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感情が言葉に支配される|写真学WSの荻野先生

大学生のとき、写真学ワークショップという授業があった。

その授業は写真家の荻野先生という外部講師が担当していて、とても面白い話をたくさんしてくれる先生だった。

わたしは、その人だけの哲学的な物の考え方をきくのが好きである。

荻野先生は、いろんな物事へ対する考え方や意思、自分の中の哲学を授業の中でたくさん共有してくれた。

そして、私たちに対しても自分の考えを述べることを求めた。でも、誰もが考えをもっているわけではない。

そこで先生は、一文字の漢字をわたしたちに与え、その漢字についての写真をとって、なぜその写真をとったのか、まわりの人たちはその写真にたいしてどう感じたのかを話すという授業を行った。

でも、そんなときに積極的に手をあげる生徒はやはりいない。

わたしたちは自分の答えが頭の中でまとまり、なんとみんなの前で発言するかを決めるまでは、手を挙げないのである。(みんなの前で目立つのが恥ずかしいとゆう理由もあるが。)

でもべつにそれは悪いことではないんだよ言ってくれた。

先生は普段海外で活動を行っていたので、アメリカの学生にも写真の授業を行っていた。

そんなときに先生が学生に発言を求めると、アメリカの生徒はすぐに挙手する。

でもそれは、

「感情が言葉に支配される」

可能性があるため、良いことだけはないと言う。

自分の中で、深く考えないうちに発言してしまうと、なんとなく正しいように話を組み立ててしまい、その言葉があたかも自分の考えのように思い込んでしまう。

言葉によって自分の感情が作られてしまうのだ。

たしかに、そうだなと思った。

自分の作品の説明をするときに、まだ自分の中でもまとまってないのに、なんとなくうまくまとめてしまうときがある。

そしたら、次にそのことを考えようとした時に、前に話した言葉やフレーズに引っ張られて、違う考え方ができない。

もうすこしちがう方向や、そのさきに答えがあったかもしれないのに。

またほかにも、写真とはなんなのか、像とはなんなのか、そんな答えのない答えを考える授業なども行った。

写真が生まれるまでの絵画の価値は、その写実性がどれだけ高いのかによって評価がされていた。

しかし、写真が生まれてその構図は壊れた。絵画が写真を超えることはできなかったからである。

そして写実性を求めない、現代アートが生まれていった。

しかし、写真とは現実なのか。

私たちが見ているものは現実なのか。

それは現実ではない。


さいごに、写真学ワークショップで撮影した写真たちを忘れないために載せておこうとおもう。

大学3年生のときと、ESをしていた4年生のときに作成したブループリント。


3年生のときのプラチナプリント。


作成したピンホールカメラでっとった、3年生のときと4年生のときの写真。

ってことで、

おわり

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