「やさしすぎる」って何だろう?
『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』という小説がある。
とある大学のぬいぐるみサークル、略して「ぬいサー」を舞台に、鈍感でいられない人たちの、ぬいぐるみと、そして人とのコミュニケーションを描く物語だ。世の中の「恋愛」と呼ばれるものが分からない人の物語でもあり、加害と被害の物語でもあり、「やさしさ」とは何かを問う物語でもあると私は思う。多くの人に読まれてほしい作品だ。
この小説を初めて読んだとき、私は最後の物語の締め方に、言ってしまえば「喰らった」。
ここで人物の説明を詳細まですると長くなってしまうので、簡単に行う。白城、七森、麦戸の3人はぬいサーの部員であり、七森は自分が他の人に対し加害を行っていないかということに関して鈍感ではいられない人物。麦戸は電車の中で乗り合わせた人が痴漢されているところを目撃してしまい学校に来られなくなってしまった。白城は世の中の「恋愛が分かる人」として描かれている。
この物語を読み終わり、「やさしすぎる」とは何か? という問いが私の中でズンと立った。「やさしい」も、いざ言葉にしようとすると難しい気もするが、そこに「~すぎる」がくっついている。「やさしすぎるとは何か?」という問いに自分なりに考えてみたので記録しておこうと思う。
まず、「やさしい」という言葉の上位互換的な使われ方があるのではないかと思う。他の言葉で例を挙げてみる。例えば、「この料理、おいしすぎる」ではどうだろう。言うまでもなく、「おいしい」に「~すぎる」がくっついている形だ。そして、この言葉は「おいしい」の上位互換、つまり「とてもおいしい」に言い換えられるだろう。料理をつくって評価された人も気分を害することはないのではないか。この解釈をそのまま「やさしすぎる」にあてはめると、「とてもやさしい」になるはずで、やはり評価された人の心は傷つかないように思う。
2つめに、「自己犠牲的であることへの心配」という側面もあるのではないか。私は白城の言う「やさしすぎる」はこれではないかと思う。実は小説の中にも「ぬいサーの空気を、破滅しあうようなやさしさなんじゃないかと感じた」「麦戸ちゃんと七森が、やさしいから人より傷ついてしまう」という白城視点の表現がある。ここではその「やさしさ」自体が間違っているというより、肯定したくても肯定できないみたいな「ねじれ」を感じる。肯定できないのは、それが自己犠牲的に見えるから。その「やさしさ」を持ち続けると、持っている人が「破滅しあう」「傷ついてしまう」。それを心配している。
3つめに「嘲笑的」な場合だ。その人の言動を無効化するような使われ方もあるのではないか。「いい人ぶっていて気に食わない」とか、その人の評価を上げたくないなどの理由で投げかけられることもあるんじゃないかと思う。「やさしいかもしれないけど、必要ないから」と斬って捨ててしまうようなニュアンスさえありそう。「真面目なんだよ」と投げかけられたとき、「それは必要ないから」という態度でその人の「誠実さ」「切実さ」を無効化させてしまう作用に近いような気がする。
「やさしすぎる」は大きく分けてこの3つの側面を持っていると思う。受け手側は、褒められたことへの喜び、心配してくれたことへの有り難さ、もしくは心配されたことに「余計なお節介だ」と感じるかもしれないし、「嘲笑された」と受け取れば抵抗感、傷つき、怒りもあるかもしれない。今回、取り上げた『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』の中で出てきた「やさしすぎる」は「自己犠牲的なことへの心配」に繋がるものだと私は感じたし、物語の最後の言葉も白城の「やさしさ」からくる祈りだと思う。
ただ、私たちが日常生活で会話に使用する「やさしすぎる」を考えてみると、もちろん、前後の文脈があってこその会話だとは思うけれど、ここまで幅広く意味を内包する言葉ということに目を向けると、使用には注意が必要な言葉なのではないかと思う。