「ポスト」 アリス・マックダーモット

「ポスト」 アリス・マックダーモット(ワンストーリーに記載)
The Best American Short Stories

「多分、硫黄ね、」と、マリアが言った。
「煙のにおいがして、どうしようもないわ。何かが腐った匂い。たぶん肉の腐った匂い。」

 アダムは立ち止まった。
彼のマスクを下にずらして、空気の匂いを嗅いだ。
彼は愛らしい鼻をしていた。
小さくて整っていて、少しだけ上を向いている。
黒いマスクと、とび色のまばらな顎髭の上に乗っていて青白く、むしろ繊細でさえある。
彼女は、彼の鼻が好きだと、この事を一度、彼に言った事がある。
彼は「鼻軟骨だけさ。」と言ったものだ。

 彼はマスクのずれを直した。
彼の眼は笑っていた。
彼女は彼の眼を見つめるしかなかった。

  「陶土のような匂いがする、」と彼が言った、「何時も通りさ。」

 彼女は新しい未発見の光景を一緒に見るために彼をこの場所に連れて来たのだった。
しかし、それは全て二人にとっては見慣れたものだった:ソフトボールのグランドの黄色くなった芝生、環状の小径とベンチ、点在する木々、空き地があるために遠くに見える、周りを取り囲んでいる雑多な色のアパートの建物。
3月で、空気は冬の寒さを含んではいたが、弱弱しい太陽は人々を外に連れ出していた。
ランナーや車に乗った人々 ― 彼女は彼らが通り過ぎる度に息使いが荒くなるのを聞くことができた、みんなが重くなって、体形が崩れていた ― スクーターに乗ったずんぐりした小さな子供たちとベビーカーを押しているカップルたち : 眠っているパンデミックの赤ん坊たちや手を差し出しているよちよち歩きの子供たち ― 間違いなく彼らの初めての風との遭遇なのだ。
これまでの室内での生活から解放されたのだ。

 これらの小さな者たちだけが完全に人間的な顔をした生き物だったのだ。
例外的にマスクを付けていない無頼漢の三人組が、埃っぽい原っぱのずっと端の場所にいた。
どこかでドラムが哀歌を叩いた。
ギターがそれに続こうとした。
その上の青い空は全て遠くの音楽と同様、気だるげだった。

 マリアとアダムは、まるでその曲調を確認するかのように、じっと注意深く、一緒に立っていた。
しかしそれは彼女が識別するために彼をここに連れてきた匂いだった。

 まるで木が朽ちたような匂い、と、彼女は彼に言った。
腐肉。うんこ。ガスのような。植物ではなく動物のような。
工業製品の物ではない。明らかに動物だ。
何かの膨らんだ体かそんなものが土の中に沁み込んで、タールになるような。

 今、彼女が言った、「私は気分が悪くなりそうだわ。」

 彼は彼女の腕を掴んで、小径に沿って移動した。

 「そうだなあ、それは大変だ、」と、彼は原っぱから暫く黙って歩いてから言った。
彼女は、季節を急ぎ過ぎた、その天気にしては余りにも軽装にすぎ、彼は彼女の震えに気が付いたとき彼女に腕を回した。
その後、ちょっと前に彼女が彼に返した上着を脱ぐために立ち止まり、彼女はそれを着ると言い張った。
「君は何時も陶土の匂いが好きだったね、」と、彼が言った。

 「もう違うわ、」と彼女が言った。
「もしそれがこんな匂いなら好きじゃないわ。」

 「そうだなあ、それは大変だ、」と、彼はもう一度言った。

 彼らはお|包≪くる≫みに包まれた赤ん坊を胸に抱えた女性とすれ違った。
赤ん坊は春のクロッカスのような黄色い小さな帽子をかぶっていた。
ミラは本能的にマスクの中で微笑んだ。
彼女は何時も赤ん坊を見ると微笑むのだった。
その母親は、マスクをし、フードを被り、耳にイヤホンを付けていて、何も気づくことなく通り過ぎた。
誰もが少しずつ無関心になっていた。
「それは単なる悪臭だと本当に思ったわ。それはひどい匂いがしたんですもの。」

 「ちがうよ、」と彼が優しく言った。
「今まで通りだ。それは君の方のもんだいに違いない、コロナ後だからね。」

 彼女は彼の腕をつかんだ。
「あなたの専門知識は頼りになると思っていたわ。」

 「喜んで相談に乗るよ。」と、彼が言った。

彼らはそれを一緒に切り抜けたのだ。
不注意にも、そう思ってしまったのだ。
彼らの関係は2月の初旬に、ほぼ終わっていた、閉鎖が始まる数週間前に。
お互いの熱意の不足、と彼らは言っていた。
それはあまりにひどかった。
彼らはその頃、情熱以前と彼らが呼ぶ状態では、とてもうまくやっていた、パンデミック前と彼らが言っている彼らが単なる友達だった頃は。
彼らは、お互いの町に住んでいる、お互いの知り合いからの報告だけで、地獄のような春と長い夏と急上昇する秋を離れたままでいた。
12月の初旬、彼は彼女に「この状況で、どうしているの?」というeメールを送った。
彼女は「喉がイガイガし、熱があり、検査を受けに行くわ。」と返事した。
彼は一言だけ「結果は?」というメールを3回送った。
彼女がついに「陽性だったわ。今寝ています。」と書いてくるまで。

 彼女がベッドを置いている、隠れ場所は隣の部屋からの朝のひかりが当り、そしてビルの合間からのわずかな夕日の隙間だけが西向きの眺めだった。
真冬の日が短くなり、それ以前なら普通に日が短くなるのが通常だったはずの真冬の日が、彼女のベッドの足元を行ったり来たりする姿を風刺的に描いたのは、後で思い起こせば、茶番のように思えた
長い廊下をたくさんのドアで特徴づけて描く、古い喜劇のスケッチの様に。
:青白い光が顔をのぞかせ、その後狂気の黄色がはじけ、その後薄暗くなり、その後燃えるような赤、その後同じ暗さ、その中からいたずらな朝がもう一度現れ、彼女のベッドの脚を横切って邪悪に回転して消える。
彼女はその全てをこれまで経験したことのない程の深い眠りの底から見ていた。 ― 歩道の板を顎の下まで引き上げたような夢だった。
彼女は、はっきりと、何日が過ぎたかは記憶になかったが、ある時点で、「これは素晴らしいわ。」と、声に出してはっきり言った。

 サイレンは最初はそれほどひどくはなかったが、彼女は時々仕方なく起きて、アドビル(イブプロフェイン系の鎮痛解熱剤)を飲み、トーストを食べ、ベッドに戻ることを余儀なくさせた。

 ある朝 ―光がそれが朝だと言っていた ―、彼女の小さな台所にアダムがいた。
お持ち帰りのコーヒーが2つ、彼女の小さなテーブルの上にあった。
「君の電話が繋がらなくなった、」と、彼が言った。
マスクをしていたが、その時は髭をきれいに剃っていた。
彼女の電話は台所のカウンターの上で再充電されていた。
彼女は、それを彼女のベッドサイドテーブルに置いたままにしていたんだった。
何年も前の事のように思えた。

 「あなたは私の部屋に入って来たの?」
彼は頷いた。
「君は疲れ切っていたからね。」
彼はまだ彼女の鍵を持っていたのだった。

 「あなたのお母さんに電話しなさい、」と、彼が言った。
「それにあなたのお姉さんに。彼女たちは必死だったよ。」

 「彼女たちがあなたに電話したの?」

 彼は肩をすくめた。
マスクをしていたので彼が良い顔をしているのか知るのは難しかった。
彼女はきっと良い顔をしているに違いないと思った。
「僕が最後の彼氏、最後の手段だと想像したんだ。
彼女たちがあなたの友達のアンジーに電話したんだ。」

 「彼女はニューハンプシャーにいるのよ。」
 「そしてあなたの下の階の隣人だ。」
 「ロイとキャロルはバージニアに帰宅した。」
 「あなたの家主さんだね。ハンプトンズには誰がいるの?」
 「知っているよ。」
 「それに私。」

 彼女は手を差し出した。
「あなたはここにいるべきじゃないわ、」と、彼女が彼に言った。
「私はあなたに病気になってほしくないの。」

 彼はマスクを指さした。
「僕は気を付けているよ。」
彼は2つのキャンバス地の袋から、彼女に持ってきた荷物をすべて出し始めた。
彼はパーカーを着、ジーンズをはき、トレッキングシューズを履いていた。
厚底の靴や上着が必要な世界から来た奇妙な訪問者。
「オレンジとブルーベリー。お茶。」
彼はカウンターにそれらを置いた。
「ベーグル。ヨーグルト。ピザも持ってきてほしいかい?」

 彼女は首を横に食った。
小さな台所には日差しがいっぱいに差し込み、そしていつもはその前の時間帯には、広いすり切れた床板に太陽が少し当たるだけでさえも ― 今は当たっているので ― 年齢百歳の木の香りを、その全ての美しさと神秘性を、呼び起こしていた。
何時も彼女にこの小さなアパートを、この小さな建物を、ブルックリン自体を、愛しているということを思い出させる香り。
ゴミとクラストパンク音楽と時々襲ってくる電撃的な恐怖、孤独感にもかかわらず、ブルックリンにはこんなふうな過去の心地よい感覚、香りがあった。
; 幽霊ではない ― 皆幽霊を気にするほど暇ではない ― しかし、せわしげな過去の生活、肉体、それらからのある暖かさ、ある息遣い、香気にあふれた空気の上に目には見えない残されたある種の歴史があった。
ミラはその事について、心地よく朽ちて行く風景、場所によっては朽ちてしまった、しかし今も朽ちている、気さくな人々住んでいる風景だと考えていた。

 勿論、今朝は、彼女は何の臭いも嗅ぐことはできなかった。

 彼はコーヒーを指さした。
「アーモンドミルク・ラテだ、」と、彼が言った。
「まだ温かいよ。」

 彼は可能な限りの大箱のアドビル、ゲータレード(スポーツ飲料)4パック、親切にも彼が彼女に提供した小さな白い|酸素飽和度測定器≪パルスオキシメータ≫も持ってきていた。
「宿題はやったよ、」と、彼が言った。
彼は彼女の手に触れて、自分の手で軽く持ち上げ、それを彼女の指先に取り付けた。
彼らがアラームが鳴るのを待つ間、彼女は恥じらう花嫁の様に顔を背けていた。
彼はそれを読んだ時、眉をひそめた。
「僕は何時も君は、9か10だと思っていた、」と彼は言い、「しかしこれはひどい状態だと言っている。」

 「私は笑ってはいないわ、」と彼女は彼に言った。
彼女はコーヒーの蓋を外し、上がってくる匂いを嗅いだ。
「匂いがしない、味もしないわ。」

彼女は、それは何の味もしなかったが、彼を喜ばせるためにそれを飲んだ、ほんの少し金属の味がした。
彼女は部屋の向こう側のカウチの上で飲んだ。
そして、その後、申し訳なさそうにベッドに行った。

夜が戻って来て、昼が又、音を立てて閉まり、面白いことに、震えるような暗闇の中で彼女は彼が、「僕は君が一人でいるべきじゃないと思う。」というのを聞いた。

彼らは公園から水辺に降りて来ていた。
「そうよ、ブライニー、と彼女は彼に言い、彼女のマスクをした鼻は空気中にあった。
冷たい水の匂い。わかったわ。

 「君には死んだ魚の匂いがするかい?」と、彼が彼女に聞いた。
「産業廃棄物の匂いというか?」

 彼女は少しおどおどしながら首を横に振った。
「いいえ。」

 「僕にも臭いはしないよ、」と、彼が言った。
「それは神話さ。」

 確かに生活は戻って来つつあった;ここにも自転車に乗った人たちがいて、乳母車の赤ん坊たちはもっといた。
6頭の狂乱状態の雑種犬がドッグパーク中を駆け回っていた。
しかし、マンハッタン・スカイライン(定番の景色)はのっぺりとして、青白い空の中に、荒れ果てて見えていた。
彼女はその方角を向いて頷いた。
「向こう側には誰か残っていると思う?」

 彼は動いている水のむこうを目を細めて見た。 ― 太陽光が重なり合い、帯状の泡、掬い取られた石のように光る黒い反射、より暗い深みを示している、そしてその後もう一度水面下に滑って行った。
「小さな車が少し見えるよ、」と、彼がそれを全て見つめて言った。
「小さな甲虫の殻だ。それらはまだ逃げているんだ。」

 彼女は彼に、彼女が大学で始めた映画の企画について話した。
:淡いクラッカーで作られたマンハッタンの建物群の輪郭は塩を振った、非発酵の、カールブ社のビスケットだ。
ベーキングソーダの糊でくっつけ、ベーキングソーダの色で塗り、真ん中に浅く水の層を張ったベーキングシートのはいったベーキング型を置いた。
逆光だ、そうだ、そこには影がある。
「私たちはそれは天才的だと思ったの。」
彼らは、全てが壊れてしまわないように息を凝らして、水面と同じ目の高さにカメラを置いた。
そしてその後、彼らは悲しげな表情の風変わりな同居人であるペットの3匹のネズミを登場させた、それらは浅い水面を横切り、水平線が崩壊してもなお、水平線を貪り食った。

 「私たちはそれにラプソディー・イン・ブルーの音楽を当てたの、」と、彼女が言った。

 彼が頷いた。
「他には?」
「私たちはみんなそれを見て興奮したの。何度も何度も。
私たちはそれが暴動だと思っていたの。」

 彼らはそのビデオを彼女が受講していたスケッチ・コメディーの教室で展示した、彼女が喜劇役者か女優か人生のばかばかしさについての気のきいた冷笑的エッセー作者になろうとしていた頃の事だ。
(当時、彼女は自分の最初に出版する本の題を「カジュアル・コメディー」と決めてさえいて、情熱より前に、イェーツから借用したものだとアダムだけは気付いていた。)

 「9.11の後の良い十年ではあったが、クラスの中にはそれを不快に思っていた人たちもいたわ。
何人かは私たちがネズミの代わりにゴキブリを使うべきだったという人もいたわ。
蟻という人もいたわ。
私は彼らに「ネズミが手に入れることが可能だったから使ったの」と、言ったの。
教授はそれを素人臭いと言い、生産価値はひどいものだが、それでも予言的だと言ったわ。」
彼女は立ち止まった。
彼女はマスクを引っ張った。
その布は彼女の息でぐちゃぐちゃになっていた。
「多分、彼は何だか分かっていたのよ。」

 アダムは水面を見つめていた。
彼は彼女の所から去ってしまった、と、彼女は思った。
彼は、彼女があまりにも長くしゃべっているときは何時も、消えてしまっているようだった。
根本的に一緒にいることができない状態。
彼の側にある、ある種の注意力の散漫さ。
彼女の側の、全ての会話を独りごとにしてしまう傾向。
結局、彼らはどちらも相手の感情的な自制心の欠如を責めるのだった。

 彼は腕をベンチの背に置き、彼女は反射的に彼の方に体を傾けた。
彼女は彼のT-シャツの洗剤の匂いを嗅ぐことができた。
彼のセーターの若いジャコウジカのような匂い。
変わらない。
彼女の鼻は何処にいても彼が分かるだろう。

 「終わった?」と、彼が彼女に聞いた。
そしてスカイラインの方に向かって頷いた

 彼女は首を横に振った。
「最初は、私は毎日自分の事務所を思い描いていたの。
薄気味悪くて空っぽの。
私の机、洗面室、エレベーター。
今はそれらがまだあるって信じるのが難しいくらいよ。
前にそれらがあった事さえ。向こうに。」

 「僕はその場所が恋しいよ、」と、彼が言った。
 「私もよ。」
 
  水は銀色と黒で、荒い石の張り出した部分にぴちゃぴちゃと打ち付けていた。
いつもの木切れや元は海藻だっただろう汚い茶色の切れ端と襞状の物、転がっているプラスチックのボトル、スタバのカップがあった。
「私たちは難民みたい、」と、彼女が彼に言った。
「孤独な移民のカップル。」

 彼の親指がぼんやりと彼自身のコートの肩を叩いた。
「逃亡者だ、」と、彼が言った。

彼の症状は彼女の症状がちょうど治まり始めた時に始まり、彼女の反応と言えば、彼女自身が「ああ、今、私は罪悪感を感じている、」という叫ぶのを聞き、それが短い間嫌悪感で満たされるのであった。
その事は全てを自分に関することにしてしまっていた。
もう一つの彼らの一緒に泊まれない、根本的な条件。

 「もし僕が君からうつったのなら何も言えないよ、」と、アダムが言った。
「多分僕は自分で持ってきたんだ。」

 最終的に、彼女はベッドからカウチに移るだけの強さがあると分かっていた、そこで彼女は彼女のデイトンでの子供時代から使っていてブルックリンに持ってきた、けばけばしい青と黄色のスポンジ・ボブ(アニメの主人公)の毛布にくるまっていた。

 正にあの朝、彼はぐちゃぐちゃのTシャツを彼女の頭から引っ張り、彼女が自分で真っ直ぐに動かないでいられるよう体を曲げて、彼女がネルのズボンを脱ぐとき、彼女の手を彼の肩に置かせて、彼女の数日ぶりのシャワーを浴びるのを手伝っていた。
以前であれば、彼のきつめのカールした髪が彼女の手の中にあり、彼の唇が彼女のおへそを撫ぜる、これは野性的な喜びの前触れになっていたであろう。
しかし、彼女の崩れ落ちそうな疲労状態では、裸になることは排便同様普通の事で避ける事のできない事だった。
肉体を持っているという当然の結果でそれ以上の物ではない。
衣服を脱ぐという必要で疲れる事の後に、何かが続いて起こるという喜びを期待するのは、今や奇妙な誤解のように思えた。
それが妄想だとしても。
 白と黒のタイルの上に立ち、彼女は彼に言った、「『私はここでヴィールスと戦っている』と私の体が言っているようだわ。」
彼女は彼の肩をドンと叩いた。
「あなたは私に何かもっと望んでいるの、楽しみ?」

 彼は笑った、多分悲しそうに。
彼が彼女が風呂桶に入るのを手伝って、彼女の腕を固定して、彼女の手にシャンプーを注いいだ時、彼は彼らが若く熱い状態から、その間に存在するはずだった全ての生命が無くなった、壊れやすく年老いた状態になってしまったみたいだと言った。

 彼が選んだネットフェリックスは、何であれ、今は小さな部屋の反対側の方で鳴っていた。
彼は髭を剃るのを止めてしまっていたが、彼の頬と首は、彼はスコットランド系アイルランド人なので、いつもは健康的なのに、今は青白く見えた。
彼は、「ちょっとした頭痛だ。いくらかは鼻詰まりがする。僕は大丈夫だ。」と、言った。

 「検査を受けに行くべきだわ、」と、彼女が彼に言った。

彼は彼女を見てほほ笑んだ。
彼はある時点でマスクをかける事を止めてしまっていた。
彼女には何時の時点かは覚えがなかった。
「僕は僕が外に出ている間に君が鍵を変えるのが恐いんだ。」

 その晩、彼の咳で彼女は目を覚ました。
彼は彼がそれまで夜を過ごしていたカウチの端に座っていた。
通りの灯りだけに照らされ、頭はほとんど膝の間にあった。
彼女は彼の頬に手を置いた。
彼の皮膚は熱くべとべとだった。
彼女は自分の寝る場所に引き返し、いそいでベッドを布団を剝ぎ、クローゼットの中の新しい布団を探した。
急いでいたので、彼女は頭上のまぶしい電灯を点けた。
それは最悪の種類の灯りだった ― 白い漆喰の古風な花冠に囲まれた2つの裸電球だ ― 広い床板、台所のブリキの天井同様、年代物の装飾、と、彼女の家主は呼んでいた。
彼は、この場所を案内しながら、この古いビルを作った人は自分でも耐えられなかっただろうと言ったものだった。
衝動的に芸術的だ、と、彼は言った。

 彼女は子供だった頃の悪夢から彼女を引っ張り出した黄色い光の爆発を思い出させる天井のライトを決して点けなかった。
彼女のビックリした両親、彼らのパジャマ、寝ぐせの付いた頭、青ざめた恐怖が夢の最後の瞬間に押し流される、それらのぞっとする瞬間。
彼女が子供の頃見る夢は何時も同じ夢だった:彼女が暗い幹線道路を走っている、ヘッドライトの光が彼女を照射する、彼女の脚は突然縁石から滑り落ちてしまう。

 ベッドが整うと、背の低い枕もとの明かりをつけた。
その後、彼をそこに寝せるために連れてき、顎まで覆った。
彼は震えていた。

 「くそっ、」と、彼は歯をガタガタさせながら言った。
「これは最悪だ。」

 「分かるわ、」と、彼女はまるで怖がっている子供をなだめるかのように、彼に言った。
「あなたは決して来るべきじゃなかったのよ。私はあなたを帰すべきだったのよ。」
彼女はかつてよく聞いていたベッドの枠が揺れる時の音を聞くことができた ― 昔、彼らがこのベッドを揺らしたように ― 今は彼の震えで音を立てていたのだった。

 「君は一人きりだった、」と、彼が彼女に言った。
「僕は君が一人でいる事を考えるのが嫌だったんだ。」

 彼女は彼の体温を測った、103度(40℃)だった。
パルスオキシメータで彼の指を挟むと、96,いや、デジタルのルーレットの回転盤の様に、数字が左右に揺れて95に落ち着いた。
彼女は彼にアドビルとゲータレードを与え、その後彼が寝ている時彼女が見つけられる全ての情報、彼女が疲れすぎて自分自身のために探せなかった情報を探して時間を過ごした。
抗酸化剤、ビタミンD。
腕を振って肺をきれいにする。卵を食べる。歩き回る。もし酸素飽和度が90まで下がったら病院へ向かう事。

「グミを買ってくるよ、」と、アダムが言った。
「食べられるやつだ。」
彼らはコーヒーを求めて短時間ながら一ブロックもある長い列に並んだ、彼らが肩と肩を寄せているという事実は彼らを他の独身者や社会的に離れた関係の客たちの中に混じって一つのさやに入った豆のような感覚にしていた。
1つのさや、もはやカップルではないにしても。
「もし匂いがまだ悪いままだとしても、という意味さ。他にやり方はあるさ。」

 彼女は首を横に振った。
「私は古い人間なの。
つまり、私たちが昔学校で授業をさぼった時にやっていたのと同じことよ。
私はグミを転がしたり吸い込んだり、回したりするのが好きよ。
私はその匂いが好きなの。グミを噛む時の。」
彼女は自分の両手を彼のコートのポケットに突っ込んだ。
「何が言いたいの?
何故ピノノワールグミ、バルガンディー、ボージョレーじゃないの、目が回ったり匂いを嗅いだりすることもなく、それらの夕食の間中の長い会話無しに、ほろ酔い気分を得るのよ。
あの全部の味もなしにね」
彼らは一緒に数歩前に進んだ。
そよ風が砂塵を巻き上げた。

 「ハイになる事じゃないの、」と、彼女は続けて言った。
「それは思い出なの。私の気の狂った青春の香り。
笑いにあふれた臭覚のサウンドトラック。」

 「今じゃなきゃそれは死のような匂いだよ。」と彼は言って口をつぐんだ。
「君にとって。 コロナ以降の。」

 彼女はマスクを引っ張って、コーヒーを買うために並んでいる客が壊れた歩道を荘厳に進んでいる列の歩みを見て、頷いた。
一人か二人場所をはみ出していたが、ほとんどは塊になり、四角い泥の中に植わっているそれぞれのやせた木が近くの犬によって訪れられている右の方も、ブロックと褐色の砂岩やアルミニウムのフェンスの列の家々がびっしりと建て込んでいる左側も見ることもなく、腰をかがめ強くなってきている3月の風に立ち向かっていた。

 彼女はこのカフェインを求める人々の中の何人がコロナからの生き残り何だろうかと思った。
;彼らの中の何人が彼らが根気よく探した物が実際に全ての情熱を失った物なのか知っていただろうか。
彼女はアダムにも同じことを言った。

 「そしてまだ、」と、彼が言った。
「彼らはここにいるんだ。まだそれを求めて。」

 彼らは視線を交わしたがそれはマスクの上の目でだけだった。
表情を読むことは難しかった。

彼は彼の保険会社が指定した医者の所にネット上での仮想の訪問をした。
アダムもミラもその男の訛りが何処の物なのかは分からなかったがズームの中の彼の後ろにある窓には太陽に輝く植木、おそらくヤシの木が写っていた。
その医師は抗ヒスタミンと吸入器を処方し、アダムがミラの勧めで一日一回卵を食べることや腕を振ることの利点について聞くと興味なさそうに笑った。
ミラが彼女自身のグループに電話した時、彼女はぶかぶかの眼鏡をかけた12歳ぐらいに見える若い医者と話した。
この医者は、ミラが吸入器と抗ヒスタミンの事について話すと、懐疑的で興味深そうに首を振り、卵と腕を振ることについては「やりたいようにやればいいのよ」と、言った。
彼女はネットから離れているように忠告した。
彼女は、最後に、真っ赤に塗った唇を噛みながら、「私たちは分かっていないの。誰にもわからないわ。私たちにはわからないことがたくさんあるの。」と、言った。

 医者は指を小刻みに動かしながら話を締めくくった。
「お大事にね。」

 ミラは自分のパソコンを閉じた。
彼女とアダムは、今や距離を取る必要もないので、小さなキッチンテーブルに横に並んでいた。

 彼女は彼に舞台劇を書いたことがあると言った。
SFだ。
隕石が地球に向かっているの、そして大統領がテレビに出て言うの「私には分からない。あなたは何がしたいですか?」って。

 彼は頷いた。
「その時僕たちがいる。」

 「私達だけよ、」と、彼女が言った。

 今は彼女はカウチで寝、彼女自身の疲労は彼女の顎の下のコンクリートの打ちっぱなしの床から彼女の肩に巻いたはっきりしたショールの方に移って行った。
ある朝彼女は落ち着いた光で目を覚ました。
:窓に冷たい雨が降っていた。
その薄暗さは部屋に、朝と夕暮れと暗闇がドアをバタンと閉めたて出入りしていた頃にはなかった今までにない荘厳さを与えていた。
(今や彼女はそれがまだ残っていた隣人たちの立てる音だったのだと理解したのだった。)
彼女は毛布を投げ捨ててベッドに向かった。
彼は起きていた。
彼が言ったのは「最低、」という言葉だけだった。
彼女は彼を立ち上がらせて歩き回らせた。
彼の血中酸素レベルは93だった。
彼の体温は102度(39℃)。
昨夜、彼女はペディアライト(電解質補給飲料)を注文した。
ゲータレードは糖分が多すぎるとネットは彼女に言っていた。
第六感で玄関のドアを開けた。
彼女が今や雨でぐちゃぐちゃになった、彼女自身の踊り場をその汚い明かり窓の霞と共に見るのはしばらくぶりだった。
誰も階下のブザーを押さず他に誰も入れなかったのにかかわらず、瓶が入り口に並んでいた。
彼女は瓶をコップに注いだ。
彼に飲ませた。

 「玄関のドアのセキュリティーに気を取られ過ぎるのは困難だ。」と、言った。

 彼がまた咳をし始めた時、「両腕を振って、」と彼女が言った。

 彼女はデリにチキンスープを注文した ― 今回はブザーが鳴った ― そして、彼女は喉の奥で微かに塩味を感じただけだったが、彼はスープを一杯飲んだ。
午後3時ごろまでには彼の体調はより良くなっていた。
彼の熱は少し下がっていた。
彼女が彼の指からオキシメータを外した時には、95に戻っていて、良好で、手を伸ばして、彼女自身の酸素濃度を測らせた。
97だ。 すばらしい。
「私たちはこれを乗り越えているわ、」と、彼女が言った。

 「それは一度も疑わなかったよ、」と、彼が言った。

 しかし、日が夜に向かうと、彼は又両手で頭を抱え始めた。
何物も彼を助ける事はできない様だった。
耐えられない、ある時点で彼は言った、それは真夜中過ぎだったに違いなかった。
全ての場所が痛かった。
午前3時、彼の体温は105度(41℃)だった。
彼は居間の椅子に座って、横になるのが恐いと言った。
彼女は長いすから彼を観察した、そこで彼女はもう一度少女時代の毛布にくるまって、彼女自身のだるさと、体を伸ばして再び眠りたいという自分自身の衝動と戦った。
彼自身の戦いは彼に任せよう。

「何故恐れるの?」と、彼女は囁いた。

 彼の眼の下には新しい隈があり、ある種のやつれが始まったばかりだ。
「私たちの分からないことがたくさんあるのだから。」
彼は豊かな巻き毛の頭の、広い頬、茶色の目をした、痩せて肩幅の狭い若者だった。
ほんの一ブロック下ったところに住んでいる、ある友達の友達。
彼らは、いつどこで彼を紹介されたのか今やぼんやりとししか覚えていなかった、それは初めからあまり注目しなかったという事だ。
彼らは、あれらの早い日々に、買い物かごを持って、それとも手に珈琲を持って、食料品店や雑貨屋で、通りで、それとも地下鉄に向かう途中で、会った。
彼らはどちらも公園を毎朝7時頃に走り、歩いて帰るのにお互いを探すことに専心した。

当時、彼らはどちらも別の他の人と付き合っていた。
どちらも相手の関係が長い期間続く真剣なものと信じていた。
彼らはその後どちらの関係もそのようなものではなかったことを発見したが、その間違いは彼らの友情を容易なものにした。

 彼らはある土曜日の朝一緒にユニオンスクエア駅に向けて地下鉄に乗った。

― 2019年の晩秋の頃だった ― そしてその後市場を取って歩いて行った。
彼女は友達とブランチをするつもりで、同様に彼が何かをするつもりなのは明らかだった。
しかし彼らは、野菜やチーズやラズベリーコーンミールマフィンをバスケットから試食し、それぞれ買い物をし、するふりをしていた、まるでこれらのマフィンを試食しそれらを半ダースポリ袋に入れて持ち帰ることが、それが早起きした目的だったかのように。
そしてその後 、そして、そのまま一緒にいても何の変哲もない時間が気まずくなり始めたとき、 ― まるで彼らが旅行客ででもあるかのように、「買い物カートを取ってください」と販売している人が言った時、彼らは離れた。
彼は振り返った。

「今夜一緒に飲みませんか?」

その数日が ― どちらも何日だったか言えないのだが ― 死刑執行人の歩みの早さで彼女の部屋を通り過ぎて行った。
毎朝彼は良くなっているに違いないと言ったし、午後ごとに、それを確信していた。
しかしその後、太陽が落ちて真っ暗になると彼の熱が再び急上昇し、頭痛が戻って来て、彼の酸素レベルは92,91になった。
咳はひどくなった。

 昨年の春、夜も昼も頻繁にあったサイレンも今や昼の間は消えてしまい、光が消えた時に又こだましていた。

 彼女はネットサーチをした。
「メラトニンが関係しているのよ、それは文字通り正に夜悪化するの。」と、彼女は彼に言った。

 彼女はブラインドを閉め電気をつけるのを遅くしようとしている自分自身に気が付いた。
「この酷い地球のせいよ、」と、彼女は冗談を言った。
「何時も回っている。本当に鬱陶しいわ。」
インターネットは彼はうつむけに寝るべきだと言い、彼女は耐えられる体位にするため枕を彼女のカウチから持ってきた。
この一時間後、彼は4分の一の大きさの白い痰の塊を出し始めた。
彼女はティッシュの箱を手渡し、首の後ろに触れ、その後、夜が続くと、彼女のスパゲッティ用の鍋を持ち込んだ。
「痰壺よ」と、彼女は彼に言った。
「私は何時もこのアパートは痰壺付きじゃなきゃいけないといつも思っていたの。」
ベッドサイドの灯りの下で、痰はステンレスに映えて粉々に砕かれたガラスの円の様に見えた。

 彼らは二人ともこのビールスが瞬時に悪い状態からとても悪い状態に変わることを知っていた、歩道の縁石から足を滑らせるように。

 彼は咳が収まった時、汗をかいて顔を真っ赤にしている時、「一寸じっとしていて」と言った。

 彼女はベッドの端に座った。

 彼らは彼ら自身が彼らが昔持っていた会話の種類に戻っている事に気が付いた、情熱が生まれる前の、明らかにパンデミック以前の、壊れたマフィンの入った共有のバウケットからサンプルを取る事なんて考えもしなかった時に。
;その時は、お互いに、相手が他の誰かを愛していると確信していて、彼らは彼らの失望と恐れに自由に名前を付けていた。

 二人はニューヨークでの10年を漫画の流行の最先端を行く人として始めたのだった、その事は2人とも同意していた。
彼は音楽をやるつもりだった。
彼女は脚本を書くつもりだった。
しかし、不動産業界にいた彼のいとこが彼に物件をいくつか見せてくれるように頼み、彼はこの事が向いていると知り、愛想がよく、本能的に正直であることに気が付いた。
彼女はケ-ブルテレビのネットワークで家賃を払えるのに十分なお金が稼げるだけの仕事に就いた。
(「脚本を書く仕事に近いでしょ?」と彼女は彼らが単に友達だった時に自虐的に言った。)
広告の仕事、何も創造的ではない。
しかし、彼女もこれが上手で、すぐ昇進した。

 今や彼らは興味も喜びもほとんどない事に関する専門知識を持っている事に気が付いていた。
日雇いの仕事は、専門知識を持つ人間とは何かを知る喜びだけを与えてくれる。

 アダムは、枕とソファクッションに挟まって、お尻の所にステンレスの鍋を置いて彼女のベッドに座って、3月に入り、仕事が消えてしまってその時、彼は何故ここに留まっているのだろうと不思議に思った。
シャットダウンの前の数週間、彼はどれくらい町の若い音楽家たちが若返ったのかに気が付いたのだった。
セッションに毎回顔を見せる、年取った人々が、どれほど愚かに見え始めた事だろうか。
痩せ衰えて、髪を伸ばしていた。
体型も崩れていた。
未だにガラガラ声だった。
今や彼は物事がまた再開した時、彼らのうちの何人が帰ってくるだろうかと思った。
彼がその置き換えられる一人になるのではないだろうかと思った。
彼自身の中学校時代の夢に取りつかれた老人が。

彼のいとこは彼に人々が町から出て、不動産市場が振るっている、デルウエアー・ヴァリーにある彼らの事務所に彼の場所を提供していた。
新しい家が建てられていた。
彼の両親の家の近くに。

 「僕はそこに行くよ、」と、彼は言った、彼の声は咳のためにしわがれていた、「僕の生活は何だろう?」

 彼女は、ヴィルスのため頭が鈍り、不愛想で、疲れ切って、そっけなく、言った、「知らないわよ。」
そしてその後、もっと誠実に接しようと、彼の手、見覚えのある彼の指先のたこに擦れた。
「それは良いかもしれないわね。
木々、草、流れるせせらぎ。隣人が見えない程離れた家々。」

 彼は笑った。
「君が最後に隣人にあったのは何時の事だい?」

 彼女は壁の窪みの暗い窓の一つの方に目をやった。

 「あなた以外の、って言う意味なの?」

 彼女はしゃべろうとしてベッドの足に合わせて背伸びをした。
掛布団の下で彼は彼女を迎え入れるために膝を持ち上げた。
彼女の背骨には鈍い痛みがあった。
彼女はまだとても疲れていたのだった。
「新築なの、」と彼女が言った。
「心地いい大きな台所、自動車。すべてすぐ使える状態。ガタガタいう暖房もない。年代物の装飾もない。機械の中に幽霊はいない。」

 彼は、「街を離れる。」と言った。
それは質問でもなければ宣言でもないように思えた。
彼は単にその言葉を呟いてみただけかもしれなかった、静かな空間にその言葉を投げかけるように。
彼女は自分の決まりきった仕事の生活について考えていた : 単にこの言葉を口に出すだけだ。イライラさせる表現、パンデミック前。今や喜劇的だ。

 彼女は自分の頬を羽根布団に付けた。
組んだ両手を胸に当てる。
膝を引っ張り上げる。
上から見ると、祈っている子供の前かがみの姿勢のように見えるだろうなあと思った。

 もし、一日の終わりに雨で滑りやすくなったパーク・アヴェニューや、交差点の緩やかな上り坂に真っ赤な夕日が沈むところに遭遇すれば、会議、電話、顧客、職場の陰謀、自分にとって仕事をしている雑多な時間を忘れるのは簡単だったと、彼女は彼に言った。
もし、友達が混雑するバーの明るい片隅から彼女に電話をかけてくれば。
もし、彼女の電話で本当にいいチケットが取れれば。

 もしその退屈な日々が同じだけの全てが映画のシーンの様に輝いた時間とバランスが取れれば、彼女は満足することができるだろう。

 以前は、ボロボロになったブルックリンの全てが海のような匂いがした時、そして彼女がここ、家に基礎をおいて、地理的に満足して、属していると信じて、彼女はある一日の終わりに地下鉄から出て来てくることができたのだと、彼女は彼に言った。

 しかしその後のここ数か月、古い木材の、ガラスのドアノブの、過去の生活のある、彼女の可愛い小さなアパートに閉じ込められて、他の人々のドアの開け閉めの、彼女の隣人が逃げて行ってしまう心地よい音を聞いて、彼女はこの忙しい昼夜の継続が、彼女にあっという間に滑り込ませるかも知れない何かを、彼女をもたらしていたのかもしれない、、彼女が予想できなかった滑稽なバカげた物だったかもしれないと恐れ始めていた。

 彼女は彼女の古くなった専門知識と悪臭プンプンの機知に富んだインスタグラムが、コーラスを歌っている女性が、他の皆が歌うのを止めた時も大声で歌っているような感じになっているかもしれないと恐れていた。

 「それで君はどうしたいんだい?」と、彼が彼女に聞いた。

 彼女は寝返りを打った。
彼はもう一度足を動かして彼女のために隙間を作った。
天井には繊細で堅苦しい、念入りに作られた、古風な石膏の花があった。
それは薄明かりの中で、葉っぱの形をした煙の輪のように二人の頭上に浮かんでいた。
「知った事じゃないわ、」と、彼女は言った。
「時間よ止まれ。ドアを閉めよ。」

彼女は突然立ち上がり、彼女の鼓動はバクバクし、T-シャツの首は汗でぐっしょりしていた。
暗闇に沈んだ青っぽい街の灯りの中でさえも、シンクに並んだ、また、部屋の向こう側のたくさんのテーブルの上にある、ボウルやグラスが見えた。
ペディアライト(電解質溶液)やオレンジジュースの空の瓶、マグやティーカップ、前日のスムージーの灰色の残渣の付いたミキサーの容器、病室の石灰質の塊。
もし彼女が匂いを感じることができれば、窓を開けただろうと彼女には分かっていた。
微かに鳴っているサイレンもあった。
アダムはもう一度彼女に呼び掛けた。
― 彼女に聞こえたのはそれが初めてだったが、それが彼が二度目に呼び掛けたものだと彼女には分かっていた。 ―
そしてその後、家具やガラスの、大きなな衝突音がし、彼女が知ったのは彼の体、彼の頭が広い木の床に当たる音だった。

 彼は寝室のアーチ形の入り口で、、安物の映画のフィルム・ノアールに出て来る殺人の犠牲者の様に、現場をはっきりさせるのに十分な明るさだけライトを当てられて、だらしなく両手足を伸ばして、のびていた。
 
 彼女は叫んだ。
彼がちょうど目を覚ました時に駆け寄った。
「死んではいない」 ― 彼女は考えた、 2つの言葉だけを、はっきりと、むしろ静かに、しかしその意味を充分理解することもなく。
彼女は彼を助けて立ち上がらせたが、その後、彼女は彼が体を交差させるような体形で、彼女の胸と腿と脚に当たりながら、また倒れた時、彼の重さを感じていた。
彼女はなんとか彼の手を掴もうとしたが、それは空っぽの袖の面影だったのかもしれなかった。
彼女はもう一度屈みこんでなんとか彼を持ち上げようとした。
彼は彼女の手首をしっかりと握っていた。
まるで何かが彼を彼女から引き離そうとしているかのような、ものすごい反動があった、単に重量だけではない、目に見えない力、むしろ悪魔的な、 ― 暗闇の中で彼の腰を、腿を、頭の後ろを、彼女に抗して、包み込んでいる何かが。
彼女はもう一度、まるでずっと遠くから彼を呼んでいるかのように、彼の名前を言った。
彼女は彼女を彼が手で握っているのを感じ、彼女から沈んで行くのを感じた。

 昔を振り返ってみても、全ての熱く熱烈な愛の営みの中でも、彼の体は彼女の両腕の中で、これほど重く感じられることはなく、それほどぶざまなことはなかった。
彼らはこんな風に苦闘したことは今までに一度もなかった、お互いに息を切らし、たった2つしかない手足がもっとあるかのように思えた。
彼女は、今までその最も良い激痛の中でさえも、一つの力、第三の力の存在がそれほど手で触れられるほどに具体的でその重さがそのどちらをも呼吸をできなくするかもしれなかったと、一度も知ることはなかった 
 彼女は彼をどうにかベッドへ移動して、端に座らせた。
「救急車を呼ぶわ、」と、彼女は彼に言った。
助けを呼ぶ、そうだ、しかし同時に、彼女は部屋の中にいる別の存在、他の生きている人間のためでもあることをはっきりと分かっていた。
彼女は彼を助けたかった、が、それ以上に、彼女は他の人々と一緒にいる事を望んでいた、それがどんな見知らぬ人であれ、誰かが部屋に駆け込んできて、電気をつけ、恐ろしい夢を消し去る。

 「くそっ」と、彼が言った。
そして咳をし始めた。
「僕は死人だ、」と、彼が言った。

救急車は、赤色灯を回しエンジンをかけたままで、歩道の縁石の所で異様なくらい長い間留まっているように思えた、現実とは思えないような搬送人の話し声が、彼女が長い間誰もそこから現れる事を見たことが無い目張りをした窓を通して聞こえていた。

 「心臓発作じゃなくて嬉しいよ、」と、彼はベッドから言った。
彼は注意を怠らなかった、少し顔を赤らめていて、少し恥ずかしそうだった。

 その後、救急車の後ろのドアが開き、彼女は彼らが防護用具を着ているのが見え、薄暗いと通りのライトの中で宇宙服を着た宇宙飛行士が膨らんだ靴を履いてあちこち行ったり来たり、頷きながら、動いているように見えた、 そして。 ― 彼女にはそれは物憂げに思えたのだが ― お互いにあたかもその大胆な服を認め合うかのようなそぶりをしていた。
「ああ、それ良いね。そう、それ脱いでも良いね、絶対。」
その後、彼らは月面を歩く人の様に彼女のビルの方に歩道を横切って移動して来た。

 彼女は彼らが近づいて来るのをじっと見ていたが、ブザーの大きな音が彼女をハッとさせた。
「マスクをしてください。」という声がインターフォンの静寂さを通して言っていた。
そして彼女は、あなたがマスクしている事は分かっているわ、と、言いそうになった。
「どうかマスクをつけてください。」

 彼女はライトをいくつか点けた。
― それは暗闇に中で救急車を探すには必要だったようだ ―
そして、自分の紙マスクの箱を見つけた。
彼女はそのうちの一つをアダムに手渡し、自分の分は落としてしまった。
アパートは階段で上がれたが、彼女はそうに違いないと思っていたが、彼らは静寂を装い、静かに上の階へと階段を上がった。
たった一人だけ、静寂を破り、靴のつま先でそっとドアをノックした。

 彼女は自分が何が起こったのかを説明している時に涙声になっている事にびっくりした。
彼らのうちの一人が他の2人が彼の熱を測り血中酸素濃度をチェックしている間にメモを取り(彼らはあの酷い頭の上のライトを付けていた)、92だ、良くはない、そしてその後、さっき彼女が聞かれたのと同じ質問を彼にもした、まるで話に矛盾が無いか、正確を期すかのように。
 「最寄りのER(救急治療室)にお二人を連れて行く必要があります、」と彼らのうちの一人が言った。
マスクとプラスティックの保護膜としわくちゃの黄色い上っ張りの後ろから聞こえた女性、夜の試練を乗り越えた気高い巫女、の声だった、 ― が、彼女は彼に、もし彼が行きたくないのだったら、行く義務はないのよ、と告げた。
「ERは今夜はひどいショーになっているわ、」と、彼女は言った。
「あなたは数時間そこにいる事になる。あなたが見たくないものを見る事になるわ。」

 マスクの上のアダムの目は暗く、困った様子で、黒く、熱っぽかった。

 「しかしもしそれがやるべき正しいことなら、」と、彼が躊躇しながら言った。
「必要なら行きます。」

 その女性、ミラは、彼女が、首を振りながら、「ひどいショー」と言うまでは、中年、むしろ既婚婦人のように思えた。
彼女は実際はもっと若かったのかもしれない。

 「あなたはここに座っている。
あなたは話している、あなたは呼吸している。
熱が有って咳をしていて酸素濃度は良くないけど、私は今までにERに行く必要のある時の同じように見える人々の様子を見てきたわ。
あなたはそんな人たちの一人じゃない。
多分、単なる脱水症状です。
それがあなたが気絶した理由です。」
彼女は肩をすくめた。
彼女が話すたびに、彼女の顔を覆っている防護用のシールドが天井のライトを捉え反射させた。ベッドの向こう側で、彼女の二人の同僚のフェイスシールドも同様だった。
ミラには、まるである奇妙な交信が彼らの間で行われているかの様に、一人のエイリアンが、光線の交換であるかのように見えた。
彼女には彼らがお互いに黙って会話しているものが娯楽なのか同情なのか軽蔑なのかは分からなかった。
私はもっとひどいのを見てきた。

 「それは、あなたが決める事よ。」と、女性は言った。

 後で、ミラはそれは症状を恥ずかしいことだと痛感させることだったと、ミラは言った。
まるでここ数か月の普遍的なトラウマの後でもなく、これら3人に会った後でもなく、彼女とアダムが、彼らの懸念に値するには、あまりにも若すぎて、あまりに危険から免責されているとでもいうように。

 彼女自身の寝室の壁の窪みの外に立っている時でさえ、彼女はアダムを守りたいという、この油断のならないヴィルスから守りたいという、衝動が沸き上がって来るのを感じていた。
― 彼の胸はどうしたわけか、粉々のガラスでいっぱいだったのだ。
彼女はもう一度彼らに言いたかった ― 彼らにすでに言った事だったか? ― 彼女が彼を床から持ち上げようとしたときの彼女に抗う力について。

 そしてその後、奇妙にも重さがなくなったような、その人物の一人がまるで祝福を行うかのように、手袋をはめた両手を差し出し、両手をあげた。
彼女は形のない黄色の脚がゆっくりと床板から1,2インチ(2.5 ~5cm)ゆっくり持ち上がったとしても驚かなかっただろう。
「私たちはあなたが行く事を望むのならばあなたを連れて行くためにここにいるのです、」と、その人物は静かに、親切に言った。
「あなたは行きたいに違いない、安全のために。」

 彼らの明るく輝いたフェイスシールドは同意を示していた。
「あなたが決める事です、」と、第三の人物が重ねて行った。
三人とも暫く立ち尽くしていた、この小さな空間の中でひどく場所を占めて黄色い姿で。
まるで何か曖昧な微風の中にいるかのように、ほとんど気が付かないくらいわずかに空気をかき混ぜて。

 マスクの上のアダムの目は彼らを通り越してその恐ろしいライトの中で、まるで彼女が彼自身の最後の種族ででもあるかのように、彼女を探していた。

 「君はどう思う?」

 3人の救急救命士は、防護服にしわを寄せて、一斉に彼女のほうを向いた。
それは抑圧された、ごく小さな変化、彼女に突然自分の薄い服の層、その下にある自分自身の体が、彼女に、その瞬間、吐き気を催し震えているにもかかわらず、回復した、回復しつつあることを気付かせる気まぐれな動きだった。
その短い静寂の中で、彼女はどこか別の所で鳴っている別のサイレンにも気づいていた。

 彼女は彼に彼ら越しに言った。
「決められるのはあなただけよ。」

 思い返せば、彼女は叫びたかった、あたしには分からないわと。
誰にもわからないのよ。
その全ての重大さ、不確実さ、不可解さに抗し、知らないことがあまりにもたくさんあることで、彼女が優柔不断で泣いたり、彼と一緒に苦闘したりできればよかったのに。

 しかし彼女は言ったのだった、あなただけよ、と。
彼女はそれを冷たく言ったのだった、その事は本当だと信じて。
(三人が彼の方に振り返った時の、ぴかぴか光る、頷きは、それが真実だったと確信させたのだった。)
彼女の言葉で、彼らとの間にあるドアが永遠に閉ざされたのだと私も信じている。

 「じゃあ、僕は万一に備えて、行った方が良いと思う。」と、彼が言った。

 もう一度、彼女は窓から彼女ぼんやりとした空虚さの後ろにあるアパートをじっとみた。
彼らが担架を救急車に入れた時、彼女は覆われていない通りの光で青く見える彼の裸の脚をチラッと見た。
彼女は冷たいガラスに自分の額をくっつけて、最後には口を開けて、子供のような諦めで、泣いた。
彼女がもう一度外を見た時には、通りの向こうの暗い窓に縁どられた機能しないクリスマスの電球のつながりがあるのが見えた。
彼女はそれが設置されるのが早すぎたのか遅すぎたのか分からなかった。

公園を通って戻りながら彼女は彼に聞いた、「年をとった人たちは何処にいるの?」

 彼は首を振った。
「マッカレン公園に老人たちがいたのは何時だったかしら?」
「そこにはいなかったかしら?」
彼女は突然確信が持てなくなった。
「老人がチェスをしていた。
黒い服を着て、黒っぽい靴下をはいた、くるぶしの太いおばあさんたちが日光浴をしていた。
彼らをよく、見なかったかしら?」

 「ここで?」と、眉を吊り上げて彼が言った。
懐疑的だ。

 「多分、私はプロスペクト公園の事を考えているのだわ。
それとも何かの映画。
多分、彼らは何かの映画のエキストラだったわ。」

 「多分ね、」と、彼が言った。
「多分、彼らは気候が少し暖かくなったら現れるだろう。」

「もし、彼らがまだ生きていればね、」と、彼女が言った。
そして彼女はそうじゃないだろうと願った。

 彼女のビルで、彼女は彼に入りたいか聞き、彼は彼女の部屋の窓の方に向かって上を向いた。
空は青く澄んでいたが、雲が多く、窓には白っぽい雲が映っていた。

 彼は彼らが彼を階段から降ろして救急車に運んだ時以来、彼女の部屋に入ったことはなかった ― 救急医療隊員は正しかったのだった、彼は入院する必要はなかったのだ― 彼は病気を直すために自分自身の場所へ帰った。
彼女はこの事で少し傷ついたが、彼は「君は僕が君の家の床の上で死んでいるのを見つける必要はないよ。」と、言った。
そしてその後、彼は付け加えて行った、「二度は。」

 彼は彼女が自分で言う前に、ハンフリーボガート張りの口調で、「僕たちは何時もコロナに掛かるんだ。」

 「多分違うね、」と、彼は彼女の窓を見るために必要以上に首を上に向けて、今度は言った、「PCSD(San Diego精神医学センター)だ」
彼は冗談ぽく震え、彼女がまだ彼のジャケットを着ている事を思い起こさせた。
彼女はそれを脱いで彼に手渡した。

 彼はその夜、グリーンポイントでちょっとした仕事があると言った。
戸外だ、収容人数は限られている。

 「私はまだ社会的になる準備ができていないの、」と、彼女が彼に言った。
彼は自分が理解した、というかのように首を縦に振った。
彼は、「あの晩、ER(救急救命室)に着いたとき、医師に聞いたんだ、「先生、コロナ後、僕はギターが弾けるようになりますか?」って聞いたんだ。」

彼女は笑った。
彼女はそのオチを知っていた。
「変ですね、僕は前にはギターは弾けなかったけど、」というやつだ。

 彼は、「僕はもしもう一度それをはじめからやり直さなければいけないのなら,そうするだろうって気が付いたんだ。
僕の次の一生で、それをやりたいよ。」

 そのとき、デラウエア・ヴァリーではなく。
流れる小川、緑の野原。
新しい建物、隣人のいない、幽霊もいない。

 それが、彼女が彼が歩いていた時に聞きたかったことだったし、彼女が彼に思い出してほしかったことだった。
しかし、彼女はその機会を見出すことはなかった。
彼らは歩きながら、今はどうなっているのか?その質問は、何か親密な、何か恐れや意気消沈させるようなもの、何かを裏切ることだった、このパンデミックの終わった後に現れた生活、それは余りにも壊れやすかった。

「私はしばらく家に行くつもりよ。賃貸契約を破棄するの。荷物を倉庫にしまうの」。
「永遠に?」
「いいえ、ほんの少しの間よ。」

彼はマスク越しに笑った。
「僕は君の為を思って言ったんだけどね。」

 今や彼女は空っぽの形のない春の空を見上げていた。
「ああ、」と、彼女は言った。
「それが私に必要なすべてなのよ。私の聴力も変わってきているし。」
彼女は自分の顔に触れた。
「耳も、眼も、鼻も、みんな変わったわ。」

 彼は身をかがめた。
彼女は彼のマスクを通し彼の呼吸の暖かさを感じることができた。
彼女のマスクを通して。
彼らは2つの体で呼吸し、回復し、元の状態に戻っていた。

 「全く変わったよ、」と彼は言い、彼女にマスクの布と布を重ねて、さようならのキスをした。
                 <おわり>

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