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引退後パニック障害に苦しんだ長嶋一茂が“絶望の日々”から掴んだもの

思い通りにならないから、人生は楽しい――。

名将・野村克也はかつてそう言ったが、
決して楽しいとは思えない、想定外の出来事はプロ野球の世界でもたびたび起こる。

勝利目前のピッチャーが危険球で退場してしまったり、将来を嘱望された若手が大怪我に見舞われたり……。
あるいは、打ち取った打球を内野手がヘディングで外野まで飛ばしてしまったり、なくしたコンタクトをキャッチャーが必死に探し始めて試合が中断してしまうことさえある。

そして思い通りにならない想定外の出来事は、私たちの人生にも起こる。

明るいイメージの人気選手が人知れず抱えた苦しみ

10年前、私はパニック発作を起こした。
隙間なく埋め尽くされた映画館の、真ん中の席に座った瞬間から嫌な予感がした。

「なんだか閉塞感のある席だなぁ……」

制球難の中継ぎピッチャーが満塁で登板してきた時のような重苦しさを感じながら、席についていた。

上映中、突然息が苦しくなった。身体が震え、汗も止まらない。
耐えられず席を立とうとしたが、満席で容易に抜け出せそうにない。
そう思うと気が遠くなり、水の中に頭を押し付けられたような耐え難い時間が続いた。
しばらくして発作は収まったが、その恐怖は後の私を苦しめた。

「またパニックになるのでは……」

ミスの連続でブチ切れた下柳投手に怯える内野陣のように、パニック発作にビクビクしながら生活することを余儀なくされた。どうしたものかと悩んでいると、意外な人物が私と同じパニック発作に苦しんでいることを知る。
ミスタープロ野球・長嶋茂雄の息子で、ヤクルトや巨人で活躍した長嶋一茂である。

何度も自殺衝動が起きた“絶望の日々” 

一茂といえば家族を残し一人ハワイに出かけたり、バラエティ番組で歯に衣着せぬ発言で世間を騒がせたり、自由奔放なイメージが強かった。
ミスターの息子というプレッシャーはあるにせよ、たとえ自宅の壁に「バカ息子」と書かれたとしても動じない図太い性格……当時はそう決めつけていた。

しかし、奔放なイメージの裏で一茂は苦しんでいた。

2軍暮らしを続けていた1996年、突如味わったことのない酷い目眩に襲われた。その1週間後再び激しい目眩が襲い、救急車で病院に担ぎ込まれてしまう。以来、飛行機や新幹線などで頻繁に起こる発作に苦しめられ、さらにパニック発作をきっかけに重度のうつ病も患ってしまった。

一茂の著書『乗るのが怖い』では、発作や鬱に苦しむ様子が赤裸々に語られている。
「自殺衝動」「どん底のうつ状態」「蟻地獄にはまったような絶望の日々」……当時の一茂のイメージからは連想できなかった、ショッキングな言葉が並んでいた。

重圧を背負っても一茂が進んだ道

 いかなる時もスーパースターの父親と重ねられ、ファンから期待を背負わされてきた一茂。

その象徴的なシーンが1993年5月27日、神宮球場で行われたヤクルト戦。
父が現役引退して以来19年ぶりに「4番サード長嶋」がコールされた日だった。
死球の原に代わって守備についていた一茂に打席が回ると、球場は異様な盛り上がりを見せたが、あっさり三振してしまう。

「やっぱり親父とは違うな」

一茂に父の幻影を重ねたオールドファンの嘲笑が、球場を包んでいった……。

父の幻影との戦いは小学生時代にまで遡る。ピッチャー志望にもかかわらず周囲の大人は「サード」を勧めた。背番号は当時の長嶋茂雄監督が付けていた「90」。実力が劣っていてもクリーンアップを打たされた。特別扱いされ続ける一茂を見て、友人たちは次第に離れていった。
周囲の環境に嫌気が差した一茂は野球を辞め、中学では部活にすら入っていない。
それでも気が付くと父の背中を追っていた。

現役時代に慕った落合博満は「褒めてやるよ。普通嫌がるよな」と一茂がプロ野球選手になったこと自体を称賛している。

肩に小錦を何人乗せても足りないくらいの重圧を背負っても、一茂は父と同じ道を進んだのだ。

パニック障害になったからこそ掴めたもの

「プロ野球選手として大活躍し、いつか監督になる」。

それ以外の人生設計を描けなかったという一茂は、積年の重圧からパニック障害を発症し、思い通りの人生から遠ざかっていった。

心身ともに疲弊していく“絶望の日々”。

それでも一茂はマイナスをプラスに変えようと、もがき続けた。

絶望から這い上がるヒントを得ようと日課にしたのが書店通いだった。

そこで手に取った本の数々は、漫画以外の読書とは無縁の人生を送ってきた瀕死の一茂の血肉となった。本で得た知識は芸能界で活躍する土台を作り、本で触れた人生哲学はパニックから抜け出すきっかけとなった。

不規則な生活の改善、食生活の見直し、運動習慣、効果的な呼吸法や漢方の活用……本の影響で日々の生活も変わっていった。

思い通りにいかなくなっていた一茂の人生は、読書によって好転していったのである。

どん底で生きる気力も失いそうになる中、何かを掴もうと必死にもがき続けた一茂。その生き様は思い通りにならない人生を歩む私たちにも大きな勇気を与えてくれる。

会社の倒産、パートナーとの別れ、病気や事故……皆それぞれが思い通りにならない人生を歩んでいる。時にはブーマーとハイタッチした直後の門田博光のように肩を大きく落とし、絶望の日々を過ごすこともあるだろう。

しかし、絶望の中にも救いはあるはずだ。そして、その救いは意外と身近にあるのかも知れない。一茂にとっての本がそれであったように……。

雨を喜び、風を楽しみ。―― 長嶋茂雄

どんな悪条件も糧にして楽しめば、思い通りにならない人生にかすかな光が射す。


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