の休戦に関する記事を読んだ。

 ビジョン航空384便に備え付けられた爆弾の話しは、ジャックライオンズ機長の意図せず非難される事のない加担と共に、ベルファスト・テレグラフの元旦版に載っていた。
同時に、長い期間にわたる乗員が加担する定期便上の密輸の歴史、関係する他のパイロット達の名前と、IRAの信頼を傷つけるロイヤリストの分派グループ、和平の工程を破壊する工作についても書かれていた。
とりわけ、ミューラー・ボーランドと彼女の兄は逮捕され、ジャックライオンズとの関係が明らかになっていた。
そこにはもう一つの家族との結婚に関しての言及は、数か月たった今もこの最後の言葉を恐れ続けていたが、今の所なかった。
彼女はこの事が公表されない限り娘には何も言わないと決めて、マティーとの賭けに出たのだった。
それは大きな賭けだった、それがどんな風に終わるのかは誰も分からない。
マティーは、世界中の他の皆が知っている事しか知らなかった、それで充分なのだった。

 キャサリンはミューラー・ボーランドの子供たちに何が起こったのかは知らなかった。
時々彼女はその子たちとA’s(ジャックのメモに書いてあった場所)で会っている事を想像した。

 春に、キャサリンは紛争をよりよく理解するために紛争に関する本を読んでいた。
彼女は自分が12月の頃よりより多くの事実を知ったと言う事ができたが、この知識はその長い話をより複雑にするだけだと考えていた。
過去数か月間、彼女は刑務所の暴動、民兵組織の処刑、自動車爆破についても新聞で読んでいた。
今は又、休戦がなされていた。
いつの日にか解決されるだろうが、すぐには実現しないだろうと、キャサリンは思っていた。

 しかし彼女に言えることではなかった。
彼女の戦争ではなかったのだから。

 ほとんどの日々、キャサリンにできる全ての事は、彼女の前にある一日をなんとかやって行くことで、その結果、彼女はほとんど何も求めなかった。
彼女はよれよれの青いスエットシャツの下に水着を着て過ごした。
彼女はマティーのために紙吹雪柄の毛糸でタンクトップを編んでいて、彼女はそれを自分でやってみたいと思っていた。
これが彼女の野心の限界のように思われた。
ほとんど毎日、ジュリアが立ち寄ってくれるか、キャサリンが町に行ったりしていた。
彼女たちは一緒に食事をし、家族三人を再構成しようとしていた。
ジュリアはジャックの不倫のニュースを特に厳しく受け取っていた。
キャサリンが思い出せる限り、ジュリアが、言葉なく途方に暮れ、助言することもできないでいるのは初めてのことだった。

 キャサリンは玄関の上がり框を急ぎ足で駆け上がると、居間と台所を通り過ぎた。
カメラは奥の部屋のウインドブレーカーの中にあったけど、と彼女は思っていた。
彼女は角を曲がり部屋に入りちょっと立ち止まった。

 彼は奥の部屋のドアの前に、すでにノックを終わって立っていた。
彼女には彼の顔が窓ガラスを透かして見えていた。
彼女は自分を安定させるために壁に手を置いた。
彼女自身とドアの間には強烈な刺激があった、彼女が長い廊下を歩いて彼のためにドアを開けたもう一つの時間の再現、彼女の人生が変わった、人生の方向性が永遠に改められた瞬間だ。

彼女は朦朧とした状態でドアの方に6,7歩、行き、ドアを開けた。

 彼は両手をポケットに突っ込んでドアの枠にもたれかかっていた。
彼は白いTシャツを着、カーキ色のショートパンツをはいていた。
彼は髪を切り、染めているのが分かった。
それ以上のことは彼が太陽を背にしていたのであまりよく分からなかった。
しかし、彼の体から発する奇妙な決心とあきらめの混じったものに、彼を感じることができた。
彼女は、彼女が、ドアを閉めるか出て行ってくれるように頼むか、今彼女に期待するものがあるかとぶっきらぼうに聞くことを、待っているに違いないと思った。

 彼らの間の空気が密集しているように思えた。

 「充分な時間が経ちましたか?」と、彼が聞いた。

 そして彼女は、そこに立ったまま、正確なところどれ程の時間であれば充分なのだろうかと考えた。

 「マティーが魚を釣ったの、」と彼女が思い出したように言った。
「私はカメラを持って行かなくっちゃいけないの。」

 彼女は思った通りの場所でカメラを見つけた。
彼女は家を通り過ぎる時、片手を額に当てた。
触って見ると皮膚が熱く、海の砂と塩で不快な感じだった。
以前、彼女とマティーは、二人の難破船の船乗りの様に引き波から両手と両膝で漕ぎに、ボディーサーフィンに出かけたことがあった。

彼女はもう一度芝生を横切り、今やドアの所に残した男のことで頭がいっぱいだった。
ちょっとの間、彼女は自分が彼がそこにいることを夢に見て、彼が逆行の中で立っていると想像しただけではないのだろうかと思った。
彼女はその瞬間が長く続かないかと望みながら、少し彼女に時間を与えてくれないかと望みながら、たくさんの娘と魚の写真を撮った。
マティーがイラつき始めた時、キャサリンはカメラを首にかけマティーが釣り道具と魚を玄関へ運ぶのを手伝った。

 「あなたは本当にこれがやりたいの?」と、魚の切り身に関してマティーに尋ねた。
しかし彼女はそれが彼女自身に関して聞くべき質問なのだと、キャサリンは思った。

 「やってみたいのよ、」と、マティーが言った。

 マティーはちょっと前に彼女の母が見たのと同じ鋭い目つきで、玄関にいる男を見た。
少女は立ち止まり、彼女の魚を少し下に下げた。
彼女の眼は警戒で瞬きをした、悪夢の記憶に。

 使者だ、と、キャサリンは思った。

 「大丈夫よ、」と、彼女は娘に静かに言った。
「彼は来ただけだから。」
女性と少女は数えきれないほどの他の人々がやった様に、親が釣竿を持ち、子供がそのトロフィー(人生で捕まえる多くの魚の最初のもののこと)を持って、一緒に釣りから、芝生に横切って入って行った。

先週、マティーは車庫でジャックの釣り竿と釣り具を見つけ、ジャックが去年の夏に彼女に教えたことを思い出して熱心に実行していた。
キャサリンは、彼女自身が吊りを好きになったことはなかったので、彼女を助けてあげられることはあまりなかった。
しかし、マティーは決心し、大きすぎる道具を何とか使いこなすことを学び、途中でいくつかの技術を習得していた。

 風は東風に変わり、キャサリンは直ぐに東風とともにやって来る微かな寒さを感じた。
数分で海には白波が立つだろう。
彼女はそのとき、いつもそうするように、ジャックの事を考え、自分は決して、玄関に立って、ジャックが彼女にこの家を買ってくれた日を、思い出すことなく、東風を経験することはないだろうと知った。
それは数百のきっかけの一つだった。
:またしてもそこには東風があった。

 彼女はこんな瞬間をしばしば持っていた。
彼女はジャック・ライオンズに関して、ミューラー・ボーランドに関して、そしてロバート・ハートに関して持っていた。
彼女は航空機に関しても、アイルランドに関してもロンドンに関してもそうだった。
白いシャツについても、傘についても。
一杯のビールでさえ壊れやすい思い出のきっかけになり得るのだった。
彼女は、チック症、どもり、体中をめぐる痛みをおこす、ひどい膝の痛さと共に生きるのと同じように、それらと共に生きることを学んできた。

 「こんにちは、マティー、」と、ロバートは少女が玄関に近づいてきたときに言った。
彼はそれを友好的な言い方で、しかし過度にではなく、言ったが、それはマティーを警戒させ、キャサリンが既に分かっていたよりも、もっと居心地の悪い気持ちにさせた。
 しかしマティーは育ちが良かったので、こんにちは、と挨拶を返したが、顔を背けてしまった。
 「美しい魚だ、」と、ロバートが言った。
ロバートと彼女の娘が同じ視界の枠に入っているわ、と思いながら、言った。
:「マティーは自分に釣りを教えているの。」
 「86、89cm?」と、ロバートが聞いた。
 「91cmよ、」と、マティーが自慢気にならないように言った。
マティーは釣り道具箱を母親から受け取った。
「私はそれを向こうでやるわ、」と、彼女が玄関の床の隅を指さして言った。

 「後でホースで水洗いするんだったらね、」と、キャサリンは答えた。
彼女はマティーが魚を玄関の隅に置くのを見ていた。
少女はエラをいろいろ違った方向から調べそれから釣り具箱からナイフを取り出した。
彼女は魚に一刺し入れてみた。
キャサリンはその魚が死んでいる事を願った。

 ロバートは玄関のもう一方の端に歩いて行った。
彼は話したがっているのだろうと彼女は思った。

 彼女が彼の方を向いたときに、「これは美しい、」と、ロバートが言った。
彼は、振り返り手すりにもたれかかった。
景色が良いという意味だ。
彼女は、彼が思っていたよりも、もっとはっきりと、りりしく見えると思いながら、今は彼の顔を見ることができた。
それは顔色の事も、・・・日焼けしていた。
「私はこの事を想像していたんだ、」と、彼が付け加えた。

二人は同時に、想像したことを思い出させる痛みを聞いていた。 

ロバートの脚も日焼けして金色の毛が生えていた。
キャサリンは多分、今までに彼の脚を見たことはなかったはずだ、と思った。
彼女も素足で、彼はその事を受け入れた。

 「彼女はどうですか?」と、彼が訊ねた。
彼の視線は、彼女が覚えていたように、意図的で鋭い、観察者のものだ。

 「より良いです、」と、キャサリンはマティーに聞こえないように静かに言った。
「以前よりは良いです。 ひどい春でした。」

 数週間の間、彼女とマティーは集団の怒りの矢面に立たされていた。
もしジャックが巻き込まれていなければ・・・と言った人たちもいた。
別の人々は爆弾を運んだのはお前の親父だ、というものもいた。
見ず知らずの人からの脅迫電話があり、遺族の関係者からの苦悩に満ちた手紙があり、門にはレポーターの一群がいた。
時には、単に車で仕事に行くのさえ困難だったが、キャサアリンは家を出ることを拒否した。
彼女はイーリーの町に、彼女の家のための、警備職員を頼まなければならなかった。
選挙管理委員会が町内会を招集し、投票にかけると、多くの議論の末、異例の予算計上がなされた。その予算は、「不可抗力」という項目の下に記載されていた。

 警備の必要性は、月が経つにつれ減って行ったが、キャサリンは、彼女もマティーも正常な生活には決して戻れないだろうと言う事は知っていた。
これは今や、毎日折り合いをつけるべく戦う彼らの存在の、与えられた事実であった。
彼女は墜落の犠牲者の子供たちについてのロバートの意見について考えていた。
:彼らは災害とともに突然変異を起こし、適応するのです。

 「それで、あなたはどんな具合ですか?」と、彼は聞いた。
 「私は大丈夫です、」と、彼女は言った。
彼は振り返り、柱に手をついて、芝生と庭を見わたした。

「あなたはバラを育てているんですね、」と、彼が言った。
「やってみているの。」
「うまく育っているようですね。」
「海の近くでバラを育てるなんて馬鹿がやる事でしょ、」と、彼女は言った。

 庭のアーチには肌色のフリア、棘のあるウエンロックが植わっていた。
:長方形の庭にはクレシダスとプロスペロスがあった。
しかし、彼女は恥ずかしそうに紅潮する花芯により、セントセシリアが最も好きだと思っていた。
それらは潮風の中でも育てやすい。
キャサリンは贅沢に花を植えて、浪費的に贅沢をするのが好きだった。

 「私はあなたに最初の日に言うべきでした、」と、彼が言い、彼女はこの事を言われたことに面食らった。
「そしてその後、もし最初に言っていたら私はあなたを失っていただろうと知りました。」
 彼女は無言だった。
「私は間違った決断をしてしまいました、」と、彼が言った。
「あなたは私に言おうとしたわ。」
「私の努力が足りなかったのです。」
 そしてそこで、それは言われました。
それが行われたのです。
 「私は時々、それが起こったことが信じられないの、」と、キャサリンが言った。
「もし私たちがもっと早く彼らに会ってっていれば、それは起こらなかったかもしれません。」
ジャックとミューラーをもっと前に探し出すということが彼の言っている意味だ。

 「爆弾は大西洋の真ん中で爆発させるつもりだったんでしょう?」と、彼女が聞いた。
「ほとんど証拠のないところで爆発させるつもりだった、と言う事。」
 「我々はそう思っています。」
「何故、彼らはすぐに電話してIRAがやったって言わなかったの?」
「彼らにはできなかったのです。IRAと警察との間には掟があるんです。」
「じゃあ、彼らは調査がジャックとミューラーの線に行き着くのを待っていただけなのね。」
「長い導火線のようにね。」
 キャサリンは聞こえるように深く息を吸った。
 「彼女は何処にいるの?」
「メイズです、」と、彼が言った。
「ベルファストの。皮肉なことにロイヤリストのテロリストもそこにいるんです。」
「あなたはジャックを疑っていたの?」
「私たちはそのルートに誰かいると言う事は分かっていました。」

彼女は、これが最初ではなかったが、もし女性が彼女を裏切った男を許すことができるものなのだろうかと考えた。
そしてもしできるとすれば、それは確信しての許しなのだろうか?
それとも単に愚かさの故に、であろうか?

 「最悪の事態は乗り越えたのですか?」と、ロバートが聞いた。
 彼女は彼女の腕にある蚊に刺された後を、指で撫ぜた。
光は夕日に照らされ、鮮明になりつつあった。
 「最も悪いことは、私が悲しめない事なんです、」と、キャサリンが言った。
「私が知らなかったかもしれない人の事をどうして悲しむことができましょうか?
彼ではないと思っていた人物を?
彼は私の記憶をめちゃめちゃにしてしまったのです。」

「マティーの父親のために悲しんでください、」と、ロバートが言い、彼女は彼がこの事を考えていたのだと理解した。
 キャサリンはマティーがエラの後ろから背骨にかけて慎重に切り込みを入れるのを見ていた。
 「私は離れている事ができなかったのです、」と、ロバートが言った。
「来なければいけなかったのです。」
彼女はロバートも賭けに出たことを悟った。
彼女が、今マティーとしているように。
何時、明かせる時が来るか分からない何かを。
 そしてその後、玄関の端から自分の庭が見えるように、普段はめったにそうしないのだが、今年のバラの配置が特別だったからなのか、少し振り向いて、それを見た。

「そこよ、」と、彼女は静かに言った。
 マティーは彼女の母の声に静かな驚きを聞きながら、魚をさばいている彼女の手から視線を上げた。

 「テャペルの事よ、」と、キャサリンは説明しながら言った。
「何?」とマティーは少し驚きながら聞いた。
 「庭の事。あそこにアーチがあるでしょ。
あの大理石のやつ、ずっと私はベンチだと思っていたんだけど。
あれは絶対ベンチじゃないわ。」

 マティーは少しの間、キャサリンが単なる庭だと思っていた、庭を観察した。
一方、キャサリンには、聖ジャン・ド・バプティスト・ド・ビアンフェイサンス修道会のシスターたちが、夏らしい白い衣服に身を包んでひざまずいているのが見えた。
アーチ形の窓をした木製のチャペルの中で。
恐らくチャペルは大理石の祭壇だけを残して、燃えてしまったのだろう。

 彼女は庭の方に歩いた。
それが何であるか、嘗て何であったか、を確かめるように。

 「何か飲み物を持ってくるわね、」と、彼女はロバートに言ったが、内心では自分の発見に満足していた。
 
 彼女は台所に続く居間に入り、グラスにアイスティーを入れ、レモンを切ったが、代わりに立ち止まり床から天井まである窓を見た。
窓枠の中では、マティーが魚を下すことと格闘していて、ロバートが手すりの所から彼女を見ていた。
彼はナイフの角度のつけ方を教えたかもしれないが、これらはジャックの道具だったのだ、そしてキャサリンはロバートがじっと待っていてくれるだろうことが分かっていた。

 彼女は北アイルランドの刑務所にいるミューラー・ボーランドの事を考えていた。
ジャックについては、遺体は全然発見されていなかった。
彼女は、もしその事が彼の母親が彼が少年だった時に捨てたせいで、それとも、彼の父親の残虐な行為のせいだと言う事ができれば、簡単なのだろうが、と、思った。
それとも、ホーリーネームにいた神父の、それともベトナム戦争の、それとも、中年、航空会社に退屈したことの影響だったのか。
それとも、自分の人生に意味を求めたためなのか。
それとも彼が愛した女性と危険を共有したいという望みのため。
彼女はその全てが原因であるかもしれないし、そうでないかもしれない事を知っていた。
ジャックの動機は、キャサリンには常に分からないままだろうが、すべての動機の断片からなる不可解なモザイクのようなものであった。

 彼女は最近暖炉の時計の下に、置いたままにしていた紙片を見つけて、手に取った。
彼女は数週間前、これをやるかもしれないと思っていた。
 彼女はそのくじのチケットを開いた。
 玄関では、マティーが、ロバートが彼女のために開けてくれたビニール袋に魚の切り身を持ち上げて入れていた。

 ロンドンではキャサリンが想像したような静寂があった。

 「私は子供たちが大丈夫か知りたいと思っていただけなの、」と、彼女が海を越えて言った。

                 完

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